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猟奇的なマリア  作者: 作家椿
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ある過ちについて

 このような形で始まった高校生活は、英国でフェアリィと過ごしたあの三年間とは、はっきりと別の色彩を持っていました。いわば、このお二人によって、私にも、幽かながら、そしてひどく儚く散ることにもなりますが、『人並み』というものが、ようやく身についた、そう言うこともできると思います。また、その『人並み』の中身には、例えば社交性であるとか、勿論あの誓いの通りに笑える女になることや、それと、私の存在をきちんと外に示す、などといったことが含まれていました。

 ただ、過ちは過ちなのです。どれだけ宝石のような色彩に彩られていようと、フェアリィの予言……奪われない限り私は私でいられる……は、正確に私の眉間を撃ち抜いているのです。ほんの小さなほころびから、巨大なダムが決壊してしまうように、私の犯した大きな過ちは、この、とても小さな過ちから始まったのです。どれだけ『人並み』に近づこうと、私は、私なのですから。

 ある日のことです。私は急に昔が懐かしくなったのでしょうか、井畑さんとも、西野先輩とも、昼食を共にせず、一人でお弁当を持って屋上に向かいました。一人で昼食を摂ること。英国にいた頃も、そのきっかけであった小学生時代も、私は昼食を一人で摂る習慣が付いていました。ですので、お二人とお話しをしながらの昼食というのに、最初は大いに戸惑った物です。ですが、それはいつしか習慣となり、私の中に入って参りました。

 ですが、それはあくまで後から入ってきた物であり、私自身ではなかったのでしょう。ですので、私はその日、一人で屋上に向かったのです。それもまた、過ちであったのでしょうが、それは所謂『後悔』であって、当時の私には、当然のことながらどうすることもできなかったのです。

 屋上の扉を開けると、五月の外の風に当たりながら昼食を摂っている人たちが、ぽつり、ぽつりと、一定の間隔を空けて、立ったり座ったりしながら、いました。その中で、一番端に、ぽっかりと空間が空いているように見えましたので、私はそちらへと向かいました。

 そうして、私は第二の過ちを犯したのです。

 彼が、いたのです。白百合を私に授けてくれた、あの、彼が。

 運命、なのでしょうか。でしたら、なんと過酷で苛烈な運命を、神は私にお与えになったのでしょう。

 彼は、購買部で売っている甘ったるいパックの珈琲を飲みながら、サンドイッチをほおばっていました。

 私は、再度、電撃に撃ち抜かれました。

 何度想像したでしょうか。何度、彼のことを思ったでしょうか。彼が、どんな男の人になっているのか。彼が、どんな生活をしているのか。あの事件以降、私はそれだけに費やしていた時間が、どれほどの物だったのか、改めて書き改める必要も無いでしょう。

 そして、彼は、想像通りの人になっていました。

 私はくるりと背を向け、屋上から立ち去りました。



 思いと、しがらみ。それは同じように訪れ、同じように与えられるものだ、と聞いたことがあります。しかし、これはしがらみなのでしょうか。いえ、過ちであったことは、どうしようもなく、事実そのものなのですが、その過ちを引き起こした原因を、しがらみ、すなわち私の思いに求めるのも、また正しいのでありましょうけれど、思いが、すなわちしがらみになる、というのは、どうにも、よく分かりませんでした。

 私の居場所は、その瞬間から、著しく狭まりました。元々狭かった私が私でいられる場所は、さらに、さらに、小さく、狭くなりました。食事を摂るために屋上に行くのが恐ろしくなり、英国・グラスゴーにいる恋人と、未だにその縁を、関係を続けている西野先輩もまた恐ろしくなり、おそらく色恋沙汰に目がないであろう井畑さんにこの話を出来るはずもなく、しかし、フェアリィの予言、つまり「私は奪われない限り私でいられる」という予言の通り、私は奪われ、小さな、小さな自分自身、つまり、人間関係も含めた己の環境、それが急速に変質していくのが、分かりました。

 あの誓いは、果たされました。そして、また、奪われました。

 私は、どこにも行き場所がなくなりました。いえ、生きる場所、といっても良いかもしれません。しかし、三年後のあの約束だけを頼りに、ただ、生きていこう、大学には行こう、それだけを頼りに、生きるべき場所もなく、ただ、生きているだけでした。

 生きるためには、睡眠と、食事は、欠かせないことでした。

 しかしそのどちらも、私にはあまりにも難しいこととなりました。

 学校には、彼がいる。井畑さんも、西野先輩もいる。

 その事が私を悩ませ、苦しませ、夜もろくに眠れず、薄い珈琲をすすり、昼も、食事はあまり喉を通りませんでした。

 まず朝、学校に着くと、お座なりに井畑さんと挨拶を交わします。しかし、教室は、その井畑さんがいるのです、居続けるには、あまりにも私に対し、茨でありました。

 私が悩み、苦しんでいること。その事に、井畑さんは気付いていてくださっていました。それはとてもとても有り難いことです。ですので、そのお座なりの挨拶の後、彼女は無用な深入りを避けてくださいました。しかし、どちらが幸いだったのでしょうか。彼女に『お菓子を食べ』させてもらうこと、味も分からず、ただそれを咀嚼して飲み込んで、ああ美味しいねと、これまたお座なりの笑顔を作ることと、それとも、よりいっそう、彼のことについて考え……いえ、彼がいるからこその悩みを募らせることと、本当に、どちらが、より正しく、より私にとって、そして彼にとって、幸せだったのでしょう。

 今になって分かります。私は、勿論彼にとっても、そして井畑さんにとっても、彼女とお菓子を食べた方が、良かったのだと。

 人は、成長するにつれ、仮面が増えていきます。仮面は、自己に、時になり得ます。つまり、お座なりだった物が、いつしか自分自身になることもまた、あり得たのです。そうすれば、また、許すことも、私にはでき得たと思うのです。

 しかし、私は、どこまで阿呆なのでしょうか。懊悩の、苦悩の日々を、自ら選んだのでした。

 食事をする場所すら、ない。誰の人目にも、付きたくない。

 そうして取った行動は、誠に馬鹿げた物でした。登下校は一人でしました。授業の合間は全て、トイレの個室にこもっていました。勿論、昼食のためのお昼休みも、です。トイレの個室でお弁当を広げ、そして少しだけ食べては、休み、また少し食べて、休み、お昼休みの時間をほぼ全てかけ、お弁当を食べました。それが、あの日からの私の日常でした。

 ただ、その当時は分かりませんでしたが、今になって分かる幸せを、ほんの少しだけの間つかむことができるようになる出来事が、ある時、訪れました。

 その晩、私は矢張り中々寝付けず、しかしいつしか眠りに落ち、そして、夢を見ました。恐ろしい、とても、とても恐ろしい夢でした。

 幸せそうな男女が、歩いていました。女の人はお腹がふくらんでおり、それを愛おしそうに撫でていました。もう片方の手は、男の人に絡ませていました。

 その顔を見て、私は愕然としました。男の人は、彼でした。女の人は、井畑さんでした。

 場面が変わります。どことも知れない、薄暗いアパートの一室でした。私は生暖かい物にまみれていました。女の人の屍体と、男の人の屍体が、並んで私の前に転がっていました。私は咄嗟に右手を見ます。大きな包丁が握られていました。

 私は悲鳴を上げませんでした。更に怖ろしいことを、行いました。男の人は、やはり彼でした。女の人も、やはり井畑さんでした。私は井畑さんのふくらんだお腹に、包丁の刃を突き立て、死んでいるのに血しぶきが飛び散り……。

 そこで、目が覚めました。自分の叫びで目が覚めました。そして、先ほどまでの出来事が夢であったことに、気付きました。

 私は、もう、ここまで狂っている。

 そんな私に、もう、彼を手にすることなど、できない。

 私は、部屋の机に置いてある聖母マリアの像に、すがるように、泣きながら祈り、懺悔の言葉を何度も口にしました。憐れみたまえ、主よ、聖母マリアよ、この矮小なる子羊を、どうか。

 夜の青白い光に、活けてあった白百合が、ぼうっと、妖しく、美しく光ります。

 私に頼れるのは、最早、それだけでした。

 私は、まだ奪われてはいない。白百合が、聖母マリアが、いるのだから。

 そんな私が狂っているのであれば、もう、悩むことなど、まったく、意味がない。彼が、私と共にあることなど、あり得てはいけない。

 その朝から、私は再び、あのお二人との親好を、温めることができるようになりました。当然、トイレでお弁当を食べる、などという馬鹿げた行為も、それっきり、終わりました。

 狂った私の、正常という仮面でした。

 



 先ほど、小さな過ちから、大きな過ちは起こる、そう私は申し上げました。今犯している大きな過ちも、これらのほんの小さな過ちの連続によって、構築され、実現され、実行されているのだと、そうはっきりと断言できます。最初の小さな過ち、つまり、正しいと思って行った過ちこそが、全ての元凶、始まりなのです。

 これを運命と呪うことは、簡単でしょう。これも父なる神の定めた、私の生であると断ずることは、非情なほどに簡単でしょう。しかし、私はこう考えています。神は、神のなす御技はその御技によって解決されるのでしょうが、人の為した人としての行為に対しては、人の手によって解決させるのだ、と。それは、教会に通ってこそいないものの、神について学び、教わったから出しうる結論なのかも知れません。ですが、私はそれこそが真理であると、確信しています。

 六月が過ぎ、七月ももう半ばでした。蝉が鳴き、空は青さを、雲は白さを、日に日に増していました。

 正常という仮面を被り続けて、もう随分と過ぎました。それは己の一つになりつつあった、と普通の方ならお思いになるでしょう。しかし、私は本物の気狂いでしたので、その仮面は、夏の長期の休みになっても、まだ仮面のままでした。

 何故なら、あの夢を、見続けていたからです。

 ある時は、女の人が西野先輩であったり、あのファーストクラスで出会ったスチュワーデスさんだったりしましたが、一番多かったのは、井畑さんでした。

 私は、こんなにも人を殺したいと願っている。

 そんな私が、いくら正常という仮面を被ろうと、狂っていないと断言できようはずがない。

 その夢は、何度見ても恐ろしく、そして何度見ても結末は同じでした。私が一組の夫婦に出会い、その夫婦を胎児ごと薄暗いアパートで惨殺し、あまつさえ屍体を損壊してしまう。そう決まっていました。

 そのたびに私は叫びながら目を覚まし、聖母マリアに赦しを請い、願い、そして泣き濡れました。

 フェアリィがもし私と共にいてくれたなら。

 あの霊感により、私を理解してくれたなら。

 そう思い至るのは、当然のことでした。

 もう一学期も終わりそうな頃、井畑さんだけは部活で学校に残ることになり、私と西野先輩で、帰路を共にしていたときのことです。私たち二人は、春のあの日、遅い昼食を摂ったあの公園に立ち寄りました。西野先輩もまた察しの良い方でしたので、私のことを、何かと気に掛けてくださっていました。

「少し、休もうか。いろんな意味で」

 西野先輩はそういって、私を公園へ誘いました。あの時と同じようにベンチに腰掛け、ふと、空を見上げると、鳶が一羽、大きな円を描いて飛んでいました。

「フェリシティのことが気になる?」

 沈黙の内に珈琲を飲んでいると(その頃には、珈琲はもう楽しみではなくなっていました)、西野先輩は、流暢な英語で、そう仰いました。

「はい。とても気になります。彼女に会えるのが三年も後だと言うことを信じたくないくらいに」

 私も、当然のように英語で返します。日本語ではなく、フェアリィといた時間に話していた英語を話せる。それだけで、少しだけ、私の中の何かが回り始めるような気がしました。

「煙草、吸っても良いかな(Can I smoke?)」

 どこか遠くを見るような口ぶりで、まるで私という存在が霞であるかのように、西野先輩はそう仰いました。

「私などお気になさらず(Sure, as your wish)」

 言いながら、私は微笑しました。

「グラスゴーにいたときは、日本に帰りたい、せめて一日中日本語を喋っていたい、そう思うことが、たまにあってさ」

 慣れた手つきで、先輩は煙草に火を点け、煙を吐き出します。

「けれど、リリウムは、……なんて言えばいいのかな。Regal Ailien(法律で認められた異邦人)って感じがする。きっとフェリシティなら、もっと鋭く、もっと正しく、リリウムを表せるんだろうけど。あたしには、だからリリウムが悩んでるんじゃないか、苦しんでるんじゃないかって、ね」

「だから、わざわざ英語で話してくださっているのですか?」

 煙草の煙は、目には染みませんでした。ただ、立ち上り、空へ消えていくだけでした。

「そんなに大仰な物じゃないよ。ただ、きっとリリウムはフェリシティの事が恋しいんだろうな、会いたいんだろうなって、そう思って、英語を使ってるだけ」

 夏の青い空に向かって、西野先輩は、ただそうしたいのだ、という風に、煙草を持っている右手を、伸ばしました。

「だから、休んだ方が良いのかな、ってね。あたしはそう感じた。ただそれだけ」

 私は、目を閉じました。確かに、休まるときなど、あの夢を見始めてから……いえ、彼と再び出会ってから、一度たりとも無かったからです。フェアリィの霊感。それが、もしその時の私に与えられたなら。

「あたしは走るだけが取り柄だからね。リリウムは、違う」

 煙は、目に染みませんでした。当然、流すべき涙も、流れませんでした。

 珈琲を、一口だけ、すすりました。そして目を開きます。西野先輩の、悲しそうな笑顔が、寂しそうな笑顔が、私をじっと見ていました。

 あの悪夢は、私が私でいたからこそ、与えられたのでしょうか。それとも、私から何かが奪われたから、与えられたのでしょうか。

 狂気。

 悪夢の正体は、はっきりしていました。狂気だと。

「私は、先に帰らせていただきます。別にお話が嫌なわけではありませんが、一人になりたいのです」

 正常という仮面。それから吐き出される言葉もまた、段々と狂気の色に染まりつつあったような気がします。

「白百合を忘れずにね」

 立ち上がった私に、そう、西野先輩が仰いました。日本語で。最後の道しるべが、それだったのかもしれません。

 しかし、仮面は仮面でした。私は、狂っていたのですから。今に至るまで。ずっと。


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