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八月の嘘  作者: 夏音(kayn)
第8章
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第二十七話 「黒雪姫」




 今宵、青年はベッドに横たわっていた。明らかな体調不良があったのだが、少し休んだことで体は回復し、彼の頭は冴えていた。同居人は食事に出かけて不在。用事があることは教えているから、わざわざ見送ることもない。直ちに準備をし、青年は出かける用意をはじめた。


 起動したての携帯端末の音声が「こんばんは、長門有希さん。現在の時刻は――」と艶のある声で告げてくる。それを耳にしながら、鏡の前に立って服装をチェックし、決して安っぽい人間に見られないことを確かめる。有希はフロントに降り、回転ドアをくぐって、タクシー乗り場へ歩く。ちょうど迎車中の一台を拾い、後部座席に乗り込む。


 ホテルの部屋からここへ来るまでのあいだ、有希はターゲットである黒川姫乃と連絡を取り合っていた。姫乃の実家は一風変わっており、実家に電話をすると母親が出て、そのまま娘の携帯へと取り次いでくれるのだ。娘の交友関係を把握すべく、できるだけ実家を経由させるよう指導させているらしかった。


 無論そうした配慮は、娘にスマートフォンを買い与えた時点で意味をなしていなかったが、情報リテラシーの低い母親はその事実に気づいていない。それどころか有希が最初にコールを入れたとき「わたくし顧問の者ですが」という偽装にたいし「ああ、美術部の!」と応え、姫乃の個人情報を教える始末だった。おかげで彼女とのコンタクトは快適に進み、有希は直接、姫乃と会話をすることができ、城森町にあるラブホテルで合流する約束を取りつけられたのだ。


 移動中、有希は、今が妹の見舞いに行く時間帯であることを思い出す。けれど主治医は遅くまで勤務しているし、たとえ見舞いに行けなくても、辻褄合わせはどうとでもなる。


 有希は暴力が服を着ているような男ではあるが、情に薄い人間ではなく、ただ自分にできること、できないことの線引きがはっきりしているのだ。今宵のアプローチもその一種だった。ともすると思いつきで動いているようにしか見えないが、姫乃が思惑どおりに対応するという勝算があってこその行動だった。


 目的地に着き、タクシーを降りると、数時間前の疲労が嘘のように体は軽くなっていた。これこそ、僕本来のあり方だ。入り口に灰皿を見つけ、タバコに火をつけると、背中を軽くノックされた。

「こんばんは、有希さん」

 ゆっくり振り返ると、私立セルリアン女学園の夏服を着た少女が立っていた。思わず吸い寄せられるような美人顔。黒川姫乃だ。


 視線を下に移すと、スリットの入ったロングスカートから真っ白い太ももが顔を覗かせている。その先は、このあいだ見たときと同じくガーターベルトに包まれている。

「あなたって素敵よね。こんなに早く逢えて嬉しいわ」


 淫猥な身なりと裏腹に、姫乃の微笑みは貞淑さを湛えていた。上流階級に属する子女の、少なからぬ女生徒が売春に手を染めたという事案。その中心人物である姫乃は、淑女と娼婦の顔を併せ持ち、彼女らが背負った矛盾を一身に体現していた。

「ねえ、行きましょ?」

 喫煙中にも構わず、姫乃は有希の腕に手を回し、体に抱き寄せた。そして、目を細めながら小首を傾げる。


 意外に子どもっぽいところがあるんだな。姫乃の何気ないしぐさは、人目のある場にも拘らず、有希の眠りきった性欲を俄に呼び覚ました。


 有希が予約をしてあったため、すぐに順番を呼ばれた。部屋まで歩く途中、姫乃は相変わらず有希の腕に手を回し、恋人のように寄り添ってくる。それは有希に不快を感じさせず、むしろ興奮を助長させるような効果を発揮したが、べつの思考は店員に顔を覚えられただろうことを気にしていた。彼は思う。この体は状況にたいする俯瞰能力が高い。


 部屋に入り二人きりになると、姫乃は有希に口づけを求めてきた。情熱的に応えつつ、二人は衣服を脱いでいった。下着とガーターベルトだけを残し、姫乃はベッドに座り込む。まだどこか幼さを残す息を上気させ、彼女は言った。

「このあいだのあなた、とっても格好よかったわ。やくざを全員やっつけちゃうなんて、信じられなかった。わたし、強い男の人が好きなの。無条件で好意が湧くわ」


 有希への賞賛を口にしながら、何を思ったのか、姫乃は自分の上着で有希を後ろ手に縛った。欲望の虜になりかけていた有希は、その拘束に少し驚いたが、姫乃のしぐさを見て理由がわかった。彼女は長く綺麗な脚を伸ばし、蠱惑的な瞳で有希を誘ってきたのだ。

「あなた、わたしの脚が好きなんでしょ? ずっと物欲しそうに見ていたからわかるわ」

 中々観察眼が鋭い娘じゃないか。有希は自分の性癖を指摘され、羞恥を覚えるどころか、まんざらでもない気分になった。


 最初のうち、有希は姫乃に誘われるがままだったが、途中から主導権を奪い返した。不自由な姿勢を折り、姫乃の戯言を唇で塞いだ後、荒い呼吸をしながら睦言にふさわしくない話題を口にする。


「柳田と秋山って男はどういう関係にあるんや?」

 よりにもよって互いに愛し合う状況で聞かされたい台詞ではない。しかしどうしてか、姫乃は有希に興醒めを覚えなかった。有希の昂りを如実に感じたからだ。

「朝鮮人だということ以外、よく知らないわ」

「ふうん」

 外国系の住人が通名を名乗るのは珍しいことではなく、実際、有希もそれ以上追及してこなかった。


 とはいえ、なぜそんなことを訊いたのだろうか。彼女の疑問は沸き立つが、それを打ち消すような勢いで有希は「ベッドに手を突いて後ろを向いて」と言った。姫乃は要求に従い、姿勢を変え、臀部を軽く突き出す。しかし、そこから先の動作がない。

「有希さん?」

 小さく呼びかけるも、返事がない。体をよじろうとしたとき、手首を掴まれた。押し黙った有希だが、動作は素早かった。


 彼は姫乃の制服を拾い上げ、自分がされたように彼女の手首を縛ったのだ。四つん這いの姿勢がさらに不自由になる。こんな格好をされては、どんなに激しく責められても逃れることはできない。

「有希さんったら、ひょっとして変態なの?」

 姫乃のそれは軽口だったが、次の瞬間、彼女を飛び上がらせたのは有希の甘い言葉ではなかった。

「君、鷲津絢花って娘のことは知っとるね?」

 姫乃の思考は、その名前を聞いたとき、霧のように散った。拡散した粒子は、ほどなく凝縮を始めるが、なぜ絢花のことが持ち出されたのか。急に不審に思い、拙い頭を懸命に回転させる。


 姫乃が答えに辿り着こうとしたとき、それを遮るように有希が言った。

「君はこのあいだの建設事務所で、柳田が僕の名前を呼んだのを覚えているはずや。こうしてついてきたからには忘れとるようやけど、必死に記憶をたぐるといいさ。そう、僕は鷲津有希。君の母親に名乗った長門有希というやつは偽名。僕は絢花の兄なんやよ」


 姫乃は平凡なクラスメイトを支配してのける程度には非凡な女生徒だったが、悪に染まりきるには若干幼く、黒雪姫という呼び名とともに絢花へ下した仕打ちを文字どおり残酷なものだったと認識していた。だから「それがどうしたというのかしら?」と言い返すも、その声はうわずり、開き直りには程遠かった。


 彼女を捉えつつある感情は、恐怖だった。体は金縛りにあったように動かない。有希が絢花の兄であるなら、この逢瀬の意味は明らかではないか。姫乃の目には、ここは紛れもなく復讐の舞台に見えた。危害を加えられる前にこの部屋から脱出せねば。


 体が警報を受け止めたとき、姫乃はようやくベッドから起き上がろうとした。しかしこめかみに押し当てられたものを見たとき、彼女は再び硬直してしまう。拳銃。その脅迫がいかなる未来へとつながっているか、想像できないほど姫乃は愚かではなかった。


 姫乃の動きを止めた後、有希の動作は恐ろしく機敏だった。手首を縛った制服からロングスカートの部分を破り取り、裸の筋肉を躍動させて二本の紐をこしらえた。その一本で足首を縛り、もう一本を猿ぐつわのようにして結び上げる。拳銃の脅しに組敷かれ、彼女は自由を奪われた。かろうじて視線を上げると、有希がスマートフォンを手にしていた。制服のポケットからこぼれ落ちた、姫乃が所有する端末だった。

「パスワード」

 それが命令であることを理解するのに、少し時間がかかった。有希はわずかな遅延を拒絶と受け取り、姫乃の脇腹に銃口を押し当てる。姫乃は猿ぐつわを押し上げるように呻き、有希はそれを聞き取った。


 パスワードが解除されると、有希は画像管理アプリを立ち上げ、履歴を見た。自分も人のことは言えないが、最近の娘は何でも写真に残し、平気でシェアをする。どんなに残忍な行為も、彼女らにすれば暇つぶしにうってつけの遊戯なのだ。


 姫乃に向けた銃に注意を半分残し、有希はもう半分の意識でスワイプを続ける。数百ファイルを飛ばし見したところで、目当ての写真が見つかった。

「僕は絢花がおまえらに殺されたも同然や思うとったが、そのとおりやったな」

 スマートフォンの向きを変え、姫乃に画面を見せつける。カラオケボックスと思しき場所で、金髪の男が絢花の腰と密着していた。光の加減で些か不鮮明だが、何がおこなわれているかは一目瞭然である。

 絢花は必死に抵抗している。男はその体に覆い被さり、力任せに腰を密着させている。これは強姦シーンで、金髪の男は聖辺だ。

「二宮の証言は裏づけられた。もはや疑問の余地なしや」

 失職した学級担任の名前を出され、姫乃の怯えにべつの思考が入り込む。この鷲津有希という青年は、一体何をどこまで知っているのだろう。


 二宮にアプローチ済みということは、相当念入りに調べたのだろうし、自分と今宵この場で逢い引きしたことすら用意周到な計画の一部だったとしか思えない。だとすれば、有希の目的は何だろう。強姦の事実を示す証拠を手に入れるためか。いや、その程度の理由で犯罪行為に踏み出すことはない。


 脇腹に冷たい銃口を感じながら、姫乃はカタカタと震え始める。考えないようにしていたことが蓋を開いたのだ。悪夢のごときの想像。女子高生殺し。戸野口明日奈の口を封じたのは自分たちだが、松井知穂のケースは関与していない。彼女が殺害された理由は不明なままだったが、復讐に燃える有希を重ね合わせれば、答えは判然とするように思える。

「知穂を殺したのは、あなたなの?」

 到りついた答えは、猿ぐつわを押しのけ、疑問となって飛び出した。視線の先には有希がいる。彼はイエスともノーとも言わない。けれど無言の反応は、姫乃の想像を打ち消しはしなかった。

「僕を付け狙ってくるなら、先回りして殺さなくてはならん。それができんかった時点で、聖辺の負けや」

 有希は静かに断定したが、姫乃は首肯せざるをえないと思った。聖辺は、柳田のスイッチへの執着を知り、対応を彼に任せることにした。その経緯から、姫乃は有希を、弓長の横流しに関わったのだと思い込んでいた。


 まさか彼が絢花の兄で、目的が復讐で、わたしたちの破滅を目論んでいたなんて。聖辺も、自分も、決定的に間違ったのだ。その代償に考えが及ぶと、姫乃は溢れ出る涙を止められなくなった。

「君との愛し合うのは楽しみやったけど、続きができんのは残念やちゃ」

 姫乃の悲嘆を横目に、有希の言動は穏やかな春のせせらぎのようだった。絢花に関する物証は得られたし、見つからなかった場合におこなう予定だった拷問もやらずに済んだ。その淡々とした胸の内は、復讐という言葉からかけ離れている。


 有希にとって殺害とは、あくまでも効率性の追求だった。シリンダーに付着した汚れは誰かが洗浄せねばならず、そこに罪を償わせるといった概念はない。一度塩漬けにした魚は、元どおりの新鮮な魚に戻らないのだ。ならばゴミクズのようにさっさと消し去ったほうがいい。


 気づけば有希は、姫乃の首に全体重をかけ、窒息死させていた。過度に苦しめることのないよう、頸骨を折って即死させようとしたのだが、呼吸が先に止まっていた。見下ろすと、苦痛に歪んだ顔があった。姫乃の美しさを損ねることは、彼女の魂にとって可哀想なことに思える。有希はこわばった表情をほぐし、大きく見開かれた瞼を閉じた。


 眠るような姿になった姫乃を眺めながら、彼はそのどこか神聖なさまを写真に撮影し、少しも焦ることなく衣服に着替え終わった。自分が手を下した殺害を関知した人間は誰もいないし、ラブホテルに監視カメラのような記録機具はない。もっとも高校時代に利用した経験から、最初から安全な場所としてここを選んだのだ。部屋は翌朝までのプランでとったから、犯行が表沙汰になるまではまだしばらく時間がかかるだろう。


 今宵はかなりの証拠を残してしまったが、有希の描いた計画のラストは外国への逃亡だった。ゆえに指紋や体液のたぐいを隠滅する必要性を感じていない。けれどたった一つだけ、捜査の目をくらますようなものを残しておくことにした。財布から取り出した一枚のカード。羽生臣人から貰った名刺である。それをくしゃりと丸め、ゴミ箱に放り込む。


 熱っぽかった体は、殺害の前後からすっかり冷めていた。部屋を出てフロントに向かっても、屋内に効かした冷房が寒く感じるほどだ。料金は先払いだったので、金の心配はなかった。問題はタクシーをつかまえられるかどうかだが、空振りの場合、街道沿いまで歩くはめになるだろう。幸い夜風は涼しく、不快な目に遭うことはないと思えた。


 ホテルの正面ドアをくぐったとき、有希はタクシーを探しながらタバコを吸いたくなった。一度乗車してしまえば、長時間の我慢を強いられる。急いで灰皿へ向かい、シガレットをくわえ、ライターで火をつけた。煙を吸い込み、ひと筋の雲のように吐き出す。ニコチンの働きが、精神の落ち着きをより深くしてくれる。有希は夜空に向けた視線を、脱力感を覚えながらゆっくりと下げたが、彼の斜め前に先客がいることを発見する。


 それは「少女」と呼んでも差し支えないほどの外見をした若い女だった。有希と同じか、わずかに上回るほどの勢いで煙を吸い込んでいる。けれど注目すべき点はそこではなかった。女は白人だった。


 富山市でそういう人種、とりわけロシア人と出会うのは珍しいことではない。しかしここは城森町だ。有希は女を視界の隅に置き、抗しがたい不審感を覚えるが、その輪郭がわからないうちに女が、神妙な様子で声をかけてきた。

「鷲津有希さんだね? ちょっとお話があるけど付き合って貰えるかな」

 さすがの有希も突然の呼びかけには困惑した。けれど女の顔を正面から見据えると、振られた会話が唐突ではなかったことに気づく。


 女のことを、有希はすでに見知っていた。それでも心の動揺が収まらないのは、ここで女と会うことが偶然に思えなかったからだ。

「何が目的け?」

「後で話す。あなたに害を及ぼすようなことじゃないよ」

 そう言って女は、灰皿に吸い殻を捨て、タクシー乗り場へ歩きだした。ちょうど一台の車両がライトを瞬かせて滑り込んでくる。有希も吸い殻を捨てると、女が手招きしていた。彼女は知っているのだろうか。僕が殺人犯であることや、僕自身の正体を。もしそうだとすれば生かしておくことはできない。後部ドアの開いたタクシーに向かいながら有希の心を占めたのは、新たに芽生えた凍てつくような殺意だった。

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