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第二十六話 「連続性」




 意識が戻ったときには全てが終わっていた。


 体の自由を取り戻していた俺は大きく肩で息を吐きながら、塞がりかけた左目でプレハブの事務所内部を眺め回していた。真っ先に目に入ったのは血糊で汚れた柳田の部下たちで、ガラスの割れた応接テーブルの上に糸の切れた操り人形みたく折り重なっている。壁際に視線を移すと、項垂れた臣人がもたれかかっており、体を抱きかかえるような姿勢でやつは意識を失っていた。そして足元では、柳田が大の字で伸びている。完全に白目を剥いていて、前歯が何本か折れているように見えた。


 これはどういう状況なのだろう? 俺は自分が突然歌いだし、意識が途切れたところまでしか覚えていない。ハッピバースデートゥーユー。思い返せば、今日は絢花の誕生日で、それを祝うために歌いだしたようにも思えるが、俺にそんな意志はなかった。


 ふと片手の重さが気になって手首を返すと、拳銃を握り締めていた。銃身にはサイレンサーが付いている。柳田から奪ったのだろうか? 銃身の匂いを嗅ぐと発砲したわけではなさそうだった。たぶんこれを武器に、柳田の歯を叩き折ったのだろう。いや待て、鷲津恭介。もしそうだとすればこの部屋の惨状は全部俺がつくりだしたことになる。その割に酷く冷静で、まるで実感がないのはどういうことだ。


 痛覚の存在だけが、かろうじてここが現実だと教えてくれるけど、反対側の壁に一人、気を失っていない女を発見する。黒川姫乃だ。彼女は挙動不審に目を泳がせ、その体は恐怖で引き攣っているようにも、歓喜で打ち震えているようにも見えた。とはいえ柳田ではないが、俺に女を痛めつける趣味なんてない。だからトドメを刺す気はなかったし、また黒川が無傷であることから察するに、意識をなくしていたあいだも、俺は自分のポリシーを守っていたと思われる。


 それは俺という人間の連続性が保たれていたことを意味するが、本当にそうなのかという疑問は拭えない。意識とは完全な連続性が保たれているわけではなく、映画のフィルムに例えれば、コマ落ちのような断絶はときおり混じってくる。気づいたときにはわけもなく泣いていたり、あるときは超然とした視点から俯瞰したりする。


 だが、ここまで強烈な意識のオンオフがあったことはない。まるで自分が分裂したかのような感覚だが、状況分析は後回しとばかりに俺の体は俊敏な動作で、次善の対処に取りかかっていた。ここから一刻も早く脱出せねば。幸い仕事用の鞄は柳田が几帳面に詰め直していたため、下敷きになったテーブルから拾い上げるだけでよく、逃走用の車は柳田の部下からアルファードのキーを奪い取ることで調達した。俺の行動の一部始終は黒川に見られていたが、告げ口をされたところで状況は変わらない。


 連中が目を覚ます前に、俺は拳銃を握り締めたまま事務所を飛び出した。錆ついた階段を駆け下りると、一台の車が入口から進入してくるところだった。トヨタクラウン。型は若干古いようだったが、乗り手が貧乏人でないことは確かだった。


 俺は地面に降り立ち、柳田に来客があったことを思い出す。スイッチの買い手。アルファードへ向かって歩いている途中、クラウンから二人の男が降り、俺の進路を塞ぐ形になる。柳田の客だからやくざものだとタカをくくっていたが、身なりはビジネスマンさながらである。けれど格好が堅気だからと言って、立ち居振る舞いまで同じとは限らない。


 現にその二人のうち、髪をオールバックにした偉そうな雰囲気の男が、俺を訝しげに睨んできた。ぼこぼこに殴られ血だらけの顔をした男を、異常だと思わなければそいつは大間抜けだ。

「誰だ、おまえは? 何があった?」

 オールバックの男が、疑り深い目をして訊いてきた。勿論、質問に答える気はない。

「あんたが秋山か」

 俺は拳銃を手にしていることを盾に、自分のペースで語りかける。男は否定も肯定もしなかったが、眉はぴくりと反応し、銃口を向けるとわずかに後退った。

「スイッチならもうどこにもねえよ。弓長が海に沈めちまった」

 それだけを言い残し、照準を秋山に合わせたまま、俺は背後にあるアルファードへ体を滑り込ませた。拳銃をダッシュボードに置くや否や、姿勢を低くして一秒を争うかのようにエンジンをかけた。


 俺の剣呑さから事態を先読みし、逃走を妨害すべく銃撃を浴びせてこないとも限らなかったからだ。しかし細心の注意は杞憂に終わる。飛び道具のたぐいは持っていなかったらしく、秋山とその連れは、猛スピードで発進する俺のアルファードを呆然と見送っていた。


 やつらが半ば俺を見逃した形になった理由はなんだろう? 拳銃を持っていたことが威嚇効果を発揮したのか。それは一見、正しそうではあったが、傾いていたバックミラーを直したとき、べつの答えに思い到った。なぜなら鏡に映った俺の顔は、乾いた血によって凄みを帯び、怒りに狂った鬼神のごとき形相をしていたのだから。


    ***


 俺の帰還した先は、投宿するホテルだった。部屋に辿り着いた俺は、衣弦がいることを見て、安心した。彼女も俺が無事に戻ってきたことに(表情こそミリ単位で動いた程度だったが)珍しく感激してみせた。

 えらく大げさな、という思いを抑え、状況を説明した。柳田の拷問を脱したが、今にもやつらが反撃に来ること。今回くらった襲撃で、俺たちの滞在するホテルが知れ渡っているのは明らかだった。拠点を変えなくてはならない。


 事情を理解した衣弦と俺は手分けして荷物をまとめ、一〇分以内に移動準備を終えた。ちなみにここへ戻るまでのあいだ、強奪したアルファードはホテル付近の路上で乗り捨ててある。盗難車両に乗っていたことは監視カメラのログに残ってしまっただろうが、緊急事態に懸念すべきことではない。


 フロントで滞在分の料金を支払って最寄りのパーキングへ向かった。移動先のホテルは、ここから離れていればいるほど最善であるように思えた。ホテルのクラスにこだわる気はなかった。敵の追っ手が及ばないところ。条件をその一点のみに絞り、俺は車を走らせ、衣弦のガイダンスに応えながら次の進路をとった。


 やがてグーグルのリコメンドによって、街の東の外れにハイクラスなホテルがあることがわかった。上質なサービスを売りにグローバルチェーンをしているところだが、高額な点を除けばベストな選択に思えた。「来客は追い返すように」とフロントに指示すれば、この手のホテルなら忠実に守ってくれる。

「すまんな、こんなことになっちまって」

 助手席に声をかけながら、俺は自分の手を見る。ハンドルを握る手は、ついさっきまで拳銃を握っていた手だ。修羅場をくぐりぬけたという高揚感が今もまだ自分を包んでいる。生と死の狭間から、一体どれほどの距離をとれただろう。ふいに目覚めそうになる恐怖を押し殺し、隣接するパーキングへと俺は静かな挙動でプリウスを侵入させた。


 時期的にお盆休みということもあって、クラスの高いホテルとはいえ飛び込みで部屋がとれるほど甘くはなかった。俺たちは唯一空きがあるというスイートルームに泊ることになった。ある程度潤沢だった捜索費も一気に底を尽きかけていた。


 スイートに入りまっすぐリビングに向かうと、夕暮れをまとった茜色の光が真っ白いソファを染め上げていた。鞄を投げ出し、ベッドのように長いソファに倒れ込んだ。入室と同時に緊張の糸が切れ、全身を脱力感が襲っていたからだ。


 衣弦は洗面所で手を洗った後、俺が横たわるリビングにやってきた。仕事道具は手にしていない。夕陽を浴びた衣弦はとても綺麗だったが、仰向けに寝そべる俺を見下ろし、頭の脇に腰を落ち着けて言った。

「先輩、膝枕してあげます」

 精神的な限界を感じ取られたのだろうか。衣弦に言われるまま頭部を股にもぐり込ませ、そこを支点に体を丸めることにした。

 文字どおり命懸けで戻ってきたこと。衣弦の優しさに触れながら、逆にそのことが意識に上った。

「気づいたら暴れた後だった。自分以外の誰かがやったとしか思えない」

 俺は拉致現場で起きたことを少しずつ語る。拳銃で足を吹き飛ばされそうになったこと。そこからの記憶がなく、気づいたら連中を撃退していたこと。


 どこに辿り着くのかもわからない報告を、間延びした声で口にする。衣弦は相づちもなく、ふいに俺の前髪をよけ、額に掌をあててきた。なすがままにしていると、衣弦の手は額からこめかみを伝い、右側の頬に押しあてられた。ひんやりとした温度が心地よい。まるで赤子をあやすような動作に、俺は全てを委ねたくなったが、かろうじて残った違和感が心をかき乱してくる。


 衣弦は積極的にスキンシップをとるやつではない。その彼女が、今こうして俺を優しさで包み込もうとしている。こわばった衣弦の声が、その真意を教えてくれた。

「もう手を引いてはいかがでしょう?」

 続けて衣弦は「わたしの目には、先輩は無理をしているように映ります」と言い添えた。はっきり告げるのに躊躇いがあったらしく、見上げた表情は硬い。


 それは、パートナーが感じていた素直な判断なのだろう。忠告と言ってもいい。思えば俺は、戦線を広げすぎた。死線をさまよった今なら、自分の限界もわかる。撤退すべきなのだ。しかしどんなに妥当性があろうとも、その審判を肯定できない自分がいた。

「俺はこの事件を解決させたいんだ、絢花のために」

 捜査に執着する理由を、このとき俺は驚くほど正直に語りだした。衣弦も薄々気づいていただろうけど、あらためて言葉にされたことで、三白眼をわずかにつりあげた。


 そんな反応を目にしてもなお、俺はこの捜査が絢花の魂を救うためにあったことを明かす。なぜそこまで固執するかも隠さない。俺に特別な感情を抱く絢花、彼女の想いに応えるべく、今でも長野で逢っていたこと。無論、男女の仲だったことまでは話さないが、絢花を救うために命を落とすなら、本望であるとさえ思っていることを告げる。

「俺はきっと何かを手に入れようとし、それを手に入れ損なったんだ。メンタルを病んだ理由はそれしか考えられないと思っている」


 衣弦という恩人に、病気の原因について語るのは初めてだ。さすがの衣弦もドン引きだろう。絢花と俺との関係は、その片鱗だけ切り取っても到底常識的とは言えない。

「本当は今日は絢花の誕生日だったんだよ。それがこんなことになっちまって……」

 冷静な思考はできても、口をつくのはむき出しの言葉だ。自己の制御ができていない。現実主義者の衣弦は、そんな赤裸々な告白をどう受け止めてくれただろう。かなりの確率で失望させたという思いがあった。


 衣弦の表情を見る限り、それはある程度正しかったように感じられたが、彼女が発した台詞は、状況を一段上の視点から捉えたものだった。

「先輩は幸せですか?」

 衣弦は性格上、俺のことを責めてはこないが本当はそうしたくて堪らないに違いないと思う。絢花への執着から、恋人を身勝手に振り回していること。なのに直接は訊いてこず、もう一度「本当に幸せですか?」と言ってきた。


 俺は一瞬、考え込んでしまう。自分なりの幸せの定義を、あえて言語化したことがなかったから。ただ一つ、わかることがあった。

「幸せかどうかはわからないけど、それはとても脆いものだと思う」

 遠回しな答え方になったが、衣弦は気に留めなかったようだ。

「わたしもその気持ちはわかります。幸福は脆いです。でもそれは、人と人との繋がりがとても脆いものだからではないでしょうか」

 衣弦の話を聞きながら、俺は彼女に頬を撫でられている。それは言葉とは裏腹に、二人の繋がりを示しているように思えた。


 けれど幸せは、人と人の繋がり「だけ」なのか? 違うような気がした。少なくとも俺のなかにある幸福観とは異なるように思えた。幸せはむしろ、完成された孤独のなかにあるのではないか。俺はその瞬間を生きながら、気づけば不完全な孤独へと遠ざけられ、他人とのしがらみに埋没する。

「人との繋がりは、しがらみだよ。どんな人間との関係も」

 そう言った途端、この答えに俺自身、驚いてしまった。俺は勉強と喧嘩の代わりに恋愛を選んだ男だ。なのにそれを否定することを口にするとは。誰かに思考を乗っ取られたような気さえする。誰かが俺に取り憑いているのか。でも誰の霊? 絢花のか?


 もし俺が大河なら、違和感の正体がわかったかもしれないが、衣弦は不全感で震える俺を落ち着かせるように手を動かす。そんな彼女との関係も「しがらみ」と言ったことを俺は恥じた。

「ごめん、衣弦。おまえとの関係を否定したいんじゃないんだ」

 俺は小声で詫びながら、彼女との関係の先にある幸せをイメージする。しかしくり返しになるが幸せは脆い。たった一つの間違いが取り返しのつかない失敗へと結びつく。

「有限の人生、俺は間違わずに生きたい。おまえと幸せになるためにも」


 衣弦を愛していた。どれだけ絢花に固執しても、それ愛はべつだ。何度も口にするのに抵抗はあったが、俺は自分の失言を上書きするように言った。衣弦の表情から察するに、その想いは届いたように思えた。仰向けた視界の中で、彼女は薔薇色の口唇を開いた。

「先輩はときどき機械のように冷たすぎます。『有限の人生』だなんて、大学の論文みたいでそっけなくて寂しいです。わたしは人との繋がりをしがらみだなんて思ってません」


 相変わらず無感動な衣弦だが、俺の極論に腹を立てているようにも見え、ひょっとして俺のほうが冷酷で、人間らしさを喪失している気がした。どうして完成された孤独こそが幸せだ、なんて思ったのだろう。内心の答えが出る前に、衣弦が瞳を覗き込んで言った。

「でも、キスしてくれたら許してあげます」

 その口許はほんのちょっぴりほころんでいた。

「この姿勢だとキスは難しいよ」

 首を持ち上げても彼女の顔まで届かない。けれど衣弦は、俺の反応を先読みしていたかのように微笑み、こう言った。

「でしたら、わたしのほうから」

 普段とは立場が逆転していた。積極的な上司の俺が、なすがままの受け身になっている。精神は碧色の海に錨を下ろし、波間をたゆたっている。そんな心の動きを止めるように、衣弦は自分の口唇をゆっくりと重ねてきた。

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