第十六話 「ルノアール」
音声入力型人工知能アプリ「エヴァ」には一つだけバグのようなものがある。あらゆる質問を的確に処理する彼女に「君の生きる目的は?」と聞くとこう返してくるという。
――わたしには熱狂のうちにさまよう迷い子たちが我が子のように愛おしい。わたしは迷い子の父母となりうる世界を描き、それをこの世に残したいと切に思った。
有希も俺も、幼少期に母、一〇代の頃に父を失った子どもだったから、おそらくエヴァの言葉を、両親の代わりにネットを与えたという寓話に読み替えたことだろう。
親の愛と引き替えにネットの庇護を得た俺たちは、同じ初期条件から完全にかけ離れた人生を歩んだ。有希は人を殺し、追われる立場になったが、俺は追いかける側になった。反対に撃ちだされた放物線のように、俺たちは永久に交わることがないはずだった。
しかし濃厚な血の縁とは、かくも互いを引き寄せ合うのか。絢花との交際が忠久にバレ、右目が潰れてまだ日も浅かったあの日、夕立の降り始めた歌舞伎町のルノアールに有希が飛び込んできた。仕事を週末に持ち越してしまい、俺は義眼の調子が悪い右目をひっきりなしに触り、パソコンのキーを叩いていた。再会はまさに運命的だった。
有希は雨よけの客に混じり、やくざに胸ぐらを掴み上げられていた。どうやら外で争いになったようで、そのトラブルを店内に持ち込んだ形だった。軽装のやくざは前髪から雨を滴らせていたが、有希はさほど濡れていないようだった。
やくざは低い唸り声を上げていたが、有希は涼しい顔でちらりと目を逸らした。その先に俺の顔があり、二つの視線が交わり合った。驚愕のあまり声をあげそうになった俺を遮るように、やくざが怒声を発しながら拳を振り上げた。有希は視線を戻し、やくざの顔を穴があくほど睨みつけた。そこからしばらくの動きは、いまでもありありと思い出すことができる。
やくざは振り上げた拳を止め、次の瞬間、恐怖でおののいた表情に変わり、わずかな隙を狙った有希によってアゴを打ち砕かれていた。この間、一秒もかかっていない。俺は過去の暴力沙汰を想起し、やつが必ずと言っていいほど相手の怯えを引き出し、がら空きの体に先制攻撃を見舞っていたことを思い出していた。有希の必勝パターンだ。その比類なき強さはやくざ相手でも存分に発揮され、有希を取り巻いた仲間のチンピラたちも難なく沈められていった。
一方的な乱闘劇を眺めていた俺は、ここで本当に有希と再会したことを実感し、呼吸ひとつ乱さない彼の横顔を凝視した。まさにやつは本物と呼ぶにふさわしい。けれど大河を通じて異能力の存在を知った今なら、べつの解釈ができるように思う。有希の化物じみた強さは超常的な力、異能力の一種によってもたらされていたのではないか。果たしてそれがどんな能力かは想像もつかないが、ルノアールでの出来事にはまだ若干の続きがある。
やくざとチンピラを叩きのめした後、有希はこちらに目を向けた。俺は一度目を合わせているのに、そのとき初めて「バレちまった」と思った。俺は有希にたいして常に負い目をおっていたし、くわえてこのときは彼に秘密さえ持っていた。
右目を潰された理由。絢花と男女の関係になっていたこと。
経緯はわからないが、有希はその秘密をどこかでキャッチしたに違いない。根拠なくそう思い、俺は怯み上がった。
有希は家族を誰よりも愛する男だし、俺は絢花を結果的に傷つけた人間だ。この美しい対称性は、有希による暴力を鮮やかに予感させた。事実、警察を呼ばれれば困るのは有希なのに、彼はまっすぐに俺の席へ向かってきて、いきなりアゴを掴み、壁際にもの凄い力で押し込んだ。観念した俺に、有希は迷いのない声で言った。
「久しぶりやな。色々と噂は聞いとるぞ。絢花のこととかな」
「なして知っとるが?」
精一杯言い返した俺を見て、有希は苦笑を浮かべ「平沢から聞いた」と言った。
その手があったか。鷲津家の忠実な執事なら、有希のことを警察にタレ込むわけがない。けれど感心している場合ではなかった。
「恭介、僕がなして怒っとるかわかるか?」
歌うように言う有希だが、俺は首を横に振ることしかできない。
「僕が許せんのは、おまえと絢花が付き合っとったことやない。おまえが深い仲になっていながら、絢花の自殺未遂を止められんかったことに僕は怒っとる」
それは少々古い情報だったが、もう何年も会っていない有希にとっては古いも新しいもないのだろう。どのみち絢花を守れなかったことに変わりはない。俺は有希にぶん殴られることを覚悟したが、やつは両目に冷たい炎を灯しながら、なおも話を続ける。
「賢き者は二流、強き者が一流と忠久は言ったけど、世界の真実はそんなところにはない。愛する者だけが特別なんや。おまえはもっと絢花を真剣に愛するべきやった」
「……すまん」
「謝ることないちゃ。説教くさいこと言っちまったが、僕はおまえに逢えて嬉しかったよ。家族の中でもう一度逢えるやつがいるなら、恭介がいいと思っとった」
その瞬間、有希から怒りの炎が消えた。目の前にいたのは、五年ぶりの再会を喜ぶ一人の肉親だった。俺は有希を怖れていたが、嫌っていたわけではない。だから胸が熱くなった。彼と同じく純粋に嬉しかった。慌てて口をついた言葉も、有希を慮るものになった。
「兄ちゃん、今なにしとん? 俺、心配しとっと」
「僕な、外国のスパイとかしとったわ。ぶっちゃけその生活にも飽きたけどな」
「え、スパイ?」
「冗談や。本気にすんな」
俺を困惑させた有希は小さく笑み、さらに不自然なことを口走った。
「恭介。ちょびっとのあいだ、おまえが僕や」
「なんやて?」
反射的に問い返すと、有希は顔面をぐっと近づけてきた。思わず目をつぶった俺だが、口唇に灼けるような感触が残った。接吻。こちらがまごついている間に、有希は俺からキスを奪っていたのだ。
おそるおそる顔を上げると、虚をつかれた顔の有希がいた。いくら兄弟とはいえ、公衆の面前でとんでもないことをやらかしてしまった。強引にそれを実行した有希に憤慨したが、なぜか体は素早く動き出し、荷物をまとめ席から立ち上がった。
手には伝票と、財布から取り出した千円札。俺はそそくさと歩きだし、まだ床に転がっているやくざやチンピラたちを踏み分け、唖然としている女性店員のほうに向かった。手にしたものを渡すと、彼女は頭を下げ、それを背中に受けながら俺は自動扉をくぐった。
思考に上ったのは、店に有希を置き去りにしてしまったが、やつは本当に大丈夫なのか、ということ。追われる身の有希を我が事のように案じたわけだが、もう一人の俺が「結局他人だ」と冷たく断定する。「なるほど」と独りごちると、そこで急に意識が暗くなった。
どうした俺。心の声が警報を鳴らすが、暗転は止まらない。雨上がりの空は心地よく晴れ渡っていたのに、青空は曇りだし、瞬く間に夜が訪れた。そこから先の出来事は、困ったことに何一つ覚えていない。