33.リクレス城――20
「――ふぅ。とりあえずこんなものか」
定時の掃除を終えて一息つく。やっぱり身体を動かすと気分が良いな。
俺は傷もだいぶ癒えてきたということで、なんとか通常業務に復帰するだけの許可を得ていた。医務室からも退院して自室に戻れたし、鍛錬を始めとした激しい動きを禁じられていること以外はもう健常体と言って良いだろう。
最後に仕上がりを確認し、ついでに今の時間にも目を通す。
今から料理の練習をするには遅い時間。
かと言って寝るには少し早い。しかし、今は鍛錬も禁止されてるしな。
ミア様の部屋からは今も明かりが漏れているが、リディスやエストさんと違って俺に政務を手伝うことはできない。
仕方ない今日はもう休むか……昨日までだったら、そうしていただろう。
だが、今日は違う。
足取りも軽く自室に戻り、アルマに借りた本を手にベッドへ転がる。
これからしばらくの間はむしろ夜更かしに気を付けるべきだろう。仕事に支障をきたすようでは使用人失格だし、そこだけは注意しないといけない。
本の内容に没頭しつつも、そうやって気を張っていたおかげだろうか。
部屋に響いたノックの音にもきちんと気付くことができた。
「シオンさん、起きてますか?」
「リディス? 何か用か?」
「いえ、特に用事は無いんですけど……今日できる仕事は片付いたので」
来客はリディスだった。
そういえばコイツが俺の部屋に来るのって意外と珍しいような気もするな。
そんな事を考えていると、リディスがじっとこちらを見ているのに気づいた。
「ん? 俺がどうかしたか?」
「シオンさんがこの時間に部屋で起きてるって珍しいなーと思ってたんです。いつ訪ねても留守か寝てるんですから」
「言われてみればそうかもな。仕事してるか料理してるか、それ以外なら寝てるって感じだし」
「最近は鍛錬も出来ませんしね」
「そういう事だ」
あっさりと思考を先回りされて思わず苦笑する。
俺の行動パターンなんて割と単純だから仕方ないかもしれないが。まぁ、勇者時代みたいにあちこちフラフラする理由もメリットも無いからな。
リディスは次に、さっきまで俺が読んでいた本に目を止めた。
「あれ? いつもと読んでる本違うんですね」
「アルマに借りたんだ。かなり面白いけど、リディスも一巻貸してもらったらどうだ?」
「このシリーズは結構長くやってますからね。最近こそ少し遠ざかってましたが、昔はわたしも読んでたんですよ」
「へぇ、そうなのか」
聞いてみると、リディスが最後に読んだという巻は俺のより進んでいた。
先の展開に関する話題を聞いたり、内容について感想を言い合ったり会話が弾む。
こっちで再会してからはこうして何でもない話をする機会はほとんど無かったからか、とても新鮮な時間に感じられた。
「――それにしても、読書がここまで面白いとなると少し困るかもな」
「そうなんですか?」
「気が付けば鍛錬とか仕事とか、その辺まで圧迫されかねないってのは……趣味を本業の妨げにするなんて論外だが、気を抜くとやらかしかねない怖さがある」
「うーん……シオンさんに関しては、それくらいでも良いと思いますよ?」
「いや、駄目だろ」
「まあまあ。今のシオンさんは真面目過ぎるというか、尽くし過ぎてて心配になる節がありますからね。そういう……利己的なところが出来るのは良いことですよ」
「そういう物か……?」
心中でカルナにも意見を求めるが、返事はない。
リディスはこの悪魔にあまり良い感情を持っていないからか、彼女と話しているときにカルナは引っ込んでいる事が多い。
気を遣ってるんだろうか? それでもこっそり意思の疎通を図るくらいは問題ないと思うんだが……。
この話題を続けても分が悪そうなので、矛先を逸らすことにする。
「ところで政務の方の調子はどうだ?」
「え? んー……微妙ってとこ、でしょうか。表向きの均衡は保たれたまま、緊張がどんどん高まってる感じです。動きも地味ですし、中々に神経が擦り減ってます」
「実力がほぼ等しい両者共に隙が無くて、どちらも小技で様子を見るくらいしかできない状況か」
「どうしてその例えになったのか分かりませんが、間違いではないですね。設定を付け加えるなら、どちらの武器にも毒が塗ってあって傷が蓄積していってる状態です」
「少しずつ間合いを広げて逃げるってわけにはいかないのか?」
「どうやって領地ごと逃げるって言うんですか……」
思い付きを口にしてみると、リディスは呆れ顔で溜息を吐いた。
うっかり失念してたが、そういえば元々は国レベルの話だったな。
「――そういえば最近、リニジア領は制圧されたらしいですね」
「っ!?」
なおも俺が頭を捻っていると、リディスは世間話の延長のように新しい情報を告げる。
それはつまり、セム=ギズルがいよいよリクレス領に隣接してきたって事だ。
つい忘れがちになっていたその問題の現在に、心臓が止まりそうになった。