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第十四話 「夕立」




 バスケマンの事情聴取を経て、本来ならすぐにでもやつの死体遺棄現場に赴きたかった俺だが、捜索は明日に回し、大日本電子ビルタワーに足を向けた。理由の一つはそろそろ日が傾き始めてきたこと。もう一つは絢花のことを忠久に報告しなければならないこと。


 常識的には電話一本で済みそうなものだが、俺は忠久との関係が悪化したせいでやつの携帯電話番号を知らないし、面前で報告しないことを忠久は手抜きだと受け取りかねない。世界が自分を中心に回っていることに一切疑いのない人間にとり、他人のスケジュールを振り回すことなど痛くも痒くもないのだ。


 俺は大河たちと明日のアポを取り決めた後、戸野口明日奈の殺害現場をチェックしに向かった二人と別れ、衣弦が乗ってきたプリウスを繰って国道へ出た。

 忠久のところへ衣弦を同行させるかは迷ったけど、意思確認をすると「せっかくですし、着いて行きます」と彼女は答えた。これも業務の一環だ。そう言い聞かせ、俺は自分を納得させた。

「随分と大きいですね、このビル」

 目的地に到着した衣弦は、曇り始めの空を見上げて言った。その視線の先には、ビルのシンボルでもある尖塔が見える。付近のパーキングにプリウスを停めた俺たちは、仰ぎ見るような姿勢のままガラス扉をくぐり、エントランスへ向かう。


 大日本電子ビルタワーは、一般に「尖塔」と呼ばれる超高層部が特徴的で、愛称であるユニコーンタワーもそこが由来だ。

 建物の主は果たして執務室にいるだろうか。総合受付で面会を申し出ると、すぐに秘書室とコールがつながった。どうやら忠久は在席中らしく、受付嬢の「少々お待ちください」という言葉に従って待機しているとエントランスの右手から屋敷で何度か見たことのある顔が現れた。確か忠久の腹心、秘書室長だった男だ。


 彼にとって俺は、忠久の御曹司同然だったから「恭介様、こちらへ」とへりくだった態度でエレベーターホールに案内する。以前、執務室に呼びつけられたときの記憶を掘り起こすと、ビルの「尖塔」、すなわち超高層部へと通じるエレベーターは最奥の一機しかない。俺たち三人はその一機に乗り込み、急上昇に伴う気圧の変化に身を委ねる。

 途中、衣弦に「体調、少しはよくなったか?」と声をかけ、彼女の体を気遣った。朝から嘔吐をくり返していた衣弦だが、俺を安心させるかのように「もう大丈夫です」と言い、健気な笑みを見せた。


 やがて五二階、つまり「尖塔」の最上部に辿り着くと、俺たちは待機室を通り過ぎ、執務室のほうへとまっすぐ連れて行かれた。忠久の予定が詰まっているなら何時間でも待つ気でいたし、そのために迅速な行動をとったのだが、室長は「会長はすぐにでもお会いになりたいとのことです」と言い、ノックをしながら執務室のドアを開いた。俺たちの訪問するタイミングがよかったのか、それとも偶然暇を持て余していたのか。


 そのどちらでもないことは、やつの面前に通されたときにわかった。忠久はごく普通の意味で、俺からの報告を待ちわびていたようなのだ。

「絢花はどうなった?」

 そっけなく放った疑問から、俺は忠久の顔色を伺う。


 忠久が標準語を使うときは、大概機嫌のよいときが多い。現にやつの表情は、眉間に濃厚な陰を落とし、姪の身を案ずる家族の顔になっていた。そんな忠久を見るのは何年ぶりか思い出せないくらいだが、やつの人間味に触れて俺の気分は悪くない。

「昨日手術が終わるまで病院にいたけど、結局目は覚まさんままだった。絢花に何か変化があれば主治医から連絡が来ることになってる。だけど今のところ、連絡はない。状況は変わってないんだと思う」

 俺が医者とのやり取りを伝えると、忠久は「そうか」と短く呟き「一応、毎日病院に顔を出しておけ。異常はなくとも報告はしろ」と歯切れのいい声で指示を出す。神妙な顔をこしらえ、俺は無言で頷いた。


 自分の指示が通ったことに満足したのか、忠久は足を組み替え、俺の横に視線を動かした。言うまでもない、衣弦の顔を見たのだ。

「彼女はおまえの同僚か?」

 忠久の質問に俺は「そうだ」と答える。もしかすると、衣弦が俺のパートナーであることに気づいたのだろうか。


 しかし忠久は無駄話を嫌う男であり、同時にやつは俺の仕事の概要を知っている。そこから導き出される結論は、忠久なら俺のやることなすこと、何段も先読みできるということだった。

「絢花について二人で何か調べたんだろう。そっちのほうも報告しろ」

 案の定、忠久は、今日の俺の行動をほぼ完璧に類推してみせた。説明する手間が省けたとはいえ、やつの観察眼は並外れている。それは俺の劣等感を刺激するが、落ち込んでいる場合ではない。今日一日で得られた情報について語ることにした。


 警察情報によれば、絢花の件は、自殺と殺人未遂の両面で捜査がおこなわれていること。被疑者はいるが、アリバイがあるらしいこと。無関係かもしれないが、絢花の通うセルリアン女学園の生徒が一人殺されており、両者は連続した事件の可能性があること。


 大まかに説明を終えると忠久は「ふん」と鼻息を吐き、椅子に背を預けた。そして天井を見上げながら、椅子をくるくると回転させた。考えに耽っている様子だったが、五周ほどしたところでその回転は止まった。

「恭介。殺された絢花の同窓生の名前は?」

「戸野口明日奈」

 何が忠久の琴線に触れたのかわからないけれど、訊かれたとおりに答えると、やつは続けざま「その娘を殺した被疑者はわかってるのか」と言った。まだ警察にも教えていない情報なので口にすべきか迷ったが、たぶん顔色に出てしまっている。隠し立てする意味も薄いので、俺は弓長の名前を伏せつつ「確証はないけど、疑わしい人物が一人浮かび上がってる」と返した。


 その情報で普通のやつなら満足したに違いない。だが俺が相手をしているのは忠久なのだ。「警察は被疑者を捕まえたのか」と言い、なおも疑問を掘り下げてくる。不審がられることを怖れて口にはしなかったが、黙っているほうがマイナスに思え、俺は「被疑者は死んでる。何者かに殺されたらしい」と貴重な情報を提供してしまった。


 ここでおそらく、忠久の中でべつべつの糸が綺麗に結びついたらしい。「よくわかった」などと一方的に呟き、俺を指差して思わぬことを口走った。

「警察の情報をキャッチした行動力は褒めてやるわ」

 それはいかなる角度から見ても賞賛だったので、こそばゆくなった俺は無意識のうちに頭を下げた。けれど忠久の狙いはそんな儀礼的なやり取りにはなく「絢花の件は自殺じゃなくて殺人未遂だな。犯人はその被疑者だ。二つの事件は一つにつながってる」と断定調で言い放つ。


 俺は被疑者が弓長だと知っているから、忠久の断言が腑に落ちない。やつは絢花のことを殺したとまでは証言しなかった。だから「犯人が同じとは限らん」と言い返したのだが、忠久はその発言を無視して「だが、被疑者を殺した犯人の目星はついてないんだろ?」と鋭い指摘を浴びせてくる。仕方なく俺が「そうみたいだ」と答えると、やつは両手を組み合わせ「恭介、俺はもう真相に辿り着いたぞ」と言い、自信に溢れる笑みを浮かべた。


 たったこれだけの情報で謎を解き明かしただと? いかに忠久と言えども、道理が通らない。喉元まで出かかった言葉は、無意味な呟きとなった。

「信じられん」

「そらそうだ。おまえは色んなことを知らんのだから」

 困惑した俺を見据え、忠久は勝ち誇ったように言った。隣を一瞥すると、衣弦のやつもどう対処していいのかわからないという顔つきをしていた。


 二人して完全にペースを乱された格好であるが、そうした心の揺らぎは忠久をいたく喜ばせたらしく、やつは「恭介、一つ大事なことを教えといてやる」と言って声のトーンを下げ、静かに言葉を継いだ。

「おまえは知らんだろうが、有希のやつが富山に戻ってきてるらしい」

「嘘やろ」

 心構えなんてできていなかった。俺の反応を忠久は退けた。

「本当だ。噂が立ち始めたのはかれこれ一年ほど前から。街で見かけたという話を何度か耳にしている。潜伏先の外国から戻ってきたというのがもっぱらの評判だ。上海だか大連だかで剣道を教え、一儲けしたっていう根も葉もない噂も耳に入ってきとる」


 俺はもう一度心の中で、嘘やろ、とくり返す。殺人犯として追われる身の有希が、堂々と地元に帰ってくるなんてありえない。くわえてなぜこのタイミングで有希の話なんだ。


 混在した疑問が溢れそうになったが、忠久の右手がそれを制する。そしてやつは、有希の帰郷を前提にとんでもない見解を示した。

「俺は今回の事件には有希が関わってると薄々思っていたが、おまえの話を聞いて理解は固まった。絢花を殺そうとした輩を有希が殺した。それが俺の見立てだ」


 忠久は頭が抜群に切れるやつなので、こういうときに妄想を垂れ流す男ではない。もし有希が富山にいるとすれば、その見立ては高い確度を持つだろう。なぜなら有希は、家族を傷つけた人間を絶対に許さない男だから。姉貴のときがそうだったように、絢花のときも同じことが起きた。忠久が言っているのは一見荒唐無稽だが、俺たち鷲津家の人間にとっては筋の通った立論のように思えた。


 しかしそれはあくまで感情レベルの話であって、現実に成立するためには有希が富山に潜んでおり、弓長の女子高生殺しが連続犯で、なおかつそれを知りうる立場にいた有希が弓長をスマートに葬り去っていなければならない。前提条件が多すぎるし、有希を事件の中心に置きすぎている。


 その疑問はゆっくりと形をなし「結論ありきだろ、叔父さん」というくぐもった声になったが、忠久は悠然と構えており、その程度の抗弁は織り込み済みだと言わんばかりの台詞を吐いた。

「俺はそうは思わない。一度飼い主の手を噛んだ犬は、躾け直さない限り何度だって噛み続けるんだ。俺は有希を躾け直すチャンスを待ちわびていたんだよ」


 こんなに愉しそうな忠久を見たのはいつ以来だろう。記憶を遡らせたとき、やつは重要なことをきわめて簡潔に言った。

「恭介。俺の見立てに沿って優先的に捜査を続けろ。案外使えるやつだと見直した。もっと使えるところを見せてくれ。代わりに絢花の報告は簡単でいい」


 それは最大級の賛辞であると同時に、逆らうことの許されない命令だったが、汚名返上の機会でもあった。

「わかった。やれるだけのことはやってみるよ」

 俺は感情の揺らぎを押し込めながら忠久に答える。その視線の先には天空を映す巨大な窓ガラスがあり、急に降り始めたと思しき夕立が激しく雨粒を叩きつけていた。


    ***


 夕立。確かあの日も、神様がタライをひっくり返したかのような通り雨が降っていた。ただその記憶の全体はおぼろげで、三年近く経ったいま振り返ってみても一部を除き虚ろな夢だったのではないかとさえ思える。そんなふうに信憑性の薄い出来事だったから、俺はその体験を誰にも語らず、自分の中に抱え秘密にしてきた。


 あの日俺は、週末に仕事を持ち越してしまい、さりとて冷房の効いていない「会社」に出ることを避け、電車で近いところにある歌舞伎町のルノアールでパソコンを叩いていた。ちょうど忠久に絢花との関係がバレ、右目を潰されたばかりの頃だったから、義眼の調子が悪く右目をひっきりなしに触っていた記憶がある。客数は元々少なかったが、夕立が降り始めたおかげで雨よけの客が飛び込んできて、店内は急に活気づいていた。


 新規客の多くはカジュアルな服装だったが、その中にどう見ても堅気とは思えない連中が混じっていた。場所柄、歌舞伎町にやくざが多いことはわかっていたが、問題は彼らがトラブルを店内に持ち込んだことだった。つまり活気づいたというのは聞こえのいい話で、店内はやくざの怒号が飛び交い始めた。俺は他の客がそうしたように、顔を上げて連中のほうを見た。心の中では「うるせえなあ」と思っていた。


 しかしその言葉が呟きとなって漏れる前、体がカチンと固まった。やくざとトラブルになっている相手の男にはっきりと見覚えがあったからだ。有希。殺人犯として追われている俺の兄貴。こんなところで出会えるとは、夢としか思えなかった。現実感の薄さから、俺は立ちくらみを覚えた。しかしやくざに胸ぐらを掴まれた有希は平然としており、首を傾け俺のほうを一瞥した。小さく動いた口許は「よう、恭介」と言っているように見えた。

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