第二十五話 「柳田」
公式の捜査から除外されたことで、大河は警察を優先せざるをえなくなり、やつは現場に残った。俺は「終わったらソーニャの看病でもしてやれ」と言い残し、ホテル脇のパーキングに戻り、衣弦とともにプリウスに乗り込んだ。
当然のことながら、俺個人の捜査は続行させる。ナビに黒川姫乃の実家の住所を入力し、車を発進させた。今は夏休みだから、彼女は自宅にいる可能性が高く、外出する時間帯もあるだろう。そこを逃さずキャッチするために、彼女の家を衣弦と交代で張り込むのだ。
有希の真意は不明のままだが、俺は黒川の情報を俺なりのやり方で活用することに決め、車を走らせた。助手席の衣弦は、元々少ない口数をさらに減らしている。けれど彼女が呆けているわけではないことは、鋭い三白眼がつり上がっていることから容易に感じ取れた。ホテルでのやり取りで、衣弦なりに思ったことがあるはずだ。
俺はハンドルを握りながら、隣をちらりと一瞥し「何か言いたそうだな」と声をかけた。案の定、彼女は、固く閉ざされていた口を少しだけ開いた。
「先輩。先ほど入手した置き手紙を、警察に教えなくてよかったのでしょうか」
やはり気づいていたのか。注意力旺盛な相棒だ。
「わざと教えなかった。今後も教えるつもりはない」
俺は、メニューを片手に咕咾肉を注文するような声で言った。
衣弦が「なぜですか?」と問いを重ねてきたので「やつらは俺たちを外した。馬鹿正直に付き合う気はないね」と答えるけど、それは完全な理由ではない。
置き手紙を警察に見せなかったのは、有希の関与を確実にし、女子高生殺しがまだ継続しうることを裏づけるだけだったからだ。富山県警は聖辺を後回しにしてでも、有希を逮捕したいのだと思う。有希は指名手配犯だし、重要度は桁違いだからだ。やつの置き手紙を見せれば、逮捕につながる情報を得られて背脂たちは歓喜することだろう。
けれど俺は、有希の首を差し出すような真似をする気はなかった。手段は違えど、やつは俺と同様に、絢花の身に起きた悲劇の核心に迫ろうとしているように思えたから。ホテルに置き手紙を残したのも、自分の復讐を俺に教えるためだろう。やつが絢花を傷物にした売春関係者を葬り去っているとすれば、次のターゲットは黒川姫乃だ。有希と俺に違う点があるとすれば、俺は殺人以外の方法で解決に導こうとしていることだ。
いずれにしろ、有希は俺の敵ではなく、味方だった。正義漢の衣弦にたいし、こうした心情を丸裸にすることはできない。だから俺は、警察に協力しなかった理由を曖昧に答え、口をつぐんだ。抗弁を許さない俺の語気に圧されたのか、助手席は再び静かになった。
しかし実際のところ、こういう展開を俺は予想していなかった。帰郷した有希がこの街のどこかに潜伏し、絢花を傷つけたやつらを亡き者としているとは。もっとも戸野口明日奈殺しの実行犯は弓長で、それを指示したのは聖辺だから、ここで有希の犯行はぼやける。けれど、直近に殺された松井知穂の件が、有希の初犯と考えれば辻褄は合う。一見すると繋がりをもった連続殺人事件に見えているだけで、本当は主犯は二人いる。聖辺と有希。重心を二点に分けることで、筋が通ってくる。
そのとき、衣弦が何か甲高い声で叫んだ。思考に没頭していた俺は、一瞬遅れでそれが「危ない!」という悲鳴だったことに気づく。
慌ててミラーを見ると、猛進する一台の車が目に入った。トヨタアルファード。
アルファードは、俺が反応する間もなく、人を轢き殺すような勢いで前方に滑り込み、プリウスの進路を塞いだ。そのうえ徐々に減速し始めたので、こちらもスピードを落とさざるをえなくなる。
ブレーキを踏みながらミラー越しに隣の車線を見ると、もう一台べつの車が張りつき、二つの車両は今にも接触しそうになった。やむなくハンドルを左に切ると、さらに車体を寄せてきた。理由は不明だが、偶然発生した事態には思えない。瞬時にそう理解し、二台の車との追突から逃れるべく、俺はプリウスをバックさせようとした。しかしあろうことか、三台目の車が後方の車間距離を狭め、こちらの動きを封じてくる。
事ここに到って、俺は否応なく気づかされた。三台の車は連携し、プリウスと俺たちを取り囲んだのだ。おそらくホテルを出たときから行動をつけられていたのだろう。昨日の尾行は注意深く気づけたのに。有希のことに頭を奪われ、警戒心を緩めていたことを俺は歯噛みするほど悔いた。
相手は誰だろう。弓長絡みで柳田か。それとも有希との絡みで聖辺か。確証はすぐに得られなかったが、俺は街道脇に車を寄せるはめとなり、そこでプリウスを停めた。こちらは動けず、相手の出方を待つしかなかった。一体何が狙いなのだろうか。
無駄を承知でアイフォンから一一〇番通報しようとしたが、ウィンドウ越しに何かを突きつけられたのが見えた。前方のアルファードから降りた男が、俺に拳銃を向けていたのだ。サイレンサー付き。通話を続ければ、一瞬で命が吹き飛ぶ。仕方なく通話を切り、アイフォンをダッシュボードに放り投げ、無抵抗を示すために両手を挙げた。
すると拳銃を持った男が、俺のことを手招きしてくる。車外へ出ろという合図だが、リスクを負うのは俺一人でいい。
「見た感じ穏やかな相手じゃないが、おまえは残って車でホテルに戻れ。アルファードのナンバーだけは控えろ。他にできることはないが、とにかく待機だ。俺は必ず戻るから」
衣弦にそう命じると、彼女は迷いを見せた。心情的には俺を一人で行かせたくなかったのかもしれない。けれど捜索員がなにゆえ二人組かと言えば、片方は不測の事態に備えたバックアップ要員だからだ。二人とも道連れになる最悪のケースは避けねばならない。
迷いを押し殺した衣弦を横目に、俺はドアを開け、携行していた鞄を持ち、車外に出た。依然として銃口はこちらを向いている。両手を挙げたまま立ち上がると、銃を持った男と顔を見合わせる格好になった。特徴的なキツネ目。柳田三英。俺の不意をつき、突然襲撃してきた連中は中国系のやくざだったわけだ。
狙いは何だろう? わからない。やつがどんなタイプかも知れたものではない。咄嗟に向けられた拳銃を奪えれば格好いいが、俺は銀幕を飾る映画スターではない。必要なのは土壇場からの逆転ではなく、衣弦を無事に逃がすことだ。
「あんたの言うとおりにする。だからあの女に手を出さないでくれないか」
都合のいい申し出だと拒まれる怖れもあったが、柳田は存外、紳士的な男だということが判明した。
「女を痛めつける趣味はない」
短く言い放ち、俺の体を回して、背中に銃口をめり込ませる。そして素早く身体検査をした後(携帯端末と武器の所持を調べられたと思われる)「そっちの車に乗れ」と言い、俺をアルファードへと歩かせた。
衣弦を残せたことで、保険をかけることはできた。けれど、それがリスクを軽減してくれるとは限らない。俺は自分を拉致した連中によって、これから人目につかない場所へ連れて行かれるのだろうから。
***
目隠しをされたから、どの道をどこへ向かいどう辿ったのか、正確なところは掴めない。ただし、俺は富山に土地勘があるので、だいたいの方角は見当がつく。街道を左折したことで、どうやら富山市を離れようとしていることは察せられた。おそらくゲートもくぐったのだろう。移動したのは城森町で、走行時間から人家を離れ、山のほうへ向かったことが感じ取れる。それ以上のことはわからないが、状況によって殺して埋めるにはうってつけの場所であることは確かだった。
停車したとき、かれこれ一時間程度は経っている気がした。アイマスクを外され、移動中ずっと押し当てられていた銃口を脇腹に感じつつ、俺は歩かされた。到着したのはプレハブでできた二階建ての事務所。看板には東亜建設とある。
潰れた建設会社の事務所を間借りしたのだろうか、それとも柳田の経営する会社なのか。やくざが表の稼業を営んでいることは珍しくなく、駐車スペースにベンツが停められていることから、俺は後者かもしれないと思った。とはいえ薄汚れたトラックが放置してあるところに着目すると、会社は休眠状態であるのかもしれない。
視認できた情報を咀嚼しながら、俺は階段を歩かされ、プレハブの二階に押し込まれる。三台の車に分乗していた柳田の部下は、俺を縄を使ってパイプ椅子に縛りつけ、身動きがとれないようにした。
もしぎりぎりまでアイマスクを装着していたら、ここで覆いを外され、俺は酷く狼狽させられたに違いない。けれど降車と同時に視力を回復できたので、俺は二つのサプライズを多少心に余裕のある状態で受け止めることができた。
柳田のグループには一人、意外な人物が混ざっていた。聖辺の仲間である少女、黒川姫乃だ。俺たちが張り込む予定だった相手が、やくざたちに溶け込み、ハイキングでもするかのような気楽さを振りまいていた。二階の事務所に入ってからは、柳田の部下たちを差し置いてソファに腰を下ろし、手すりに頬杖をついた。彼女の視線は椅子に固定された俺をじっと見つめている。口許には嫣然とした微笑を浮かべている。
そして事務所には、もう一人、俺に視線を浴びせるやつがいた。そいつは柳田が戻る前からこの部屋に待機していたらしく、黒川同様、ソファに座り込み、ペットボトルの水を舐めている。羽生臣人。俺の腐れ縁にして、不動産会社の経営者。そんな男が、柳田とどういう繋がりがあるというのだろう。
絢花の件で、柳田は臣人にとってアリバイの相手だったから、ビジネスが目的なら不自然ではないが、それでもやつの同席は、黒川以上の困惑を俺に与えた。これまで自分の捜査線上にのぼらせた連中が、歪な形でありながら集結している。不在なのは聖辺だけ。それらは何を意味するのだろうか。
状況を素早く分析し、俺は一つだけ後悔をしていた。県警の裏をかく形で黒川の捜査をしようと思ったのは迂闊だった。衣弦がやつらに通報してくれたとしても、場所の特定には時間がかかる。
思考は後ろ向きに傾いたが、それを現実に引き戻すように、静かで低い声が耳を打った。
「スイッチは、俺の組が台湾のボスから受け取る予定のブツだった」
床板に靴音を刻みつけながら、柳田が言葉を発し始めたのだ。
「それを弓長の野郎が奪って、どこかに隠した。聖辺が『自分に任せろ』というからやつに調べさせてみたら、拷問した挙句に殺しちまいやがった」
パイプ椅子の周りをゆっくりと回りだし、柳田は独り言のように続ける。
「だから今回は、俺がみずから手を下すはめになった」
落ち着き払っていると言えば聞こえはいいが、まとわりつく声は冷ややかで、ゾッとさせるものがあった。それは柳田が本気であることを物語っていたが、同時にやつが俺を拉致した原因を理解することができた。
問題の根源はスイッチだ。俺はついさっきまで、それを聖辺と弓長の諍いの種であると、柳田は売却を手伝うブローカー役だと思っていたが、そもそも順序が逆だったのだ。スイッチは本来、柳田が手に入れるべきもので、それを何かの弾みで聖辺たちが奪うことになり、聖辺は横流しを図った弓長に全ての罪を被せた。
事態の全体図を微修正できる程度に平静さを保っていた俺だが、直ちにやるべきことはべつにあった。柳田は俺がスイッチを入手したと思い込んでいる。だからこそこんな暴挙に出たのだ。
「俺は何も知らないぞ」
関与を否定すれば、柳田の確信の深さがわかるはずだ。そういう読みもあってまずは知らぬ存ぜぬで通そうとしたが、柳田は全能の神のような態度でこう言ってのけた。
「聖辺は、貴様と弓長が組んで横流ししたと言っている。裏づける証拠もあった」
「証拠?」
「貴様はまったく気づいてないだろうが、弓長んとこの同居人には金を握らせてあったんだよ。やつが手がかりを隠すとすれば、自宅以外考えられない。もし俺たち以外に家捜しするような連中がいたら、連絡をよこすよう言い含めてあったんだ」
同居人。俺もこういう展開を予期して口止め料を渡していたが、金額が小さかったのか。それとも柳田のほうを怖れたのか。どちらにしろ、こちらの動きは筒抜けだったわけだ。
「勘違いするな。弓長の家調べたのは労働義務違反の捜索や」
「戯言もほどほどにしろ。貴様の鞄を調べさせて貰う」
柳田はもはや、俺の抗弁を受けつけようとはしなかった。代わりにソファに座り込み、テーブルに俺から奪った鞄を置き、中身を丁寧に取り出している。
スイッチにつながる証拠を探そうというのか。俺はコインロッカーの鍵をホテルに置いてきたので、やつの所持品チェックを凪いだ心で眺めることができたが、それが慢心に等しいことをすぐさま思い知らされるはめとなった。
「落ち着いたツラしてるようだが、あいにく手抜きをする気は一切ないぞ。この場で何も見つからず、隠し場所も吐かなかったら、俺は貴様を消すだけだ。さっき逃がした女もだ」
その宣言は、柳田のとった紳士的な態度が仮初めのものであったことを疑いようもないほどはっきりと示していた。俺は再度、弓長との関係性を否定するが、鞄の底を外しながら、柳田は世間話でもするように問うてくる。
「昨晩、姫乃が貴様のことを目撃したと言っていた。スイッチを横取りしたうえに、俺たちのことを嗅ぎ回っている。何が目的だ?」
レストランでの張り込みも知れ渡っているわけか。隣を見ると、ソファで頬杖を突いたままの黒川姫乃が「お兄さん、わたしたちのことじーっと見てたよね。エッチなことでも考えてたの?」とからかうように笑った。言い逃れができる状況とも思えなかったけど、こちらの追跡捜査を認めるわけにはいかない。
「くり返しになるが、弓長のことを追っていただけだ。スイッチのことも、おまえらもことも知らん。そもそもスイッチって何だ? ひと一人を拉致するようなモンなのか?」
これは根本的な疑問でもあった。しかし柳田は答えない。俺の所持品を綺麗に分別し、スイッチにつながるような証拠を無言で探っている。
肝心の質問にはだんまりか。俺も詰問をはぐらかしている立場だから他人のことは言えないが、軽く舌打ちをして見上げると、臣人の野郎と目が合った。そう言えば、こいつもいたのだ。でもどんな理由で?
「おまえは、なしてこんなとこにおるんや」
ビジネスが目的だろうが、柳田は狙いをつけた相手を拉致するような人間だ。俺の質問は臣人の後ろめたさを突いたようで、やつは訊いてもいないことまで答えてくれた。
「柳田さんは融資元の一人だ。今月分の元利を返し、新規の事業資金を借りにきた。銀行はこちらの希望どおりの金額を希望どおりのタイミングで貸さないからな。その点、柳田さんはあてになる。おまえと鉢合わせたのは偶然にすぎない」
臣人は早口で言ったが、柳田との仲を詮索されたくないという感情がそうさせたように思えた。しかしやつの口はそこで止まらなかった。
「ところでこのあいだはうやむやになったが、おまえに貸した金、きっちり返してくれるんだろうな?」
まるで俺が踏み倒すことが前提のような態度。思い返せば、絢花の現場検証の際も同じことをほざいていた。こちらに借りた覚えなどないというのに、この執拗さはどうだろう。
「悪いが記憶にねえよ。借りたって幾らだ?」
「都合、一〇〇万ほど貸しているだろ。柳田さんのブツを横流しした挙句、借金は返さないつもりか。どこまでも浅ましいやつだな」
濡れ衣を着せたうえに侮辱する気か。幾ら腐れ縁とはいえ、臣人の追及は非常識だった。頭にきた俺は、やつの弱点をえぐることにした。
「おめえと柳田がずぶずぶの仲だとは知らなかったよ。どうせアリバイもでっちあげだろ。警察にはきちんとねじ込んでおくから首洗って待ってるんだな」
「絢花さんとのことは、僕たちの問題だ。口を挟まないで貰いたい」
「だらんこと抜かすな。絢花と俺は兄妹やぞ。半分はこっちの問題や」
ソファに座る面々を挟んで、臣人と俺は唾を飛ばし合った。その不毛さを窘めるように、柳田は「静かにしろ」と言い、所持品チェックを終えたのか、吟味し終えた中身を鞄の中に丁寧に戻している。取り出した仕事道具を完全に復元しているかのようで、俺はやつの几帳面さに舌を巻いてしまうが、他方で息をのみ、身構えてしまう。
なぜなら証拠が見つからなかったということは、柳田の行動が次のフェイズに移ることを意味していたからだ。
「確か、鷲津とかいったな」
俺のことを名前で呼び、柳田がソファから立ち上がった。
「スイッチの隠し場所はどこだ。知らないという言葉は言い訳とみなす。俺は答えだけが欲しい。それが得られなければ、さっき言ったとおりおまえと同僚の女には消えて貰う。透明な体になって、警察にも見つからない」
俺とて正常な人間だから、自分を殺すという脅しは最後通牒のように聞こえた。そして柳田の脅しは、ブラフとは思えない。森の木洩れ日のような静けさで、やつは俺と衣弦の命を天秤にかけてきた。
しかし職務上の立場から言えば、スイッチの引き渡しはできない相談だった。その正体こそ確認していないが、スイッチは弓長殺しの主因であり、聖辺をパクるために必要なブツだ。それを手放してしまうのは、聖辺を取り逃がすことと等しい。
「俺は弓長とグルじゃない。だからスイッチとかいうモンも知らない」
気づけば柳田は、パイプ椅子のすぐ隣に立っており、俺が「あんたらの思い過ごしだ」とさらに抗弁するのを黙って見ていた。もっともその沈黙は長くは続かなかった。身動きのとれない俺をサンドバッグに見立て、柳田が鉄拳を振るってきたのだ。
「――スイッチはな」バキッ!「俺たちが秋山に売り払うところだったんだよ」ドカッ!「すでに手付金は受け取ってある」メキッ!「その金は新たな融資に使って手元にはないんだ」グシャッ!「なのに貴様がスイッチの在処を教えないと手付金を返さなければいけなくなる」ズドッ!「そんなことになっちまったら秋山とはただの揉め事どころじゃ済まなくなるだろうが」バキャッ!
打撃は軽やかにくり出されたが、一つひとつの衝撃は重く、パイプ椅子とともに俺は横転してしまう。すぐに元の体勢に戻されたが、柳田の拳は痛覚の発達した箇所を的確に狙っており、俺は気が狂いそうな激痛に襲われていた。左目は瞬く間に塞がり、不自由な視界の中で柳田の目の色が変わっているのがわかった。
今すぐ殺す気はないが、容赦する気もないのだろう。とはいえ俺は、口の中に溜まった血と一緒に疑問を吐き出した。
「秋山だと?」
スイッチの売却相手。身に覚えは皆無だが、問いに応えたのは柳田ではなかった。
「柳田さんの知り合いよ。中国人じゃなくて朝鮮人らしいけど」
黒川姫乃。頬杖を突いた彼女が長い脚を組み直し、俺のほうを見つめながら言った。
「いわゆる密輸ってやつかしら?」
「余計なことを喋るな」
柳田が遮ると、黒川は赤い舌をちろりと覗かせた。小娘に弄ばれるのは癪だが、断片的な情報で新たな絵は描けない。
「もうじき秋山が来る手はずになっている。スイッチの件は、今日中にカタをつける。貴様が弓長の横流しを手伝ったと言わない限り、苦痛はますます酷くなるぞ」
そう言い捨てた柳田は、ついに拳銃を取り出した。俺を拉致する際に使われたそれが、今度は拷問の道具になるわけだ。
「隠し場所を吐けば、撃たないでおいてやる。黙秘を続けるなら、足の指を一本ずつ撃ちぬくことになる。賢く考えろ。貴様は分不相応なブツを手にしただけなんだ」
柳田の部下によって、俺は革靴を脱がされた。むき出しになる足。そこにしゃがみ込んだ柳田が、親指に銃口を押しあてた。黒川がその様子を愉しそうに眺めている。足の指が吹き飛ばされることを思えば、俺は全てを洗いざらい話すべきだった。理性は降参を早鐘を鳴らし訴える。
けれど先ほど殴られた衝撃で、手首を縛る縄が緩み始めていた。それを好機と捉えるかどうかは俺の判断にかかっていた。この不自由な体勢から逃げるチャンスでもあるし、その程度では焼け石に水であるとも言えた。柳田は俺が観念することを期待して、次の発言を待っている。今を逃せば、逆転の機会を完全に逸してしまうだろう。
一瞬の戸惑いの中、俺はなぜか喉の奥を震わせていた。自分でもどうしてそんな行動をとったのかわからない。けれど勝手に体が動く。喉の震えはいつしか旋律を形づくる。
「ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデートゥーユー」
誕生を祝う歌。なぜこんなときに? 俺が戸惑いを覚えているのだから、柳田はもっと不可解に感じたことだろう。その間に俺は手首の自由を取り戻す。銃口に晒されてなお、抵抗へと動きだす。しかしその動作は、俺の意志や制御を超えている。
「ハッピバースデー、ディア――」
誰かの名前を口にしたとき、薄暗い意識はちぎれたフィルムのように途切れた。




