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第十五話 「有希」




 長い夕立が止み、街に夜の帳が降りきった。


 富山市街の外れにある中規模なビジネスホテルに青年の姿があった。彼はチェックインの際、氏名の欄に「長門有希」と書いた。それは本名を正確に示すものではなく、続けて記入した住所も架空のものだった。けれど身分証の提示を求めるホテルはごく一部にしかないため、偽名等を咎められることはなく、犯罪者でも容易に宿泊は可能だ。


 有希はあてがわれた部屋に入るとすぐ、先刻調査済みのとある電話番号にコールを入れた。相手は富山市周辺に根を下ろす売春グループのマネージャーだったが、顧客の名前は全て記憶しているタイプらしく、コールに出るや「どうも、長門さん。いつもご利用ありがとうございます」と言って上客同然の扱いをしてきた。


 有希はタバコに火をつけながら「今度も女子高生を紹介して欲しい」と低い声で言う。マネージャーが「クラスはいかがいたしましょう?」と問い返すと「ハイクラスで。同じ娘を頼む」と短く答え、滞在しているホテル名と部屋番号を教えた。


 注文した獲物が届くまでの間、有希は所持していたバッグの底を外し、念入りに隠した携帯端末を取り出すと、パスワードを入力して起動させる。その待ち受け画面には、彼の妹である絢花の写真が使われていた。表情の変化に乏しい彼女にしては珍しく、明るい心を映し出したようにはにかんだ表情を浮かべていた。


 有希はその写真を眺め、ついで時の止まったSNSアプリを眺め、最後に前回長野に呼び出して相手をした娘の全裸写真を表示させた。確か「松井知穂」といったか。清楚な彼女との濃密なやり取りを思い出すと下半身が力み返りそうだったが、今日の目的はそうした行為にはない。立て続けに同じ娘を指名したのも、彼女の警戒心を解き、口を滑らかにさせ、前回依頼した調査について話を聞き出すのが狙いだった。


 そのための準備とばかりに、備え付けのグラス二つに炭酸飲料を注ぎ、片方に非常に強い催眠作用をもった薬剤を混ぜた。もう片方のグラスを手にとり、しばらくはそれを舐めながら時間の経過に身を委ねていると、小さなノックの音がして松井知穂が姿を現した。夏休み中だから当然、外出用の私服である。


「早かったね?」と有希が軽口を叩くと「友達と駅前にいたから」とバッグを置きながら知穂は答える。そしてあどけない笑みを浮かべた顔で「また指名してくれて嬉しい」と朗らかに言った。有希は無駄話を端折って「この間訊いたこと、わかった?」と問いを投げかける。しかし知穂は質問に答えず、用意のいいことに、バッグから取り出したセルリアン女学園の夏服に着替えた後、ベッドに腰を下ろし、自分の隣をぱんぱんと手で叩いた。


 そこに座れという意味か? 知穂のジェスチャーに従った有希は、椅子から立ち上がりベッドへ移動し知穂と隣り合った。すると彼女は「恋人ごっこー」と甘えた声で言って、有希の体に抱きついてくる。二度目の指名にしてこの馴れ馴れしさか。有希は閉口したが態度には表さない。


 彼は西洋人とのハーフのような容姿の持ち主だから、知穂に好意を持たれているのは前回指名したときにわかっていたことだし、それで彼女のガードが下がるならむしろ好都合だ。有希は知穂の腰に手を回し、体を密着させながら「前回訊いたことだけど」ともう一度質問を口にした。


 彼は知穂にたいし、自分は私立探偵だと名乗っている。そのねつ造した職分にもとづいて彼は、知穂に二つのことを調べさせていた。一つは、鷲津絢花という少女が何かしらのトラブルに巻き込まれていなかったかということ。もう一つは、彼女のクラス担任だった二宮という教員について。より優先順位が高いのは前者だったが、大事なことは後回しとばかりに二宮のことを尋ね、グラスに注いだジュースを知穂に勧めた。


 彼女はそれで喉を潤しながら「あいつ、あたしたちのこと表沙汰にしようとして学園からクビになったんだって」とつまらなそうな顔で言った。有希は知穂とはべつのルートから絢花がクラスでいじめの対象になっていたことを掴んでおり、その事実を客観的立場から把握しているだろう二宮を捜査対象にくわえていた。

「これ、お見舞いに行きたいって言ったら先生が教えてくれたよ」

 知穂が手渡してきたのは住所を書いた紙だった。言うまでもなく二宮の居住地に関する情報である。有希は短く礼を言ってからその紙をポケットにしまい込む。


 ちなみに知穂が「あたしたちのこと」と言ったのは、セルリアン女学園を蝕む売春グループのことだ。絢花のいじめを止められなかった一方で二宮は、売春の横行という学園の不祥事を告発しようとしたようだ。


 同情する気はなかったものの、有希は二宮のことを若干見直し「良い先生だったんだね」と評価したのだが、知穂はその発言を聞き咎め「良い先生っていうか、正直馬鹿?」と冷たく突き放す。そこから急激に波風が立った。

「二宮のやつさ、絢花のことも親身になっていたらしいよ。あんな娘のこと、ほっとけばよかったのに」


 知穂は一般的な富山の女子高生と異なり、方言を決して話そうとしない。そこに彼女なりの背伸びを感じていた有希だったが、問題は知穂の喋り方にはない。彼の心を捕らえたのは、二宮が親身になっていたという女子生徒の名前だった。

「絢花のこと?」

 心の揺らぎはひと呼吸置いて声になった。

「あ、そうそう。絢花のことも訊かれてたよね。あいつ途中でクラスから浮いちゃってたから、調べるのに苦労したよー」


 会話に集中し、神経質になった有希とは裏腹に、知穂は不平を漏らしながら両手をバンザイさせた。有希はその労をねぎらうように「手間かけさせたね」と言う。知穂は悪気はなかったので「ううん、そんなことないよ」と返しつつ、そこから衝撃的なひと言を口にした。

「絢花のことなんだけどね、あの娘、子どもができて、相手に中絶させられたんだって。あくまで噂レベルの話だけど」


 彼氏。中絶。その二つの単語から、有希の脳裏には、絢花と恋愛関係にあるという羽生臣人の顔が浮かび上がった。知穂は噂レベルと言ったが、女子高生の噂ほど信憑性の高いものはない。有希は探偵ではないが、同じかそれ以上に勘の働く人間だったので、絢花の身に起こった悲劇の原因を探り当てた気になった。無論、表面上は「嘘だろ?」と言ってショックを受けたふりをし「相手は誰なんだろ」と深刻そうに言った。


 有希の推測は、最悪の場合、絢花は売春グループと関わりを持っているというもので、そうなると妊娠させたのは客のうちの誰かということになる。しかし肝心の知穂は「そこから先は答えられないよ」と言って有希の疑問をはぐらかした。


 なぜだ。勿体ぶる理由でもあるのか。有希が自問自答をしていると、顔を伏せた知穂が急に大人しくなった。子どもっぽくはしゃいだと思ったら、突然大人びた憂い顔を見せる。そういう態度変化こそ思春期の証だと思えなくもなかったが、知穂のやんわりとした拒絶に有希は、彼女の不安を見て取った。ゆえに可能な限り優しい声で「話すと困ることでもあるの?」と水を向けた。

 知穂は「うん」と小さく頷いた。「何でもないよ」と言ってごまかさなかった辺りに、有希は知穂のガードの低さを感じて「困ってるなら力になるよ」と囁いた。


 不安を誰かにすくいとって欲しかった知穂にとって、そのひと言は背中を押す材料となり、有希の顔を見上げた知穂は声を震わせながらこう言った。

「あのね、仲間の娘が殺されたの」

 一度堰を切ると、彼女の饒舌は止まらなかった。殺された娘の名前は戸野口明日奈。

 知穂と同じく売春グループのメンバーだったというが、彼女が不安に怯えているのは友人が死んだこと自体にあるばかりでなく、戸野口明日奈が殺された理由と、それにまつわる仲間うちでとれた見解の一致だ。

「明日奈はね、あたしたちがしてること親にバラすつもりだったみたい。だからグループの一番偉い人のこと脅して、それで……」


 殺されたわけだ、と有希は心の中で呟き、知穂の怯えを理解した。自分たちを束ねるリーダーが、まさか人殺しをするようなやつだったとは普通思うまい。とりわけ売春に自責のなかった娘たちは、自分の行為の裏面を見せつけられておぞましく感じたはずだ。

「他の娘の話だと、絢花もそいつにレイプされてたんだって。本当かどうかわからないけど……」

 ここまで聞けば概要が見えてくる。事件の背後には明確な黒幕がいたわけだ。有希は正真正銘のワルに翻弄され、恐慌を来した少女たちを具体的な形で想像したが、彼女たちに同情する気は一切なかったので、財布から一万円札を五枚入れた封筒を取り出し「これ、調査に協力して貰ったお礼」と言って知穂の手に握らせた。


 だが、彼自身承知していたように、知穂が求めているものは対価としての金ではなく、取り憑いた恐怖を溶かしてくれる情熱的な救いの手だった。有希はそれを見事に無視したわけだが、やがて逃げられない瞬間が訪れる。

「お金なんていらない。有希さん、わたしのこと守って」

 まるで愛の告白だな、と彼は思い、慎重に返答を与えた。

「ただでは守れんよ」

「なら彼氏になって。いくらでもわたしのこと愛していいから」

 随分おのれを安売りするのだなと呆れた有希は、わずかに起き上がってきた欲望を遮断する。


 そして冴え渡った頭で状況分析をする。具体的には、ジュースに混ぜた薬剤がそろそろ効いてくる頃合いだった。

 時計の針を体で感じながら、有希は知穂のことを抱きしめた。言葉では「守る」とはひと言も言っていないが、そうすることで彼女は安らぎを得たらしく「ありがとう、有希さん。あたしのこと好きなだけ愛していいよ」と雨に濡れた小鳥のような声で鳴く。有希の時計がカチリと音を立てたのと、知穂の体から力が抜けたのはほぼ同時だった。


 ベッドに横たわった知穂を横目に有希は退出準備を始めた。体液の付着しているタバコの吸い殻と炭酸飲料のグラスはビニール袋に入れて回収し、持参した鞄の中に押し込んだ。ついで手袋をつけながら指紋のついたと思しき箇所を丁寧に拭い取った。


 これでもうこの部屋に有希がいた痕跡は残っていない。最後の仕上げとして彼は、意識の途切れた知穂の上へ馬乗りになって、首筋に両手をあてがい全力で体重をかけた。殺さなければならないほどの悪人ではなかったが、彼女は自分のことを知りすぎた。


 ひと一人の生命を奪うのにそれは些か薄弱な理由だったけれど、有希に躊躇いらしきものは感じられず、ただ粛々と両手に負荷をかけ続ける。無機質な殺人を完成させながら彼は、罪悪感を覚えるどころか「長門有希」名義で利用している携帯を厳重に隠さねばと静かに思いをめぐらせていた。

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