第十二話 「臣人」
臣人の事務所に向かう途中、俺と大河は最後尾を歩いた。先頭をずんずん進むのはまたしてもソーニャ。俺は「臣人が絢花を殺した信憑性はどの程度高いんだ」と小声で訊いた。大河は「そこまでは証言してない。屋上に一緒にいたって言うとった。それ以上のことは聞き出せんかった」と答える。
「なんやそれ。役に立つのか立たんのかよくわからん能力やな」と俺は本音を呟く。大河は不服に思ったのか「それより恭介。絢花ちゃん初めてのキスの相手は臣人でなくおまえだと言うてたぞ。あれはどういうことや」と切り返してきた。
余計な勘ぐりをされると厄介な質問だったが「ガキの頃のいたずらや」と答えると大河は素直に納得した。満足した俺は「もう絢花の霊は見えないのか」と問う。大河は「ああ、生霊のせいか存在感が希薄でな」と言う。いずれにしろ、いまここに絢花はいない。そのことが不思議と俺の心を軽くしてくれる。
ところで臣人のことは背脂がよく知っていた。俺と大河がやつに追いつくと、みずからべらべらと話してくれた。大学卒業以来、臣人は彼の父親がそうしたように不動産業を手がけているという。いまは一〇年前と異なり、長期金利が超低利率なため、日本人ばかりでなく、金を貯めた移民を中心に客層は厚いとのこと。そのため臣人の羽振りはたいそう良いらしく、俺たちの同世代では一番の成功者だと背脂は言った。
そしてこう申し添えるのをやつは忘れなかった。「俺たち地元組のあいだでは臣人と絢花ちゃんが付き合っとるいう噂は随分前からあったんや。二人で一緒に歩いとるとこ見たやつがけっこうな数おったけに。マンションの住人らもよく二人で連れ立っとる場面を見かけたようやし、やっぱ恋愛関係にあったがじゃないかな」ささくれだった俺の心を顧みぬ、えらく暢気な口ぶりだった。どうしてそういう大事なことを早く言わない。
ほどなくソーニャを先頭にした一行は階段から五階に到着した。そこにはエレベーターで向かったと思しき吉岡の姿があった。被疑者を逃がさないための手段だな、なんてことを思っていると、吉岡がチャイムを鳴らし、応対に出た誰かに警察手帳を見せていた。
「少しお話を聞かせてください」
そう慇懃に言った吉岡だが、相手が了承すると背脂のほうを振り返り、目で合図を送る。そこから警察組、探偵組、最後に俺という順番で室内に上がり込む。探偵に捜査権はないので当然のなりゆきだった。
臣人の事務所は3LDKの部屋をぶち抜き、広いオフィスへと作り替えたものだった。やつは応接ソファに座り込み、正面には吉岡と大河が腰を下ろした。背脂は吉岡の後ろに立ち、ソーニャが大河の背後に佇む。俺は一番離れた場所に位置を決め、部屋の隅にあるパソコンデスクと向き合った社員を見やり、すぐに視線を戻して臣人の顔を見つめる。
臣人は角のつり上がった縁なし眼鏡をかけており、フレームを神経質そうに触った後、俺のほうを一瞥した。長身な上、顔立ちも悪くない。雰囲気は小栗旬に似ている。昔風に言えばイケメンだ。その容姿が絢花を落とす武器になったのだろうか。思考は横道を逸れていくが、俺は意識を集中し、無軌道な心の動きを止める。
応接テーブル上の会話は吉岡がリードした。昨晩起きた事件の概要を話し、現場の目撃情報について簡単な説明をしている。そして被害者である絢花と臣人が親密な関係にあるという情報が寄せられたことも、中年の刑事らしくゆったりとしたトーンで告げる。
ここまで話せば俺たち「会社」の人間と同じく、あとは確認事項をチェックするだけだ。すなわち臣人のアリバイである。
「昨晩の一九時二〇分頃、何をしていらっしゃいましたか?」
吉岡の問いに臣人は「会社にいました」と短く答える。そしてその時間帯は、社員が営業に出払っていて、自分は客の対応をしていたと述べる。アリバイの証拠は、やつが対応していたという客以外いないわけだ。
「そのお客さんについてわかるものはありませんか」
臣人の回答を受け、吉岡が順当な問いかけをする。臣人は「やれやれ」とでも言いたそうな鼻息を吐いた後、自分のデスクに移動して何やらパソコンをいじりだす。
やがて低く唸るような音をたて、プリンターが起動する。打ち出された紙を拾い上げた臣人はソファに戻り、吉岡にそれを手渡す。
「昨晩会っていた顧客のデータです。個人情報なので流出無用でお願いします」
「ありがとうございます」
吉岡は老眼なのか、臣人が打ち出した顧客データを膝頭まで離して見つめる。もっとも事情聴取では資料の押収はできないから、そのデータが本物であるかどうかは確認のしようがない。
一応ダメもとで吉岡は「そのパソコンをお借りするわけにはいきませんよね」と言うが、臣人は「これがないと仕事になりません」と返す。
臣人のアリバイの有無は、一旦棚上げに見えた。しかしこの捜査には、大河という探偵が挟まっている。やつは事件の発生時刻、屋上に臣人がいると霊視した。背脂はそのことに気づいたらしく「羽生さんの証言は、荒木さんの直感と矛盾しますが」と吉岡に耳打ちをした。
吉岡は委細承知とばかりに頷き、大河のほうを振り返り言った。
「荒木さん、何か感じることはありませんか」
ボールを預けられた格好の大河は、手元に意識を集中させ、屋上での霊視と同じく目を閉じる。再び瞳を見開いたとき、大河の体は悪寒に襲われたように震え始めたが、この様子を見守っていた臣人が失笑を漏らしたのを俺は見逃さなかった。
やつは大河の捜査手法を滑稽に思ったのか、口許に嫌らしい笑みを浮かべ「これが例の誘拐事件を解決したやり方ですか」と言った。吉岡が「ええそうです」と返すと、臣人はさらに口許を歪め「想像以上に馬鹿げていますね」と嘲笑った後「兄が県警捜査二課の管理官を務めていまして。事件を解決したはいいが、やり方がオカルトまがいだと噂になっているようですよ。それに捜査一課の専横だと」と言った。
この情報は知らなかったのか、吉岡はわずかに表情を動かす。それは絵に描いたような微笑で、明らかに作り笑顔とわかるものだった。臣人も吉岡も、互いに不愉快なのは明白である。息苦しいやり取りが終わったのは、ソーニャが声を上げたからだ。彼女は大河の様子を見守っていたため、やつの些細な動作に気づけたようだ。細い体を折って、大河の漏らす言葉に耳を傾ける。
臣人も吉岡もその動きに目を奪われ、顔を硬直させたが、ソーニャの口寄せは必ずしも期待に即していなかった。
「事件に結びつくイメージは何も直感できなかったみたい」
「そうですか」
吉岡は落胆を声に出した。ソーニャの発言を意訳すれば、絢花の証言を得ようとしたが彼女の霊が現れなかったか、証言自体を拒否されたということだろうか。
霊視が終わると大河はぐったりと頭を垂れ、荒い息を吐いている。ソーニャはその丸めた背中を甲斐甲斐しくさする。大河の奮闘虚しくはっきりしたのは、アリバイの真偽は確定できなかったということだ。俺は霊視が万能とは思っていなかったが、円滑な捜査をする上でかなり穴のある手法であることはわかってきた。捜査は都合よく運ばず、警察は臣人の顧客を一から調べ直さないといけなくなったわけだ。
けれど俺は、事件の捜査と違った立ち位置からこの模様を眺めている。絢花の兄として、恋愛関係にあったという臣人の行動を注視している。
だからこそ思えたことだが、臣人の言動はあまりに他人事すぎた。アリバイを証言して、あとは大河の捜査手法をせせら笑うだけ。言わずにはおれなかった。それがどれだけ不毛であろうとも。
「臣人。てめえの彼女が自殺しようとしたんやぞ。憐れみの一つも見せたらええやろ」
そこでバツの悪い表情の一つも浮かべれば、俺の気は済んだと思う。だが、やつは再び嘲笑を浮かべるばかりでなく、俺を見上げてこんなことを口にした。
「絢花と僕の関係はプライベートなものだ。おまえに話すことはなにもない」
言い回しと口調から俺は、それを勝者の驕りと受け取った。臣人が俺と絢花の隠された関係を知っているかどうかはわからない。ただやつは、全てを熟知しているとしか思えない表情を浮かべて言った。
「それより、恭介。おまえに貸した金、返済期限はとっくに過ぎてるんだが」
「借金なんてした覚えねえぞ」
「踏み倒す気か? 浅ましいやつだな」
蔑むように吐き捨てられたが、言葉にしたとおり俺は臣人に金など借りた覚えはない。
この期に及んで難癖つけやがって、言い逃れるつもりか。俺の体の奥底から、抑えていた感情が迫り上ってくるのがわかった。もしソーニャがタバコに火をつけなかったら、俺はこの場で怒りを炸裂させていたかもしれない。
だが、彼女が一〇〇円ライターをカチッと鳴らし、タバコをぷかぷか吸い始めたことで、憤怒の爆弾は不発のままに終わった。
「申し訳ないが、ここは禁煙だ」
真っ先に見咎めたのは臣人だが、その制止は意味をなさなかった。携帯灰皿を取り出したソーニャは、平然とした顔でタバコを吸い続ける。屋上で吸えなかった分を取り戻すかのように、深く深く、煙を吸い込み、紫煙を盛大に吐き出しながら臣人の顔をじっと見つめる。
そこからくり出された発言は、恐らくは臣人を凍りつかせるものだったろう。
「羽生さん。あなたは嘘をついているね」
本気で言っているのだろうか。俺は耳を疑った。それは臣人も同じだったらしく、得意の嘲笑は憮然としたものに変化した。やつは何とか気を取り直そうとしたようだが、臣人が口を開こうとする前にソーニャが発言を続けた。
「あなたのアリバイに意味はないよ。人生はアリバイ作りだろうか? そんなことはないはずだ。人間はもっと直情的に生きている。だからあなたが嘘をついているという証拠は必ず見つかるよ」
思いもよらない展開に俺と臣人は互いにショックを受けたように見えたが、嘘つき呼ばわりされた臣人はさすがに感情的になったらしく「僕はほんまのことを言っとる。探偵ごときがだらんこと抜かすな」と吐き捨てるように言った。
棘のある言葉に眉くらいしかめるかと思いきやソーニャは「わたしならば、だらではないよ」と方言を理解した返事をし、紫煙をくゆらせながら「羽生さん。お近づきの印にあなたの名刺を貰いたい」と無感動な声で申し添えた。
「ふん。おまえら全員の分や」
臣人は不機嫌そうに肩をすくめ、名刺ケースを取り出し、そのうち三枚の手裏剣のように投げてよこした。一枚は吉岡の、もう一枚はソーニャの胸にあたり、床に落ちた。
最後の一枚は俺をめがけて飛んできた。死角に入ったので反応が遅れ、名刺は頬をかすめた。床に落ちた名刺を拾い上げると、臣人の「もう出て行ってくれ」と言う声が耳に入った。それは事情聴取の散会を告げる合図となった。
俺は自分が爆発せず済んだことに安堵しつつ、臣人の事務所を出た。そこで捜査チームの退出を待っていると、一番先にソーニャが出てきた。先ほどの強気な発言に度肝を抜かれた俺は彼女に抱く印象を一変させていたが、顔を合わせた表情は相変わらずクールなものだったし、俺に呼びかけたときも最初は何を意図しているのか戸惑ったほどだ。
「恭介さん、ここ」
透明な声でソーニャが言う。
「どうした?」と返す俺に、右側の頬を指差すしぐさをした。彼女に言われるままに頬を拭うと、血が付着していた。臣人に投げつけられた名刺で皮膚が切れたのだろうと見当をつけ、俺は「サンキュ」と言った。
普通ならここで「どういたしまして」といった返事が戻ってくる。けれどソーニャはなおも俺の顔を覗き込み、こう問うてきた。
「恭介さん、ひょっとしてあなたは右目が見えないの?」
言うまでもなく、その発言は正鵠を射ていた。俺は右目が見えないから、名刺の軌道が死角に入って頬をざっくり切られたのだ。けれど問題はそこではない。俺は自分のハンデを指摘されたのは初めてのことだった。それもほぼ初対面の相手に。
俺の右目の秘密は、衣弦でさえ知らないし気づいていない。臣人に言った「あなたは嘘をついているね」発言といい、ソーニャという女は何者なんだ。オカルト学者を名乗る大河の風変わりな助手ではなかったのか。俺は衝撃のあまり、考えたことをそのまま口にしてしまった。
「君は一体何者なんだ」
「ソーニャ・クリュチコワだよ」
望んだ答えはそれではないが、当惑のあまり二の句が継げない。どうにかして心の声を聞こうとするも、雪原のように青白い肌からは何一つ読み取れるものがなかった。