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第三十一話 「運命」




 運命との出会いは、孤独が完成されているときになされる特別なものだ。人が自己完結しているとき、完成は不十分である。鏡の前に立ち、もう一人の自分を見ることができる。そのとき自分は二人いて、ひとは孤独ではない。


 完成された孤独とは、鏡のない闇の中に一人茫漠と佇むことだ。自分を癒すことも、慰めることも、安心させることもない、等身大の虚無にさらされることだ。喜びもなければ悲しみもない、感情の彼岸を歩くことだ。運命はそういうときに送られてくる。世界からの贈り物として。才能と同じである。遺伝子もそうだ。何かを知る前に、ひとは特別な自分を手に入れている。


 だが、俺を産んだ両親にとって俺は特別ではない。明久と姉貴と有希を産み、次に誕生するのが絢花であってもよかったはずだ。俺の特別さはこの世界の特別さと同じく、俺にしかわからない。両親に限らず、どんな他人であっても、俺は替えが利く存在でしかない。


 けれどひとは何を血迷ったのか、俺を特別な人間だと思ってしまうことがある。自分にとってかけがえのない人間だと思い込んでしまう。運命とは、そうしたときに起こる錯覚のようなもの。

 完成された孤独にとって運命の相手とは闇の中に差し込んだ光だ。闇の濃度が深いほど、ひとはその光に強烈な印象を覚える。世界のくれた贈り物だと捉えてしまう。俺を特別だと思う誰かに、俺は手を伸ばす。ひとがそんな贈り物を狂おしく求めるのは、プーチンの言う心、つまり幼少期のかけがえのなさを甦らせてくれるから。もはや特別ではなくなった自分を、特別な存在へと連れ戻してくれるから。


 犬の眼を持つ者である恭介は、こうした理屈を十分に理解しておらず、完成された孤独へ到ることを怖れ、かりそめの愛を手放さなかった。魚の眼を持つ者が見せる幻に逃避し、現実を自分の願望どおりに作り替えた。


 幻とは昔のままの絢花で、現実とは兄への依存から抜け出そうとした絢花だ。忠久の振るった暴力は、鏡を破壊するどころかますます強化した。未完成な孤独に安住する恭介は、幸せから遠ざかっていく。衣弦という運命と出会いながら、その特別さをやつは認識していない。


 けれど奮闘むなしく、鳥の眼を持つ恭介であるところの俺は、やつの行動を改めさせることがついにできなかった。精神の主導権は魚の眼を持つ者が握っているし、それは「恭介」という人格を狭い夢の中に閉じ込める作用を果たした。


 無論、孤独の完成をよしとする俺とて、現実と向き合うことが「恭介」という人格を崩壊させる危険は看過できなかったし、妹を特別な存在と思わせ続けたこと自体に異論があるわけではない。ただ恭介の心の一部として言わせて貰えば、何が運命であるかをこれ以上間違えないで欲しいのだ。この世に絶望しかない連中と比べ、俺たちは恵まれている。せめてそのことにわずかでも感謝し、いざというとき贈り物を開ける勇気を振り絞って貰いたいのだ。


    ***


 まるで眠りから目覚めたように俺の意識は覚醒した。左手は車のハンドルを握っており、足はアクセルペダルに置き、視線はフロントウィンドウ越しに前方の景色を眺めている。運転中だ。社用車プリウス。俺が主体性を失う前、同じようにプリウスを走らせ、大河のマンションへと向かっていた。


 富山出張にきて以来、行動中に連続性が途切れてしまったのはこれが三度目だ。けれど前回までと違い今回は、体の自由こそ失えど、薄暮のような意識がうっすら機能していた。部分的に生々しい夢を見ていた感覚が残っている。残念なことに夢の内容は、大半の夢がそうであるように判然としないが。


 思考を切り替え、俺は運転に集中した。突然の覚醒によって身体の制御が不安定だったからだ。ひとつ間違えば大事故に繋がるという警告が、俺を動揺から遠ざけた。


 とはいえそんな中でも、助手席に誰かがいることはわかっていた。縦にも横にも大きい存在感から相手が大河であることも。そしておもむろに聞こえたやつの声によって、俺は覚醒前の自分がやつと会話中だったことに思い到る。

「俺な、恭介をわざと事実から遠ざけとった」

 呟くように言って、大河は何かを口にした。横目で見ると、缶コーヒーだ。かたや注意を自分に向けると、俺は、右手にタバコを挟んでいたことに気づく。車内で喫煙する習慣はないのにどうして? 答えを探しあぐねていると、大河は平坦な声で話を続けた。


「実は弓長の霊視から、スイッチは本来柳田の手に渡るものだと知っとったんやよ。やけど買い手である朝鮮人側が仲間割れして、その片方が弓長にアプローチした。崔炳瑞や。弓長の段取りに沿うなら、崔と取引すべきやったがに、俺はそうせんかった」

 まるで懺悔みたいだな、と思ったが、口にせず耳を傾け続ける。

「崔と取引すると金は弓長のモノっちゅう理屈になるやろ。だからその金を奪うと、霊に取り憑かれるちゃ。今から思えば取り越し苦労やったがに、悪魔憑きを回避するためにはべつのやつと取引せねばならん思うとった」


 悪魔憑きという単語が出たが、そこに意味はない。意味があるのは「金は弓長のモノ」「べつのやつ」の二箇所だ。タバコを肺まで吸い込み、俺は漠然とそう思う。

「背脂にはスイッチの重要性を低く伝えとったわけや。警察の注意をそらし、聖辺の目を眩ませられれば、スイッチを本来の買い手――秋山に売却できる。一億とは言わなくても最低でも三割は手にできると思っとった。三〇〇〇万円。恭介と有希さんと山分けしても一〇〇〇万やな」


 急な覚醒にも拘らず、ニコチンの効果で頭は冴えていた。だから大河の会話を一本のストーリーにまとめて聞くことができた。

 要点を言えば、やつは金を欲しがっている。弓長の霊視で得た情報を正確に伝えず、警察や俺を出し抜こうとした。少なくとも俺の捜査を自分の願望に近づけようとした。


 スイッチに一億もの価値があると知ったとき、こうした事態は警戒しておくべきだった。それを怠ったのは俺のミスだ。大河を責める謂れはない。ただ少しだけ、やつの動機が気になった。

「なあ、どうしてそんなに金を欲しがる?」

 明日の天気を訊くような口調。大河の返事も同じくらい事務的だった。

「警視庁辞めたとき、前の奥さんと別れたがよ。子どもも一人おったし、慰謝料と養育費の請求が半端ないことになっとる」


 思わぬ初情報。悲劇の退職の裏にはそんな複雑な家庭事情があったのか。隠し事をするなど水臭いこと限りないが、俺の指摘は他の箇所に向いた。

「金が要るなら、アルファロメオ売れま」

「いやだちゃ。車売るくらいなら死んだほうがましや」

 視線を横に動かすと大河は缶コーヒーを呷り、奇妙なことを口走った。

「そもそも俺がどんな金繰りしようと有希さんに注意される筋合いなかろがいね」

 有希。大河は今、俺のことを有希だと言った。

 ソニーエクスペリアから得た情報によって、自分が有希かもしれないという得体の知れない妄想に囚われていたから、大河の発言はそれを裏づけたと感じた。


 つい先ほども無声映画のような視界の中で、俺は聖辺と格闘する自分を眺め、今の俺は恭介でなく有希なんだと思っていた。鷲津恭介という連続性は断たれ、俺はどこかで有希と入れ替わっている。その前提に立ち、大河の発言を窘めることにした。

「業務中に得た犯罪性のある金銭は、国庫に納めなんだらいけんちゃ。こみいった事情があるようやし、気持ちは理解するけんど、スイッチの売却金は諦められま」

 そう言って、あらかじめ記憶があったかのようにダッシュボードへ右手を伸ばし、無造作に置いてある小切手を摘まみ上げた。タバコの灰を落とさないような器用さで、それを上着のポケットにしまう。

 大河はよほど金が欲しかったのか、血まみれのポロシャツを掴み、体を震わせていた。

 俺はと言えば、ポケットの中に固い物体があるのを発見する。形状からして拳銃だ。護身用に保持していたものを、携帯していたところまでは覚えている。しかし実際に使用した記憶はない。聖辺とやりあったときの状況を思い出すが、そこには大量の虫食いがあった。


 俺は自分の同一性を失い、記憶も曖昧だった。軽快にプリウスを操ってはいるが、どこを目的地としているのかすらも把握していない。

「大河、俺たちはどこへ向かっている?」

 我ながら間抜けな質問を助手席に投げかけた。

「ホテルやよ。有希さんが言っておったんやないけ」

 落胆した様子を隠さず、悄然とした声で大河は返事をした。ついでやつが口にしたのは、グローバルチェーン展開しているハイクラスなホテルの名。

「一旦ホテルで体勢を立て直して、夜になってから聖辺の遺体を始末する。警察にも通報しない、そう言っとったねか。やから俺もてっきり金は秘匿するもんや思っとったがに」

 もう何度目かの泣き言。俺は正直呆れたが、他方で今の発言に引っかかりを覚えていた。


 聖辺の遺体。俺は主体性を失っているあいだ、そんな面倒な荷物を残していたのか。新情報を得たことで考えが変わった。全ての痕跡を消すために、大河の協力は欠かせない。

「前言撤回や。金は秘匿するし、おまえに分け前もやる。俺も意地張っとった」

「ほんまけ?」

「これから警察出し抜くんや。リスクに応じて報いんとな」

 記憶が不完全だと余計なツケを払うはめになる。忌々しいことこのうえないが、大河の口ぶりだと俺は十中八九、聖辺を殺害したのだろう。


 逮捕を逃れるには押収金の着服も必要な代償だ。俺はそう考え直し、実際大河の顔が明るくなったのを見て、自分の判断が間違っていなかったことに自信を深めた。

「ありがとう、有希さん。おかげで人生をやり直せる」

 大げさな物言いだが、それはたぶん本音なのだろう。

 ――わかったか。金に困ったやつは適度に餌を与えて味方にしとくんや。敵に回ったらどんな目に遭うかわからんけに。

 誰かの声が頭の中で聞こえた。自問自答? 俺はその声に頷き返しながら大河に言った。できるだけソフトな口調で。

「俺のほうこそ悪かった。感謝して貰えて嬉しいよ」


 芝居めいた照れ笑いを浮かべ、右手のタバコを備え付けの灰皿にねじり込んだ。大河は缶コーヒーを口にし、なにげなく後部座席を一瞥した。俺は素早く疑問を発していた。

「どうしたが?」

「いや、尾行が気になっとっと」

「そんなら俺も注意しとる。不自然な動きすんなま」

 安心せられま、と言うつもりだったのに、自分でも驚くほど冷たい声が出た。業務中の自分に人間的なあたたかみがないことはわかっていたが、それ以前の問題に思える。


 俺は温情と冷酷さを切り替えられる人間だったはずだ。なのにそのオンオフをうまく制御できていない。自分への違和は膨らむばかりだ。大河は俺を有希と呼び、俺もその事実をぼんやり受け容れているが、あらためて考えると有希は自分のことを「俺」とは絶対に呼ばない。けれど覚醒してからというもの、自分のことを俺は「俺」と呼び続けている。それは自分が有希ではなく、本当は恭介であることの証ではないか?


 ここまで考えが及んでも、混濁した記憶は納得のいく回答を与えない。意識の大半は運転に割かれており、残された内面は濃霧に覆われている。たった一つ、大河による認識のみが、導きの印となる。

 やつが俺を有希と呼ぶ以上、俺は有希なのだろう。そして知らないうちに聖辺を殺害し、その責任を背負わされている。理不尽だと思うが、さりとて逃げるわけにもいかない。優先順位の高いものから一つずつ片づけていくしかない。

明日はクライマックス第二弾です。

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