第二十三話 「伝言」
代補という言葉がある。代理人であったはずのものがいつのまにか本体になってしまうことを言い表す言葉だ。
それを当時中学生だった俺に教えてくれたのは、高校に上がったばかりの有希だった。有希はサッカー少年であるばかりか、明久も読まないような小難しい本を読み、そこで得た知識を俺に披露するのが好きな、ちょっと変わった兄だった。
なぜ代補という言葉が重要かというと、有希によればこの世界には、あると思われているはずの正義がないからである。正義は「あって欲しい」と願われているだけで、本当はフィクションなのだという。しかし人間はその不在に耐えることができず、正義の代理人を用意することにした。それが「保険」である。
有希は俺に言った。
「ひとは難治の病に冒されることを怖れて、医療保険に入る。保険会社が売る商品ばかりやない。学歴がもてはやされるのも、誰もがエリートになれる扉を開くためとかやなくて、平凡な連中が路頭に迷うのを防ぐためや。そして一番の保険は『運』やね。人間は理不尽な目に遭うことに備えて『運が悪かった』という考え方を発明した。理不尽を恐れ、人生を保険まみれにし、運命を司る超越者に責任をなすりつける。けど僕はそういう生き方は嫌いや。僕は正義の代補は保険やなく、正義を顕現させることやと思っとる。保険をかけない者だけに許された、神をも畏れぬ奇跡としてな」
有希はこの発言をしてから数年後、姉貴を植物人間にした加害者を殺害した。やつの内在的論理を知っている俺には、その動機は明瞭だった。有希は正義の在処を示すために、みずからをその体現者として、法が制限する暴力を振るったのだ。他人が決して真似できないことをやってのける。有希のなし遂げた奇跡は、俺の心に劣等感を刻みつけた。
なぜなら俺には、正義を背負うだけの勇気がなかったのだ。それがいかんなく露呈したのは、絢花が最初の自殺未遂をしたときだ。当時絢花との交際はすでに始まっていたが、年齢の都合から肉体関係には到っていなかった。傷ついた絢花の心を癒す過程で、俺の献身的な支援は絢花の恋心を愛情に変えたが、正義は最後まで果たされなかった。
絢花を深く求めることで、かりそめの愛が確かに芽生えた。だがその脆弱さを俺は身をもって知っている。絢花との恋仲に忠久が気づいたとき、俺は彼女を守り抜く正義を発揮すべきだった。忠久の庇護を断ち切り、絢花と駆け落ちする他ないはずだった。なのにそれをする心構えもなく、時間が解決するという保険を頼るはめになった。
俺は絢花の善導を謳いながら、今でも彼女への想いを温存させている。臣人との関係を否定し、絢花の純粋さを信じ込み、終わりなき循環の真っ只中に身を置いている。時間よ、止まれ。衣弦という答えを掴むための一瞬を、俺は永遠に失っている。そしてその愚かさから目を背け続ける以上、鷲津恭介に穂村衣弦を愛する資格はないのだと思う。
***
夜中の病院見舞いはもはや日課となっていた。集中治療室に入ったまま、人目を嫌うように眠り姫となった絢花。主治医の弁を要約すれば、良くも悪くもなっていないとの話で、それはすなわち、いつ死んでもおかしくないという初期状態が継続していることを意味していた。せめて脳波に変化があらわれるなどの微かな兆候があれば澱んだ気も晴れるのに、病院通いは俺の心に報われない哀しみを積み上げるばかりだった。
そんな手応えのない「異変なし」を、俺は毎朝忠久に伝える。携帯通話はできる限り避けたほうがいいため、私邸に連絡を入れる。そこで不在ならあとで教えられた携帯番号にかけ直し、在宅なら平沢に伝言を頼む。直接話してもいいが、朝の忠久は忙しない。
無論、やつに忙しなくない時間があるとも思えなかったけど、朝は輪をかけて忙殺ぎみだ。俺の辛気くさい声を聞くよりも、平沢の口を経たほうが忠久もご機嫌だろう。結局今朝も平沢に「異変なし」を伝え、俺は私邸との通話を切った。
ひと仕事やり終えたことに安堵し、ベッドから立ち上がり、通風口があるところまで歩く。朝のもう一つの日課、喫煙をするためだ。しかし平沢と喋っているときから気になっていたが、どうにも喉がいがらっぽい。もしかして風邪の引き始めだろうか。残念ながら俺はメンタルヘルスに難があるため、捜査や病院見舞いで累積した精神的疲労が体に影響を及ぼしている怖れはあった。
火のついたタバコを吸いながら健康に気を回していると、トイレのドアが開き、衣弦が青い顔をして出てきた。
「どうした?」
真っ先に声をかけると、洗面所でうがいをした後、苦笑いを浮かべながら衣弦は言った。
「少し吐き気が続いてまして、ご心配おかけしてすみません。たぶん夏バテです」
「夏バテ?」
おうむ返しに言うと、衣弦は小さく首肯した。ただでさえキツいノルマに、殺人事件がセットで付いてきて、食べきることが仕事なら強引に胃に流し込むより他ない。
結果的に衣弦は、消化不良を起こしたわけか。パートナーとしては同情に値する。
「今日も殺人現場での捜査だ。体調が悪いなら無理しなくていいんだぞ」
「本当に大丈夫です。きっと一時的なものですから」
「ならいいが、無理なら言えよ」
衣弦に昨晩、電話であらかた伝えていたとおり、松井知穂という女子高生の殺害現場に行くことを俺は再確認する。ただし、若干の懸念から、昨晩は伝え損ねていたことが一つだけあった。それは女子高生殺しの主犯「聖辺郁弥」が俺の兄である鷲津有希かもしれないということ。
すでに絢花という肉親が絡んでいる中、新たな肉親の浮上は俺の判断力を鈍らす。衣弦がそう勘ぐってもおかしくない。
案の定、俺が新情報を教えると、彼女は「先輩のお兄さんは、確か事件を起こして失踪した方ですよね」と言って、急激に顔を曇らせ始めた。真夏の夕立のような前触れに、俺は「そうだな。下の兄貴だよ」と返し、外出着に着替え始める。
衣弦はどう出るだろう。しばし反応を待つと、曇った顔をパンパンと叩き、彼女はこう言った。
「細かいことは気にしません。聖辺の捜索に集中しましょう。それに先輩、このあいだ仰いましたよね。命に替えても守ってくれるって。いまはその言葉を信じます」
自分自身に言い聞かせるような口調でもあったが、念押しするまでもなく男に二言はない。「命に替えても」の部分をなぞるような気持ちで俺は控えめに頷き返した。
そして二人して言葉少なにパンと牛乳を摂った後、部屋を出た。貴重品のたぐいのうち、弓長の家から回収したコインロッカーの鍵は、肌身離さず持っておくべきか迷ったけど、重要資料は携行しないという「会社」のルールに則り、不測の事態に備えて部屋のスーツケースの中にしまっておくことにした。
松井知穂の殺害現場であるホテル名は、すでに背脂から入手済み。さほど遠くない場所だったけど、いざというときの機動力を確保するため、社用車で向かうことにした。車のキーを指でくるくる回し、ホテルのエントランスを横切ろうとしたときだった。フロントから「鷲津様」という声がして、俺は呼び止められる。長期宿泊客なので個体認識されたようだが、清算はチェックアウト時だし、わざわざ名指しされるだけの理由が思い当たらない。
訝しく思いながらフロントへ足を向けると「べつのお客様からお預かりしているものがあります」と受付の男性が柔らかな笑みで語りかけてくる。時間帯を訊くと、深夜頃だという。だとすれば、なぜ朝一番でコールを入れない。警戒心から声のトーンが少し高くなった。
しかしホテルマンはよく訓練されたもので、俺を不快にさせないよう自然な微笑を湛え、一階へ降りてきたとき渡すように、との要望を預け主から受けたことを伝えてくる。そこに余計な言い訳がましさはなく、俺はすんなり事実を受け容れられたが、問題はホテルの対応の良し悪しではなく、誰かが俺にアプローチをかけてきたことだ。
ホテルマンに問いただすと、預け主の氏名は残されていなかったとのこと。大河、背脂、と関係者の顔が頭をよぎるけれど、彼らは何かあれば直接俺に、連絡を入れてくる。心のモードは「不審」に落ち着いたが、ホテルマンに渡された預かり物が一通の封筒だったこと、並びにその重量感から、紙以外のものが入っていないだろうことに安心感を覚える。
俺はホテルマンに礼を言って、最寄りのパーキングへ向かい、衣弦とともにプリウスに乗り込んだところで、彼女に封筒を渡して言った。
「悪いけど、代わりに開封してくれないか」
腰を落ち着けて内容を確認したい場面であったが、背脂との約束があるので、もたもたしているわけにはいかない。預かり物というやつも、爆発物とかではないだろうし、衣弦に触らせることに二の足を踏む理由はなかった。
けれど発火物ではないというだけで、封筒の中身は十分に爆弾たりえるものだった。
「衣弦、中身は手紙か?」
車を発進させた俺は、前方を見ながら疑問を発する。わずかな時間が空き、ぺらりと紙をめくる音が聞こえる。目の前の信号は青だった。直進する俺の耳に、落ち着き払った声が入ってきた。
「紙が二枚、封入されていました」
衣弦の冷静な口ぶりは、萎んだはずの不審感をもう一度刺激した。
「脅迫状とかか?」
「違います。手紙ですらありません」
では何だというのか。先を急いた俺を宥めるように、衣弦は短くこう言った。
「二枚とも、住所が書かれたメモです。一枚目は二宮燈という人物の住所。二枚目は黒川姫乃という人物の住所。両方とも手書きではなく、プリントアウトされたもので、後者のメモには固定電話の番号も付記されています」
一人目の名前に心当たりはなかったが、衣弦が二番目に口にした黒川姫乃のほうはべつだった。彼女とは昨晩、顔を合わせている。貞淑な少女たちを淫らな性へと導いた羊飼い。敵か味方かで言えば、彼女は明らかに敵だった。そんな人物の住所を教えてきたということにどんな意味があるのだろう。沈黙した俺を素通りし、衣弦がこう付け加えた。
「そして一枚目の紙には、大きくバツ印があります。すでに処理したというメッセージでしょうか。勿論、憶測に過ぎませんが」
すでに処理した、という言葉。それは俺の中で、すでに殺害済みだ、という意味に変換された。今回の案件に限って言えば、決して突飛な想像とは言えなかった。
そしてその想像を展開させれば、二枚目の情報、黒川姫乃の個人データは、独特な意味を帯びてくる。まさか彼女を「殺せ」という指示なのでは? だがなぜ俺なんかにそんな役目を託すのだ? 思考は拡散し始めたが、その足元を衣弦の声が揺さぶった。
「ちなみに、二枚目の末尾には『ナガトユキ』という署名があります。これは何を意味しているんでしょう。先輩、ご存知ですか?」
そこまで言うと衣弦は、みずから発した疑問の答えを見つけたらしく「あっ!」と声を上げ、口許を指で押さえていた。俺は「二枚目の紙、貸して」と言い、直に確認することにした。衣弦は無言で手渡してきた。俺は彼女が言った署名に目を走らせる。
長門有希。
それは確か『涼宮ハルヒの憂鬱』という小説に出てくるヒロインの名前だが、ポイントは引用元にあるのではなく、下の漢字が俺の兄貴と同一であるという点にあった。偽名には違いないが、本人を知悉する人間にはそいつが誰かは明白である。鷲津有希。衣弦はユキという響きから、俺の兄貴と結びつけたのだろう。
けれど兄貴は本当に富山へ戻っていたのか? 俺は忠久の主張した見立てを鵜呑みにはしていなかったし、それどころか聖辺を有希のなりすましではないかと疑っていたけれど、黒川姫乃を注目させるようなメモを見て、考えを変えざるをえなくなった。
このメモの預け主が本当に有希なら、聖辺と有希は別人だ。やつはどういうわけか俺の捜査を先回りし、貴重な情報を提供してきた。そう考えるべきだ。
都合のよすぎる解釈だが、こんな手のこんだ真似を有希以外の人間がするとも思えない。理由は不明だ、しかしやつは富山にいる。有希の帰郷に思いを馳せ、俺は片手でハンドルを握ったまま、衣弦に返す前に二枚目のメモを裏返した。特に考えなしの行動だったが、裏側には肉筆による走り書きがあった。
――警察にバレないよう行動しろ、恭介。
筆跡に見覚えはなかったが、俺はそれを兄貴からのメッセージだと確信した。