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第二話 「悟り」




 八月の第二週。俺は都合三つの案件を抱え、富山に最速で辿り着ける新幹線を使わず、社用車のハンドルを握りながら高速道をひた走っていた。


 わざわざ車に乗って来たのは、旅費をケチるためでも、会社の義務だからでもなく、建前上は現地での機動力のある足を確保するためだ。レンタカーを使うべきだという職員もいるけれど、俺は社用車が好きなのだ。トヨタハイブリッドカープリウス。そして本音を言えば、社用車を我が物顔で運転することが大好きなのだ。


 俺はグローバル企業の非正規社員並みに貧乏だし奨学金のローンもあるから自家用車を持っておらず、車を運転できるチャンスは業務時間以外にない。会社は独立行政法人だし、公務員のような雇用保障もなく新型アイフォン並の薄っぺらい給料で働いているんだ。こういう出張案件のときこそ、おおっぴらに公私混同させて貰うのが俺の流儀だった。


 朝早くに東京を出たから、一二時にさしかかる頃には富山市内へと入った。所用時間、おおよそ六時間弱。明らかなる長旅だが、俺は車を運転できて幸せ。ついでに付属のカーステレオで愛する「世界の終わり」の曲をループで流し、もっと幸せ。けれどその選曲は助手席に座る我が後輩にして相棒、穂村衣弦(いづる)を閉口させていた。


 もう一〇年以上前に出た曲で、最初のうちは彼女も「この曲、懐かしいですね」と嬉しいことを言ってくれていたのに、俺が闇雲に「世界の終わり」の曲ばかり流し続けていたら徐々に不機嫌そうになり、藤岡ジャンクションを過ぎた頃からむっつり押し黙ってしまった。いまも俺の横で特徴的な三白眼をつり上げ、口を真一文字に閉ざしている。衣弦なりのささやかな抗議のつもりなのかもしれないが、今日の俺の体に「世界の終わり」は抜群にフィットしていたから曲を変える気なんて更々なく、カーステレオは何度目かの「虹色の戦争」を再生していた。


 自分の命が「消える」瞬間に思いを馳せたのはこの歌の歌詞を聴いたときが初めてだった。あの頃はまだ親父も生きていて、姉貴もまだ麗しき健康体で、鷲津家は崩壊前日の牧歌的空気を存分に味わっていた。俺はリアルな死ではない形で自己の存在が消えることに怯え、その想像にすぎない恐怖をひそかに楽しんでいた。心の余裕がどこまでもあったわけだ。自分の命を容赦なく奪う、全能の神の存在を信じることができたわけだ。


 たった一〇年という月日しか経っていないのに、俺はその頃の俺といまの俺が同じ人間だと到底思えない。思春期の密度は人生全体に匹敵し、ときに人格が一変すると言うけれど、原因はそれだけではないと思う。大人になった俺は、中学卒業時の鷲津家に走った切断線を知っている。親父の死から始まった悲劇の数々。「虹色の戦争」は俺に、親父が健在だった頃の穏やかな日々を思い出させてくれる曲なのだ。まさに戦争以前/以後。


 高校に進学した俺の体験した戦争は、それまでの生活を一八〇度変え、兵卒よろしく過酷な戦いの最前線へと押しやり、生まれ育った富山を離れる決意を固めさせた。さらば恋しき故郷。俺は東京の大学に現役で進学し、希望どおり東京で就職した。


 富山市内に入ってしばらくは東京と変わらぬ町並みが続いていたが、ハイウェイを下り道なりに進むと、やがて境界線に到達する。経済特区でもある富山市を離れるには移動許可証が要る。ETC搭載型であれば自動で通過することができたが、俺の許可証は会社の支給物だから、わざわざ人の手を介さなくてはならない。俺はウィンドウを開き、ダッシュボードに置いたIDカードを係員に手渡した。雇用対策の一環という噂もあるけれど、この面倒なやり取りでテンションが若干下がる。


 しかしテンションが下がったのはそれだけが理由ではない。経済特区を離れると、フロントウィンドウから見える景観が一気にみすぼらしくなったのだ。超高層のインテリジェントビルを背に、本来なら目前には旧態依然とした田園風景が広がるはずだったけれど、国際協定によってコメの関税自由化が進み、産業基盤は急速に崩れていた。消費者の利益と引き替えに、日本の古き良き原風景は半ば荒れ地と化していた。


 そんな寂れ果てた田舎情緒に混じり、ユニクロとかニトリとかダイソーなどの郊外店舗や物流センターの倉庫群が散在し始め、サングラス越しに俺の視界をよぎる。郷愁もへったくれもない町並みが延々と続く。


 俺は八年に及ぶ東京暮らしのおかげでニューヨークのど真ん中で暮らすのと変わらぬ日々に慣れきっているから、こうした地方出張のたびごと、日本という国家を分断する深刻なギャップに苛立つ。代わり映えのしない景色にうんざりしながら、それらを視野に入れないようにし、意識をべつのことに差し向ける。カーステレオから流れる「世界の終わり」だ。


 アクセルを快調に吹かし、幻想的でありながら物悲しいフレーズに酔いしれていると、助手席に何やら動きがあった。トイレに行きたいのか。衣弦がついに我慢の限界に達したようだった。会社を発って七時間近く耐え続けたわけだから、よく辛抱したと褒めるべきなのかもしれない。

 とはいえ彼女が我慢していたのは小用に立つことではなかった。


「先輩、そろそろセカオワ流すの止めましょう」


 止めましょうと自制を促すようなことを言ったが、彼女のほっそりした人差し指はカーステレオのストップボタンを押し込んでいた。問答無用だった。車内は急に無音になる。


「じきに現場へ着きますし、気持ちを切り替えてください」


 衣弦の口にした「現場」という単語が静かになった車内に響き、俺の楽しい時間が終わったことを告げる。それは同時に頭のモードを仕事仕様へとチェンジさせた。会社の捜索員としての眠れる自己が、冬眠から目覚めた熊のごとく両手を地面について起き上がる。公私混同することはあっても、俺は生まれ持った性格的に仕事で手を抜くことができない。健康上の問題を抱えていながらも、クビにならずに済んでいるのはそのひたむきな姿勢を上司が評価してくれているからだろうと思う。


「そこを右折して、まっすぐ進んでください」


 車内に緊張感が満ちたのに気をよくしたのか、「世界の終わり」のファンタジックな曲をループで楽しめないほどに現実的思考の持ち主である衣弦は、手にしたタブレットに地図を表示させ、カーナビよろしく張りと艶のある声で指示を出してくる。これから向かう場所は集落全体から住民が消え、郵便網が管理していた正規の住所を失ったために最新のカーナビを使うと辿り着くことができない土地だ。郊外の居住区から一本横道へ逸れれば、そうしたエリアはいくつもある。


 俺たちの捜す川口和夫(四八歳)がそれでも居場所を特定されたのは、近隣住民による通報があったからだという。消滅集落に近隣住民がいるというのも本来おかしな話だが、彼らは人のいない町を不法に乗っ取った中国人で、地方社会の荒んだ実情を知る者には特に不思議な点はない。


 捜索対象者である川口はそうした事情を知ってか知らずか、中国人コミュニティが形成された山奥のスラムに逃げ込み、親戚が住む予定だった廃屋に転がり込んだ謎の日本人として、地元県警にたどたどしい日本語でクレームをつけられたのだ。


 県警がそれをまともな訴えとして受理した理由は、川口の行為が、一応不動産侵奪罪にあたるからである。所有者が放置した家に住みつくことは、刑法二三五条第二項において一〇年以下の懲役にかせられるれっきとした犯罪である。


 ところが県警としては不法占拠の巣窟である中国人コミュニティを本格的に摘発するわけにいかず、扱いに難渋した粗大ごみよろしく貴重な情報をスルーして、俺たちの会社に放り投げてきた。失踪する以前の川口は、富山が世界に誇る大日本電子経理部の社員であり、ある日突然行方をくらました理由も自社の金を使い込んだのが露見したからだという話だ。


 以前のルールに従うなら、県警がすぐさま横領罪でパクるべき案件なのに、最近の警察はすでに言ったとおり、被害金額が小さいと人員を割こうとしない。そして犯人が労働義務違反の失踪者だとわかった途端、やつらは積極的に会社へ仕事を押しつけてくる。おかげで会社は他案件とセットで出張の予定を組むはめとなり、現地の事情に明るい俺が相棒の衣弦を引き連れ、捜索員として派遣されることになったというわけだ。


 国道を折れたのが約一時間前。舗装の老朽化した道を山のほうへ向かって進み続けると、崩れかけの家が点在する場所に到着する。

「先輩、着きました」

 衣弦の声に合わせてエンジンを切り、俺たちは車外に出る。車内にいると気づきにくいことだが、地面に降り立つと背の高い衣弦の体躯が真っ青な空に映える。見上げれば燃えるような太陽。エアコンの効いた車内とはうって変わり、そこは猛烈に夏だった。しかし仕事モードになった俺は、灼けつくような日差し程度ではびくともしない。


 さっそく五感を働かせると、真っ先に感じとったのは生い茂る夏草の匂いに混じって漂うかすかな異臭だった。ぐるりと見渡すと廃車と見まごうばかりの軽トラックが目に入り、視線を横に動かすと農業用に使っていたと思しき水道にバケツが置いてある。


 地図から消えた町とはいえ、やはりここには人が住んでいるのだ。「もう少し奥に行こう」と言い、先導する俺が辺りに点在する生活の痕跡を感じとりつつ小道を進むと、最初に感じた異臭の正体がわかった。野ざらしになった場所に大量のごみ袋の山があったのだ。そしてごみ袋の向こう側に濃厚な人影が見えた。甲高い話し声も聞こえる。


 ごみ袋の山を迂回しながら進むと、数人の子どもたちにくわえ、姉とも母親ともつかない女性が一人いた。傍の水道にホースをつなぎ、これから水浴びでも始めようとしているところだったようだ。住民の風貌はいわゆるアジア系だが、俺は東京でたくさんの中国人観光客を見ているし、出張で遭遇したケースも初めてではないので、微妙な特徴からその住民が中国人であると判断できた。


 見知らぬ日本人と出くわした住民は、ホースを手にしたまま、無言になって俺たちのことを見ていた。凝視していると言ってもいい。おそらく聞き慣れない車のエンジン音に怯え、警戒心を募らせたのだろう。挨拶なんかしようものなら、いまにも背中を向けて逃げ出しそうな雰囲気であるが、逃げられてしまっては元も子もない。プロの捜索員としての腕が試される場面が訪れた。


 俺は天使と悪魔のハートを持ち、善意にも肩入れできるし、悪意にも寄り添える。子どもとも大人とも仲良くなれる。どんな人間とも正面から向き合える。そして彼ら彼女らの恐怖にも凪いだ海のような心で対応できる。口で言うほど簡単ではないが、自分が発する気を遮断すれば難しくはない。剣道の言葉に置き換えるなら、無心になるということだ。頭で考えて打つのではなく、気づいたら技が出ていたという境地に到ること。同じ動作を対人コミュニケーションでやればいい。


 俺はパソコンの電源を落とすように頭を空っぽにし、住民のそばにすり足で近づいた。その途中で衣弦からタブレットを受け取り、業務用のファイル管理アプリケーションを立ち上げ、小道の真ん中にしゃがみ込んだ。


 すると子どもたちが、磁石へ吸い寄せられた砂鉄のように近寄ってくる。警戒心よりも好奇心が上回ったのだろう。俺は、害意を感じさせる気を一切放っていない。姉だか母親だがわからない女性の不安がる気配が伝わってくるが、それを意識にのぼらせたら負けだ。


 鼻歌混じりにファイルをいじくり、タブレットに川口和夫の顔写真を表示させる。子どもたちがさらに覗き込んできた。その頃合いを見計らって、ようやく俺は声を発した。

「このおじさん、知らない?」

 鏡を見ていないのでわからないが、たぶん俺は自然な笑みというやつを浮かべていたのだろうと思う。真夏の炎天下を感じさせぬ淡雪のごとくソフトな問いかけに、子どもたちはこくりと頷き、大人の女性を見上げた。


 彼女は子どもたちの視線に促されるように振り返り、山のほうを指差した。そこは廃屋の立ち並ぶ道の端っこにあたる部分だった。目を凝らすと雨風で変色したトタン屋根がかろうじて視界に入る。間違いない。あそこに川口和夫は逃げ込んでいる。

「ありがとう、坊や」

 俺は礼を言い、一人の男の子の頭を撫でたが、その子は抵抗さえ見せず、嬉しそうに顔をほころばせた。大人の女性からも警戒心が消え、固かった表情は微笑に変わっている。それは言葉の不自由な住民とのつたない交流が成立した瞬間だった。


 何ひとつエラーのない展開に満足した俺は、背後の衣弦に「行こう」と呼びかけ、タブレットを手に立ち上がって小さく息を吐いた。


 結果から言うと、川口和夫の拘束は実にあっさりとなし遂げられた。家の前には逃亡のために使ったと思しきホンダアコードツアラーが停められていたから、川口の在宅はほぼ確かだった。そしておもむろに扉へ手をかければ、玄関に鍵はかかっておらず、俺たちが挨拶もなく屋内へ踏み込むと、テレビの置かれた居間で川口は半裸で丸まっていた。


 家に入る直前、屋根に設置したパラボラアンテナが折れていたことは確認済みだし、町を占拠した中国人が盗み出していないことから察するに部屋のテレビは修理不能な程度に壊れているらしく、事実モニターは何も映し出していなかった。


 注意深く見回すと、壁にはエアコンを取り外した跡があり、閉め切った部屋は屋外と同様蒸し暑い空気に包まれていた。視線を戻すと川口の周囲には菓子パンの空袋が散乱している。通報があったのがちょうど三日前だから、準備した食料が尽き果て、空腹のあまり身動きできなくなったのだと想像でき、常識的にはそこで容易く拘束されることに疑問な点はない。


 ところが失踪者というのは一般論では片づけられない異常性を秘めていることが多く、捜索員が踏み込んだ途端、頭の切れたトンボのように勢いよく家から飛び出すやつらがかなりの数いる。俺たち捜索員はそういう連中のことを隠語で「悪魔憑き」と呼んでいる。たとえ死んだように眠っていても、本人とはべつの何かに突き動かされたかのごとく突如エネルギッシュな存在へと変化するからだ。


 追っ手が迫ってもなお逃げ延びようとする輩。失踪者が「悪魔憑き」だった場合、俺たちはやつらと同じくらい本気になり全力をもってして拘束行動に移るはめになる。そこで費やす体力は半端ではない。


 他方でまったく逆のケースがある。彼ら彼女らは、捜索員が現れても指ひとつ動かさず、顔色ひとつ変えない。まるで俺たちの到着を「待ってました」とばかりに悠然としている。中には瞑目しながら座禅を組んでいるようなやつまでいたらしく、会社の先輩職員たちによって「悟り」と呼称されるようになった。


 川口のケースはまさに「悟り」だった。空腹で衰弱していても「悪魔憑き」なるやつはいるが、彼はそうならなかった。俺たちが声をかける前に姿勢を正し、綺麗に汗を拭いながらお辞儀をした。顔を上げたその表情は晴れ晴れとしていて、罰を拒む未練のようなものは一切感じさせなかった。


 受け取ったプロフィールによると川口は独身で、近親者は特養老人ホームにいる痴呆症の母親一人だという。孤独と言えば聞こえは悪いが、彼は限りなく自由な境遇に身を置いていたわけだ。おかげで俺たちは淡々と仕事をこなすことができた。


 衣弦は何を隠そう柔道の有段者で、彼女の切れ味鋭い技の数々は逆上した「悪魔憑き」に対抗する手段でもあるのだが、それを使う機会は幸いなことになかった。俺は悟りを開いた川口の両手を持ち上げ、ベルトから取り外した手錠で縛り、拘束時間を確認する。法的な手続きとしては労働義務違反にたいする一時逮捕。あとは最寄りの警察署に引き渡し、所定の書類を仕上げるだけだ。

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