上り
鉄道好きの人友達になってマジでお願い。
あたしにはサボり癖がある。成績は決して優秀じゃない、というよりぶっちゃけ下の上くらいで、その結果を見ても親はまだ「お前はできる子だ」とか何とか過剰な期待を寄せる。学校がなまじそこそこのレベルだからマシなように錯覚してしまうが、学力は当人が一番知っている。宿題もあまり提出率がよくない。
だからと言ってそれを『逃げ』の一言で断じられてしまうことには納得がいかないが、客観的には『逃げ』だろうことも理解できてはいる。これでもモノを考えてはいるのだ。政治とかチョー得意。
今日で、学校をサボるのは三度目になる。
あたしの登校ルートは、次のようなものだ。
まず、一キロ強先の最寄り駅まで自転車。そして、その駅を七時頃に出発する快速でターミナルまで行き、JRに乗り換えて学校につくのが八時半。
サボるにあたって最大の難所は、いかに親の目をごまかすかだ。サボろうと決めた朝は、学校にケータイから連絡を入れる。それから、いつもとなんら変わらない様子を装って家を出、何らかの形で時間をつぶし、普段と同じ時間帯に帰宅。ちょうど五時前になる。これが大まかな流れだが、いつも時間のつぶし方がネックになる。まず思い浮かぶのが喫茶店だが、平日の朝から夕方まで制服で入り浸っている女子高生は、いかにも目立つ。次に図書館。これは、例えば制服姿での外出が校則に定められている学生が何らかの理由で休んだ、みたいな感じにはなるものの、図書館ですることが思い浮かばない。読書は性に合わないし、勉強は論外(それが嫌だから学校をサボっている)。当然、書店は二重の理由であり得ない。
となると、どこか一か所に入り浸ることは難しくなる。そこで考えられるのが二パターン。サイクリングと、電車。サイクリングは一見よさそうに見えるが、実際、過去二回は夏場だったから採用したのだが、いかんせん今は十一月。なれば、おのずと選択肢は絞られる。
通勤路線で日帰り旅だ。
一昔前までは、あり得なかった。最寄駅からいくら長い間のっていても、豊島区から先へは行けなかった。逆方向に進んでも、秩父が限界。だが、今は違う。今は、あたしの天下たる時代。すなわち『大直通時代』。待ち合わせ場所に、フクロウだけでなくワンちゃんも選べるようになった。花の神奈川県へも足を延ばせる。さらに、一部路線とは改札を通らずに乗り換えが可能なため、近いようでいけなかった高島平駅や、やや面倒ではあるものの千葉の津田沼などへも。あたしは決して『乗り鉄』ではないが、乗りつぶしへのロマンは人より旺盛だ。
ビバ、相直!
実は、どこか近代的な黄色一色の車両は比較的新型らしいが、あたしは車両に詳しいタイプの鉄子ではない。自称『システム鉄』。決して信号機やポイント、CSTといったものではなく、直通運転と言った『路線システム』とでも言うべきものだ。あるいは、比較的得意な地理への興味が派生したものでもあるかもしれない。日本の鉄道網は、近接した都市を一体化してくれる。広大な都市の形成は、経済を活性化させる。だからみなとみらい線は直通先を譲るべきではなかったと思う。根岸線の煩雑さは正直手に負えない。あんな風になってしまっては、みなとみらい21地区は国内最大の鉄道会社であるJRの恩恵にあずかれない。故に、あたしは決してあの大手私鉄を、おっとこんな愚痴は聞かせてもしょうがない。なんだかんだいって、あたしもこの横浜直通システムによって商業エリアに直接アプローチが可能になっているのだから。
東京の郊外にあたる地域では、七時台でも人は決して多くない。隣の駅でお祖母さんが乗りこんできた。杖こそついていないが、やや危なっかしい足取りだ。座っていたあたしは半ば反射的に、周囲を見回す。空席はある――ようで一つもない。あいているように見える三つの席は、それぞれ「股を開いたワイルド()なフレッシュマン」「中途半端な位置取りで座っているおっさん」「耳の裏に赤ペンを挟んで競馬新聞を広げる偉そうな親父」の妨害工作を受けている。共通点が垣間見えたような気がしたのは気のせいだろうか?
いずれにしても、おばあさんが座るのに満足な幅は残されていない。おばあさんも、あたりを見回して少しだけ困ったような表情をする。それから、それを見られないようにするかの如く顔を引き締めて、車両の前方、あたしのいる方向へ歩いてくる。これは、譲るべきなのだろう。
「あの」
そう言って腰を持ち上げる。しかし。
「あれ?」
確かに声をかけたはずなのに、おばあさんは気づかないような素振りで半立ちのあたしの目の前を通り過ぎる。耳が悪い? それとも譲られたくないの? いずれにしても、無視のしようがない状態にすればいい。あたしはおばあさんの肩を優しく叩いた。
「席、どうぞ」
「あら、ごめんなさい」
愛らしい顔立ちに何本も深いしわを刻んだ、やや前かがみの女性が、首だけをこちらに向けて柔らかく微笑んだ。かわいい……。
「でも、お嬢ちゃんが座っていいわよ。気持ちだけ受け取っておくわ」
「え? ……何でですか?」
小さく素っ頓狂な声を上げて訊ねるあたしに、おばあさんはなおも表情を変えずに答えた。
「お嬢ちゃんが気遣う必要なんてないの。そう、お嬢ちゃんはね」
ちらりと、態度の悪いフレッシュマンに視線をぶつける。
「お譲ちゃんは、いいことをする気持ちがあるっていうことを誇りに思っていればそれでいいのよ。ちゃんと周りに気を配れて、勇気もある。だから、得をして」
呆気にとられるあたしをよそに、おばあさんはまた不安定な歩き方で車両内を移動していく。表情は柔らかいまま固まっている。こわいい……。
気付けばおばあさんはもう、連結部のドアの取っ手に手をかけていた。しかし、車窓の向こう側にはカーブが見えている。
「ああ、もうっ!」
マナーも何も無視して、電車の中を疾走する。足の速さは特筆すべきほどの特徴がないが、彼我の距離は十メートルもない。途中革靴を踏みつけたものの、何とかおばあさんのもとに到着、転びかけたところを支えるのに成功した。
「あらあら、ごめんなさいね」
今だけ、一層頬のしわを深くしておばあさんが言う。
「いえ、また一つ徳をしました」
一瞬あたしの言葉の意味を考えてから、おばあさんは思わずふふっ、と声を漏らした。
「ごめんなさいね」
また、もとの柔らかいだけの表情に戻ったおばあさんが取っ手に手をかけ――る直前にあたしがそれを先取りしてドアを開く。やるなら最後まで。
そのあとおばあさんが席を確保したのを見届けてから、周りに空席を探したが、そうそう都合よくも行かず、もとの車両に戻るとすでにあとから来た人に席を取られていた。でも、損した気分はしなかった。むしろ徳した気分。……しょうもねー。
いよいよ電車の中は人が増えてきたが、決して本一冊開けないというようなほどではない。まだ競馬新聞は大きく広げられている。練馬区に入ったあたりからが本番、とは誰の言だったか。おそらくあたしだ。
快急も止まるような巨大駅を過ぎたあたりからはいよいよ畑もなくなってきて、だけど練馬だけあってビルもなく、中途半端なサイズの建物が立ち並ぶ。練馬区民の方、すみません。
この時間帯に副都心のど真ん中に行くのは気が引けないではないが、まあ八時前だ。本を読む程度のスペースはとれるだろう。
と、思ったのに。
「……」
結構満員だった。愚痴を漏らすのに気が引ける程度には。その環境下で、少しだけ首を下に向けると、そわそわ周りに目をやる小さな女の子。母親と思われる化粧乗りの悪いスーツの女性は、われ関せずとばかりにスマホに目を落としている。盗み見たらSNSだった。
正直言って、女の子は迷惑だった。落ち着きがないし、たまに座りこまれたりすると皆が気遣って少し離れる分混雑が悪化する。だが、迷惑になるのが明白にも関わらず連れてきて、さらに無視までする。こういうのがいるから電車を避ける輩が出てくるのだ。とりあえず鉄道会社は風紀の向上に努めるべきだと思うがそれはまあ置いておくとしてひとまずこのオバサンをどうにかしなければ。
「……あの」
なれど悲しいかな、あたしはそう普段からガツガツ積極的に正義を振りかざすタイプの人間ではない。いまいち声が出ない。さらにちょうど駅に到着したこともあり、ノイズにまぎれて声は届かない。電車が動き出したタイミングで、あたしは再び声を発した。
「あの」
「……」
――無視かよッ!
思わず口をついて出そうになったセリフをこらえる。顔をしかめて口元を歪め視線を外すと、こちらを見上げていたピンクのワンピースを着た女の子と目が合う。少し怯えたような色を瞳に滲ませて、されど猜疑心に満ち満ちた表情であたしを見上げる。違う。その感情が向けられているのはあたしではない。すぐに分かった。小さい頃は隠しても感情が外に漏れるものだ。
その情動に気づかない母親は何なのか。
意を決して、あたしはオバサンの後頭部を睨みつける。
「あの!」
すぐそばで漏れたクスッという笑い声は、どうやらこちらの様子を観察していた男子学生のものらしい。そちらに目を走らせる間に、母親がこちらに顔を向ける。その顔には苛立ち、その手にはイヤホン。何大音量でヘビメタ聞いてんだオバサン。外部の音を聞く意思が一切なかった。
「何でしょう?」
「放任主義って言葉、そのスマホで調べてみてください」
ッ。
おい今この人舌打ちしたぞ。
「ごめんなさいね。何かご迷惑をおかけしたかしら、私が」
即座に話し、かけて口をつぐむ。ここで女の子のことを持ちだせば、女の子が叱られる。そして、女の子は今以上に母親に怯え、母親を疑い、最後は小さくなる。
『ごめんなさいね』と『私が』。この二つであたしは封殺されているというのか。甚だ不本意かつ腹立たしい。
「謝らないでください。ご迷惑をおかけされているのは、あたしじゃなくて娘さんです」
改めて左手薬指のエンゲージリングを視認しながら言い放つ。証拠にはならないが、指輪は重要なファクターになり得る。一割くらいはハッタリだが、どうやらあたりだったようだ。顔が少し強張った。でも、軽薄なあたしでもそれを見て笑う気にはならなかった。こういう人間は単純に嫌いだから。悪くない頭を良くない目的に使う人間。
女の子に視線を向けると、小さなリュックサックから引っ張り出した板をこちらに差し出していた。手に取ってみると、四×四サイズの板が十五枚並び、それぞれ一から十五までの数字が書かれている。珍しくもないパズルだ。この手の遊びはめっぽう弱い。でも揃っているから解いてみろという挑戦状ではないようだ。笑顔のまま首をかしげて見せると、「あげる!」と言う快い返事。
「……ありがとう!」
どうしろと。
渋谷で、大部分の人が入れ替わる。席が空いた一瞬を狙って席を確保しようかとも思ったが、見込みもメリットも薄い。周りからの痛い視線に耐えてまで座ろうとは思わない。おとなしくドアのすぐ脇に小さくなってはいりこんだ。周りにかける迷惑がほぼゼロだ、と思えるからなのか、非常に安心する。あるいは、気にすべき方向が前と右だけだからか。なんにせよ、ベストポジションだ。
乗っていた通勤急行は、この駅で通勤特急にクラスチェンジする。とはいっても、この時間帯における最優等列車であることに変わりは無い。単純な名前の違いだ。そう言えば、南北両方の直通先は、地下鉄内での等級、例えば各駅停車やら急行と言った種別は案内するのに、その先については教えてくれない。例えば横浜から川越や秩父に行く人なども多いであろうことを、どの会社も予想しえただろうに。これに関しては個人的に少し不満だ。あと直通電車は各駅にしかならない某路線もどうにかすべきではなかろうか。あれで喜ぶのは、某路線のターミナルへの人の集中を避けられる某路線の会社だけだろう。
などと考えているうちに、電車は一つ駅を通過して最初の停車駅についた。渋谷駅の混雑を少しでも緩和すべく建設された地下鉄のターミナル駅で、全種別が停車する。同一ホームでの乗り換えが可能で、この場合下り線だから一方的に客がこちらへ流れ込んでくることになる。あたしは素早く足元のバッグをさらに後ろへ追いやった。階段が遠いあたしの位置では降りる客が無く、それに気付いたホームの列が一気に流れ込んできた。それなりの量だ。下りですよね?
とはいえ高が知れているのも事実だ。ドアが閉まってからあたしは詰めていた息を吐いた。
ドアにはめ殺しになっている大きな窓の外に、高架のすぐ脇まで迫っているマンションのような何かが並んでいる。あまり面白い類のものではない。つまらなくなって車内を見回す。
「あの、すみません」
横合いから男性の声。なかなかにさわやか。「何でしょう?」と向き直って硬直。
「落とされました?」
――落とされかけてますあなたに!
内心で変な突っ込み。いやむしろボケの類か。声に出すのはあまりに恥ずかしい。ただひたすらに赤くなって直立。
「あれ、違いました?」
すごくイケメンだと思う。きっちりホックまで留めた学ラン。清潔でひげの剃り残し一本ない顔。長すぎず整えられた黒髪。少し吊り気味の眉と、それに対してやや垂れ気味な目。少し困惑しているよう。あああたしのせいだった。
「すみま……せん、なんですか?」
み、が裏返った。危うく舌を噛み切りかけて慌ててブレーキをかけてみたり。
「これ、落とされました?」
しかしそれを気に留めた様子もなく、困り顔を和らげて青年が尋ねる。その手に、黒のレースで縁取られたピンクのハンカチ。
どうも。
と言いかけて停止。
いえ違います。
というのはセリフそのものが間違っているから却下。
いやー、どうでしょう?
これは相手が腹を立てるから論外。
どんな返しが適切か。あまり時間はかけられない。
「えーっと……ええ、まあ、はい。そうです」
「やっぱりそうでしたか」
どうぞ、とその布切れを差し出してくる青年。
「……あッ! そうだ、何かお礼をさせてください!」
「え?」
周りの人たちがこちらを見る。少し首をすくめてから、声のボリュームを落として続ける。
「拾ってくれたお礼ですよ。どうですか? 今度、……お茶でも」
「いやいやそんな、そんなつもりじゃなかったですし」
「でも気が済まないです! ぜひ! あた、私とお茶を!」
「いやぁ、でも……。まあ、そこまで言うなら断るのも無神経かもしれませんね。ありがたくお受けします」
「……よかったぁ」
「よかった?」
「ああいえ、別に何も。いつにします?」
とりあえず。そう言って青年はハンカチを交わる視線の間に割り込ませた。受け取ると、再び顔を現した青年が声を発する。
「ここで相談するのもなんですし」
そう言って、ガラケーを取り出した。
次の駅で青年が降りてから、あたしの顔は知らずほころんでいた。それに気づいて、あわててグニグニと口元を揉む。それはもう、痛いくらいに。
痛かった。そう言えば口内炎があるんだった。血の一つや二つ出ているかもしれない。
まさかメアド交換をできるとは思わなかった。さらに電話番号まで。あたしのガラケーはホクホクだ。一駅と走らないうちにメール編集画面を開きかけて焦る。我ながら馬鹿すぎる。いや馬鹿なのは知っていたけれど。代わりに脳内に記録していた青年こと橋本多南士君の顔を思い出す。やばいキラキラエフェクトとバラの花とロングまつ毛とうるうるの瞳が脳内補完されてる何このフランス革命。アンドレー!
トンネルに入ったと思ったらすぐに駅を通過。二面四線になっている。あたしの記憶が正しければしばらく並行して走るはずだ。すぐにトンネルを抜け、再び日の光のもとに。あ、配線面白い。次の駅も通過すると、崖の間に。と思ったら十メートルもせず幅広の川の上に。わたってカーブを曲がりきるとすぐ三つ目の通過駅。に入線する前に駅到着のアナウンス。近ッ。
結局、駅間距離は目測で百メートルもなさそうだった。むしろ通過駅の方は廃止していいレベル。
停車した駅は、通勤客が多いようだった。神奈川臨海部まで電車で一本だったり、工業化が進んだりして人口が増えたために再開発も進んだ地域、というのは鉄道好きゆえにいつの間にか手に入れていた情報。実際、タワーマンションやちょっとした商店街、ショッピングモールなど、人口が増えるのに条件はほぼそろっているように思う。ちなみにターミナルではない。
ここで大幅に乗客が増えた。ほとんどが苦しそうなスーツ姿だ。そして、汗臭い。混雑度が下りと思えないほどだ。あ、蹴られた。っていうか痴漢されても気づけない気がする。なめられたら――痴漢的な意味ではなく精神的に――困るので、嫌がられても恨まれないような感じで邪魔な足を順に踏みにじる。聞こえた舌打ちが一つとかこの人たちマジ邪魔だっていう意識高いなあ。田舎モンじゃない。でも避けられた。内心でよっしゃ、と拳を握る。あたしの心理操作スキル高くない?
発車は滑らかとは言い難いものだったが、走り出せばなんてことは無い。スルスルと平行移動していく。と思ったら上り坂。足を突っ張って周りにもたれかかるのをこらえる。これ以上迷惑をかけるのは電車好きとして不本意だ。……もしかして電車のモラル低下はこうして作られるのだろうか。
埼玉在住でも聞き及ぶ展望デッキ付きの駅にも興味はあったが、今はひとまず先を急ぐ。だって最優等列車乗っちゃったし。
噂の直通拠点駅で乗客を増やして電車はなおも先を急ぐ。おそらく乗車率は百パーセント超。まあ通勤時間帯だし多くは望まないけれど、やはり臭いのは好きではない。たまに誰かがガス噴霧するし。おとなしくぺたっとドアにへばりついていたら、いつの間にか地下に。違った。駅が暗いだけだった。することがないので向かいのホームに手を振ってみる。OLさんが胡乱げな眼差しをこちらに向けてきた。じゃないや。胡散臭そうな視線。
間を四駅も飛ばす割に、退避設備が一つもない。そのため、地下に入るあたりではかなりゆっくりの運転になっていた。優等列車なのに。作れそうなところあるのにな。
やがて、電車は巨大駅・横浜に到達した。
地味に最後まで行かない(笑)