第三十四話 「嘘」
夏の朝は黄金の時間と言うが、むき出しの太陽はそれを易々と薙ぎ払ってみせた。俺はホテルをチェックアウトした後、プリウスを繰って城森町へ向かう。助手席には衣弦が座り、プリウスの後方には大河のアルファロメオが張りついている。三人が俺を監視するという約束は、こちらが煩わしく感じるほど徹底的に発揮された。
昨晩遅く、富山医大病院に駆け込んだ際も、みんなは俺のあとをついてきた。主治医はその物々しさに、若干閉口していたような気がする。三人の監視は今も俺の自由を縛っていた。下りの道路は空いていたため、ゲートには普段の半分程度で着いた。日射しの防止用にかけていたサングラス越しに検問の職員を見ると、暑さを忘れさせるほどの笑みを浮かべていた。
親父の墓は城森町にある。鷲津家代々の墓も同町山外れの菩提寺に置かれてはいるが、先祖と一緒に埋葬されることを嫌がった親父は遺言を残していたのだ。別の寺、別の墓、そのために必要な資金。死後の後始末を実に整理した形で指示していた。
最初に驚いたのは明久で「どう倹約すればこんな金、貯められたんやろ」としきりに不思議がっていたが、そういう疑問にたいする配慮も遺言ではなされていた。大手メーカーのリストラに遭った親父だが、当時は金銭解雇は一般的でなく、若手社員にも相当額の早期退職金が支払われたというのだ。
親父はその金に手をつけず、五人の子どもを男手一つで育て上げ、あまりにも早くあの世へと旅立った。志半ばと形容できるほど、無念さを感じさせることもなく「おまえらが成人するまで生きたかったな」と笑いながら死んでいった。
脳障害でろれつは回っていなかったが、そのひと言は印象に残っている。未練がましく涙のひとつでも流してくれれば、俺も人目をはばからず泣けたのに。直前までアルコールに溺れまくっていたから心中は複雑だったけど、親父の死は避けようもない形で胸に穴をあけた。
富山に戻りたい者には脳がない、なんてうそぶく一方で、何年も墓参りから逃げているとその穴が疼くのだ。花を手向けて墓前に手を合わせ、せめて少しでも穴を埋めろと叫ぶのだ。親父が永眠した日、俺以外の兄妹は全員涙を流した。憤慨しやすい有希ばかりか、あのドライな明久でさえ号泣していた。その頃から薄々感じるようになったけれど、俺の心のどこかには、そういう悲劇を見下し、高みから眺める冷めた自分がいた。
道なりに進むと、菩提寺に到着した。あまり言いたくはないが、そこは先祖代々の寺に比べるとみすぼらしい場所だった。
「先輩。わたしたちはここで待ってます」
車外へ出た俺に衣弦が声をかけてきた。エンジンはかけたままだ。冷房を効かし、車内で待って貰うためだ。視線を移すとアルファロメオ組が近寄ってきた。白いワンピースを着たソーニャが俺に言った。
「必ず戻ってくること。約束だよ」
裏切るつもりはない。そんな気持ちをこめながら返事をした。
「俺の無茶を聞いてくれてありがとう、ソーニャ」
無言で頷く彼女の本心を、今さら忖度してもしようがない。自供はもう済んでいるし、証拠も握られている。殺人犯の俺に猶予が与えられただけでも僥倖と思わねばなるまい。用事が片づけば、大河かソーニャが吉岡に連絡を入れる。そして俺は警察に出頭する。
「恭介、付き合おうか?」
気休めを口にしたのは大河だ。ありがたい申し出だとは思ったが、俺は「平気だよ」と小さく返し、一人で歩きだす。ホテル近くのコンビニで仕入れた献花を両手に抱えて。
親父の墓は、敷地の一番奥まったところにあった。そのすぐ脇には無縁仏がある。あらためて親父の墓に向き合うと、墓自体が小ぶりだからまるで無縁仏の一部に見えてしまう。親父は華美な扱いを望まなかったし、忠久に介入されることを嫌がっていた。その想いが結実したのが、目の前の寂しい墓だ。もし抗えぬ死が訪れたとき、俺たち兄妹はこの墓に入ることになるのだろうか。
柄にもなく感傷に浸ったが、同じ想いにとらわれたのは俺だけではないと思う。なぜなら抱えた花を供えながら気づかされたのだ。墓前にはすでに二つの献花が置かれている。親父のささやかな願いには不釣り合いなほど豪勢な花束と、俺が用意したのと同じくらいこじんまりとした花。よく見れば、墓石は水で濡れている。誰かが洗ったあとなのだ。
今日は終戦記念日。それ以前に、親父の命日だ。事情を知る肉親がここを訪れたとしか思えない。
豪華な献花は、簡単に推測ができた。おそらく明久が帰国し、ここを立ち寄ったのではないか。絢花の瀕死を告げても返事ひとつよこさなかったやつだが、大事な商談にケリがつき、帰国を許されたと考えれば筋が通る。どのみち家族より仕事を優先したことに違いはないが、そんな他人行儀な明久とて親父の命日を忘れてなどいなかったわけだ。けれど不義理なあいつは後悔するだろう。帰国するタイミングとしては、いかんせん遅すぎたと言わざるをえない。
俺は親父に向かって手を合わせる。ここに来るまでに考えていたこと。親父との思い出。それらが再度去来して鼻の奥が熱を帯びる。容易く決壊しないのはいかにも俺だが、合掌を終えるともう一つの献花のことが気にかかった。明久以外にも参拝客がいたことになる。思い当たる人間は一人しかいない。
境内全体を見渡してみた。墓の向こう側に本堂が建っている。時間的に早かったせいか、俺以外に参拝客の姿はない。やはり明久同様、さっさと立ち去ってしまったあとなのか。それとも昨日以前に参拝したとでもいうのか。
家族のことになると、俺はどうしても感情的になる。外からはそう見えなくても、心が沸き立つ。胸騒ぎがする。そして多くの場合、俺の受け止めたシグナルは無根拠ではなかったりするのだ。今だってそうだ。耳を澄ませば土を踏む足音が聞こえる。大きな墓石が視界を遮っているが、誰かが歩いてくる。手には木桶と柄杓を持っている。やがて帽子を被った表情が日射しによりあらわになった。
俺はその一瞬、自分が鏡と対面したような感覚に陥ってしまう。錯覚に過ぎなかっただろうが、実になじみ深い錯覚でもあった。鷲津有希。血を分けた俺の兄貴が陽炎のように佇んでいた。正確に言い換えるなら、俺の心を宿した有希の体が。
「よう」
どちらともなく声を発したが、台詞は被っていた。同じ一つの心から分かれたのだから口ぐせが似てしまうのはやむを得ない。サングラスを外し、俺は左目を細めた。
右目が潰れた「恭介」の中にはかつて三つの人格があった。一人は「鳥の眼」を持つ者。もう一人は「犬の眼」を持つ者。最後に「魚の眼」を持つ者。目の前に現れた鷲津有希は、そのうち最後の人格を宿しており、心のあり様は恭介に他ならない。俺は今、言うなれば自分と向き合っている。その実感は大層不気味だったが、目の前の男は気にするそぶりも見せない。
「ちょびっと和尚さんと世間話しとった。親父のこともよろしくと言っておいたよ」
随分と律儀じゃないか。けれど些末な感想は次の言葉で上書きする。
「明久とは会ったのか?」
「いや」
男は首を振った。俺は依然、こいつをどう呼んでいいかわからない。
わずかな逡巡を突き、今度は目の前の男が言った。
「おまえは有希か?」
「違う」
同じ動作を反復するように俺は首を横に振った。有希は自分の意志によって心の底に沈もうとしている。
秘密を共有する相手に今さら隠し事をする意味はない。「恭介は俺で、おまえは俺だろ?」と言ったのも、こいつなら事態の複雑さを理解できると思ったからだ。
案の定、目の前の男は肩をすくめ、わずかに目を逸らしながら言った。
「かつてはそうだったな。でもこの三年ですっかり変わっちまった。おまえがどう思おうと、俺はもう鷲津有希だ。それ以前に、朝鮮名で崔炳瑞でもある。実際問題、今はそっちのほうが通りがいい」
確かに理に適っている。今の名前で呼べばいいんだな。俺はそう理解した。
「だったら崔炳瑞、俺もおまえに言っておきたいことがある。恭介はもう俺一人だ。おまえが恭介だった頃のような、混沌とした自我は整理されている」
事実、心の統合は進みつつあったので、継ぎはぎ一つない人格を俺は難なく装う。昨晩はまだ悩みもあったが、それも今では顕著に薄れ始めている。
「ふうん。お互い様変わりしたわけだ。三年はあっという間だったんだがな」
木桶を地面に置き、崔炳瑞は墓に向き合う。その口は奇妙な会話を紡ぎだした。
「『ボーン・アイデンティティー』って映画知ってるか? 記憶喪失の男が、自分がスパイだったことを知り、本来の自分を少しずつ取り戻しながらぶち当たる難題を乗り越えていく話だ。俺はこの体に取り込まれたとき、主人公のジェイソン・ボーンが体験したのと同じ目に遭ったんだよ。
見知らぬ記憶。馴染めない体。なのに得体の知れない使命を帯びている。俺は棒っ切れがなくちゃストリートファイトひとつ満足にできない一般人だったのに、この体は規格外だったよ。基礎的な能力が抜群に高くて、困難な任務も易々と遂行できた。何より驚愕したのはこの体が既知外じみた能力を有していたことだ」
崔炳瑞が語りだしたのは、有希の異能力である。入れ替わりができること以外、俺は詳しいことを知らない。その無知を埋めるように崔炳瑞の告白が続く。
「俺の手にした能力は、任意の相手と入れ替わり、その際、相手に恐怖をインプットし、行動を奪いとることができた。入れ替わりが解けたとき、喧嘩なら相手をぼこぼこに殴りまくれる。サッカーの試合なら、ドリブルで易々と抜き去ることができる。
おかげで得心が隅々までいったよ。有希の天才性はこの能力に支えられていたわけだ。持って生まれた才能と相まって無敵を誇れたんだ。俺はこの力を恣にしたけれど、解除する方法を知ったのは崔炳瑞として生きるレールに乗ってしまった後だった」
解除法。それは俺と有希の錯綜した関係を清算できることを意味していた。俄然、話の内容に興味がわいた。
「もっともやり方自体は難しくない。相手の体に入って、心の中で手を打ち鳴らす。それだけだ。有希にその気があれば、今すぐにだって俺たちは元の体に戻れる」
理屈は崔の言うとおりなのだろう。入れ替わりが三年という長きにわたったことさえ考慮しなければ、解除自体はいつだってできる。けれど昨晩の話し合いを経た俺は、有希に入れ替わりをやり直す意志がないことを知っていた。
こうした事実を察したのか、崔炳瑞は桶の水を柄杓ですくい、墓石のてっぺんを黙々と清めだした。虚心坦懐。そこに入れ替わりを歪みと捉える意識は皆無に見えた。俺は彼の動作を眺めながら、有希が主人格の座を明け渡すときに言ったことを思い出していた。
――相手が多重人格やと想像もしとらんし。やから心が入れ替わったとき、まさか恭介の一人格に閉じ込められるとは思いもせんかったわ。解離性同一性なんちゃらいう病気を見落としたのは担当医の落ち度やけど、まあ今さら蒸し返す気はせん。正直楽しかった。他人の人生にただ乗りするとか。死んだら終わりやし、スリルも満点やった。
心の玉座に慣れない俺を、有希は冗談で励ました。そして俺の悩みを軽くしてくれた。
――悩みごとの九割はな、すでに答えは出とるがや。おまえが悩んどる本当の原因は、その答えを受け容れられない自分がおり、行動に移す勇気がないことやと思う。
そう。俺の中で答えはもう出ていた。本来のあり方に戻ることが最善ではない。混沌と化した精神を安定状態にもっていくため、入れ替わりは解除しないべきだった。
有希の後釜となって最初の仕事がやってきた。崔炳瑞はわだかまりなく、あるがままを受け容れているように見えたが、その本心を確かめねばならなかった。
「意志確認させて欲しい。入れ替わりで狂った状況を正そうとは思わないのか?」
墓掃除を終えた崔炳瑞は、柄杓を桶に戻しながら、返事をよこした。
「俺はこのままでいい。もう後戻りできないところまで手を汚した。そんな自分を有希に返すのは過酷な仕打ちだ。俺は遠からず党中央に粛清されるだろう。自分が行動した結果としての運命は、俺だけのものだ。誰かに押しつけるわけにはいかない」
やはり、と思った。こいつにも現状を変えるつもりはないようだ。有希と崔炳瑞が望まない以上、処遇は俺の主張に沿うことになる。それは業務用フォルダに積まれた謎を解き明かすことだ。謎マニアだった恭介。俺はやつの性格に即して疑問を口にした。
「有希からは、指名手配から逃げているあいだ何をしていたか詳細をほとんど聞いてない。世間の目を眩ませておまえは一体何をしてた?」
「そんなことが知りたいのか」
わりと真剣に問うたのに、崔炳瑞は冷笑を浮かべて言った。
「でも気持ちはわかる。警察にタレコミ入れんことを条件に教えてやらんこともない」
悪くない条件だ。俺が承諾の意を込めて頷くと、崔炳瑞は淡々と話を続けた。
「俺と入れ替わる前、有希は崔炳瑞と名前を変え、朝鮮人コミュニティで暮らしていた。やつは学生時代に朝鮮人のお友達がいたからな、そのツテを頼ったんだろう。そしてごく短い期間で、有希は対日工作を主任務とする朝鮮軍のスパイになった」
この辺りの知識はうっすらとだが知っている。だから俺は、恭介の口ぐせを真似るかのように「なるほど。おまえの立場はわかった」と言った後、さりげなく先を促した。
「そうなると、おまえが捜してたスイッチって何だ。軍関係のブツなのか」
「本音では秘密にしておきたいな。でも納得しないんだろう?」
真夏のぎらつく空を、崔炳瑞が見上げる。北の国と通じた男に不釣り合いな晴れ晴れとした表情だった。
「朝鮮が秘密裏に開発しているブースト型核分裂弾の起爆装置、それがスイッチだ。おそらく張凱、おまえらに通りのいい呼び名で言うと弓長がそう呼んでただろう。きっかけは米国防当局が、台湾に核関連部品を誤って輸出した事件にある。表向き回収できたことになっているが実際は違った。情報機関が動いたが、スイッチは地下に消えちまったんだ。
それから数年経った頃、一〇〇万ドルの価値があるブツとして台湾マフィアが売りに出した。そのときにはもう、誰もスイッチの正当な価値を理解していなかったから、売却も資産処分の一環に過ぎなかった。もっともそのときアンテナを働かせた俺たちは、スイッチの利用価値を正当に知る唯一の買い手だったわけだが」
俺も墓石から目を上げ、空の青さに目を細める。崔の声はその青さに溶けていく。
「おまえは知らないだろうが富山を根城にしている柳田ってやくざはその台湾マフィアの傘下組員だ。当初の予定どおりなら、スイッチは柳田と秋山、本名は金明柱とのあいだで取引が成立するはずだった。だがここでいくつかのイレギュラーが起きたんだよ。一つは、台湾からブツを運び込んだ柳田の組員から、聖辺ってごろつきがスイッチをパクったこと。
柳田がこの問題を処理できなかったために、俺たちは聖辺、あるいは聖辺からスイッチの横流しを図った弓長と取引するはめになった。もう一つは俺たちサイドの都合だ。朝鮮の現政権は、金正日の押し進めていた先軍政治をあらため、権力の重心を軍から党へと移しつつある。単純化すれば、朝鮮抜きの五カ国協議体制に対応するためだと言われているし、従来なら喉から手が出るほど欲しかった核技術が、急速に無用の長物となりかけているわけだ。
くわえて俺たちは、党の利益とつながっている金明柱が公安の二重スパイだという確証を得ていた。だから俺がスイッチの回収に動いたことには表裏の意義がある。表向きは警察の手に渡らないようにするため。そして本質的には、党への権力移行に抗い、軍の巻き返しを図ることだ。直属の上司にあたる部長は俺に密命を託した。それは軍としては、何としても核弾頭の小型化を進めるという意思表示でもあったわけだ」
まったく予感がなかったと言えば語弊がある。スイッチが何物であるか。一億という価値が本当なら、まともな代物ではあるまいと思っていた。けれどここまで大がかりな背景を持っているとは。崔炳瑞となった俺。彼が背負っている人生は俺の想像を超えていた。
「スイッチ、つまり米国が誤輸出した起爆装置は、核弾頭の小型化を進める鍵なんだよ。金正恩が今や望まなくなった核弾頭を完成させ、弾道ミサイルによって米国本土を射程に収めること。その力を盾に軍は、自分たちの権力を再び盤石なものにしたいんだ。結果的に米国の先制攻撃を受け、半島は火の海となるかもしれない。どのみち上司にスイッチを渡した後のことは、俺の関知する領域を超えているがな」
すでに諦念に達しているのか、崔炳瑞の口調に曇りはなく、俺に口出す筋合いなどない。たった一つの心残りは絢花のことだった。
「なあ、富山をいつ発つ気だ? 余裕があるなら、おまえも葬式に顔出せよ」
昨日昼過ぎ、絢花は危篤に陥った。医師団による懸命な助命活動も虚しく、日付を跨いだ頃、彼女は帰らぬ人となった。
親父の命日。まるで正確に時間を測ったかのように絢花はあの世へと旅立った。いや、ごまかしは止めよう。あの世などどこにもない。大河の霊視能力も、死にゆく絢花の魂を捉えることができなかった。彼女は消えてしまったのだ。どこでもない場所へと。
「無理だ。俺はもう崔炳瑞として生きている。絢花にあわせる顔はない」
有希の体に閉じ込められた恭介は、絢花に拒絶された事実と苦しみを引き受けた人格だ。魚の眼を持つ者。てっきり未練があると思っていたのに、口ぶりは清々しかった。
「それにイレギュラーな行動はとれない。墓参りに来たのもかなり際どい。この立ち話もあまり長くはできない」
昼には羽田を発ち、北京を経由して、今日中に平壌に帰国する予定だ。
そう言って崔炳瑞は、俺の目を見た。動かない瞳が別れを告げようとしていた。
「せいぜい権力闘争に巻き込まれないようにしろよ」
計り知れない重圧を慮り、気づけばそんな声をかけていた。
「そうだな。また用事ができたら戻ってくることもあるだろう」
最後に乾いた笑いを残して、崔は踵をくるりと返し、境内を歩き去っていった。遠ざかる背中を目で追い、汗まみれで立ち尽くす。
そんな俺に近づいてくる影があった。衣弦だ。崔炳瑞とすれ違い、お互いに挨拶もなく道なりに進んできた。衣弦が目指していたのは、おのれの片割れと決別するという面妖な体験を済ませた俺だった。
「今のひとが有希さんなんですね」
警察に出頭する俺を迎えにきただろう衣弦は、後方を振り返りながら、ぽつりと言う。
「あれは抜け殻みたいなもんだ。本物の有希は、昨晩からずっと眠っている」
こんな青空の下でオカルトを口にするのには抵抗があったが、真実は隅々までさらけ出されているため、心理的な躊躇いは小さかった。姿勢を戻した衣弦にも訝しむ様子はない。表情こそ真顔だが、それには理由があった。
「先輩、ハンカチお貸しします」
何事かと思って顔を拭いたが、汗だと思っていたのは涙だった。もう一人の自分に憐れみを抱いたのか、それとも絢花の死を再認識したせいだろうか。いずれにしろ感情の器が溢れ出し、俺は静かに泣いてた。
「ありがとう」
ハンカチを受け取り、こぼれだした涙を拭う。不慣れな感情に今はなすすべもない。
本物の有希は昨晩「絢花の仇が討てて満足やし疲れたわ。しばらく眠るちゃ」と言い残して以来、浮上することはなくなっていた。俺はそのことをみんなに教え、とりわけ衣弦の不安を取り除こうとした。可哀想なのは犬の眼を持っていた恭介だ。一番頑張り屋だったあいつが、一番不幸な境遇を辿る。どうして運命はままならないのだろう。
涙は中々止まらなかった。昨日ソーニャが言ったとおり、分裂した心を治療し統合したとき、衣弦を愛した俺は消えてしまう。だとしたらこのまま病気でいたほうがいい。
当初はそう思った。けれど殺人犯でもある俺は、警察の管理下で精神鑑定を受けざるをえなくなる。そして本当に病気なら治療過程から逃れることはできない。それにもし精神鑑定を拒絶すれば、この体は死刑に処される。少なくとも三人の人間を殺したのだから、極刑から逃れることは一〇〇パーセント不可能だ。刑死か、消滅か。どちらを選んでも、衣弦の愛した俺は消えてしまう。風に揺らめく蝋燭のように。
人生を一つの物語とすれば「恭介」はその主人公だった。実兄である「有希」は、彼と表裏をなすもう一人の主人公だった。俺は彼らの担った責任とは無縁な、第三の人格だった。けれどそんな俺こそが精神を統御する立場につくことになった。
涙を拭き終え、俺はハンカチを衣弦に返す。わずかに残ったであろう恭介の意志に背中を押され、彼女の手を掴む。何もかもが初体験な俺が自然に動けるのだから「恭介」はまだ残っているように思えた。衣弦を悲しませたくない。強い意志を感じ取り、俺は震える手で衣弦を抱きしめる。彼女は抵抗しない。俺の胸の中にすっぽりと収まる。そして、精一杯の力で俺の体にしがみつく。
衣弦にとってこれは、留置所送りになる俺との分ちがたい抱擁だろう。でも「恭介」にとっては、愛を伝える最期の瞬間だ。衣弦の背中に手を回しながら、俺はやがて消えゆく自分に涙する。物語の上では主人公だったけどあいつは、俺と有希という二つの海流が押し上げてできた砂の孤島なのだ。
刑死か消滅か。逃げ場のない運命は、恭介を連れ去ってしまうだろう。空席となった主の座を占め、俺が代わりに恭介となる。
「大丈夫。あなたが消えてしまっても、残されたあなたの中に必ず先輩を見つけますから。そうすればもう一度逢えるはずですから」
健気な衣弦に真実は言えない。押し黙っていると、涙声の衣弦が俺と目を合わせてくる。クールな衣弦はそこにはおらず、彼女の口唇は、切実な想いをなおも吐露してきた。
「だからお願いです。これからもわたしに、あなたを愛し続けさせてください」
彼女の希望を拒むことはできない。俺に与えられた使命は、それを肯定すること。額をつきあわせ、白い歯をこぼす。泣き顔を歪め、勇気を込めた微笑みを送る。
「安心しろ。俺も衣弦を愛し続ける。おまえが愛した俺はどこへもいかない。無罪も勝ち取ってみせる。娑婆に出たら家庭を築こう。そのときおまえを、必ず幸せにするから」
俺は衣弦に嘘をつく。本当が一割混じった不完全な嘘を。
一割の本当は、無罪判決を得る公算だ。九割の嘘は、彼女が愛し愛された「恭介」が生き続けることだ。あいつは消えてしまう。代わりに俺が残る。終始、傍観者だった俺が。
「最後に一つだけ想いを残しておくから。今はそれを受け取って」
首を傾け、耳打ちをした。小声で囁き、永遠に忘れない誓いを立てた。ひとひらの想いだが、命懸けでもあった。必ず幸せにする。もう一度胸に刻み、ゆっくりと顔を上げた。
鳥の眼を持つ俺はこうして地上に降り立ち、あいつの代わりに生を受ける。仰ぎ見れば、八月の空。地をはう人間どもの騒擾から距離をとり、平和な空を飛び回ることはもう叶わない。俺が嘘をつくなんて初めてのことだ。これまではその必要さえなかったから。
君とがよかった、他の誰よりも衣弦とがよかった。人生をともに歩むなら、君しかいないと思っていた。これまでがそうであったように、これからもずっと側にいるよ。
その欺瞞に満ちた嘘を、俺は本物に変えていく。
国家と親父が敗れ去った日を境に、死ぬまで鷲津恭介として生きるだろう。まだ歩き始めたばかりだけど、俺には一人で立てる足がある。いつしか聞こえなくなった声たちに耳を澄ませ、濡れた瞼を閉じると、鮮やかな色彩は真夏の光へとのみ込まれていった。




