35.リクレス城――22
「――ミア様、ただいま参りました」
「入りなさい」
朝食にも早い時間だが、いったい何だろうかと首を傾げつつ部屋に入る。
例によって大量の書類が積み上げられた机には主の姿。その左に並んだ二つの机ではリディスとエストさんが書類と格闘している。
「エスト、説明よろしく」
「畏まりました」
手伝えない自分の非力さを感じていると、ミア様の合図を受けたエストさんが立ち上がった。
最近になってつけるようになった眼鏡の鞘を整えると、静かに話し出す。
「今回の用件を端的に言うと、二つ。シオンへの頼み事です」
「頼み事?」
「密命よ。他言は許さないわ」
「ミア様の御心のままに」
釘を刺すミア様にお辞儀で応える。
武働きなら全力を尽くしてみせるが、どうも違う気がするな……俺の力が及ぶことなら良いんだが。
「一つ目は、仕事の自重です」
「――え?」
いきなり想定外の内容が来て耳を疑う。
何かしくじったか? やはり仕事ついでに新たな動きを模索していたのが拙かったのだろうか。
万が一失職なんて事になったらどうしよう。アルマあたりに頭を下げて厩舎にでも匿ってもらうか――。
『まぁ、落ち着きなよ。話は途中ダよ?』
う……。
一瞬のうちに錯綜した思考をカルナが遮る。
我に返ると、エストさんが苦笑気味に言葉を続けるところだった。
その話すところによると、これは領地を守るための策の一環だという。
領地を戦禍から守るには情報が必要だ。それには今より多くの優れた密偵が必要になる。
そこでミア様は騎士団を流用する事に決めた。
領内の村などを管理する最低限の人員を除いて騎士たちに剣を捨てさせ使用人とし、裏では密偵として働かせようという算段らしい。
段階としては、まず現在の使用人たちに無茶な命令……城の大規模な模様替えを命じる。作業が望む速度で進まないことに業を煮やしたミア様は騎士たちを強引に使用人へ変えて人手を補う。
作業が終わった後も一度使用人になった者が騎士へ戻ることをミア様は許さず、城内には手持無沙汰になった使用人たちが溢れかえる……こういうシナリオとの事だ。
「――このような事情ですので、現在の使用人たちが作業をこなしてしまっては困ります。計画実行の暁には、くれぐれも働き過ぎないようお願いします」
「な、なるほど……」
「サボりについて何か言われるようなら、頭悪い命令に従う気がしないとでも言っておきなさい。なんなら体調崩して休んでるって設定でもいいけど」
「…………何にせよ、今後出される難しい命令をこなしてしまわないようにとの事ですね」
それくらい融通を利かせても良い場面なのは確かだが、策の範疇とはいえミア様の命令にそんな事を言うのは気が進まない。
もちろん仮病で仕事を放り出すのも避けたいし、俺も何か考えておくべきだろう。
「そして二つ目の頼み事になりますが、これは密偵たちに訓練をつけてほしいというものです。幸いにして天武剋流は大陸最大の武門、余程の事でも無ければ所属の特定にもつながりにくいですし御誂え向きと言えます」
「そもそもシオンは流派の正当な後継なんだし、技なんかを伝えていくのも仕事でしょ」
「そう、でしたね。微力を尽くさせていただきます」
「用事はこれで全部。下がっていいわよ」
「密偵の訓練については、また後に連絡します」
「分かりました。それでは失礼致します」
今日は特に割り当てられた仕事も無いんだよな……どうしたものか。
自室に戻り少し考える。
昨夜考えた案に、天武剋流抜きでも戦えるよう本格的に新しい流派を編み出すってのがあったんだが……。
まぁ、優先すべきは密偵の訓練の方だよな。
新流派の事はひとまず頭から追いやり、教える予定の型や技について考える。
といっても実際、誰にどの型の適性があるかは見てみるまで分からないし……。
修行時代に分かった事だが、一口に天武剋流と言っても地域によって広まっている型には偏りがある。離れた地域に分布する型の使い手が複数行動を共にしていたら、そこから一通りの型を修めた俺、ひいてはミア様まで関連づけられかねない。
次に密偵たちと引き合わせられる時にでも、その辺りの事は確認をとっておいたほうが良いだろう。
流石に大陸じゅうの地域を網羅しているわけじゃないが、脳内に広げた地図から型の分布を考える。
想定される弟子の適性を幾つかパターン化し、技も難易度や効果を念頭に置いて優先順位をつけていく。
んー……思ったより疲れるな。
だが、これも主の為だ。
気合いを入れなおし、俺は本格的に机に向かった。