第三十三話 「子ども」
胸の締めつけを感じ、思わず上着を掴む。そんな俺を襲ったのは新たな真実だった。
「ここには絢花さんの霊がいるけど、先日大河の霊視を通じて彼女は全てを明かすことに同意してくれた。だから告白をすると、あなたの知らない最大のうそは、大河の口にした『絢花さんは客をとっていなかった』という発言だ。絢花さんは売春の真似事をさせられていた。あなたが取り乱すからこれは言おうかどうか迷ったけど、絢花さん自身がそれを望んだ。自分が汚れなき存在でないことを知っておいて欲しいそうだ」
……絢花の意志、だと?
俺は言葉にならない声で呻いた。純粋さを願う心に大きな亀裂が走った。
「迷いと言えば、衣弦さんに真実を教えるべきかは慎重だったけど、有希さんから接触があったことを理由に個人的な相談に乗った。そこで別人格の存在と、あなたが有希さんと入れ替わっている可能性が濃厚だと教えたんだ。しかも主人格は有希さんのほうで、恭介さんは弱い副人格に過ぎないであろうことを」
なぜなら有希さんは自分の意志で出現できる。主体性を握っている証拠だよ。ソーニャはそう言ってひと呼吸置いた。
衣弦を見やると、悄然とした彼女は真実を持て余しているように見えた。けれど、持て余しているのはこっちも同じだ。俺が弱い副人格? さりげなく言われたが、張りつめた神経はそのひと言をに反応する。
「でたらめや。主体性が有希にあるなら、なしてこれまで俺の体を乗っ取らんかった?」
専門的知識はないが、間違った疑問ではないと思いながら言うと「理由は簡単だよ」と目を細め、ソーニャが返事をよこした。
「生命の危機が生じたからだ。恭介さんが未曾有のリスクをとったことで肉体は破壊に晒された。これまでは『代替としての記憶』を用意して浮上していたのが、隠蔽工作に割く余裕がなくなったのだろうね。おかげであなたは人格の失調に薄々気づき始めた。絢花さんの本心には、終始無自覚のようだったけど」
自説を淡々と述べ、ソーニャは俺を突き放した。心が病んでいることは認めてもいい。だが、絢花の本心とやらを認めるわけにはいかない。拳を握りしめ、乾いた喉を震わせる。
「俺は絢花を幸せに導きたいと思っていた。決して傷つけるつもりはなかった」
「絢花さんはそうは言っていなかった。彼女はあなたを憎んでいた」
俺はそこで強い視線を感じた。周りを見渡すが、誰も俺を見てはいない。そうなると、考えつくのは一人――絢花だ。絢花が俺を見つめている。仮に錯覚だとしても、その直感は俺の心を鷲掴みにした。目を閉じると、涙腺が痺れるような熱をもった。
「でたらめや」
俺は筋の通ってない反論をする。
「恭介さん、これはでたらめじゃないよ」
「うそや」
滲んできた涙を感じ、俺は声を嗄らす。そんな脆弱さをソーニャは見逃さなかった。
「だらんことばっかいうなや!」
鞭で打たれたように顔を上げた。そこには凍てつく大地のような双眸があった。
「あなたは身勝手だよ。尊敬心を利用し、幼い妹を独り占めしようとして。本当に愛していたのか怪しいものだと思う。絢花さんは中学の頃にも一度自殺未遂をしているそうだね。今回で二度目なんだろう?」
「なんでそのことを知ってる」
「忠久さんから聞いたよ」
叔父にも事情聴取済みなのか。なんてことだ、まるで探偵じゃないか。手際がいいとかいう以前の話だ。事ここに到り、俺はこの会談自体が罠の一部だったことに思い到る。
――探偵。
大河を使役する雇い主。会社の派遣した捜索員。出張に絡んだ事件において、本当なら俺こそが探偵であるはずだった。けれどその場所には、ソーニャがいた。臣人の事務所で手にした直感は正しかったのだ。
「助手のふりしといて、君こそが探偵やったが?」
「わたしは助手にすぎないよ」静かに否定するが、舌鋒は弛まなかった。「言いたくはないけど、あなた自身が一番わかっているのでは? 絢花さんを幸せに導くつもりなら本当はやるべきことがあったはずだと」
あまりに正しすぎる指摘。忠久に二人の関係がバレたとき、俺は、絢花と駆け落ちする他ないはずだった。しかし実行には移せなかった。その失敗を嘲笑うように、ソーニャは俺を断罪するのを止めない。
「最後に残ったのは、なぜ恭介さんの人格の一部に、有希さんが組み込まれているのかという疑問だった。けれど事実と真摯に向き合い、わたしの持つ専門性を発揮することで、おおよその見当をつけることができた」
これ以上秘密を暴かないでくれ。心の叫びはソーニャには届かなかった。
「有希さんは、異能力の持ち主だったんだと思う。恭介さんの体に有希さんがいるという信じがたい現象も、超常の力が働いていたとすれば辻褄が合う。冷戦終結後のトヤマ県人には、日本でも突出して能力者の発現率が高い。わたしたちが捕捉してなかっただけで、有希さんはその一人だったわけだね。
起きた現象から想定するに、有希さんが持っていた能力は『入れ替わり』。その着想を得たときに、わたしはロシアで発表された学術論文のことを思い出した。
アレクセーエフ・ミハイロヴィチ。ロシア連邦貯蓄銀行の幹部だったミハイロヴィチは、異例のスピードで出世階段を駆け上り、顧客の預金を横領した疑いで逮捕された。捜査過程で明らかになったのは、彼が客のサインを自在に操っていたことだ。つまり客と『入れ替わる』ことで、数百にものぼる取引案件を有利に進めていたわけ。ただし、あなたのように多重人格者と入れ替わったのは世界でも初の事例だけど」
異能力だと? そんな主張は受け容れられない。
「証拠でもあるが?」
「勿論だよ。わたしの導きだした結論に、有希さんはイエスと答えてくれた。歌舞伎町のルノアールで偶然再会したとき、あなたと入れ替わったそうだ」
俺がオカルトに巻き込まれていた? しかもソーニャの主張どおりなら三年も前に?
大河の霊視を信じたときとは比較にならない拒否感が襲ってきたけれど、べつの俺はなぜか腑に落ちたようだ。幼少の時分から俺や周囲をあっと言わせ続けた有希は間違いなく「本物」だったが、力の源泉には「異能」があったということ。歌舞伎町での出来事は奇妙な再会だと思っていたから、やけに印象に残っている。あそこが起点だと言われても、逆にあのとき以外思い当たる節がない。
人格の分裂自体は、心が受けたダメージを減らす働きによってすでに定説となっている。原因があるとすれば、忠久の振るった暴力だろう。俺たちのあいだで起きた入れ替わり。それが本当なら分かれた俺の一部を、有希の体が連れ去ってしまったことになる。自分の常識を超えたオカルトに心は悲鳴をあげた。けれどソーニャの饒舌は止まらない。
「有希さんはわたしに言ったよ。黒川姫乃の殺害現場に名刺を置いてきたと。羽生さんを犯人に仕立て上げるために」
名刺のことはよく知らない。記憶が欠けている。だが、臣人の話は違う。
「なぜそんなことをしたのだと訊いたけど、恭介さんの願望を叶えるためだと言っていた。あなたは羽生さんは濡れ衣を着せたがっていた」
逮捕されれば、過去の疑惑も捜査線上に浮上するからね。息を整えたソーニャは、俺に余裕をくれた。有希が臣人をはめたのは、確かに俺の願望だ。あいつが絢花に中絶を強いたから悲劇は起こったんや。その言葉はどこからともなく湧き、俺は続きを口にした。
「絢花を死なせたも同然の仕打ちに、相応の報いを与えたまでや」
「あなたが憤る気持ちはわかるよ。でも秩序を狂わせたままにはできない。警察にはあらゆる事情を教えるつもりだし、不本意だろうけど羽生さんは無罪になる」
報復は無効化されるのか。その理解に、落胆という表現が生ぬるいほどの嘔気が襲ってくる。口許を手で押さえた。情け容赦ない声が頭上から降ってきた。
「恭介さん、あなたはチェックメイトだよ」
これまでになく強い断定。俺がそう感じたのはソーニャばかりか、衣弦や大河も視線を向けてきたからだ。真意はわからない。ただ、俺の出す答えを待っているような気がした。
「降参したら何が起こる?」
ローテーブルを見つめながら、小さく問う。返事は核心をひと刺しにする。
「殺人罪で警察に出頭して貰うし、絢花さんへの執着を根絶やしにして貰う」
なるほど。有希は俺の一部であるらしい。だとすれば、やつの罪は俺にも責任がある。
けれど後者は違う。絢花は俺を憎んでいたらしいが、他ならぬこの俺はそれを真実だと認めていない。ねつ造された記憶など知らない。俺の生きた時間こそ、俺の中の真実だ。
「絢花は俺の妹やぞ。執着なんか持っとらん。兄妹愛や」
「認めがたいとは思っていたよ。でもわたしは、彼女の霊から依頼を受けた。絢花さんの未練をこの地上から解き放つため、悪いけど手段は選ばないことにしよう」
ソーニャは俺を残し、リビングテーブルのほうに歩いていった。彼女の軽快さに比して部屋の空気は重く、衣弦と大河の沈黙がそれを倍加させる。息を吸うことさえ困難をきわめる。俺は魚のように喘ぎ、次の瞬間、ひと際重い圧力を感じた。斜め前のソファに澱みを感じる。思わず視線を逸らすとソーニャが戻ってきており「これ、借りたよ」と言ってローテーブルに何かを置く。目を凝らすまでもなく、エクスペリアだとわかった。
起動中だったSNSアプリ。ID「ayaka_0317」とおこなった最新のログが表示されている。
――兄さんにお伝えしておきます。わたしの傷はもう癒えませんが、これまであなたをずっと避けてきたこと、後悔はありません。わたしは永遠にあなたのものにはならない。さようなら。
今朝発見したばかりのメッセージ。俺の知らない俺と絢花が取り交わした会話。最初に目にしたのが有希なら、やつは絢花の自殺を知っていた。けれど今さらそれを突きつけて、俺をどうするつもりだ? 強い嘔気を覚えた瞬間、我が目を疑うようなことが起こった。
――兄さんがわたしを忘れてくださらないようなので、もう少しだけ補足します。
アプリに新たなコメントが出現した。会話の主は「kyohsuke_1214」ということになっているが、俺は手さえ触れていない。タイムスタンプは現在のものだった。
――わたしは意味もなくいじめの標的になったのではありません。黒川姫乃に付け入られたのは、中学の時の「ブラコン」ぶりを、当時の同級生を通じて発掘されたからでした。兄妹の関係を深読みされ、女子校らしく潔癖な友人たちが次々と離れていき、わたしは孤立しました。その後の経過は、哀しくて口にできません。
間違いない。誰かが入力している。絢花の霊? そんなわけがない。
――ただ、兄さんに抱く気持ちが変質したのはもう少し昔の話です。あなたは叔父さんに咎められた日以降、わたしへの態度をあらため、わたしを忌むべき過去としてしまった。だからわたしも兄さんを憎むことにしました。愛情って簡単に変わってしまうんですね。二度目のいじめを受けた頃には、兄さんが取り返しのつかない目に遭うことを願いました。わたしが死ぬことで、永遠に後悔し続ければいいと思いました。
心が否定しても、脳が是認する。これは絢花の言葉だ。
「絢花はほんまにおるんけ?」
弾みで声をあげた。返事をよこしたのは大河だった。やつはソファを指差す。
「ああ、おるよ。すぐそこにな」
斜め前のソファ。そこに澱んでいる空気が絢花なのか?
「でも、もう限界みたいだ」
大河の呟きどおり俺への呪詛を残してメッセージは止まっていた。代わりに発言を引き取ったのは、またしてもソーニャだった。
「あなたはきっと、絢花さんを瀕死の目に遭わせた事件を解決し、自分の責任を果たそうとしたんだろう。でも絢花さんが一番望んでいたのは真犯人の逮捕ではなく、あなたが苦しむことだったんだよ。それを受け容れない限り、恭介さんは前に進めない」
ソーニャが言うのは正論だろう。絢花のメッセージで、もう全てを理解していた。俺は忠久に歯向かう正義から逃げ、時間による解決を願った。絢花から逃げたも同然だ。それゆえに軽蔑までされ、憎しみの対象になったのだ。その欺瞞を俺以外の人格が引き受け、入れ替わり後は有希が担った。わかったよ、その正しさを否定する気はもうないんだ。
「でもソーニャ、俺はどうしたらいい?」
慈悲を乞う咎人のように、白い雪原のような顔を仰ぐ。答えは辛辣なものだった。
「だらんことばっかいうなや。そんなこと自分で考えるんだよ」
許してくれ。俺は全てを受け容れようとしているんだ。どうしたら許してくれるんだ? 生きていてはいけないのか? 狂おしい叫びは声になるはずだったが、それよりも大きな声が俺の錯乱を防いだ。
「ソーニャさん、もうやめてください!」
衣弦が立ち上がり、感情を爆発させていた。拳を握りしめ、ソーニャを睨んでいる。
「すまない、衣弦さん。少し言いすぎた」
神妙な顔つきになってソーニャが謝罪を口にした。その態度に本物の反省を見てとったのか、今度は俺のほうを振り向き、衣弦はこんなことを言った。
「先輩も、これ以上意地を張らないでください」
意地? 俺は真実を受け容れている。意地など張っていない。
「絢花さんに特別な感情を持っていることを隠さないで。先輩だって傷ついたはずです。そんな自分を拒まないで。わたしはあなたを受け止めます。どんな先輩でも好き。たとえどんなに惨めでも、自分を否定しないで」
衣弦は泣いていた。彼女の溢れ出した感情を浴びながら、俺は思った。自分はやっぱり惨めな存在だったのだ。それを有希が引き受け、代わりに絢花の復讐を果たし、居心地のいい世界を守ってくれていた。
――僕のうそはバレてしもうた。海外逃亡も手詰まりや。こうなったら潔く認められま。
心の中で誰かが言った。それが何者であるかは考えるまでもなかった。
「吉岡刑事には事実を伝えようと思う。恭介さん、今度は逃げずに、罪を償うこと」
泣き出した衣弦に代わり、粛然とした声でソーニャが言った。
法の手に委ねられるのはいい。だがそうした結果、何が起こるんだ? うっすら見える答えが不安にさせ、俺はうわずった声で訊いた。
「なあ、ソーニャ。分裂した人格はどうなるんだ?」
「現実と向き合いだせば、徐々に統合が始まるよ。通常、主人格を軸として他を吸収する。企業の合併と同じだね。逮捕後に病が認められれば、治療だって受けられるよ」
平然と言ってのけたが、それは俺を恐慌に叩き込む。
「そうなると俺の体は有希のものになるのか?」
「どうだろう、可能性は小さくない。結果は、あなたがどこまで主体性を発揮できるかによる。弱い人格のままでは、治療はあなたという存在の消滅を意味するかもしれないね」
消滅。それは最悪の未来を予言していた。俺はソーニャのように賢くないが、多重人格の治癒的な統合にかんする認識くらいはあった。無駄に身につけた知識が徒となる。俺は恥も外聞もなく泣き出したくなった。俺の中には有希がいる。強さという基準で、やつに勝てる自信はない。弱い俺は消えるのか。そんな現実、受け容れたくない。
涙で滲んだ視線を上げる。衣弦の泣き顔があった。
「先輩」
ソーニャに噛みついたときよりも何倍も真剣な眼差しを衣弦は向けてくる。ずっと堪えていた何かを伝えるように、薄い口唇が動いた。
「わたしのことを愛しているなら、現実を受け容れてください」
「話を聞いてなかったのか。現実を受け容れたら俺は消えてしまうんだぞ」
「まだそうと決まったわけではありません」
彼女が言っているのは他人事だ。一瞬卑劣な思考がよぎったが、身勝手なものだと悟り、すぐに思い直す。そんな俺を見つめたまま、衣弦は急に落ち着いた声を出した。
「先輩、聞いてください。大事な話があるんです。この場でお伝えすべきか迷いましたが、これであなたの気持ちが変わるなら、知っておいて貰いたい」
薮から棒に何の話だ? 熱を帯びた衣弦の目。二人の視線が重なったとき、それは俺の耳を打った。
「わたし、赤ちゃんができたんです。先輩とのあいだに」
本当に思いがけない告白だった。「……子どもが?」と言ったまま、俺は言葉を失う。
「はい。思いきってソーニャさんに相談したとき、一度調べてみるべきだと。妊娠検査薬を使った結果、陽性反応が出ました」
唐突に知らされた事実に、眩暈を覚えた。うそであって欲しいと思ったわけではない。むしろその逆だ。喜ぶべきことだと思えた。なのに眩暈は一層強くなる。その理由は衣弦自身が口にしてくれた。
「病気を抱えて生きれば、わたしや子どもという現実から先輩はいつでも逃げられます。でもそうあって欲しくないんです。生きることの喜びも苦しみもあなたと分かち合っていきたい。そんな願いは欲ばりでしょうか?」
思い返せば出張に赴いてからというもの、衣弦はいくどとなく体調不良を訴えていた。トイレで嘔吐し、青白い顔になっていた。それらは全て、妊娠がもたらしたのだとすれば疑問の余地はない。問題は衣弦が、現実を受け容れる形で俺の治癒を望んでいること。
「お願いです。絢花さんへの想いを断ち切って、真剣にわたしを愛してください」
彼女自身が口にしたとおり、衣弦はもう欲ばりな自分を隠すつもりはないようだった。彼女の必死さが、心に何度も突き刺さる。俺は変われるのだろうか。いや、変わらないといけない。俺は衣弦を愛している。だとしたら、選択は一つしかない。
「わかったよ、衣弦。罪と過去も、そしておまえも、手放さずに生きていくから」
こうして俺は探偵の審判に膝を屈する。ソーニャは県警に引き渡し、過酷な取り調べが始まる。もし俺が解離性同一性障害だと認定されれば罪を免れるのだろうが、拙い知識がそれを揺るがす。殺人犯が精神鑑定を受けたところで、極刑を回避した例は過去に一つもないのだ。それにもう俺は、病にピリオドを打つと決めてしまった。無罪を勝ち取ったとしても、自分が自分でいられる保証はない。
最後に一つだけ、頼み事があった。探偵であるところのソーニャに、俺は言っていた。
「無理な申し出なのは承知してる。やけど一日だけ待ってくれま。親父の墓参りだけでも行かせて欲しいんや。それが終わったら警察に自首するけに」
主張中にやろうと思っていたのだ。明日は終戦記念日。親父の命日だ。無我夢中で哀願するとソーニャは首を縦に振った。
「わたしも鬼ではないよ。ただし行動は制限させて貰う。監視も受けて貰う」
「異存はない」
小さく答えて俺はソファから立ち上がった。あまりにも喉が乾き、水を欲していたのだ。キッチンでグラスに注いだ水を飲み干し、リビングを通りかかった。なぜだかそこで立ち止まり、俺はふいにぱちんと弾ける、泡のような思考を感じ取った。
兄貴は今頃どこにいるのだろう。正確には兄貴の体に入った俺は。望みどおりスイッチを手に入れ、後腐れなく富山を離れてしまっただろうか。ひょっとしてさっきの呼び出し音は、やつからのものだったのではないか。俺の手は自分の鞄に伸び、アイフォンを引っ張りだし、先ほどの着信を確かめる。
――富山医大病院。
絢花が入院したときに登録した名称がログに残っていた。咄嗟に振り返って声を発した。呼びかけた相手は勿論大河だ。
「なあ、絢花の霊は見えるか?」
悪い予感がした。大河が天井を仰いでいる。絢花はそこにいるのか?
「聞いてるのか、大河?」
やや語調を強めた。衣弦とソーニャも反応する。俺は大河だけを見ていた。
「絢花ちゃんの霊だが、もう見えん」
これまではずっと見えていたのに。ため息を吐くように言って、大河は依然、天井をじっと眺めている。絢花が消えた。それは死んだということか?
「生霊が消えたってことは、絢花の身に何か起きたってことやろ」
「わからん。たまたま消えただけかもしれん」
煮え切らない大河。俺は怒りを通り越して全身の力が抜けそうになった。いくら何でもタイミングが悪すぎる。即座に着信へリダイヤルすべきだったが、重い壁のようなものが立ち塞がり、端末を握る手は石像のように固まってしまう。
俺は一瞬瞑目した後、画像管理アプリを立ち上げた。どこかとち狂ったような行動だけれども、自分の中では一貫性があった。愛する絢花の笑顔がもう一度、見たい。そうでなければ、これから向き合うつらい現実に耐えられそうにない。
俺が探したのは、交際したての頃の画像だ。しかしどれだけスワイプしようとも、ファイルは出てこない。絢花の霊が消えるのと呼応したようにデータは跡形もなくなっていた。
「削除したのはおまえか」
声に出してしまったが、俺は自分に問いかけていた。けれど主人格であるところの有希は答えない。俺の願望を拒むかのように。絢花の笑顔はもう戻ってこない。両手を懸命に伸ばしても、それはどこへも届くことはないのだ。
俺以外の三人は、些細な呼びかけすら発しない。かける言葉をなくし、次に起きる行動を注視しているかのようだった。憐れんでいるようにも、呆れているようにも感じられた。けれど答えがどうあろうともはや退路はない。俺は大きく深呼吸をしながら富山医大病院の番号を呼び出し、震える指でリダイヤルボタンをタッチした。
明日が最終話です。