第三十二話 「ソーニャ」
若干飛ばし気味に走ったため、予定より早めに目的地へ辿り着いた。暑気で灼けついたプリウスをホテル付近のパーキングに停め、エンジンを切る。血だらけの大河をそのままにはできなかったので俺の上着を着せてやり、冷房の効いた車内を名残惜しむように外へ出た。
去り際に奥のスペースに目が止まった。一台のアルファロメオが停車してあったのだ。外見から判じられるクラスとタイプ、何より特徴的なカラーが大河の愛車とそっくりで、俺は思わず口にした。
「あの車、おまえのアルファロメオけ?」
「車体は似とるけど、別物やろ」
本人がそう言うのだから、特に異論はない。俺たちは真夏の日差しから逃げるようにホテルのエントランスに入り、大河は上着のボタンを留め、大理石調の床に敷かれた赤い絨毯のうえを歩いた。
折よく待機中のエレベーターがあり、少し早足になってそこに乗り込んだ。目的階に着くまでのあいだ、俺たちは無言だった。金を手に入れられると知った大河は先ほどまで安堵を浮かべていたが、今は再び顔を緊張させている。
「これからひと仕事あるんや。シャワーでも浴びてシャキッとせられま」
短い言葉をかけ、廊下へと降りた。
俺はなぜか、投宿したスイートルームの費用に頭を痛めたが、べつの思考はそれを上書きした。部屋には衣弦がいるはずだ。状況があまりに流動的すぎて、連絡を取り合っていない。俺が有希だと知ったとき、彼女はどんな反応をするのだろう。自我に失調をきたした俺を、冷静に整理してくれると助かるのだが。
都合のいい期待を胸にしまいこみ、ドアにカード型の鍵を通した。俺は先に大河を入れてやる。すぐにシャワーを浴びたいだろう。そんな配慮をしつつ、靴のまま上がり込み、リビングに足を向けた。なぜか大河も、同じ方向に歩いていた。
「風呂入らんがけ? 自由に使えま」
後ろから呼びかけたけど、大河は返事をよこさなかった。俺が妙な感じを覚えたとき、やつは背中越しに独り言のような呟きを漏らした。
「騙すような真似になるけど、申し訳ねえ、有希さん」
この期に及んでなぜ謝罪されたのかわからない。金のことなら解決済みだし、そのことで大河が後ろめたく思う必要はない。
俺は訝しく思うがあえて問いたださなかった。取るに足らないことだと受け止めたのだ。しかしリビングに足を踏み入れたとき、俺は自分の間違いを悟った。大河ははっきりとした意図をもって俺に許しを乞うたのだ。
なぜならリビングに佇んでいたのは衣弦だけではなかった。もう一人ここにいるはずのない人物が突っ立っていた。
少女のような容姿をもったロシア人オカルト学者。ソーニャ・クリュチコワ。
弓長宅からコインロッカーの鍵を回収した日以来、彼女とはすれ違いが続いていたが、なぜこの場所にいるのか。戸惑いが言葉をなす前にソーニャが透明感のある声で言った。
「お帰り。あなたが戻るのを待ちわびていた」
俺が持ち前の勘で不穏な空気を察したのに、彼女は暢気にアイスを齧っている。部屋を見回せば、ソファに衣弦が座っている。無表情な顔は相変わらずだが、上半身を固くして緊張が窺える。
俺はソーニャに目を戻し、できる限り平然として言った。
「どうして君がいるんだ?」
衣弦を差し置き、まるでこの部屋の主人のような態度。神経を逆なでするような不遜さに語気が些か荒くなった。
けれどソーニャは質問に答えない。俺は「帰ってくれないか」と言いかけたが、衣弦が横から口を挟む。
「大事な話があるそうです。聞いてあげてください」
どうやら彼女たちのあいだでは話がついているようだ。けれどわきあがった不快さを、直接ソーニャに伝えてやることにする。
「もうじき絢花の見舞いに行く時間だから、君の相手をしている暇はないよ」
口ぶりはソフトだが、想定外の客人をもてなす気はないことは理解して貰えたはずだ。正確にはそのはずだった。なぜならソーニャは俺の発言を綺麗に無視したからだ。
「聖辺のところから脱出してきたんだね。彼のことを殺してきたそうじゃないか」
「なんでそのことを知ってる?」
反射的に声を発してしまった。それは会話の主導権をソーニャに握らせてしまうことを意味していた。
「タイガからメッセージだけ貰っていた。タイガのマンションで何が起きたか、わたしは知っているよ。だからこのホテルで待っていた。殺人を終えたあなたの帰りを」
俺は弾かれたように斜め後ろを振り返る。表情を読み取られまいとするように、大河は目を伏せていた。やつは隠し事をしているようだった。
ひょっとしてひと芝居打たれたというのか。真相を突き止めたかったが、ソーニャの声が俺の行動を制した。
「聖辺には個人的に事情聴取をして、わたしの捜査に協力して貰ったんだ。相当怒ってて、護身用のダガーを携えていなかったら危ないところだったよ」
語ることは剣呑だが、アイスを口に含みつつ緊張感の欠けた様子である。
対照的に俺は懐疑の念を抱かずにはおれない。わたしの捜査? 引っかかったのはその言葉だ。
困惑しはじめた俺を置き去りにして、ソーニャは話を続ける。
「聖辺の捜査は難航が予想されたけど、結果的に正攻法が功を奏した。あなたとタイガが聖辺を張り込んだ翌日、彼のスケッチを手に、行きつけの店のオーナーに訊いて電話番号を得て、近くのホテルのラウンジに呼び出したんだ。
身分は警察の付託を受けた探偵という役どころ。そんな人種が珍しかったのか、聖辺は戯れに会う気になってくれたようだ。わたしが、弓長翔太及び戸野口明日奈殺害容疑で告発すると言うと、彼は笑っていたよ。二人の霊視で聖辺が犯人だとわかっていたから、相当強気で押したのに否定も肯定もしなかった。でも捜査の手を緩めるわけにはいかなかった。
あなたは聖辺が有希さんのなりすましではないかと疑う一方、女子高生殺しの被疑者が聖辺か有希さんかで迷い、もし後者だと認定した場合、兄妹を庇うべく情実をとる怖れがあった。
どこまでが聖辺の犯行で、どこまでが有希さんのものか。それを明らかにしない限り、捜査は横道に逸れる。結果的に聖辺は警察をまく自信があったのか、事件の詳細を教えてくれた。唯一の誤算は、彼を追いつめる過程でタイガが窮地に陥ったことだ」
本来なら自分が護衛につかなければいけなかったのに。そう言ってソーニャは、悔恨を滲ませるようにして口を結ぶ。今の指摘は俺の心に波紋をなげかけた。彼女は的確に掴んでいたのだ。絢花の事件の核心に迫ろうとしている有希は味方であり、警察に突き出すつもりなんてなかったことを。
違う、もはやその整理も不正確だ。俺と有希はどこかで入れ替わっていた。それが不自然でなくかつ可能だったのは俺たちの目的が同一であったから。味方どころか、有希は俺自身だ。自分を被疑者に貶めるような真似を、俺がするわけがない。だが大河にすら黙っていた本心をなぜか目の前の女は知っている。
どうして? 縋りつくような声は心の中で膨張しわだかまった。
「理解が追いついていないようだね、恭介さん。でも事の本質はそう複雑なことじゃない。わたしとタイガは一心同体で、必ずどちらかが目的を果たす関係だ。幸い最小限の損失で聖辺を倒せたようだけど、それがあなたの力によるものだとしたら素直に感謝したい」
俺が言葉を失っているあいだ、ソーニャは食べ終えたアイスの棒をゴミ箱に捨て、タバコに火をつけた。傍若無人な振る舞いだが、すでに目の当たりにしているので驚かない。うまそうに紫煙を吐き出したソーニャは、ローテーブルに置かれた灰皿へ吸い寄せられ、上品な所作でソファに座った。よく見ると灰皿は吸い殻で山盛りになっている。
「あなたも座ったら、恭介さん?」
恭介。その呼びかけは三度目だ。俺は心の焦りを隠す余裕もなく、尖った声を返した。
「俺は有希だ。恭介じゃない」
大河とのやり取りを通じて己の同一性にたいする謎は確信に到っている。有希は聖辺を射殺し、拳銃は俺が持っていた。「ソーニャは間違えてるよ。俺自身が有希だ」もう一度くり返し、疑問の余地がないことを強調する。
「自分が有希さんだなんて……気でも狂ったんですか、先輩?」
重厚な壁を押し返すような口調でくだした断定に、慌てて反応したのは衣弦だ。咄嗟に言い訳を思いつく俺と、その発言を無視する俺がいた。優勢だったのは後者だった。
「ほう。恭介さんはそういう勘違いに到ったんだ。心の分裂を前にしてひとは異常な結論を受け容れる。どんなに奇怪に見えても、あなたの中では整合性がとれているわけだ」
動揺した衣弦の隙を突き、ソーニャが独り言のように言った。
「恭介さん。昨晩、わたしとラブホテルで会ったことを覚えているかい?」
何の話だろう。俺は不機嫌さを隠さない。「知らない」とぶっきらぼうに答える。
「そうか。やはりあなたは有希さんじゃない、恭介さんだよ」
またその呼びかけ。思い違いも甚だしい。
「聖辺を殺したのは有希だ。そして実行したのは俺だ。今さっき起こったばかりのことなんだよ。現場にいなかった君に否定できる道理はない。第一、君が正しいのだとすれば、聖辺を殺した有希は何者だ?」
理路整然とした回答を求めた。けれどソーニャは、俺に向かって小さな箱を差し出した。
「今、タバコを吸いたいかい?」
落ち着けという合図か。無論、俺は首を横に振る。
「いらないよ。あいにく決まった時間にしか吸わないようにしている」
周囲に迷惑をかけないためのルール。決めたのは俺自身だけど、そこで疑問がわいた。一日五回の喫煙は、はるか昔に恭介が課した習慣だ。そうなるとソーニャの誘いを断った俺は恭介ということになる。おかしい。なぜか辻褄があわなくなった。
「整合性に穴が空いたようだね」
ソーニャの口唇が心持ち動き、わずかな変化は不敵な笑みを形づくる。
「あなたの喫煙にかんする習慣は衣弦さんから聞いた。でも昨晩会ったとき有希さんは、平気でタバコを吸っていたよ。彼はあなたとは違い、喫煙をセーブしない人間だった」
彼女の嫌疑が正しいなら、心の整理どころではない。大河のほうを振り返ると、やつは茫然としていた。思惑に落ち度があったように見えるが、反論を練る余裕はなかった。
「恭介さん、より核心的な証拠があるよ。あなたと有希さんでは決定的に違う点が」
「何が違うっていうんだ」
「方言だよ。大河は業務中に方言を避けていた。恭介さんはそれを知り、大河のやり方に合わせた。なのに有希さんは、方言を躊躇うそぶりさえなかった」
方言を無頓着に使うはずはない。彼女が指摘するのは俺ではない俺だ。自分が有希だという理解は間違えていたのだろうか。
「ソーニャさんは、先輩が女子高生殺しの犯人だと言っていました。本当なんですか?」
間髪容れず、不安定な俺を衣弦が揺さぶった。悪意はなくとも強い眩暈を覚えた。
スイートルームのソファスペースは広い。これ以上立っていることがつらくなり、俺は上座に腰を落ち着けた。そんな俺をソーニャの眼光が射抜く。大河は彼女の後ろに控えている。やつの視線はどこか遠くを見ている。
「本当なんですか、先輩?」
衣弦が問いを重ねてきた。その悲痛な叫びを聞き流し、ソーニャへと向き合う。逃避のつもりだったけど、彼女は俺を取り囲んで来た。
「ところで崔炳瑞に会えたかい?」
「ああ」
なぜか即答するも、不利な立場は変わらない。
「彼にタイガの家の合鍵をプレゼントしたのはわたしだよ。崔と聖辺の会談を張り込み、別れた後、崔にアプローチをかけた。会談を目撃できたのは、店で一番若そうなスタッフに金を握らせ、聖辺が来たら教えろと頼み込んだからだ」
会話の主導権を奪われているせいで、さすがに頭の回転が追いつかなかった。
崔炳瑞の名前は弓長の捜査線上にのぼっていた。くわえて今さっき大河のマンションで、それらしい男と邂逅した覚えもある。記憶は曖昧だが、小さな断片が残っていた。しかし問題は、そういう得体の知れないキーパーソンをソーニャが事情聴取していたことに他ならない。まるで全ての退路が塞がれているような気がした。
「ひょっとするとあなたは、先ほどわたしが大河の家にいなかったことを不審がっているかもしれないね。理由はご覧のとおり、衣弦さんと会っていたからだよ。
思えばあなたが拉致された日も、わたしはホテルの外で待機していた。勿論、衣弦さんとは相談済みさ。あなたの外出を確認した後、わたしは尾行をおこなった。あなたは黒川姫乃を連れてラブホテルに消えたけれど、わたしはあなたこそ有希さんだと疑っていた。
帰りがけに探偵として聴取を持ちかけると、有希さんは雄弁に語ってくれたよ。もっとも恭介さんにはそのときの記憶はないだろうと彼は言っていたけど」
確かに俺はラブホテルに行った覚えなどない。けれどソーニャは、俺の尾行をして辿り着いたと言った。その相関関係はおかしい。何かが狂っている。焦燥は濃度を増し、パニックの影がちらついた。
「でたらめだ」
勝手な思い込みを語るな。ソーニャは間違えている。
「拉致された日の夜……いや、その日だけじゃない。俺は業務に区切りをつけた時間帯、毎日絢花の見舞いに行っていた」
そう。真実は本人が一番よく知っている。でもソーニャは微動だにしない。
「あなたの記憶はねつ造されているよ。有希さんがそう言っていた。彼の証言によれば、有希さんは絢花さんのお見舞いに行く時間帯を使って殺人を重ねた。そして病院を訪れたという記憶をねつ造し、誤った認識を恭介さんに信じ込ませたんだ」
でたらめだ。彼女は妄想を口にしている。意味がわからない。
「真偽を疑うつもりなら、主治医に訊くといい。あなたは瀕死の妹のお見舞いを避ける、心ない兄だと思われているはずだよ」
信じられない。けれど俺が有希なら、彼女が語る事実を知らずにいる道理がない。俺は本当に何者なんだ?
ここにきてようやく、自分が錯誤に陥っているかもしれないと思い始める。かろうじて働く理性はソーニャの言葉に耳を傾けるべきだと言った。だがそれは無駄な努力だとすぐに思い知らされる。
「実はタイガの霊視を通じて非常に興味深いことを知った。きっとあなたにとっては受け容れがたい事実だと思うけど、恭介さんにそれを知る覚悟はあるかい?」
思わせ振りな彼女は灰皿でタバコをもみ消す。俺はできるだけ平静に頷き返した。
「それじゃ、教えてあげることにしよう」
俺の注意を引きつけるように、ソーニャは肩をすくめ、静かに息を吐きだす。
「わたしたちの捜査中、絢花さんの霊が常にいたんだ。ちなみに今もここにいる」
このとき受けた衝撃は、必死に手を伸ばした理解を拒絶するものだった。しいて言えば、旧ソビエト製のハンマーで頭を殴られたような気がした。
俺は視線を上げ、ソファの傍らに立つ大河を睨みつける。やつはその視線を受け流し、宙の一点を見つめていた。そこに絢花がいるのか。俺は声を失った。
「そもそもあなたが知らないことがこの世界にはたくさんある。これもその一つだよ」
饒舌なソーニャだったが、むしろ抑制的だったことに初めて気づく。思考が臨界点に達したかのように、溜め込んできた言葉を彼女はいっぺんに吐き出した。
「最初、羽生臣人の事務所があるマンションの屋上で会ったとき、絢花さんは極度に無口だった。ほぼ発言を拒否しているような有様だった。それが、スーパーやおかんにおける現場検証のとき少しずつ本音が聞けたんだ。
彼女は言っていたよ、恭介兄さんを道連れにして死にたい、もうこれ以上生きていたくないと。その煮えたぎるような情念に、わたしは異常を感じた。あなたが絢花さんに注ぐ慈しみに比べ、ギャップは際立っていたから」
タバコを吸い終え手持ち無沙汰になったのか、ソーニャは立ち上がり、ソファの周囲をぐるぐる回りだした。
「わたしと衣弦さんを大河のマンションに匿った日があったね。尾行を警戒し、あなたが聖辺をその目で確かめた日のことだ。その夜、帰宅した大河が絢花さんの霊視をおこなった。そこでも結論は変わらなかった。絢花さんは恭介さんを憎んでいた」
ソーニャの発言と足並みを揃え、大河のやつまでこんなことを言い放つ。
「絢花ちゃんは俺に取り憑いてたんだ。依り代になるモンが他になかったからな」
二人の発言が本当なら絢花は俺の捜査をずっと見ていたことになる。俺がどれだけ真剣に働き、彼女を助けようとしたか知っていることになる。なのにソーニャは、絢花が俺を憎んでいたと言った。あるべき姿からは真逆のことを口にした。
でたらめだ。心がそう叫びたがっていた。
「これだけ説明しても、まだあなたは納得していないみたいだね」
「当たり前だろう」
狼狽えた俺は両手を握り合わせた。その先端は小刻みに震えている。ソーニャはゆったりした歩みを止めることなく、視線だけ俺に送っていた。
「ならこうしよう。あなたが有希さんなら、恭介さんはどこかべつのところにいるはずだ。衣弦さんにコールを入れて貰おうか。これで真実は明白になるね」
俺が絶句しているあいだにも状況は動く。衣弦は端末を取り出し、二秒も経たないうちに通話ボタンを押していた。喉を鳴らし唾をのみ込む音。それを捉えた俺の耳は、絹布を切り裂くような呼び出し音をキャッチした。この部屋で鳴っていた。リビングのほうだ。そこには俺の鞄がある。目を上げると、ソーニャは勝ち誇った微笑を浮かべていた。
「これであなたが恭介さんだと示すことができたね」
待ったをかけることもできたはずだ。けれど喉が詰まり声が出せない。
「でもあなたが錯誤に陥った背景には、相応の理由があると思っている。わたしがそれに気づけたのは、タイガのマンションで衣弦さんと二人きりになったときだ。衣弦さんは気にかけていた。タイガを雇ったことで経費がオーバーすることを。
もし不足があった場合、自分も自腹を切るべきだと思ったようだね。心配を押し隠せなくなった衣弦さんは、あなたが管理する捜索費を調べようとした。そこで捜索費がありえない額にまで減っていることを知った。
几帳面な恭介さんには信じがたいことだと彼女は言っていたよ。もしかしてあなたは何かイリーガルな行動をとっているのではないか。疑惑を強めたのも、そのときがきっかけだ。たとえば、恭介さんに別人格がいるのではないかという疑惑を」
動揺する俺の耳にソーニャの声ははっきりと聞こえた。
「経験上、ありえることでも、証拠がなければならない。はからずもわたしは、絢花さんから情報を得て、二宮という元教師に事情聴取をした。あなたとタイガが松井知穂の捜査をしている最中、体調不良を装ってね。そこで知った事実は、あなたと同じ服装の人物が鷲津有希を名乗り行動していたこと。わたしは別人格の存在に確信を深めた」
「でたらめだ」
そんな行動、俺は関知していない。力を振り絞って会話の流れに抗うも、闇雲な抗弁はソーニャによって押し返されてしまう。
「否定はできない。あなたの無知は、別人格があなたを乗っ取っていた証拠だよ」
スカートを揺らし、彼女が歩く。そして二本目のタバコに火をつける。
「別人格、だと……?」
「そのとおり。わたしの推理が正しければ、恭介さんはいわゆる多重人格だ」
「ふざけるな」
多重人格の意味はわかっている。わからないのは俺がなぜそれに該当するかだ。
「腑に落ちないという顔だね。でもわたしの話には根拠がある。あなたは長らく精神科に通っていたね。衣弦さんからうつ病や睡眠障害があったことも聞いている。けれどそれらは誤診だ。主治医は見落としたんだよ、あなたが多重人格――解離性同一性障害を患っていることを。うつや睡眠の失調はそこから派生した症状に過ぎない」
そこで唐突に、携帯電話が鳴った。誰も着信に出ない。呼び出し音の位置は、先ほどのコールと同じ場所だったから、おそらく俺のアイフォンが鳴っているのだとわかる。だが、体が動かない。着信が止んだとき、精一杯のあがきはかすれた声になった。
「でたらめや」
俺はもう標準語を捨てていた。「君はオカルト学者で、医者やない」と言葉を継いだが、ソーニャはそれに応えず、会話を自分のペースに引き戻した。
「病気の原因はあなた自身が衣弦さんに語っているよ。あなたは本当は気づいていたんだ、絢花さんを自分の物にできなかったことを。けれどひとは自分の信じたいものを信じる。有希さんがそれを否定する夢を植えつけるのは実に簡単だっただろうね」
「でたらめや」
「それに完成された孤独の話は興味深かった。あなたは確かに思慮深い人間に見えるけど、衣弦さんとの関係を否定するほど薄情ではなかったはずだ。きっと有希さん以外に、もう一人いるんだと思う。世界にたいして斜に構えた分析屋のあなたが、あなたの心の中に」
もはや別人格の存在は前提といわんばかりの口ぶりだったけれど、心の浸食を防ぐことしかできない。俺は狂気に怯えながら、今にも耳を塞ぎたくなった。
「実はわたしが恭介さんの人格分裂を疑う一番最初のきっかけは羽生さんを事情聴取したときだ。あなたは彼との借金の存在を強く否定したけど、第三者の目にはとても不自然に映った。
謎解きは有希さんがしてくれたよ。羽生さんに金を借りたのは有希さんで、彼はその金を使い長野で少女売春をくり返したそうだ。有希さんが偽の記憶を植えつけたから、あなたは無知だろうけど。そう、長野で絢花さんと密会していたという麗しい記憶を」
以上が薄給のあなたが頻繁に長野を訪れることができた理由だよ。ソーニャは滑らかな口調で述べ、俺は膝に手を置きうなだれる。
見舞いもうそ。絢花との逢瀬もうそ。俺の周りはうそだらけだ。
続きは明日投稿します。それまでお待ちください。