第十七話 「アリバイ」
絢花の見舞いで就寝が遅かったせいか、目覚めは著しく悪かった。俺は時計を見ながら、ついさっきまで不気味な夢を見ていたことを思い出す。有希と偶然、再会した日のこと。よほど心の深いところに突き刺さったのか、同様の夢を見たケースは数えきれない。本当にろくでもない兄貴だ。
ぶつくさ文句を言いながら着衣を整えると「先輩。起きぬけで恐縮ですが、連絡事項があります」という声が聞こえた。見上げれば、衣弦がソファに手招きしていた。
昨日は嘔吐をくり返したり、体調不良の見られた衣弦だが、今朝は調子が良さそうだ。俺は冷蔵庫から取り出したオレンジジュースをグラスに注ぎ、彼女の正面に腰を下ろした。衣弦はその動作に合わせてタブレットを叩き、おもむろにアルトボイスを響かせた。
「連絡事項は三つあります。優先順位が低い順にお話ししますと、まずソーニャさんから昨夕の捜査について情報を頂きました。戸野口明日奈の殺害現場であるスーパーやおかん跡地にて霊視をおこなったところ、明日奈の霊を確認。弓長による犯行であることを証言したとのことです。なお現場には警察が同伴しており、彼らには弓長が明日奈殺しの実行犯と思しきことを直感推理したと説明されていますが、県警にとっては想定内の結果だったようです」
なるほど、と俺は呟いた。明日奈殺しに関しては、昨日弓長、つまりバスケマンの霊視によって得られた情報が裏付けられたわけだ。問題は明日奈殺しの被疑者として弓長が捜査線上にのぼっていたことである。
「警察は弓長に目星をつけていたのか?」
「ソーニャさんの話では、容疑者リストに名を連ね、重要参考人として取り調べる直前だったようです。明日奈と弓長の接点については目撃情報が寄せられていたとのことで」
物理的接触から浮上したわけか。逆に言えば、組織的つながり等は把握していないということになる。
「で、警察は大河の不思議推理を鵜呑みにしたわけだ」
「鵜呑みにしたかどうかはわかりませんが、弓長の殺害現場を言い当てたことを鑑みるに、大河さんの能力は十分な信頼を得ていると考えるのが妥当かと」
俺の冗談に真顔で返し、衣弦は次の連絡事項を口にしていった。
「県警はその後、大河さんの推理に従って、弓長が遺棄されたという今市橋の袂を捜査したそうです。この捜査には、大河さんたちも同行しており、弓長の遺体を直接確認したとのことです」
「弓長殺しの手口は?」
「遺体が骨になるまで焼かれてドラム缶に捨てられていたことから、鑑定に回さないと死因はわからないようです」
骨になるまで、とは大げさな話だ。そこまでやるには入念な作業とそれなりの設備が要るけど、忠久の言うとおり弓長殺しの実行者が有希なら、少なくとも通り魔的な犯行ではないことになる。また遺体の処理方法を聞く限りでは、犯人は弓長の死そのものを完全に隠蔽しようとした形跡が見られる。そうまでして隠したい秘密があったのだろうか。
「なるほどな。その遺体遺棄現場で大河は弓長を霊視したのか?」
「一応したようですが、弓長宅で得られた結果と同じだったとのことです」
明日奈の呪いが解けるまで、黙秘するというやつか。殺人犯の分際で生意気な限りだが、腹を立てても仕方がない。
「明日奈の霊視では、他に何か情報は得られなかったのか?」
「それに関しては、ソーニャさんから教えて貰っていません」
まさか明日奈の霊から証言を引き出そうとしなかったとは思えない。引き出そうとして失敗したと考えるべきだろう。自分を殺した相手を呪うくらいだ。何か強い執着や怨念があって、それらが障害となっていると俺は理解した。
「まあ、どのみち今日捜査するんだ。そこで聞き出してやるさ」
そう言った俺は、衣弦に断りを入れ、タバコに火をつけた。起床後の一服は俺にとってささやかな日課だ。
「で、三つ目の連絡事項は?」
煙を吸い込みつつ問いかけると、衣弦はタブレットから顔を上げて言った。
「この連絡は、県警の瀬名刑事からありました。絢花さんの事件で、現場にいたと霊視された羽生臣人ですが、アリバイが立証されたとのことです」
「何だそれ。勘弁しろよ」
俺の中では臣人はクロなので、即座に否定してしまった。確かソーニャも同じ見立てを述べていた。俺はそれによって彼女への評価を高めたわけだが、県警の捜査には穴があるとしか思えない。
俺の語気に押されて一瞬黙り込んだ衣弦は、それでもメッセンジャーの役割を果たすべく「ここから先が重要なんです」と言って背脂の情報を伝える。
「羽生のアリバイを証言したのは、彼の顧客である柳田ミツヒデという男だそうです」
柳田ミツヒデ。その名前にははっきりと聞き覚えがあった。
「ミツヒデって、光るに英雄のミツヒデか?」
「はい。柳田光英。弓長の住居の所有者だった中国系と同一人物になります」
そしてバスケマンに偽造パスポートを売った人間でもある。本名は劉興英。ビジネスは客を選ばないとはいえ、明らかに裏社会の連中と臣人がつながっていたことを知り、俺はやつに抱いた疑惑をさらに深めた。
「これが柳田の写真です」
衣弦は背脂から受け取ったというファイルを呼び出し、タブレットの画面を俺に向ける。表示された写真によると柳田の容姿は、裏社会の人間にしてはソフトな印象だが、細長いキツネのような目に特徴があり、胡散臭さは感じ取れる。
どちらにせよ臣人のアリバイの信頼性はどん底まで下がり、それどころか柳田を介して弓長と臣人に接点が生じたことで、戸野口明日奈と絢花の事件は共通の背景を持っているという疑いを俺は強めた。忠久の見立てどおりなら、弓長は明日奈と絢花を毒牙にかけ、有希に殺害されたことになっているが、それはあながち的外れではないのかもしれない。
しかし今この状況でやるべきことは柳田の情報の裏取りだ。俺が背脂の携帯にコールを入れると、やつは忙しない声で通話に出た。
「恭介か。詳しいことは昨日、大河から聞いたぞ」
俺が質問を投げかける前に、背脂は一方的に喋りまくってきた。
「おまえが追っていた失踪者が弓長だったとはな。残念ながらやつは戸野口明日奈殺害の被疑者やから上は箝口令を敷いた。弓長の件で情報取るつもりなら、諦めてくれ」
低めた声で予防線を張られたが、俺は弓長の情報が欲しいのではなく、むしろ逆だ。
「情報なんかいらん。やつが殺された理由を知りたくないか?」
「ああ、その話なら大河から聞いたわ。『スイッチ』とかいうのが絡んどるんやろ。正直うちらが知りたいのは弓長殺しの犯人につながる情報なんやけど」
警察にとってスイッチの重要性は低いらしく、背脂は大河が犯人を直感できなかったことのほうを残念がった。その口調からは「ほんま使えんわ」という公僕の驕りが感じられ、全てがてめえらの都合よく進むわけあるかいと俺は不愉快になるが、無論表には出さない。証拠が一切ないので、弓長殺しが有希の犯行かもしれないという見立ても黙っておく。話題はピンポイントに絞る。柳田のことだ。
「なあ、背脂。柳田ってやつが臣人のアリバイを証言したらしいじゃない」
「おまえの部下に伝えたとおりや。不満かもしれんが、臣人は限りなくシロになった」
「馬鹿野郎。シロなわけねえだろ」
俺は自分が得ている限りの柳田情報を積み重ねた。やつが弓長に偽造パスポートを売ったこと。警察のデータベースに登録されていたこと。本名を劉興英と言い、中国系のやくざ者だという見解に到っていること。
「そんなやつを顧客にしている時点で、臣人はクサいんだよ」
俺が弓長を捜索する過程で、柳田という中国系の情報を掘り下げていることは知らなかったと見え、通話口の背脂はまごついた反応を返してきた。
「すまん、前言撤回や。俺も臣人のやつはクサいと思い始めとる」
クサいと思ってるなら最初からそう言えよ。
臣人がクサいなんてこと、絢花の墜落現場にいたという大河の推理と齟齬がある時点ですでにわかっていたはずだろうが。心の中で毒づくが、ぐっと堪える。
「柳田は堅気じゃないんだろ? だったらその線から臣人のやつを徹底的に洗えよ」
「恭介の言うとおりなんだが、柳田……劉興英を、裏社会の人間と断定するだけの材料が乏しいんやよ。あればとっくにうちらがパクっとる」
そう言って背脂は、臣人のアリバイを現時点では鵜呑みにするしかないことの正当性を述べていった。ここで俺はようやく悟る。使えないのは大河ではなく県警のほうだと。
「なら、柳田がクロ認定できるだけの証拠を、俺が集めてくればええんやろ」
役立たずの県警に任せておけなかったのでそう言うと、背脂は「トラブルになるけに、あんま捜査にクビ突っ込むなま」と役人根性丸出しのことを言うが、俺はもうやつの戯言に耳を傾けてはいない。
「新情報が出てきたらお互いに交換しようや。そんじゃな」
言いたいことだけを言って通話を切ったが、背脂から折り返しのコールはない。強く念押ししなかったからには、捜査への不介入は命令ではなく要請だと受け止めるべきだろうと判断する。警察の大河への依存度から察するに、その判断は妥当なものに思えた。
しかし俺は目の前のことに集中したせいで、大局が見えていなかった。捜査へのめり込むことを懸念しているのは背脂だけではなかったのだ。そいつは目と鼻の先にいた。俺のパートナー、衣弦である。
「先輩。これ以上踏み込んで、本当に大丈夫なのでしょうか」
タブレットから顔を上げ、衣弦は不安そうに言った。灯台下暗し。俺は自分の感覚が鈍っていることを思い知らされた。
「今朝もベッドで眠っている間、酷くうなされていましたし、差し出がましいことを言うようですが、かなり疲れているようにも見えます」
無自覚な疲労まで指摘されるが、思い過ごしではないような気がした。
「絢花さんのことで、動揺されているのだと思います。ですが、深追いすればするほど、未知の領域に近づきますし、わたしは怖いです」
先輩の身に何か起きることが、と言い添えて衣弦は視線を逸らした。彼女はロジカルな女なので、本音では「会社」のノルマを超えつつある情況を指摘したいのだろう。つまり衣弦が本当に怖いのは、危険を承知で踏み込む俺ではなく、そんな俺に歯止めをかけられない自分自身なのだ。
「ごめん、おまえに心配かけちまってるな」
ただひと言「大丈夫だから」で済むとは思えなかったので、俺はテーブル越しに衣弦のことをまっすぐ見て、言葉を選びながら言った。
「俺は絢花の件から目を背けられないから、捜査をやめるわけにはいかない。だけどそれでおまえを怖がらせちまったら意味がない。なるべく早く終わらせるようにするし、おまえのことは俺が命に替えても守るから。我がままだけど、捜査を続けさせてくれないか」
衣弦は有段者だが、未体験の修羅場で体を張るのは俺の仕事だ。
「命に替えてもって言ったけど、こう見えて本気だから」
勇気を振り絞って言ってから、予想外の恥ずかしさに襲われた。
それは衣弦も同じだったようで、彼女は顔を真っ赤にさせ、タブレットで口許を隠してしまった。お互いそれなりの年齢だというのになんというウブさだろうか。仕事場に私情を持ち込んだシチュエーションが災いしたように思える。俺たちはしばし黙りこくってしまったが、わだかまった静寂を払うように衣弦はひそめた声で言った。
「先輩の想いだけで、わたしは十分です」
それが本心から出たものである証拠に、彼女の瞳には柔らかな光が射していた。