第二十一話 「空似」
注意を聖辺に移したそばから、大河が明日奈の雑談を伝えてくる。黒川の薔薇色に塗られたネイルは彼女のチャームポイントなのだとか。到底無駄話にしか聞こえず、俺は意識を遮断し、対人観察に集中する。
聖辺と有希はとても似ており、有希と俺は兄妹の中でも特に似ている。そして俺と有希のあいだには髪の分け目が逆という特徴があった。けれど聖辺を眺めていても、有希を前にしたときのような、鏡と向き合う感覚が得られない。もしその認識が正しいとすれば、聖辺と有希のあいだには錯覚によって埋められた誤差があり、両者は別人と認識すべきだ。
べつの評価軸を立ててみよう。たとえばそれは、聖辺がワインをがぶ飲みしていることに求められた。俺がアルコール耐性があるのにたいし、有希は悪行の限りを尽くしながら酒は一滴も口にしなかった。その説を敷衍すると、いま目の前にいる男は有希とは別人だということになる。
聖辺イコール有希説を否定する材料がいくつか出そろうが、完全な論証とは言えない。素性の怪しい人間のIDナンバーを買い取り、本人になりすますことは、身分証の運用上、困難なことではなく、有希がそれを実行し、聖辺郁弥になりすますこと自体は物理的には可能だ。浴びるように赤ワインを飲んでいるのも、年齢を重ねてアルコールに慣れたからだと言えなくもない。
だとすれば、離れた席に座るパーカー男は有希なのだろうか? 勿論、そう断じるだけの材料はなかった。
そうなるとこちらの意識は、やつが有希だと思える材料を集めることよりも、聖辺たちの会食自体、つまり弓長のバックにいた柳田とどういう接点があり同席しているのかに関心は移っていった。
弓長を橋渡しに、二人が結びつくことに疑念はない。問題はその目的だ。聖辺という半グレを柳田という中国系のやくざがケツ持ちしていると見ることもできなくはなかったが、それだと聖辺の尊大な態度が説明できない。少なくとも両者は対等であり、何か共通の利害があったと見るべきだ。
若干の飛躍はあるけれど、その候補はやはり「スイッチ」だった。弓長が念入りに隠した一億もの価値を持つというブツ。聖辺はそれをめぐって弓長を殺した。「スイッチ」が非合法なものなら、柳田が噛むのはむしろ自然だろう。普通のやり方で現金化できないものは、堅気以外に頼るしかない。
そのときだった。俺の視界の片隅で、聖辺が小さいアクションを起こしたのは。
やつはあっという間に飲み干したワインの空き瓶を、肩越しにふわりと放り投げたのだ。当たり前だが、背中には遮るものは何もなく、空き瓶は下のフロアにすっ飛んでいく。
ガラスを握り潰したような派手な破砕音が聞こえたとき、聖辺の取り巻きは揃って肩をびくりと震わせた。その一方で、柳田は眉ひとつ動かさず平然とした顔でグラスを呷っており、黒川は一階をテラスから見下ろし「下の人、頭から血を吹いてるみたい」と言って喝采混じりの声を上げていた。
「おいおい、わざと喧嘩売るようなもんだろ」
沸き立つ声で言った大河だが、事態はやつが口にしたとおりになった。空き瓶の直撃をくらった席の連中が、階段を駆け足で昇ってきたのだ。一人は額から血を流しているし、どちらに非があるのかは明らかで、被害者の仲間はもの凄い勢いで謝罪を要求し始めた。
なんて不毛な争い。しかし喧嘩が三度の飯より好きな人間にとって、不毛かどうかは関係ない。俺はもう何年も前、歌舞伎町のルノアールで有希がやくざとく繰り広げた乱闘を思い出していた。あのときのバトルにも、意味なんてものがあったとは思えない。
聖辺も有希と同じ人種だった。ニタニタと笑い、栓のされたワインを担ぎ上げ、鎖骨のあたりで弾ませている。喧嘩は拳でやり合うものだ、なんていう美徳を嘲笑うような態度に、被害者の仲間は「卑怯やろがい!」と叫んだが、声を上げた途端、横っ面をワインの瓶で殴られ、フロアの隅まで吹っ飛ばされていた。
それを合図として乱闘が始まった。被害者の仲間は、頭数では勝っており、しかも同時に殴りかかっていったのに、聖辺は一人ひとりにたいして的確な打撃を与えていく。その手際の良さは圧巻だったし、足場を一歩も動かない身のこなし方はバレエダンサーのようだったが、何より目を引いたのは、突進してきた相手の体が硬直し、みずから殴られにいっているようなやつが複数いたことだ。
人間の恐怖を操るようにして、有希も同様の技を駆使していたことを思い出す一方、常人離れした打撃には違和感も抱かされた。この店は能力者の拠点。少なくとも可能性は高い。だとするとあの奇妙な技は超常的な力によってもたらされたのではないか。確証を得られるまで乱闘は続いて欲しかったが、俺の願いも虚しく喧嘩は収束へ向かう。店のスタッフが介入し、乱闘の制止を呼びかけたのだ。
聖辺はなおも争いを歓迎するようにスタッフ数人を手招きする。どこまで暴れれば気が済むのだろう。俺が呆れ果てたとき、グラスを置いた柳田が座席を立ち、スーツにくるまれた腕で聖辺の肩を掴んだ。周囲に雑音はなく「そのへんで止めておけよ」というやつの声がくっきりと聞こえた。
ところがそこから、聖辺は信じ難い行動に出た。短いアクションで拳を飛ばし、小刻みなジャブを神業のような速さで叩き込んだのだ。柳田の鼻っ面に。
柳田は何が起きたのかわからないという様子で後方に退いた。五感の発達した俺でさえ、打撃を数え間違えたかもしれないほどだ。けれど悲惨なのは柳田である。やつは盛大に鼻血を吹き出し、フロアの床に片膝をついてしまった。
有希の比類なき暴力を連想させ、俺は息をのんだ。聖辺はつまらなそうな顔をしながら、取り巻きの連中に声をかける。柳田をボコボコにしたことで、興醒めしたように見えた。
「みんな、行こまいけ」
荒れた場で酒を飲み続ける気はなかったらしく、聖辺はテーブル席を後にした。途中ですれ違ったスタッフに「迷惑料や」と言って万札を数枚握らせる。それは常識ある行動に映った反面、うずくまった柳田には一瞥もくれなかった。
唖然とする光景に目を奪われはしたが、俺は次の行動へ意識を移した。退去する聖辺たちを追い、尾行を開始するチャンスだ。すかさず大河に目で合図する。やつも俺の意を汲み取ったのか、小さく頷き返してきた。
だがこのとき俺は痛恨のミスを犯してしまう。連中にたいする警戒心が甘くなっており、偶然こちらへ首を傾げた少女と目が合ってしまったのだ。黒川姫乃。彼女は俺を見て驚いた顔になり、それは意味ありげな微笑に変わった。俺は有希ほどではないにせよ、聖辺と顔立ちが似ている。おそらくそのせいでひと際目立ってしまったのだろう。彼女の記憶に俺の「顔」という痕跡を残してしまった。こうなったら尾行どころではない。
大河のやつも、さすがは元刑事と言うべきか、俺たちが失敗したことを認識しており、一度は浮かせた腰を椅子におろし、口唇を噛んでいた。聖辺たちがいた席には、柳田と若い男が残されていた。たぶん柳田の子分なのだろう。中国語訛りの日本語をまくしたて、深手を負った柳田の体を担ぎ上げている。
俺の視線は二人の背中に釘づけになる。次善の策として、柳田たちを尾行すべきではないか、とも思えたのだ。急遽、大河にそのことをジェスチャーで伝えると「ありだな」という表情を浮かべ、やつは再び膝に手を置いた。
しかしせっかく探し求めていた連中と出会えたというのに、今晩の俺はとことんツイていない。柳田たちが階段の下に消えたとき、俺のアイフォンが震えたのだ。慌てて発信者名を見ると、瀬名俊之。背脂からだった。俺はとっさの判断を迫られたが、尾行中に通話する馬鹿はどんな世界にもいないし、そもそも「新情報が出てきたら交換しよう」と持ちかけていたのは俺のほう。くわえて警察情報は最優先だ。
せめて尾行対象が聖辺なら、この着信はスルーしたのに。そんな詮無い仮定を隅っこへ追いやり、着信に出ると、背脂の声がした。
「そっちはどんな具合や」
今朝とは違い、どこか陽気な声色だった。俺は「おまえの電話のせいでホシを取り逃がしたがいよ」と早速文句を言うが、やつは聖辺たちとの邂逅を知らないので反応がない。
仕方なく「こんな時間に何の用や」と言うと「それは俺の台詞やぞ」と心持ち声のトーンを変えてくる。「おまえら、弓長の遺体遺棄現場で捜査したらしいやない。どんな情報が得られたかくらい連絡よこせま」
察するに、現場にいた制服組が、俺たちのことを背脂に伝えたのだろう。筒抜けなのは仕方ないし、警察として背脂は当然のことを言っている。なので俺は、明日奈殺しは弓長の犯行ということだったが、背後にべつの主犯がいて、そいつが聖辺郁弥という若い男であること。セルリアン女学園の絡んだ売春グループを仕切っているらしいこと。おまけに俺たちの「会社」が追跡中のターゲットであること。これらをひと息に語って聞かせる。
特に最後の部分を強調し、もしかすると警察のデータベースのほうが情報の密度が濃いかもしれないと補足する。
「ほう。ヒジリベってどんな字書くんや?」
背脂の要求に従って聖辺の姓名を正確に伝え直す。やつは「ふん、ふん」と鼻息を鳴らしていたが、重要参考人の名がわかってすこぶる機嫌が良さそうだった。
「さすが大河の直感推理やな。で、弓長のほうはどうやった?」
明日奈の背後関係がわかったのなら、弓長のことも教えろというわけだ。勿論、大河の推理は済んでいるので、俺は弓長の証言を思い出し、最初にやつが絢花を殺す予定だったこと、そして弓長を葬ったのは先に述べた聖辺であることを丁寧に教えた。
今朝の電話で弓長殺しの犯人を知りたがっていたこともあり、この情報を背脂は歓迎したようだ。
「戸野口明日奈と弓長翔太の事件は、共通の被疑者がいたってことやな。そんでもって、この件には不幸なことに絢花ちゃんも絡んでいる、と」
一つ一つ事実を確かめるように言って、やつは息を弾ませるが、俺はもう少し補足することがあると断りを入れ、弓長殺しの背後に「スイッチ」が絡んでいたことをねじ込む。
「大河の推理によると、弓長は『スイッチ』を横領して聖辺と仲間割れしたらしい」
けれど、今朝の会話でもそうだったが「スイッチ」なる情報に背脂はえらく冷淡だった。「そうながや」と言ったまま、反応が消える。
やつは弓長殺しの被疑者が見つかったことで満足したらしい。そのことを裏づけるように背脂は、会話を切り上げにかかってきた。
「売春グループ云々は気がかりやし、聖辺って野郎のことはこっちでも調べてみるよ。ところで恭介」
「なんや?」
「貴重な情報貰った見返りや。バーター取引したる」
願ってもない申し出だが、手放しで喜べる話ではなかった。
「うちらは今朝からホテルで缶詰や。また同じ学校の女生徒が一人殺されとんがよ」
おそらく人目を気にしたのだろう。背脂の声は聞き取りづらかったが、被害者の名前が耳を打つ。
松井知穂。所属はセルリアン女学園高等部。現場がホテルの一室であること、死因が窒息死であること。
「抵抗した痕跡がないけに、睡眠導入剤でも飲ませたものと鑑識は見とる。そして、絢花ちゃんも含めればこれで三人目の被害者や」
「警察は同一犯の仕業と見とんけ?」
「現時点ではその見方が強まっとるわ。大河が直感推理したっちゅう聖辺が本ボシになるっちゃね」
仮定の話に意味はないけれど、俺がミスさえ犯さなければ、疑惑の渦中にいる男を尾行してさらに多くの情報を得ることができたのに。
今さら悔いても遅いが、後悔は小さくなかった。しかし背脂はこちらの事情などお構いなしに「やけど恭介、一つ腑に落ちん点があるんやよ」と言ってくる。俺は「何の話や?」と適当な相づちを打った。
「実は現場の部屋をとった男なんやけど……まあ、これは後でええか」
背脂は急に言葉を濁した。俺は訝しむが、情報提供に戻った。
「ちなみに聖辺ってやつの特徴なんだが、俺の兄貴とえらいよく似ていた」
「ほんまか?」
「ああ。大河の直感をスケッチにしたらそういう答えが出てきた。警察のデータベースとやらで本人確認したらええ」
聖辺自身が俺の兄貴かもしれない、という疑念は黙っておいた。能力者云々の疑惑も。みだりに口にしても背脂が当惑するだけに思えたからだ。
ともあれこれでもう一つ、重要情報を教えた。俺はその見返りを求めた。
「なあ、背脂。ものは相談なんだが、松井知穂って娘の殺害現場を明日調べさせて貰っていいか? 大河に推理させれば、有力な手がかりが掴めるかもわからんし」
何度も現場検証に首を突っ込むのはさすがに抵抗されるだろうと覚悟した。けれど主犯と目される男の影をこの目で確かめた以上、警察の捜査を座して待つ気は更々なく、俺は頭の中で重ね合わせていたのだ。ほんのさっきまでテーブル席にいた聖辺と、今は記憶の片隅にしかいない在りし日の有希の相貌とを。




