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第十話 「捜査前」




 俺には眠りを安定させるために、鎮静作用の強い睡眠導入剤が処方されていた。そのため寝覚めが悪く、翌朝の起床は衣弦のほうが早かった。ツインの部屋で俺が目を覚ましたとき、彼女はもう起きていて、耳をそばだてればホテルの洗面所で物音がしていた。


 昨晩飲み過ぎたウオッカのせいか喉の調子が悪く、何度か咳払いしながら小用に立った。トイレは鍵がかかっていた。扉の向こうから衣弦が嘔吐く様子が聞こえてくる。しばらく待機していると、彼女がげっそりした顔で現れた。

「すみません、先輩。実は体調が思わしくなくて」

 彼女の説明によれば、どうやら昨日夕食で食べたものがあたったらしい。「スーパーで買ったお寿司がよくなかったのかもしれません」と言い、ふらふらと部屋に戻る。


 小用を足した後、俺はベッド脇の椅子に座って「夏だから生ものは避けたほうがベターだろうな」と衣弦に言った。彼女は殊勝にも頭を下げて頷き「でも大丈夫です。少し楽になりました」と苦笑いを浮かべた。俺はその健気な表情に安堵し、タブレットをいじり始め、二人目のターゲットのデータを呼び出した。バスケマンこと弓長翔太である。


 彼の現住所は、生活保護の申請があったことで特定されている。それは弓長が「張凱」の名義で借りた部屋で、不動産データベースにも登録がなされている物件だった。偽名を使ったから安心だと思っていたのか、それともデータベースに載らないほど粗悪な部屋に住みたくなかったのか。いずれにしろバスケマンの住居だけは捕捉済みであり、問題は彼がそこに留まっているか否かだった。


 生活保護の申請が通らなかったことを受け、すでに退去している可能性はある。「悪魔憑き」となった失踪者が自分の足取りを掴ませるような真似をしておいて、のほほんと暮らしているとは考えがたく、俺はバスケマンの逮捕は五分五分だと考えていた。とはいえ住居に重要な資料が残されている確率は高いため、捜索に向かうこと自体は変わらない。


 その一方で、俺は絢花の一件についても調べなければならない。ホテルの食堂で朝食をとりながら、俺は昨日身内に起きた出来事を衣弦に話し、午前中はその捜査に使わせてくれないかと相談を持ちかけた。衣弦は食あたりを起こしたばかりだからパンとオムレツを半分ほど食べたきり手を止めてしまっていたが、俺が絢花の自殺未遂について話すと慰めるような顔つきになった。


「ご愁傷様です」とは言わない。俺の葛藤を瞬時に読み取り、片手を強く握ってきた。その手を通じて俺は自分の悲しみを伝え、衣弦はささやかな励ましを伝えてきた。勇気と言い換えてもいい。付き合って日は浅いが、俺たちは互いにパートナーなのだ。その事実をあらためて感じとり、俺は自分が一人ではないことに感謝した。


 そして衣弦は、俺の頼みを断ることもなく「ではわたしは先に弓長のところに向かいますから、後で合流する形をとりましょう」と言ってくれた。失踪者捜索においてそれはイレギュラーなやり方だったが、規則を遵守していたら絢花の謎は捜査できない。

「なるべく早く終わらせるようにするから」

 俺は衣弦の手を握り返し、彼女の目を見てきっぱりと言った。


 約束の時間にホテル前のロータリーに出ると、そこにはすでに大河の車が停まっていた。やつの愛車はアルファロメオだった。随分いい車に乗っているじゃないか。警視庁の給料はそんなに恵まれていたのだろうか。それとも探偵の報酬で買ったのか。


 益体もないことを考えているとクラクションが鳴った。衣弦と別れたばかりの俺は急いで駆け寄り、助手席が埋まっていたので後部座席に体を滑り込ませる。

「今日はよろしく頼むな」

 俺が朝の挨拶もそこそこに切り出すと「任せとけ」と答える大河。「今朝、警察に問い合わせたら、絢花ちゃんが飛び降りたマンションの場所がわかった。ここから車で二〇分くらいの場所だ。すぐ着くと思う」と言ってアルファロメオを発進させた。

「おはよう、恭介さん」

 助手席から首を傾げ、声をかけてきたのはソーニャだ。大河の相棒。やや眠そうに見えるが、昨晩は三人とも深夜まで店にいた。疲れが残っているのはやむを得ない気がする。

「ああ、おはようさん」

 彼女を元気づけるように、わざと声を張った。何気なくバックミラーを見ると、正面に向き直るソーニャの肢体が映っていた。白い肌と青い瞳と金色の髪。身につけた服は純白のワンピースで、初対面のとき感じた幼さが夏色の装いで強調されている。


 車を国道へ走らせながら「恭介、朝飯食ったか?」と大河のやつが訊いてきた。俺は同僚と済ませたことを教え、本来の業務から一時的に離脱した経緯を話してやる。

「オッケー。俺らも準備万端だ。あんま長引かないことを祈ろう」

 大河は助手のぶんまで溌剌とふるまった。けれどそこには小さな違和があった。やつはここ富山で、なぜか東京の言葉を喋っている。

「なして標準語なが?」

「警視庁仕込みよ。業務中は標準語だ」

 特に不思議がる必要はない、と言わんばかりの返事だった。俺はそれを大河なりのマインドセットなのだろうと割り切り「なるほどね」と自分も標準語で返す。そうすることで不思議と弛緩した空気が薄れた。あくまで私的な捜査だが、まるで業務の一環みたいじゃないか。緩やかに張りつめる緊張は、決して不快なものではなかった。


 ふと顔を上げるとソーニャは、ダッシュボードから何かを取り上げた。淀みない動作はカチリと音を立て、ライターの火をつける。ひと目見れば理解できた。ソーニャは細長いメンソールタバコを吸い始めたのだ。

「君って喫煙する人だったんだ?」俺が声をかけると彼女はバックミラー越しに頷いた。

「うん、喫煙する人だよ。特に頭を使う前は、必要不可欠と言ってもいいね」

 そこだけ取り出して聞くと年配の研究者みたいだ。容姿から醸される清楚なイメージとそぐわなくて、俺は可笑しみを覚えた。彼女の行為につられ、タバコが吸いたいとも思わなかった。代わりにソーニャ自身に興味がわいたが、いつしか俺は視線を逸らし、彼女によって高まった性欲を遮断する。


 車内は十五分ほど無言が支配した。しばらくすると大河のやつが、暢気な声を出した。

「恭介。現場に着くぞ」

 窓の外に目をやると、築の浅そうな中層マンションが見えた。車は国道を右折し、その駐車スペースに滑り込む。昨日の今日だ。辺りには何人もの警察官がいた。

「行こう。タイガ、恭介さん」

 アルファロメオが停車すると、先導するように言ってソーニャが車から降り立ち、マンションを見上げた。眼差しは高く、鋭さを増していた。


 俺と大河が車外に出ると、それを待ち構えていたかのようにエントランスへとずんずん歩いていく。幼い外見に似合わず、一歩一歩が力強く大きい。そうしたしぐさを注意深く観察すると、大河を補佐する助手というより彼女のほうが探偵で、今から捜査をおこなう主人公に見えてしまう。その印象は俺の脳裏に深く刻み込まれた。


    ***


 すでに言ったかもしれないが、俺と大河は同じ剣道道場に通い合った仲だ。所属する高校の剣道部は弱小で、おまけに顧問がろくでもない男だったから(後に生徒にセクハラをして退職)、俺たちは道場一本に絞り剣の道を磨いた。


 道場の門下生には、大河以外にも俺のよく知る連中が何人かいた。強い順に言うと、その筆頭は有希である。やつはサッカー部の合間を縫っては道場に顔を出し、ひと暴れして気が済むとサッカーに戻っていった。


 次に強かったのは羽生臣人だ。臣人の親父は不動産業で財をなした成金で、彼は当時忠久の庇護下にあった俺と同じく御曹司ポジションにいた。剣の腕は俺や大河と五分五分。勝つこともあれば負けることもある。実力伯仲なので互いに相手を意識するライバル関係だったと言えなくもない。少なくとも俺は臣人より上手くなることを目指して道場に通っていた。大河も同じ気持ちだったろうと思う。


 最後は高校の同級生だった背脂。本名は瀬名俊之というが、その名で呼ぶやつは道場にも高校のクラスにおいても一人もいなかった。大河のあだ名「馬鹿者タイガー」は言葉が長いのであまり定着しなかったが、背脂のほうは爆発的な支持を得た。


 きっかけは道場が終わった後に通い詰めたラーメン屋で、瀬名がお決まりのように「背脂多めで」とくり返していたのを大河が突っ込み「おまえ、ほんま背脂好きやな」と言ったことが発端だ。「ああ、好きやちゃ」とでも答えておけばよかったのに、瀬名はそこでうまいことを言おうとして「そら、俺ちゃ背脂星人やしな」と胸を張り、みずから墓穴を掘った。


 翌日のホームルームのときにはもう「背脂星人」の呼び名は広まっており、瀬名が慌てた頃には時すでに遅しだった。やがて「背脂星人」は「背脂」へと縮まり、フレーズ的に恐ろしく口にしやすいから誰もやつを瀬名とは呼ばなくなった。些か距離がある女子でさえ「ねえ、背脂君。今日の掃除当番やけど」と呼びかけていたほどだ。


 そんな背脂のことを俺がよく覚えているのは、愛称のおかしさが半分、もう半分は一緒に県主催の剣道大会で準優勝をおさめた仲間だからだ。当時、俺は高校一年。団体戦のメンバーは有希、大河、臣人、俺、背脂の五人。勿論、大活躍したのは有希だったが、どん尻の背脂が足手まといにならず善戦したのが勝因だったといまにして思う。


 ただ、愛すべき背脂がどういう進路を辿ったのかまでは関知していなかった。大河と同じく富山大に進み、縁はそこで一度切れてしまった。だから大河のやつが「俺が連絡を取り合ってる警察関係者はあの背脂だ。けれど探偵と刑事の関係だ。くれぐれも友達ヅラするなよ」と言ったのを聞き、その言葉を事務的に受け止めつつも、心の底では一〇代の頃を思い出し少々懐かしい気分に浸ってしまった。

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