第一話 「会社」
ロシア大統領、ウラジーミル・プーチンの名言に「ソ連が恋しくない者には心がない。ソ連に戻りたい者には脳がない」というものがある。最初に目にしたのは中学生のときで意味は何となく伝わってきたが、深い理解には到っていなかった。今にして思えば、この言葉は、心は子どもの眼、脳は大人の眼で世界を見るという認識構造のことを示し、心と脳の分離というアイロニーの原初について語ったものだったのだ。
子ども時代における人間は、幼少期に味わったむき出しの体験を、単なる経験ではなく、他に替えがたい交換不可能性な経験として受け取る。だからこそプーチンの言う「心」は、かけがえのない世界、すなわちソ連を懐かしみ、恋しく思う。それが「ソ連が恋しくない者には心がない」という言葉の意味だ。
他方でプーチンの言う「脳」は、ソ連の喪失という一回性を合理的に受け止めている。ソ連に戻ることは、自由意志を持った人間の選択にかかわることだから、不可逆と考えるべき現象に執着することは合理的ではない。これが「ソ連に戻りたい者には脳がない」という言葉の真意だ。
そしてここからプーチンは二つのことを言おうとしているように思う。一つは、人間の孤独なあり方である。人間の「心」という子どもの眼は、各々の生れ落ちた環境において本来的に偏ったかたちで形成されざるを得ない。したがって俺たちは、一人ひとり別々の心を持ち、決して互いにわかり合うことができないというわけだ。
もう一つは、以上のような条件から逆に、人間の生全体を貫く普遍性が見いだせることである。なぜなら、心=子どもの眼、脳=大人の眼という認識構造は、俺たち成人全てに共通したシステムだから。普遍性のルーツには太陽と一神教が挙げられるけれど、大人になった人びとが遍く幼少期を通過している事実にも人間の普遍性の根拠がある。思春期を通過した人間なら誰しも、人生が絶対的な固有性という子どもの世界と、交換可能な選択の繰り返しである大人の世界、その両者の重ね合わせであることを知っている。
ところがこうした孤独な普遍性は、プーチンが言うように「恋しく思いつつ、戻りたくない」という理解の上で調和されているとは限らない。たとえばカントなどは、両者がぶつかり深刻なエラーを引き起こすと考え、普遍的立法による裁定を発案した。「ソ連に戻りたい者には脳がない」と断じたプーチンでさえ、郷愁と理性の狭間で、葛藤が皆無だったとは言いきれない。ことほどさように人間は厄介な生き物だ。
ニーチェが唱えた永劫回帰なる奇抜な概念も、人間の出自が幼少期の絶対性にある以上、たとえ何度人生をくり返そうと同じ場所、同じ親のもとに生まれ育ち、大人になれば自分の子ども時代を「恋しく」思ってしまう、つまり「心」に縛られた人生を送ることになるという条件を示していた。心と脳のあいだに矛盾はない(一個のシステムだから)。けれど、両者が競合することで葛藤が起きてしまう(心はやり直しがきかないから)。そして人間は、後者の葛藤を避けて通ることはできない。
あらゆることを冷笑でやり過ごすその裏で、「心」と「脳」がせめぎあう人生の危機は常にそばにある。思春期という通過点を瞬く間に過ぎ、青春にピリオドを打った二六歳の俺にとって、こうした理解は人生の到達点だ。だからいまならはっきりとわかる。何より自分自身が子どもと大人のあいだで葛藤していることを。プーチンの言葉を俺なりに言い換えると、鷲津恭介は次のように構成されているのだ。
――富山が恋しくない者には心がない。富山に戻りたい者には脳がない。
戻らずに済むのなら、一生戻りたくはなかった。なのに突然帰郷するはめになったのは、そこで片づけるべき仕事が降ってわいたから。俺はこれでも社会人だから「心」や「脳」に惑わされて失職するわけにいかないのだ。
***
俺の仕事を他人に説明するのは簡単ではなく、ときに困難ですらあるのだが、思いきり単純化して「人捜し」と言えば、だいたい通じる。
この世界には行方不明者という、遭遇せずにいられれば幸せな哀しいカテゴリーがある。彼ら彼女らは、何かしらの事情があって家族なり所属組織から遠く離れ、どこか知らない土地へ姿をくらました人たちだ。最新の統計によると、その総数は全国で約八万人と言われている。俺たちはその数字に殺人誘拐発生率を掛け、人殺しもしくは人さらいにあった可能性が高い人数を引き算し、事件性の高くない残りの連中を失踪者と呼ぶ。政府の取り決めにより、失踪者は三つの段階を経て六つのモデルケースに分けられる。
ひとつ目は住民票のあるエリアから他のエリアに移動した者のうち、そいつらが新たな住民票を取得しているか否か。新たな住民票を取得している場合は、対応は各自治体の管轄となり、俺たちの「会社」が出る幕はない。
ふたつ目は、失踪者が労働可能年齢に該当しているか否か。該当していない場合は、基本的に放置される。自治体に捜さねばならない義務はないし、家族の届け出があっても警察の腰は重い。当然、俺たちの仕事ではない。
みっつ目は、失踪者が犯罪をおかした者であるか否か。ここで法令により、俺たちと警察のあいだで管轄が分かれることに一応なっている。容疑者は警察が追い、残りの労働義務違反の失踪者は「会社」が追いかけるというわけだ。
小説や映画などのフィクションで描かれる架空の日本に「会社」なる組織は存在しないし、そこでは労働の自由を謳歌するユートピア的世界が描かれたりするけれど、俺たちの生きるこのリアルな二〇二〇年代の日本にそうした情緒は存在せず、完全な自由が逆にディストピアをもたらすといった面白おかしい想像を許す余地は一ミリたりともない。
自治体と警察の管轄を外れ、社会の課した重大な義務を破った失踪者は、俺たちの「会社」が地の果てまで追いかける。そういうことになっている。ベーシックインカム導入以後、社会保障と労働義務が不可分な関係となった我が国において、働かない者は一種の罪人として扱われ、逃げれば捜索対象となるのだ。それはもう、中学生にでもなれば誰でも熟知していることだ。
だから目下の課題は、警察と「会社」の線引きをどこにおくべきかになっている。上司いわく、両者の線引きは年々曖昧になってきており、下っ端である俺の目にもそれは政治的に微妙なイシューに映るほどだ。財政難による予算カットのあおりを受けて、各県警も減員があいつぎ、犯罪の程度が低いとマンパワーを割かない傾向にある。
もっともそんな彼らとて、殺人や誘拐事案には本腰を入れる。そこには組織の威信がかかっているし、納税者へのアピールも欠かせないから。一方で、企業の金を使い込んだ失踪者の捜査、たとえば横領犯を追いかけるぐらいでは警察はそれほど本気にならないし、犯人の使い込んだ額が小さければなおさらやる気を見せない。
けれど警察が手を抜いたとしても、俺たちの「会社」はそれを指をくわえて見過すわけにはいかない立場だ。労働義務違反をみすみす許せば、上部組織にあたる厚労省、並びに納税に目を光らせる国税庁のご機嫌を損ねることにつながるし、設立理念から言っても、「会社」の存在意義は両省庁への貢献にほかならない。だから法令にあるグレーな部分を利用し、俺たちの「会社」は、警察とほぼ同等の権限を有し、失踪者捜索にあたるようになってきたのだった。
――ここまでがこの一〇年で起きた変遷の経緯。ちなみに俺たちが所属する「会社」とはスパイ映画じみたコードネームではなく、正式名称を明かすことに何ら瑕疵はないのだが、かの悪名高き年金積立金管理運用独立行政法人並みかそれ以上に複雑きわまる名称なので、職員はみな所属組織のことを「会社」と呼び、誰一人略称さえ使わない。