第二十二話 「二宮」
夜も深まった頃、青年は行動を開始した。移動にはタクシーを使った。富山市街を発ち、ゲートを越えて城森町に向かう。途中、移動許可証を求められるが、タクシー会社が提示するので問題はなく、移動の記録を残す心配もない。「長門有希」という名前は一度犯行現場で使ってしまったので、カードは利用できず、料金は現金で払った。
目的地である二宮の自宅は、城森町の中でも山奥のほうにあった。住所が存在するかどうかの境目で、かろうじてカーナビが機能した。到着すると有希は、タクシーの運転手に待機を命じ、別料金でチップを握らせた。これで余計なことに気を回すリスクを減らせるなら痛くはない。散財を必要経費と割り切り、有希は手にしたメモが示す二宮の自宅へと歩きだした。
二宮燈は、私立セルリアン女学園高等部の英語教師だった。「だった」と過去形で語るのは、二宮がすでに失職済みだからである。有希は同校の女生徒にたいするアプローチを通じて、二宮が彼の妹である絢花のクラス担任だったこと、彼女の個人的な相談に乗っていたこと、同校に蔓延る売春行為の根本的解決を学園側に働きかけたことを知っている。
そして勇気ある行動の結果、不祥事の告発をした青二才として学園を追放されたことも。おかげでそれまで住んでいたアパートを引き払い、以前、両親が住んでいた実家に引きこもったようだが、それが今、有希の目の前に建っているあばら屋である。
幸い部屋の灯りはついていたので、二宮の在宅は明らかだった。玄関の扉を叩くと、しばし間を置いた後、ジャージ姿の二宮が姿を現した。山奥での隠遁生活は、彼を世捨て人のように変えていたし、夜中の来客に警戒心もあらわだったが、有希が「僕は鷲津絢花の兄、鷲津有希や」と直截に述べると一転して態度を変えた。
くわえて「妹を苦しめた連中を調べとる。協力して貰えないか」と申し出ると、ヒゲづらを興奮で染めた。理不尽なまでの不遇をかこった二宮は、自分の理解者が現れたと考え、歓喜に震えたのだ。
二宮宅に上がり込んだ有希に冷えたお茶は出なかったが、代わりに二宮は「何でも答えましょう」と請け負った。二宮が方言を使わなかったので、有希も標準語で「わかった」と返した。
ただ、質問をする前に、慎重な態度で「今晩来訪したことはどうか内密にして欲しい」と釘を刺した。二宮が首肯したのを見て、有希はおもむろに口を開いた。
「絢花にどんな相談を受けたか、詳しく教えてくれないか」
二宮は小さく頷き返した後、相談内容を話す前に一つだけ伝えておきたいことがあると言った。有希が「なんだ?」と言うと、二宮は「絢花さんが受けていたいじめのことです」と答えた。
いじめのたぐいはあったはずと漠然と思っていたので、有希が「知りたいのはいじめのディテールだ」と言うと、それを受けた二宮が静かな口調で語り始めた。
「あとから知ったことなんですけど、わたしの担当クラスに周囲から『黒雪姫』と呼ばれている生徒がいまして。いわば女子校らしい遊びなんですが、その娘に対抗するつもりで一部の生徒が絢花さんのことを『白雪姫』と呼び始めたんです。二人ともクラスで抜きん出た存在でしたから、どちらを支持するかでクラスが二分しました。結果的に優位を得たのは『黒雪姫』のほうでした」
二宮はそこで「黒雪姫」の本名を口にする。
黒川姫乃。
読んで字のごとし、その苗字が「黒雪姫」の由来になったわけだ。小娘たちの無邪気な戯れに有希が苦笑を浮かべると、二宮は瞼を伏せて話を続けた。
「そこからのいじめは巧妙でした。絢花さんの友達を一人ずつ味方につけ、彼女を孤立させようとしたのです。勿論、友達の全員が裏切ったわけではなく、これ以上は切り崩せないと見定めた時点で、黒川は絢花さんに『友達になりましょう』と言ったようです。わたしはてっきり和解が成立したのだと勘違いしました。けれど真実は、いじめの場所が学園の外へ移っただけだったのです」
いじめの主犯が黒川というのは初情報だが、それ以降の出来事は「噂レベルで」という断り付きで松井知穂づてに聞いていた。二宮が語ったのは、その情報をさらに鮮明にしたものだった。絢花は黒川たちと一緒に行ったカラオケボックスで、乱入してきた男たちによって裸にされ、撮影した画像データをネット流出させる代わりに売春行為を強要されたという。
黒川は絢花のことを絶望させたくて堪らなかったらしく、いじめはもはや犯罪の域に達していたわけだが、「売春」か「炎上」かの選択を突きつけられた絢花は、迷わず後者を選んだとのことだった。
しかしそれでは絶望には程遠く、名誉毀損で訴えられる怖れすらあった。最後の手段として黒川がとったのが、売春グループの元締めである聖辺に強姦させることだった。
その一部始終を公開すれば裸の画像どころではないダメージとなる。ようやく観念した絢花は売春行為を受け容れるはめになったが、心に傷を負った後も健気に登校し、やがて異変に気づいた二宮によって、ある日の放課後、生徒相談室へと呼び出されたのだった。
「そこで彼女から聞きました。強姦か、その後の売春行為によって望まぬ命を孕んだこと。しかも妊娠という事実を恋人に知られ、中絶を命じられたことを。すでに終わったはずのいじめがこの世の地獄をもたらしたことに、わたしはこのとき初めて気づきました」
相談内容を語り尽くすと、二宮は深くうなだれた。有希は、絢花が孕んだのは羽生臣人のガキではないか、とも思っていたが、真相は松井知穂の証言どおりだったことを確認し、やりきれない想いに駆られる。
「で、あんたはその元締めってやつのことは知ってるのか?」
力なく萎んだ体を小突き、有希は、二宮を恫喝するような声で訊いた。
「名前しか知りません。ただ、不良少年というよりやくざに近いと認識しています」
「絢花の恋人について知ってることは?」
「そちらはほとんど。ただ、若い実業家とだけ……。それよりお兄さん、聞いてください」
なおも質問をくり出そうとした有希を遮り、二宮は急に目を見開いた。どうやら有希が腹を立てていることに無自覚だったようで、絢花から相談を受けた後、自分がいかに情熱を持って学校に訴え出たかを一方的に語りだした。
教頭に直談判したこと。そこで訴えを握り潰されたこと。結果として、学園を去らねばならなくなったこと。
「本当に、悔しいです……本当に」
いつしか二宮は涙声になっていたが、有希としては彼のとった行動はすでに認めていたので、何度くり返されても今さらだったし、それどころかここまで絢花の苦しみに肉薄しておきながらろくな手を打たなかったことに本気で怒りだしそうだった。
「悔しいやと? 泣いとる場合か。おめえは大事なことから逃げたんや」
有希は恫喝の声を大きくし、二宮のアゴを掴み上げ、自分の顔に近づけた。
「絢花に強姦したやつと中絶強いたやつ。どちらか一人でも懲らしめようとしたか?」
二宮は怯えながら首を振る。その動作は有希の怒りを冷ましはしなかった。
「わかっとるか、おめえがその二人から逃げたけに絢花の人生は狂わされたんやぞ!」
有希が拳を振るうと、二宮は四、五メートルほど吹っ飛び、体は襖を突き破っていた。本心ではもう少し痛めつけてやらないと気が済まなかったが、ぶちのめす前に有希はやるべきことがある。
「絢花のこと憐れむなら、その黒川って女の情報を教えろ。クラス担任やっとったんなら、連絡網くらい保管しとるやろうがい。実家の住所と電話番号で十分や。アホみたいなツラ晒しとる暇あったら、とっとと持ってこい」
吠えるように言った有希が足を蹴り上げると、二宮は慌てて書斎へすっ飛んでいった。その不様な尻を見つめながら、有希はふいにタバコが吸いたくなった。
絢花を破滅させようとした相手に下す罰は、僕の手による同じくらい徹底した破壊だ。それは間違いなく死を意味するだろう。新たな殺害を心に誓いながら、有希はメンソールタバコを口にくわえ、先端にライターの炎をあてた。
ほどなく吐き出した煙は、消えゆく魂のように天井へゆっくり昇っていった。