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第三話 「鬱病」




 川口の引き渡しを終えた後、俺たちは遅い昼食をとることにした。国道に戻りプリウスを走らせ、やがて現れたドライブスルーマックに車を滑り込ませる。ビッグマックセットポテト抜きを二つ注文し、スマイルを受け取りながら会計を済ませて再び走り出す。いまやすっかり外食の帝王の座を追われたマックだが、世間の風潮などくそくらえ。


 食事場所に俺はかつて田んぼであった土地のど真ん中を選んだ。農家の親父に見つかっても会社の身分証を示し「失踪者を捜索中だ」と言えば何ら問題は生じない。

「お先に頂きます」

 ドリンクホルダーにオレンジジュースを差し込んだ衣弦は、膝上にビッグマックを置き、両手を合わせてから食べ始めた。彼女のビッグマックの食べ方は実にエレガントだ。包装紙の上にぼろぼろレタスを落としまくる俺の食い方とは好対照で、口の周りをドレッシングで汚すようなことはないし、上品なわりに食べ終えるのも早い。


「ごちそうさまでした」

 作ってくれたマッククルーに感謝するようにお辞儀をし、ナプキンで口を拭った衣弦はオレンジジュースを口にした。咀嚼したビッグマックを片っ端からコーラで流し込む俺は何者だ。下賎の民なのか。

「もう、口の周り汚れてますよ?」

 その様子を見るに見かねたのか、衣弦が気を利かせハンカチを差し出してきた。貰ったナプキンを使いきり、やけくそになっていた俺を憐れんだのだろう。受け取った手もドレッシングまみれだが、構っている余裕はない。「出張が終わったら洗って返すよ」と言い、口を拭って、残りのバーガーにかぶりつく。


「先輩、今日の相手は『悟り』で楽ができましたね」

 自分の体たらくに引け目を感じた俺をよそに、衣弦は仕事モードに切り替わっていた。バンズで口内を満載にした俺が「そうだな」と精一杯の応えをかえすと、冷淡な顔で一瞥しながら、鞄からタブレットを取り出し、軽やかな手つきでキーを叩きだす。

 拘束時間、拘束場所、拘束したときの状況……衣弦が始めたのは報告書類の作成である。


 本来であるなら俺がやるはずの作業だが、職場に復帰したてという事情に配慮し、彼女がその役目を引き取ってくれたのだ。引き渡し先の警察署、担当者の氏名、警察と連携が取れたことの確認。俺がビッグマックと格闘するあいだにも、衣弦は規定の書式に沿った情報の入力を続け、ひと呼吸置くごとにそっと口唇を触る。

 彼女が口唇に触れる回数から、書類が瞬く間にできあがっていることが手にとるようにわかる。まさに書類作成マシーンだ。

「ごちそうさま」

 俺はまだ半分も食いきっていないビッグマックを紙袋に押しやり、半ば強制的に食事を終える。


 空腹は満ちていないのだが、なぜかそれ以上胃に詰め込むことを体が、正確には脳が拒絶した。社用車の運転、川口の一時逮捕、警察とのやり取り。衣弦が言ったように仕事としては楽なことこの上なかったけれど、自覚しえない部分で俺は酷く疲弊していたのかもしれない。


 ほんの三ヶ月前、俺は人生史上最底辺に転落していた。原因はうつ病である。病気に罹った理由はよくわからないし、思い当たるふしがない。しいて気になる症状を挙げれば、俺は長らく不眠と過眠をくり返す睡眠障害を患っていた。仕事は続けられたので、それを異常とは感じていなかった。


 ところがある日の深夜、突然目が覚めた俺はなぜかひたすら「死にたい」と思っていた。その感情は出社してからも全然変わらず、俺は一日中自分が死ぬことについて考えていた。

 自宅に帰っても「死」は俺の傍を離れなかった。ネットに「自殺」というキーワードを打ち込み、もっとも楽に死ねる方法を探し始め、どの死に方もそれなりに苦痛を伴うことを知り、その代わりあらゆる自殺手段を一通り学んだ。


 無駄に知識を得たことで「死にたい」という願望は具体的になっていった。朝、スーツに着替えるときは「このネクタイで首を吊れば死ねるんだな」と思ったし、通勤中の電車に飛び込めば「簡単に即死できるんだな」と考えたし、業務中のあいだにも「屋上に行って飛び降りれば死ねるんだな」と想像をめぐらしたし、生と死の狭間でひとり震えていた。集中力を欠いたことで仕事上のミスも多くなった。


 自殺願望が目覚めてから一週間後、俺は出張案件で失踪者を取り逃がすというポカをやらかしたことで限界に達し、ようやく精神科に行くことを自分に強いた。診察を受けて状況を告げた途端、担当の医師は「それはうつ病だね」と言った。

 その診断は一番聞きたくない答えだった。俺は睡眠障害によるノイローゼくらいだと言って欲しかったし、眠りを調整する薬を貰って「はい、終わり」にして欲しかった。けれど医師の授けた言葉は残酷なものだった。

「二、三ヶ月療養して様子を見ましょう」

 療養とは、自宅で休むことだ。すなわち仕事を放棄するということだ。俺のスケジュールはびっしり埋まっている。いま会社を休むなんて上司が許さないだろうし、俺から生き甲斐を奪うようなものだ。そう言って必死に抵抗したが、医師は首を縦には振らなかった。


「療養が必要だ」をくり返し、薬を飲めばチャチャッと治るという俺の幻想を打ち砕き、抗いがたい現実を自覚させた。唯一の救いは上司が療養を快く認めたことだった。


 俺はどういうわけか「休めば失職する」とかたくなに思い込み、もしそんなことになったら樹海に消えて毒でも飲んでやろうと腹づもりを固めていたのだが、彼の一存で三ヶ月の療養が決まり、あとになって振り返ればそこで命を長らえることができた。あのまま無理やり働き続けていたら、きっと人形の首をはねるかのごとく死神が俺の魂を刈り取り、どこかで自殺を果たしていただろう。


 とはいえ療養生活自体も決して楽なものではなかった。仕事をすることで保っていた緊張感が解けると、それまで抑え込まれていた様々な種類の苦しみが顔を現し、俺を苛んだ。熱っぽい体を計測すれば、体温は三八℃もあったし、頭痛は後頭部を荒々しくノックし続けていたし、肩こりは背中全体に広がって激痛を走らせていた。意欲の低下も著しかった。


 人間の三大欲求のうち、まともに機能していたのは睡眠欲だけで、性欲など欠片もなくて食欲は減退し続ける一方だった。自炊する気力もないからもっぱら食事はコンビニに頼ったけれど、買ってきたおにぎりはほとんど喉を通らず、生ごみ入れは食いかけの飯で一杯になった。


 俺は徐々に衰弱し、ベッドの上から動けなくなっていった。テレビを見る気もしないし、音楽をかけてもノイズにしか聴こえない。ただ横たわるだけ。死にかけの動物のように。社会生活どころか生物として間違った方向にむかっていることだけはわかった。それでも「死にたい」という願望は依然としてあった。タクシーに乗り、樹海へ行こうと考えたが、迎車を頼むのが億劫で実行することはなかった。無力感に涙が溢れてきたが、気持ちは泥の沼に沈み、水面に立つ死神はそんな俺を嘲笑っていた。


 親父はこの世を去る直前、アル中によって人間のクズに成り果てていたが、療養からしばらく経った頃、俺は一滴のアルコールも飲まずクズのきわみへ到達していた。被害を受ける家族はいないが、仕事を休むことで同僚に、とりわけ衣弦に迷惑をかけていた。


 自己嫌悪。療養中に知りえた感情のなかで、それはもっとも粘着質で、魂の奥深い部分にまで根を下ろしていた。「あらゆる感情を獲得せよ」とジャン・リュック・ゴダールは言ったけれど、俺を蝕んだ自己嫌悪は果たして獲得していい感情だったのか。


 自己嫌悪という衣をまとった死神は、俺を殺すという使命に燃え、ますます死へと追い立ててきた。医師に処方された薬はそいつと対峙するにはあまりに心細く、俺はこのまま餓死するしかないのではないかと思い始め、二度目の限界が訪れようとしていた。


 そんなとき、思いもかけない形で一本の糸が垂れてきた。芥川龍之介が言うところの蜘蛛の糸である。俺というカンダタに慈悲をかけたのは衣弦だった。「もうじき療養から一ヶ月経ちますけど、大丈夫ですか?」鳴らなくなって久しいアイフォンを取り上げると、開口一番、彼女はそう言って俺の身を案じてくれた。弱りきった俺はまともな人語を話せなかったが、気力を振り絞ってひと言だけ声を発した。「頼むから助けてくれ」


 それからだった、衣弦が自宅へ看病に訪れるようになったのは。最初は普通の病気見舞いに来るつもりだったらしく、彼女は駅ナカで買ったと思しきショートケーキを手にしていたが、俺が餓死しかけていることを知ってたちまち態度を変えた。

「こんなになるまでどうして黙っていたんですか!」

 仕事のときも、それ以外のときも、衣弦は冷淡な女だった。心の動揺を表には出さず、クールと言ってもいい。そんな衣弦が俺の病状を見て目を丸くし、腹の底から驚愕の声を出した。


 食事という生命の根幹にかかわる行為を放棄し、自己嫌悪にまみれつつ穏やかな死を選び取ろうとしていることを大声でなじった。

 その感情は怒りだったが、俺のことを本気で心配してくれた上でのものだったと思う。衣弦はそれから何時間もかけてショートケーキを俺に食わせ、明日も食事をとらせるために見舞うと言い放った。


 ひと一人の生死にたいして他人はどこまでかかわれるのだろう。俺は死んだ親父に代わって叔父が保護者になるという田舎のウエットな慣習によって地獄を見た人間だから、他人と個人の境界がどこまでも曖昧なやり方にはついていけなかったし、人生の三分の一を東京で過ごしたことですっかり都会の人間になりきっていると思っていた。そこでは他人はどこまでも他人で、目に見えない薄い膜を隔てて孤立しており、向こう側に手を差し入れることは基本的にタブーであると認識していた。


 だからこそ衣弦のとった行動は本当に意外だった。家が近いならまだしも、山手線圏内に住む俺とは違い、彼女は荻窪のアパートに住んでいる。そんな距離などものもとせず、毎日食事を持参してきては終電間際まで献身し続ける衣弦。仕事の相棒だからと言っても会社を一歩離れれば他人同士、そこまでする義理もなければ、やらなければいけない義務もない。仮に俺がこの世から消えたとしても、べつの同僚があてがわれ、これまでどおり任務にあたるだけだ。俺は代わりがきく存在で、パートナーが俺である必然性はない。


 衣弦の提供する食事によって体力が回復しつつあった頃、余裕の出てきた俺は、彼女を突き動かす動機に謎を覚え始めていた。百歩譲って相手が妹なら、納得もいく。けれど衣弦は俺の妹ではない。職場を同じくしただけの他人である。衣弦の看病開始から一週間ほど経った日、俺はようやく一人で食事をとれるようになっており、海鮮がゆをスプーンで口に運びながら「なあ、衣弦。どうして俺のこと助けてくれた?」と疑問を発していた。


 衣弦の反応はシンプルだった。「先輩が助けを求めていたからです」その回答を聞き、俺は言い淀んだ。「いや、そういうことではなくてさ……」たぶん訊き方が悪かったのだろう、期待していた答えはそういうものじゃない。


 かゆを掬う手を休め、舌の上で暴れるエビをひと息にのみ込み、猫背になった俺は衣弦を見上げて言った。

「俺とおまえは他人だろ。どうしてそこまで献身的に看病してくれるんだ?」

 あらたまった声で尋ねると、衣弦は意表をつかれた顔になり「そうですね……」と迷うような息を漏らし、あごに手をあてた。


 まるで難解な数学の定理と向き合う学生のような表情だった。時間はゆっくりと流れ、俺は再び海鮮がゆをかき込み、食べ終わりそうになった。そして最後のひと匙を口にしたとき、決然とした声が耳を打った。


「わたし、先輩がいいんです。先輩とがいいんです。鷲津恭介じゃないとだめなんです。これからもあなたと一緒に仕事がしたい。そんな答えじゃいけませんか」


 今度は俺が意表をつかれる番だった。衣弦は俺に好意を寄せていた? そんな馬鹿な。懸命に過去の記憶を探るも、彼女の好意を裏づける証拠は出てこない。切れ長の目に整った鼻筋。衣弦の容姿はいつだって上品な美を湛えていた。そこには、都会人特有のおかしがたい膜が張りめぐらされており、だからこそ俺は衣弦を恋愛対象と見ていなかった。

「俺のどこが好きなの?」

 動揺を隠しきれず、さらに間抜けなことを訊いてしまった。彼女の好意が恋愛感情にもとづかないものだった場合、輪をかけて間抜けな行為だった。けれど衣弦はそこで、顔を俯かせて言った。


「変なこと訊かないでください。これは好きとか、そういう問題ではなくて……」

 一見涼しげな声だが、耳は口ほどにものを言う。よく見れば、紅潮した肌は色づき、耳はその先まで真っ赤だ。衣弦の想いは好意としか思えなかった。


 俺は頭を整理したくなったが、一度火のついた心は止まらない。「これからもあなたと一緒に仕事がしたい」という言葉の奥には衣弦の秘めた情熱があった。

 彼女は俺のことを愛している。それを表に引き出せるかは、この後にとる行動にかかっていた。

「衣弦、俺はおまえが好きだ」

 恋人がいる可能性は勿論あったが、俺はこれまで何度も、彼氏持ちの女を口説き落としてきたし、それによって愛を勝ち得てきた。俺は衣弦の気持ちを既成事実に変える自信があった。


 うつ病の療養後、はじめて能動性というやつが起き上がった。俺は衣弦の身体に抱きつき、強引に彼女の口唇を奪った。慌てふためいた衣弦は身を固くした。

「静かに。優しくするから」

 俺は耳許で囁き、そこにもキスをする。くすぐったく感じたのか、衣弦は「ひゃうん」と高い声をあげた。


 相棒となって以来、一度として恋愛対象と見ていなかった相手を前に、俺はわずかな好意をたぐり寄せながら、一瞬のうちに衣弦のことが大好きになっていた。なんという豹変ぶりだろう。これが男という生き物なのだ。

「先輩、だめ……です」

 俺は首筋にキスの雨を降らせ、スラックスのベルトを外そうとした。衣弦はその手を押し返そうとするが、そこには力がこめられていなかった。力づくで抵抗するわけでもなく、さりとてすんなり受け容れるでもなく、彼女はうぶな処女のように震えていた。ひょっとしたら本当に処女なのではないかと思ったけど、全てが済んだいまになればわかる。驚くべきことにそれは正確な見立てだったのだ。


 やがてぎこちない押し問答を経て、俺たちは衣服を脱いだ。


「先輩とこんなことになるなんて……」と、衣弦は俺と愛し合うことにぎりぎりまで不本意そうだったから、少々カチンときて、弾みでこう言い返した。

「じゃあ誰とならいいんだよ」

 返ってきた答えは普段なら爆笑を誘うものだった。


「ジョージ・クルーニー」


 衣弦のか細い返答に、俺は心の中で喝采した。おお、愛しのジョージ。衣弦の処女性を保っていたものが何かを、このとき俺は瞬時に理解した。彼女はジョージに片想いをしていたのだ。思春期の頃の魂をずっと大事にし続けてしまったのだ。


 しかしその叶わぬ恋を笑うことなんてできない。俺だって一〇年前は「世界の終わり」の紅一点、彩織ちゃんに胸をときめかせている一介の高校生だった。人間の抱く恋心には良いも悪いもなく、全てがそれだけで正しいのだ。俳優界屈指のダンディであるジョージに青春を捧げてしまった衣弦は人として間違っておらず、そんな彼女を前にして俺にできることと言えばジョージを忘れさせてやることぐらいだった。


「わかった。でもこれからは俺を愛して欲しい。俺も衣弦を愛するって決めたから」


 俺は衣弦の名を呼び、衣弦は俺の名を呼んだ。衣弦の体を抱きすくめると、部屋の総身鏡がふと目に入った。そこには肌を上気させる若き日のアル・パチーノに似た男の四つん這いになった姿が映っていた。

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