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第三十話 「崔炳瑞」




 一時間という約束を守ることができ、無事荒木大河のマンションに辿り着いた。すでに通ったことのある道だったから記憶どおり車を走らせればよく、途中で迷うようなこともなかった。近くにパーキングはなかったのでやむを得ず路駐することにして、エンジンを切り、車外へ出た。意識も溶かすような日光が容赦なく降り注いだ。


 居住者用のスペースを見やると、そこに大河のアルファロメオは停まっていなかった。聖辺の口ぶりからして、荒木大河が不在という線は考えがたい。胸に引っかかりを覚えながら郵便受けを見て「荒木」と書かれた部屋番号を確かめ、インターフォンに入力しボタンを押す。


 反応はしばらくなかったが、辛抱強く待っていると内側から解錠したのかガラス扉が音もなく開いた。備え付けのカメラで来訪者の確認ができたのだろう。とすると、聖辺は自分の容姿を見知っていることになる。どこで覚えられたのか。大河と張り込んだレストランのときか。思い返してみても、あのとき聖辺の視線は感じなかった。なのに顔を覚えられていたとしたら、聖辺は侮りがたい男ということになる。


 すでにエレベーターに乗っていた体は文字どおりハリネズミのように警戒心を逆立てており、目的階で降りると、部屋番号をあたりながら右折し、その後まっすぐ進んだ。


 表札はないが、目当ての部屋の前に来た。チャイムを鳴らす前にドアノブへ触れると、それは難なく回転した。鍵はしまっていなかったのか。来訪を知ったと同時に開けておいたのか。どちらでも大差なかったが、ドアと鍵を閉め、靴を履いたまま入室を果たした。


 荒木宅に入ってすぐにわかったことが二つある。一つは奥にあるリビングのほうから声がしていること。苦痛に耐えているような呻き声と、若い男のボーイソプラノを思わせる声。もう一つは、廊下を歩き始めた途端に感じた。異様な匂いがした。鼻を突く揮発臭。足元に液体が垂れている。それが何かは考えるまでもなかった。


 悪臭に顔をしかめたとき、ボーイソプラノがひと際大きくなった。

「なしておめえの彼女が弓長殺しを知っとっと? 僕はあの女に脅されたんやぞ。弓長のやった横流し、おめえも共犯やろうがい」

 リビングに続くドアを押し開くと、二人の男が目に入った。椅子に縛りつけられた巨漢。それとやつの前にしゃがみ込んだパーカー姿の男。大河と聖辺。聖辺はご丁寧にも運送会社の制服を着ている。つまり業者を装ってこの部屋に上がり込んだわけだ。


 もし二人を一枚のポートレイトにするなら、その題名は「凄惨」だった。冷房の効いた部屋に血腥い臭いが濃厚に漂っている。けれどこの体は実に便利なもので、呼吸を整えるだけで頭と心が新鮮な空気を入れ替えたように冴えてくる。

「先に着いたのは鷲津恭介のほうやな」

 ドアを後ろ手で閉めると、背後に首を向け、聖辺は妙な挨拶をよこした。先に着いた? 他にも呼びつけたやつがいるのか? 疑問は声になったが、聖辺はそれを無視しなかった。

「荒木の彼女も呼びつけとるんや。口裏合わせてスイッチをべつの場所に移した可能性もあるし、おめえと女の両方に釘刺さんと取り逃がすやろ」


 念入りなことだ、と思った。聖辺の落ち着き払った様に、少なからず感銘を受けたが、確かに部屋を見渡せば、ソーニャという女が不在である。


 彼女とは一度会ったことがあった。強引に食い下がられたという言い方もできるだろう。知恵が回り度胸もある、厄介な女だと思った。殺すことも視野に入れたが、その類希なる行動力に敬意が上回ったという記憶はまだ新しい。


 いずれにせよ、駐車場にアルファロメオが停まっていなかったのは、彼女が外出中であることを意味していたのか。だが、この場を制圧するのは自分一人で十分だ。


 問題は大河が重たい足枷になっていることだった。やつは椅子にガムテープで縛られ、相当長いこと拷問を受けていたらしく、体のあちこちに切り傷ができ、白いポロシャツが血で真っ赤に染まっている。聖辺の手にはナイフがあった。それが大河を切り刻んだのだ。


 こちらが妙な動きをすれば聖辺はいつでも刺し殺せる。あるいはべつのやり方で大河を死に到らしめることができる。その証拠に聖辺は、大河の後ろに回り込み、首筋にナイフの刃をあてながらこう言ってきた。

「柳田から聞いたちゃよ。あいつら全員、こてんぱんにしたらしいやない。けんど今回は同じようにはいかんよ。勝手な真似したら荒木の命はない」

 聖辺の脅迫を聞きながら目を動かすと、入室時に感じた異臭の正体をこれみよがしに主張するブツを発見した。大河の足元に置かれているペットボトル。匂いはそこから漂ってくる。ガソリンだ。


 そいつをばらまき着火すれば、大河は黒焦げになる。それどころか、こちらの命も危うい。聖辺の本気ぶりを感じ取ったが、あえて平静を装うことにした。

「柳田との一件を知っとるのか。あいつとはどういう関係なんや?」

 退屈な会話を続けた。聖辺はそれを避けなかった。

「お友達や。それ以上でも以下でもない」

「ふうん。そのお友達のために、スイッチを取り返そうとしたわけか」

「柳田は僕らがスイッチを奪ったことは知らんよ。あいつはおめえと弓長が結託して盗んだと思っとる。スイッチがどんな代物か知らんし、可哀想やけどおめでたいやつや」


 レストランでの一方的な暴力を目撃したとき、聖辺と柳田の力関係を把握したつもりでいたが、今の発言で裏づけられた。聖辺の関与を疑っても、それを追及できる立ち位置に柳田はいない。その理解は、目の前の光景を見れば明らかだった。大河は傷口から夥しい量の血を流し、力なくうなだれている。聖辺と対峙することは、惨殺のリスクを伴うのだ。


 けれど、と思う。どうしてやつは大河を襲った? 接点はないはずだろう。真っ先に狙われるべきは自分のはずだ。一昨日大河のマンションに赴いた際も、注意を払ったにも拘らず、尾行らしき動きはなかったと記憶している。だとすれば、一体いつ聖辺に居住地を掴まれたのだ?


 泡立つ自問への答えは出なかったが、ここへ赴いた動機は真実の追求よりも大河を救うことにある。最優先事項を思い出し、聖辺に言い放った。

「大河は無関係やし、今すぐ解放しろ。コインロッカーの鍵は渡すから」

 職業的見地に立てば、スイッチを回収し、業務の実績としたいところではあったけれど、人ひとりの命より重いとは到底言えない。しかし聖辺は、大河の解放を拒絶した。

「結果はどうあれ、荒木には死んで貰う」

「なしてや?」

「そうせっつくなま。焦らんでも教えてやっちゃ」

 朗らかに言って、聖辺がナイフを動かした。大河の首筋にあたる刃が、表皮を切り裂いていく。人の死を弄びながら、血色の良い口唇が、一見すると不可解なことを語りだした。


「僕が荒木を襲った理由は、連続女児誘拐殺害事件にあるんやよ。有名な事件やし、おめえも知っとるがいね。あの事件の犯人、僕の義理の兄貴なんや。二度目の母親の連れ子で、義母と親父は中学校に上がる頃にさっさと離婚しとっとんやけど、そのあいだ、兄貴にはよく遊んで貰っとった。一番よくしてくれた兄弟やった。いわば義理があったわけやな。


 警察に追いつめられて匿ってくれ言うてきたとき、僕は兄貴を自分の家に泊めて、高飛びする算段までつけてやった。やけど関西国際空港に車で送る途中、県境の検問に引っかかって逮捕。僕は共犯を疑われて一週間ほど取り調べの毎日やった。


 ようやく釈放される日、警察署内で偶然、事件を解決したっていう探偵とすれ違った。取り調べを担当した刑事が言うとった。事件の詳細を暴きだしてみせたのはその探偵やと。他でもない、荒木大河や。

 自由になった僕はそいつの人相書きをつくり、若いモンに調べさせ、半年かけて情報を洗い出した。弓長の線と絡んだのはイレギュラーやったと思っとる。でもどのみち兄貴は確実に死刑やろうな。荒木、おめえが殺したようなもんやぞ」


 軽薄に言ってのけたが、それは動機の告白だった。少なからずシビれた。義兄の敵討ち。スイッチの奪還だけが目的ではなかったのだ。いいぞ、聖辺。頭の半分では賞賛し、もう半分では警報を鳴らす。大河を救う上で、聖辺の復讐心は邪魔になる。その気になればいつでも殺せる。注意深く意識を尖らし、やつと大河との距離を測る。近い。まだ動けない。


 告白を終えても、聖辺の表情が変わることはなかった。金色に輝く前髪を揺らし、奥から覗く目を向けてきた。

「荒木を地獄へ送る前に、おめえを褒めてやる。正直言って感服やちゃ」

 何のことだろう。今度は自分が賞賛された。

「ソーニャって白人女から聞いた。おめえ、ほんまは鷲津有希いうんやろ。そんでもってうちの女の子を二人も殺した。そんな目に遭うたのは初めてや」


 その発言に僕は動揺しない。けれど少しばかり驚いたのは、聖辺の発言を聞いた大河も動揺したそぶりを見せなかったことだ。代わりにやつは眉間に濃厚な疑念を湛えており、血まみれの口許を動かし、懇願するように言ってきた。

「恭介、おまえは恭介だろ。嘘だと言ってくれ」

 その言葉から、大河はすでに真相を知っていて、にも拘らずそれを受け容れられていないことが理解できた。

「安心せられま。おまえと一緒に捜査したんは恭介やよ」

 親友に裏切られていたかもしれない。そんな不安を取り除いてやる。


 ソーニャという女の口を経て真相は共有されつつあったようだ。でも僕は全ての真実を話したわけではない。誰にも知られていない事実がある。忠久は、僕が潜伏先の外国から富山に戻ってきていると疑っていたけれど、結論から言えばそれは正しくない。


 富山に帰郷したのは恭介だ。根も葉もない噂に聞こえたが、上海だか大連だかで剣道を教えて一儲けしたっていうやつもおそらく恭介本人だ。滞在する国で剣道を教え、地域コミュニティに溶け込んだのだろう。僕自身、そういう仕事をやっていたから痛いほどわかる。


 そう、僕は鷲津有希だ。僕は恭介と入れ替わり、元の状態に戻れぬまま、もう三年の月日が経とうとしている。べつべつの人格が一つの身体を共有し、解離した日常を過ごしてきた。僕は事実上、主人格を乗っ取り、自分が望むときにこの体を支配することができた。そうした事情を目の前の二人は知らない。でもそれでいい。これから事をなし遂げるのは恭介ではなく僕だ。


 上着のポケットからコインロッカーの鍵を取り出し、聖辺の目線にぶら下げた。これが欲しいんだろ? 挑発めいた意識は低い声になった。

「これが欲しいんやろ? くれてやってもええけど、一つアドバイスしたるわ」

「何の話や」

 聖辺は落ち着いていて、目当てのブツを前に焦らない。僕は話を続ける。

「こないだ柳田に拉致されたとき、秋山って男とすれ違った。柳田はそいつにスイッチを売る予定やったらしいけど、おまえもそのつもりなら止めておけ」

 秋山と取引すると墓穴を掘る。僕なりの老婆心だった。

「なして秋山はあかんのや?」

「あいつは公安の人間、二重スパイや。裏取引を持ちかけるふりをしとるだけで、それは巧妙な罠やちゃ」


 柳田に拉致された日、僕は秋山とすれ違った。僕の見た目は恭介なので、やつは戸惑いつつもスルーしたようだったが、僕はすぐに秋山が誰であるか気づくことができた。


 秋山は通名で、彼は朝鮮人である。本名は金明柱。けれど僕は仕事上の交流を通じ、朝鮮の国益のために動いていた金明柱が、ある時点で党と国家を裏切り、日本の公安警察に魂を売った事実を掴んでいた。

「スイッチについた一億の価値は、朝鮮の国庫から出る金やけど、秋山は正当なエージェントやない。最悪スイッチは売れないモンと思っておくんやな」


 売却は逮捕に直結する。そのリスクを説けば、聖辺は手詰まりになるはずだった。スイッチを手に入れても現金化できない。僕はこの一件をめぐる絵を見せつけることで、聖辺の心を挫こうと思っていた。そしてその思惑どおり、やつは目を見開き驚いていた。


 けれどその驚きは、心のダメージに繋がっていなかった。小さく肩をすくめ、聖辺は僕の予測を超えることを口にしてきた。

「秋山にちゃ頼らんよ。それにスイッチを売っぱらう相手はもう見つかっとる」

「吹かしても無駄やぞ」

「ほんまの話や」

「なら、誰に売る気か教えられま」

(チェ)炳瑞(ビョンソ)。本来なら弓長が横流しするはずやった相手や。秋山の正体ちゃ、そいつに教えられた」


 袋小路に追いやるつもりが聖辺は一足先に出口を見つけてしまったわけだ。しかも取引相手は崔炳瑞。その名前に覚えはありまくる。やはり恭介は、外国から戻っていたのだ。軍首脳部の密命を帯びて。

「なるほどな」

 僕は思わず恭介の口ぐせを真似、コインロッカーの鍵を放り投げた。緩やかなカーブを描き、それは聖辺の空いた手に収まる。


 ロッカーの鍵は、大河を救出するときの材料にするつもりだったが、もはやその程度の小細工が通用するようには見えなかった。

「これで満足か」

 依然、不利な状況だが、僕は平坦な声で言った。

「ああ、綺麗に片づいた言うか、丸く収まった言うか。望んだ結果を得られそうや」

 紛れもない本音なのだろう。聖辺はロッカーの鍵を懐にしまい込み、小刻みにナイフを動かした。大河との距離は相変わらずだ。近い。手を横に滑らせれば、頸動脈が裂けてしまうほどの距離。手は出せない。


 僕自身は大河に義理があるわけではないし、このまま見殺しにする他ないのかもしれない、なんて薄情な考えが浮かんだ。それに待ったをかけたのは、続けざまに放った聖辺の台詞だった。


「描いた絵のとおりにパズルがハマるのはほんま気持ちええやね。羽生臣人は黒川姫乃と鷲津絢花殺しで刑務所送り。荒木大河はここで死ぬ。弓長はすでに死んどる。そして鷲津有希、おめえは松井知穂殺しの主犯として警察にパクられるんや。戸野口明日奈の件は、弓長の罪。その弓長はもう死んどるし、羽生かおめえかどちらかのせいになるやろ。証拠なんかなくっても、そういうストーリーで調書を作ればええ話やしな」


 こいつは何を言っているのか? 饒舌な聖辺の言葉に裏の意味なんてない。僕はやつの言う「綺麗に片づき」「丸く収まった」世界のビジョンを共有することができた。ただ、その動機を知りたかったからこう問いかけた。

「どうして羽生を巻き込むんや?」

「姫乃殺しの現場にやつの物証……名刺が残っとった。今頃、取り調べの最中やろ」

 その物証は僕が残した。絢花に中絶を強いた罪を償わせるために。けれど聖辺が羽生を追い込みたがる理由がわからない。

「ふうん。でも羽生を懲らしめることでおまえにどんな得がある?」

「大ありやよ」

 聖辺はナイフを動かさないまま、声のトーンを上げた。

「羽生は鷲津絢花の件は自殺や言うとったがに、自殺に追い込んだのはやつ自身や。おかげで証拠一つなかったはずの戸野口明日奈の件が、僕らのところに舞い戻ってきた。明日奈の知人やいうことで事情聴取された。柳田のお友達やし大目に見とったけど、姫乃の線からパクられそうになっとるとすれば、まとめて罪に問うたほうが美しいやろ」


 僕は恭介の捜査を通じ、戸野口明日奈殺しの主犯は聖辺だと知っている。けれど警察は、絢花の事件を受けて初めて両者の関連性を疑ったのだ。羽生への嫌疑が柳田へ。柳田への嫌疑が聖辺へ。そうして伝播した捜査網から逃れるべく聖辺は、僕か羽生を罠にはめようとしている。


 そんな聖辺に、僕が知穂を殺したことを教えた人物には心当たりがあった。でもあの女が聖辺とグルだとは考えられない。何かの交換条件として、貴重な秘密を教えたのだろう。そうなるとわからないのは、聖辺が安穏としていられる理由だ。

「僕が明日奈殺しの真相を話せば、県警はおまえをパクるぞ」

 道連れにしてやる。言外に迫力をこめて言ったが、聖辺は涼しい顔だ。

「無駄な努力や。僕は警察にパクられん。スイッチを売り払うたらグッバイ、富山や」

「高飛びしても警察は追い続ける」

「やから無駄、無駄。何しろ僕には警察に情報提供者がおるし」


 さらりと言ってのけたが、信じ難い発言だった。一瞬息をのみ、恭介の捜査を頭の中で辿ってしまう。するとたった一つだけ、不自然な記憶が見つかり、それは仮説となった。ブラフとなるのを承知で、僕はそれを聖辺にぶつけてみた。

「おまえ、瀬名俊之と繋がっとるな?」

 恭介が背脂と呼んでいた刑事。半ば憶測含みだったその問いは、聖辺の表情を動かした。やつは怪訝そうになることもなく、口の端を愉しげに吊り上げた。

「どうやろ」

 否定も肯定もしない。けれどポーカーフェイスと言いがたいその顔は、僕の指摘が的外れでないことを教えてくれる。おまけに聖辺は、聞き逃せないことをつけくわえてきた。

「いずれにしろその警官は、僕の使ってた女の子と淫行に励んだせいで、弱みを握られたわけや。でも実際問題、現職警官が一〇代の女の子と遊んだらあかんやろ」


 くすくすと忍ぶような笑い声。いわゆる嘲笑というやつだ。僕はこのやり取りで、瀬名が聖辺の捜査に不熱心だったことに納得を覚えた。きっと決定的な証拠を握られ、抵抗できない状態なのだろう。瀬名は度し難い愚か者だ。


 聖辺の勝ち誇ったような余裕ぶり、捜査情報の把握ぶりが腑に落ちたけれど、それは僕らの不利を覆しはしない。

「スイッチを売った金で新しいビジネスを始めるつもりや。売春よりずっと稼げて、はるかに楽な商売がある。金の山の上に座っておめえらの地獄に落ちるが見物してあげっちゃ」

 快調な未来を思い描き、聖辺は嬉しそうだ。僕は無駄話に付き合った。

「ほう。どんな商売始めるんが?」

「覚醒剤やよ。入手先のアテもついとる」

 聖辺は崔炳瑞との接点を漏らした。そこから想像できるのは朝鮮ルートでの調達だ。

「随分、崔のこと信頼しとるんやね」


 会って間もない相手だろうに、という思いを込めて言う。もっとも機を見るに敏なやつに限って、動くときは即断だ。聖辺の回答も、やつのやり手ぶりを示すものだった。

「崔は本物の小切手を持っとっちゃ。発行元は租税回避地に設立した幽霊会社やったし、換金して足がつくこともない。細かい配慮の行き届いとるやつに悪い人間はおらん」


 新天地での商売に思いを馳せたのだろうか、聖辺の口は軽い。というより、会ったときから思っていたが、聖辺は少々お喋りが過ぎる。それがやつの数少ない弱点に思えたが、ついで発した言葉は、無駄話に類するものではなかった。

「どのみち僕は勝利し、おめえらは敗北する。崔炳瑞はここに来ることになっとる。まだ小一時間ばっかしあるけどな」


 小一時間と言った割に、聖辺の目は時計を向いていない。それどころか僕の目をじっと見ている。凝視していると言ってもいい。僕は、スイッチの買取人である崔が来るまでに一時間もあると知り、疑問を覚えた。

「あと一時間もこうして睨み合っとるつもりなが?」

 いくら何でも待ち時間が長過ぎだろ? という思いから出た疑問だけど、聖辺には想定内のことだったらしく、ナイフを揺らしながら「アホか」と言い、こう続けた。

「荒木が死んだ後、おめえには睡眠導入剤を射って貰う。リビングに置いた鞄の中にアンプルと注射器が入っとる。自分で取り出し、自分で射つんや。おめえが眠ったのを確かめた後、僕は崔と取引し、この部屋を出て行く。そんときに瀬名へ連絡を入れ、遺体となった荒木と被疑者であるおめえを処理して貰う。でも安心せられや、荒木殺しの罪をおめえになすりつけたりせんから」


 死刑になったら可哀想やしね、と言い添え、聖辺はげらげら笑う。僕は自分を待ち受ける未来を知り、普通なら暗澹たる気持ちになるが、僕は普通ではないので大河を救うことだけを考えている。


 一度として聖辺に背中を向けなかったのには訳があった。僕の後ろ腰には、拳銃が差し込んである。恭介が奪い、姫乃の脅迫に利用した銃が、この逆境をひっくり返す切り札だ。ガソリンを撒くのに三秒。ナイフなら一秒以下。そんな目にも留まらぬ速さで、僕はやり遂げねばならない。


 聖辺の注意を引くため大河を見ることはできないが、顔のあたりにやつの視線を感じる。意識を集中すると、聖辺と大河の全体像が見えた。大河の首とナイフのあいだにわずかな距離ができていた。大河が僕の意図を読み取ったのか、答えはわからない。はっきりしているのは、そこにコンマ数秒の隙が生じたということだ。


 恭介にはできないことでも、僕になら簡単にできることがある。カンフーキックもその一つだ。建設事務所において柳田たちを沈めた必殺の飛び蹴り。同じことをここでも再現する。格闘では少々頼りない恭介の体も、僕のほどではないけれど、それでも中々使えるのだ。


 心のスイッチを押し、床から二メートルほど浮き上がる。そのときにはもう、前方へと蹴りだした足は聖辺の顔にめり込んでいた。

 大河はナイフと逆方向に倒れ、椅子ごと床に転がった。そして聖辺の体は壁際へ吹っ飛び、薄型テレビと木製のサイドボードを豪快に破壊した。並みの相手ならこの一撃で失神してもおかしくはない。けれど聖辺は並みではなかったらしく、燃え上がるような双眸で僕を睨みあげ、手にしたナイフも放してない。実に見上げた根性だが、修羅場では逆効果に働く。


 僕は基本的に遠慮というものを知らず、持てる道具は最大限有効活用するつもりなので、拳銃を行使することに躊躇いはなかった。視界の隅で、大河が動き、妙な声が聞こえた。僕が銃を構えたので、腰を抜かし、絶句したようだった。


 銃口が示す先。聖辺は立ち上がろうとして、けれど動けないでいる。カンフーキックはやつの鼻骨をへし折ったらしく、鼻血が滝のように流れ出していた。大人しく降参しないせいで聖辺は死ぬことになる。

 しかしわけもわからぬまま一方的に殺されたのでは、やつも成仏できないだろう。命を奪う前のせめてもの情けとして、僕は静かに語りだす。

「鷲津絢花を自殺に追い込んだは羽生や言うとったけど、消えない傷を刻みつけた張本人はおめえや。黒川姫乃が証拠を残しとって、僕はそれを見た。絢花を苦しめ痛めつけた分、百倍返しにしてやっちゃ」

 恭介は、捜査を達成すれば絢花の魂を救えると思っていた。何をもってコンプリートとするか。僕の答えは明快で、聖辺の死だ。それだけが絢花の傷を癒す。聖辺が死ねば、絢花は目を覚ます。

「これは償いでないよ。魂を呼び戻す儀式や」

 そう言って引き金に指をかける。次のワンアクション。終わりになるはずだった。

「絢花ちゃんの前で人殺しすんな」

 誰かの叫び声が聞こえた。聖辺ではない。背後から聞こえた。大河だ。

「そんなことをしても彼女は喜ばん」


 大河の叫びの意味を、僕はたちまち理解した。絢花の前。つまり絢花はこの場にいる。大河はそれが見える。絢花の霊。どこかに取り憑き、目の前の殺人を止めようとし、大河に代弁させた。けれど僕はもう心を決めている。そういう覚悟は簡単には覆らない。

 パシュッ! 乾いた音がした。

 パシュッ! パシュッ! 続けざまに二発、三発と連射する。

 銃弾は聖辺の眉間を貫き、脳を破壊しながら、頭蓋骨を抜け、後方の壁にめり込んだ。大量の出血を覆い隠すようにパーカーのフードがやつの顔面を覆った。荒木大河を助け、絢花を苦しめた所業を裁くという僕のミッションは完遂された。もう一つおまけに、明日奈とかいう女の霊も成仏できることだろう。


 振り返ると、椅子に縛られた大河がフローリングに転がっていた。僕は拳銃を後ろ腰にしまい、やつの拘束を解いてやる。そして先ほどの続きとして、こう言った。

「絢花はご機嫌斜めかもしれんけど、僕は僕にできることをやっただけや。それに誰一人傷つけんやり方ちゃ無力やし。彼女に伝えてくれま」


 解放しながら諭すように言うと大河は涙を流し始めた。大げさなやつ。この場に絢花が本当にいるなら、彼女の想いに影響されすぎだろうと思う。ひと一人を殺したばかりだというのに、僕は苦笑した。大河はエネルギーが枯渇していたらしく、手足が自由になると泣きながら床に寝そべった。僕はやつのむき出しの感情に触れ、さらにけたけたと笑い声をあげた。視線は何気なく動き、リビングの入り口を見た。


 そのとき僕は、自分が見たものにぎょっとした。鍵は閉めておいたから、この家に入ってくるやつがいるとすればソーニャという女以外いないと思っていた。けれどそこには、一人の若い男が立っていた。一体いつ解錠して、入室を果たせたのか? 疑問が形をなす前、男は淡々とした口調で来訪した目的を告げた。

「スイッチに繋がるブツを回収しに来た」

 聖辺が言っていた。小一時間ほどしたら崔炳瑞が現れる。とすると、この男が崔炳瑞だと見て間違いないだろう。


 無精髭を生やし、えらく疲れた顔をしている。彫りの深い顔は頬がこけ、男前が台無しになっている。しかし僕は、その顔に見覚えがある。

「随分早い到着やないけ」

 偶然早く着いたのだろうと思うが、益体もないことを呟き、僕は聖辺が落としたコインロッカーの鍵を拾い上げる。すぐに手渡してやってもいい。けれど幾つか訊きたいことがあった。なにせ歌舞伎町で別れて以来、三年ぶりの対面なのだ。

「おまえ、スイッチがどんな代物か知っとるんやね」

 僕の問いかけに崔炳瑞は頷く。彫りの深い顔。朝鮮人にしてはきわめて珍しい。

「代金は一億だったはずや」


 金を要求してみると崔は胸ポケットから封筒を取り出し、中に入っていた紙片を見せた。額面が見えた。小切手。僕が口笛を吹くと、崔は小切手をリビングのテーブルに置いた。

「これで満足だろ。その鍵を渡せ」

 譲渡を拒む理由は大してなかった。無論、崔に委ねてしまえば、やつの雇い主がスイッチを手に入れる。そうした結末は重大な問題をはらんでいたが、僕は恭介の隠された人格にすぎないし、世界の動勢などに特別な関心はない。


 肩をすくめるついでに視線を動かすと、大河の顔が目に入った。やつは首を小さく振っている。僕の行動を拒んでいる。捜査に命を懸けた人間にすれば、スイッチの正体を確かめられないのは不本意だろう。

 崔の望むままにさせると、真相の何割かは闇に葬られる。けれど大河は勘違いをしている。もはや警察をあてにすることはできず、正義の証はどこにもない。探偵は秩序を回復できず、僕たちは勝利と敗北を同時に味わうのだ。

「雇い主に言っとけ。スイッチを手に入れてもおまえらに未来はない」

 最後に、嫌みを言うのが精々だった。崔炳瑞の顔をまっすぐ見つめる。その顔は、僕の容姿にそっくりだ。正確に言えば、僕が入っている恭介の容姿に。


 なぜなら崔炳瑞は、恭介の血を分けた兄弟であり、元は僕の体なのだから。富山を脱出した僕は、崔炳瑞と名を変え、朝鮮人コミュニティで暮らした。やがて頭角を現し、軍中枢に引き抜かれ、工作員になった。そんな僕の体の中には、今は恭介の一部が入っている。僕たちは三年前、僕の気まぐれによって魂が入れ替わった。


 視線を動かさずにいると、まるで鏡を見つめているような気分に陥る。髪の分け目が逆なだけで、僕たちの顔はとてもよく似ていたのだから。

「でも、おまえが『僕』になりきっていたことは褒めても褒めたりんわ。普通のやつには務まらん仕事やし、こうして生きとるだけで立派やちゃ」

 僕は本音を口にし、ロッカーの鍵を放りつつ「なあ、恭介」と言葉を添えた。


 崔炳瑞――という偽名を身にまとった恭介は鍵を手に収め、無言でこちらを見る。瞳に灯った光は、不穏な輝きを放っていた。僕が微笑を浮かべると、恭介は薄く目を細めた。そして首を傾げ、ため息を吐くように言った。

「兄貴のお陰で俺は散々な目に遭ったよ。でも今は、この生き様が俺の全てだ」

 影のような気配を残し、やがて恭介は僕に背を向け、大河のマンションを出て行った。一体やつは、どうやって施錠された部屋に入れたのだろう。答えを模索しようとすると、大河の声に遮られた。

「おまえ……ほんまに有希さんやったが?」

 部外者の目には、異常な事態としか映らなかったと思うけど、真実を隠す必要はない。だから勿体ぶることもなく、素直に教えてやった。

「おう。僕は鷲津有希や」

 もっともそう言ってなお、大河の顔には薄ら寒い困惑が張りついたままではあったが。

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