俺のパンツが消えたんだけど
【英雄衝動】
【偽らざる摯実の咆哮】
「お兄ちゃん、ちょっといいかな」
「んむ?」
俺が風呂から上がると、妹の詩織が話しかけてきた。
しかし、何とも微妙なタイミングだな。
バスタオルを腰に巻いた状態で自室に向かっている所を呼び止めるとは。
俺が服を着終わるのを待てばいいのに。
「えっとね、いきなり変な質問するんだけどね」
胸の前で指を絡ませながら、もじもじとしている。
むぅ、早く切り出せばいいものを。
それより、話は後にして欲しいんだけどな。
まあ、今の状態で話しかけてくるってことは、急ぎの用なのだろう。
「なんだよ」
「体育の日って、いつかな?」
「……えー、お前の学年の時間割なんて知らんぞ」
「違うって。お兄ちゃんの学年の体育だよ」
「俺の?」
なぜ俺の学年の体育?
問い返そうとも思ったが、ここは素直に答えておく。
「あー……月・水・金だったかな。それがどうかしたか」
「ううん、特に意味は無いんだ。というより、今日は体育があった日なんだね?」
「月曜日だからなぁ。体育を抜けだしてコンビニでサボってたのがバレて、放課後3倍の距離を走らされたんだけどな」
やっぱ人間、悪いことはするもんじゃない。
5Kmマラソンを3回分走ったものだから、足がヘロヘロになってしまった。
今ならパンチの風圧だけでもダウンしそうだ。
「そっかぁ、大変だったね。それじゃ、明日小テストがあるみたいだから、部屋で勉強してなきゃ駄目だよ」
「お、おお」
そう言って、詩織は洗面所に歩いて行った。
さっきの意味が不明瞭な質問は何だったんだ?
とりあえず、俺は湯冷めしないように階段を登りはじめた。
◆◆◆
――一週間後
俺は姉の部屋を訪ねていた。
「姉ちゃん、もしかして洗濯物洗うのサボってる?」
「え? いや、そんなことは無いと思うけど……どうして?」
「下着が少ないんだけど」
おかしい。実におかしい。ちゃんちゃらおかしい。
とまあ、冗談は置いといてだ。
この一週間で、俺の下着が姿を消した。
気付いたのはついさっき。
風呂から出て新しい下着を取り出そうとしたら、下着が何枚か少ないことに気付いた。
元々5着を着回しているので、洗濯の怠慢で間に合わなくなることはそうないはず。
そう思って、洗濯担当の姉ちゃんに聞いたわけなのが……
「……そういえば、あなたの下着が洗濯カゴに入ってなかった日があったかな」
「……というと、曜日で教えてくれるか?」
「月・水・金の日は、下着がなかったよ。おかしいなとは思ったけど、放置しといた」
漫画をパラパラめくりながら、姉ちゃんは淡々と応える。
その漫画は、表紙がピンク色と紫色によって塗られており、タイトルには
『少年の禁断突破~俺とお前の同性婚~』
なる文字が踊っている。
……あのさあ、そういう趣味があるのは別に良いけど、
俺の前では隠してくれないかな。せめて。
「てか、何で教えてくれなかったんだよ。月曜の時点で気づいてたんだろ?」
「だってさー、男の子が自分で下着を洗ってたら、そっとしといてやれって」
「……ぬ」
「『兄弟恋愛のすゝめ』に書いてあったし」
「いや、そんな意味の分からんモンから知識を吸収するなよ」
「でも、ゾルバディアポゲロス先生が書いた、今は絶版の良作なんだよ?」
「そんな事情なんて知りたくない」
そこはかとなく地雷の匂いがする書物だな。
地雷の匂いっていうか、腐臭なんだけど。
というより、何だそのペンネーム。ゾルバディアポゲロス?
「じゃあ、俺の下着が突如なくなったと、そういうことか?」
「そういうことになるね」
「んな馬鹿な。いつからミステリーハウスになったんだよウチは」
下着がいきなり消えるって何だよ。
それだけ聞いたら物凄く心躍る文面だが、俺の心は冷め切ってばっかりだ。
俺がうんざりしていると、姉ちゃんが神妙な顔をして何かをつぶやきはじめた。
「……下着が消えるミステリー。午後の自宅は犯罪の香り……」
ほほぉ、昼の刑事ドラマのタイトルに例えるか。
面白い、しばらく拝聴してくれる。
「……謎の男がふすまに隠れ、離れた隙に下着を奪う。そして舞台は津軽海峡」
「ん?」
「……許されぬ愛は海峡を超えて。津軽どころかドーバー海峡」
「…………」
「……今ひとたびの衆道経験、剥ぎ取られていくトランクス。お返しとばかりにあなたのボクサーパンツ。あなたはその時何を思うっ!?」
「よし分かった。そこまでだ」
「何を思うっ!?」
「黙れ」
俺は半ば姉ちゃんの口を塞ぐようにして暴走を押さえ込んだ。
飛躍した話を打ち切り、そのまま黙らせる。
まったく、ちょっと眼を話した隙に、そっちの世界に入り込みおって。
別に否定はしないが、もう少し閉じられた環境で楽しむべきものだろそれは。
俺が辟易していると、再び姉ちゃんの目に闘志が宿った。
正直、嫌な予感しかしない。
「もしかしてBL嫌いなの?」
「どちらかといえば」
「好きと」
「お前の頭をシェイクしたくなってくるから惚けるのはやめろ」
「うぅ……私の趣味を理解してくれないなんて」
よよよ、といきなりハンカチで目尻を拭い始めた。
こういう時だけ演技派だから困る。
このまま絡まれ続けるのもなんなので、俺は姉ちゃんの部屋を後にした。
◆◆◆
「……むぅ」
それにしても、何故俺の下着が消えるんだ。
俺の管理能力は期待できないが、少なくとも衣服を紛失するということはありえない。
ということは、誰かに盗まれた?
まさかな、俺の下着盗んで喜ぶ奴が、この世界のどこに居る。
考えただけでも鳥肌が孵化しそうだ。
まあ、考え過ぎかな。
意外と寝ぼけてゴミ箱にでも突っ込んだのかもしれないし。
深く考えるのはやめよう。
「お兄ちゃん」
「ん、どした詩織」
「……宿題が分からなくて」
「珍しいな。お前が勉強で悩むなんて」
姉ちゃんと俺はともかく、詩織は学年内でトップクラスの成績を誇っている。
高1にして大学の入学試験を教材にしていると聞くほどだ。
一応俺としても打ち漏らした教科はないはずなので、教えることは可能だと思うが。
「教科は?」
「数学。ちょっと複雑すぎて頭がメダパニ状態なんだ」
「分かった分かった。すぐにキアラルダンスを踊ってやるから、部屋で待ってろ」
「うん、でもちょっと遅めに来てね。なんなら風呂に入ってからでもいいから」
「あ……あぁ」
そう言って、詩織は階段をトテトテ昇っていった。
むぅ、数学ねえ。
苦手とは言わないが、目立ってできる教科でもない。
だが、所詮は高1の範囲。対応できないこともないだろう。
ちなみに、きょうだい間の学力を等号で表すと、
詩織>俺>>>>>>∥越えられない壁∥>姉ちゃん
こんな感じ。
ちなみに姉ちゃんの学力たるや、
「姉ちゃん、掛け算って知ってる?」
「馬鹿にしないでよ。男の子と男の子をつなぐカップリング表記に使われる――」
「よし、黙れ」
この会話の後、目頭が熱くなってきたのは言うまでもない。
姉ちゃんが期待できない以上、俺が助けてやらねばならない。
遅めに来てねと言われたが、案件は早い所片付けて寝たい。
ここ最近は不気味な事がありすぎて疲れた。
妹の「遅めに来てね」発言をさらりと無視し、俺は階段を登りはじめた。
詩織の部屋の前に来て、声をかける。
「詩織ー、入るぞ」
「わわわっ! ちょ、ちょっと待って!」
中で凄まじい音が発生する。
俺の声に驚いているのか、物凄い暴れ方である。
そして、身体を家具にぶつけたのか、ゴスンという音が響いてきて、部屋の中が静かになった。
まずい、頭でも打ったか?
気絶しているのかもしれないし、手当がいるか。
「入るぞ」
俺は勢い良くドアを開け放った。
すると、目の前には驚愕の光景が広がっていた。
そ、そうだな。
この驚愕を顔に出さず、落ち着いて現状を整理してみよう。
まず、この部屋には詩織がいる。オーケイ、それは当然だ。
ここは詩織の部屋なんだからな。
そして、今詩織は眼を回しながらベッドに倒れ込んでいる。
おそらく、俺の声に驚いて飛び起きて、ベッドの天蓋に頭を打ち付けたのだろう。
そりゃあ気絶もするよな。
だが、ここからが異常だ。
なぜなら、妹が手に握っているものは、俺がこの一週間、探しに探したものだったからだ。
すなわち、俺のパンツ(トランクス)。
そして、俺の薄手のTシャツ(おそらく体育の日に使用したもの)
……それをさ、持ってるだけならまだいいよ?
よくないけど、倫理的にはまださ。
だけど、パンツを頭に被ってるんだよ?
なんか変態プロレスラーのショーで見たことあるよ、あれ。
いきなり
「URYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY!」
とか叫びだしそうな、そんな雰囲気なんだよ? あれは違うけども。
しかもこの妹さん、下はいてないんですけど。
俺の汗を散々吸っていると思われるTシャツを、まるでジーンズのごとくお洒落に着こなしている。
どんな最先端ファッション? SAISENTANファッション?
それにしても、予想外だった。
下着泥棒の犯人、ここにいたよ。
と、眼を回していた詩織が、意識が回復させたのだろうか、周囲を見渡し始める。
そして、俺と眼があった瞬間、顔が幽霊のように青ざめる。
段々その色は濃くなっていき、ソーダアイスよりも蒼くなっていく。
青くなってから数秒後、現状に気付いたのか急に顔を赤らめ始めた。
手をあたふたと振りながら、必死に弁解をしようとする。
「お、お兄ちゃん……? な、何で?」
「俺が訊きたいんだけど」
「こ、これは違うんだよっ!?」
「何がどう違うのか、俺にも分かるように教えてくれ」
錯乱しているのか、いきなりベッドの下に下着を隠そうとする。
いや、まったく意味ないから。
現場押さえたからね?
現行犯逮捕だよコレはもう。
「そうか……俺の下着たちはお前に誘拐されてたんだな」
「誤解だもん! そんなことしてないからっ!」
「じゃあ誤解を解く努力をしようなー。この状況でどうやってお前以外に犯人を見つければいいんだ?」
ずびしっ、と指を我が下着に突き付ける。
だが、詩織の錯乱は留まることを知らない。
「わ、私じゃないもん! もう一人の内なる人格がこんな行為に走らせたんだから!」
「中二病に走っても駄目だ」
「お兄ちゃんの下着が盗んでくれって直訴してきたんだよ!」
「そんな変態パンツに育てた覚えはない。てか、パンツが喋るかっての」
「ワタシハー、シオリチャンニー、ヌスンデモライタカター」
「腹話術の勉強をしようなー」
「逆になんで盗んじゃダメなの!?」
「ここで逆切れ!?」
詩織は両手を振り上げて自分の正当性を保とうとしている。
しかし、その両手には下着がしっかりと握られており、もはや説得力は皆無だ。
「妹がお兄ちゃんのパンツを欲しがるのは当然のことなの!」
「んな当然がまかり通るか。世界中の妹に謝れ」
「ごめんね、私……」
「世界で妹はお前だけなのかよ。いや、ロマンティックとかそういう意味じゃなくて」
おっと、いかんいかん。
詩織のペースに乗せられてしまっては、話が向こうの有利な方に進んでしまう。
さすが我が家の有望株。知恵だけはありやがる。学年一位の実績は伊達じゃないな。
だが、道徳はどうした。
倫理はどこに置いてきた。
「それで、どうしてこんなことをしたんだ?」
「……言わなきゃ、だめ?」
「言わないと飯抜きな。勉強も教えん」
「じゃあいいもん。絶食くらい耐えれるから」
「分かった。もし言わなければ、二度とお前に近寄りたくない気分になりそうだ」
「そ、それは嫌っ!」
「なら言うんだ」
「……うう、お兄ちゃんの意地悪……」
意地が悪いのはどっちだ。
人の下着を盗んでおきならがらダンマリが許されると思うなよ?
俺は家族に対しては他人以上に厳しくする主義だ。
姉ちゃんのせいでこういう性分になってしまった。
「それじゃ、目を瞑って」
「は?」
「目を瞑って……」
「あのな、俺は動機を訊いてるんであって――」
「……お願い」
胸の前で手を組み、目を潤ませながら懇願してくる。
というより、一筋の涙が流れ始めていた。
……マジですか。
そんなメンタル弱かったっけお前。
罪悪感がふつふつと沸き上がってくるのを感じて、俺は折れた。
「……分かった。よく分からんが、早く話せよ」
「うん」
そうして、俺は目を瞑った。
なにやら最後の返事は、やけに口調が軽かったように思えるが、まあ気のせいか。
――シン
あたりが静まり返り、夜の静寂が耳に入ってくる。
すると同時に、この季節に大量発生する、ある存在の音が聞こえ始めた。
……蚊だ。
毎年世界の人々を苦しませる小さな悪魔の羽音が、耳に近づいてくる。
そして、最大級に音が轟いてきたところで、耳に強烈な痒みが走った。
あまりの刺激に、思わず目を見開いてしまう。
すると、そこには唇を差し出して接近してくる詩織の姿があった。
恥ずかしそうに羞恥で頬を染め、控えめに眼をつぶりながら、こちらに迫ってきている。
「…………」
その姿を見て、俺は無言でそこらへんにあった美容雑誌を丸め、その頭をスパコーンと叩いた。
「――痛ぁっ!?」
「何をしようとしてるんだお前は」
「……いや、もうここまで来てしまった以上、キスも良いかなって」
「よくねえよ。てか、どこの地点にも来てないからな? 下着を挟んで俺とお前は平行線だ」
「お兄ちゃんの馬鹿! 鈍感っ! 朴念仁っ!」
「何とでも言え」
詩織は頭をさすりながら、恨めしげに俺を見上げてくる。
まったく、なんという策士だ。
このためだけに目を瞑らせたのか。
この大狸め。徳川家康ばりの術数権謀を駆使するんじゃない。
「あのな、そろそろ真面目に答えないと、いい加減怒るぞ?」
「怒るだけ?」
「罵倒も追加しよう。あることないこと言いまくってやる」
「罵倒だけ?」
「デコピンもつけようか」
「……鞭とかは使わないんだ」
「姉さんの馬鹿が感染ったか? うちの家系から何人の変態を出すつもりだ」
「亀甲縛りとかいいよね」
「もういい、疲れた……」
だめだ、もうこいつは駄目だ。
詩織だけは、姉さんのようにならないと思っていたのに。
これが血筋ってやつか?
誰だこんな運命を強いたのは。
俺の一族は変態を生成し続ける魔の家系だとでも?
その血が俺に入ってると思うと……ぞっとしないな。
とりあえず、もうこれ以上刺激するのはやめよう。
藪をつついたら何が出てくるか分からん。
「深くは追及しないでやる。だから、もう下着を盗むなよ?」
「…………」
「聞こえてるのかー」
「ふぁ、ふぁい。痛いからやふぇて」
「よし、これでこの話は終わりにしといてやる。下着を返してさっさと風呂に入ってこい」
「うん、その通りにする。下着はベッドの下に入れてるから、勝手に取って行っちゃって」
「……あ、ああ」
「それじゃ、私急いで風呂に入ってくるねっ!」
そう言って、詩織は脱兎のごとく部屋から出て行った。
着替えも同時に持っていったのか、戻ってくる気配はない。
ふむ、ベッドの下をあまり詮索するのは気が引けるので、さっさと下着を回収して戻るとするか。
寝具の下を覗きこみ、腕を突っ込んで例のブツの有無を探る。
すると、なにやら変なものを掴んだので、引きずり出してみる。
冊子のような物体は、どうやら何かの単行本であるようだった。
『お兄ちゃんに飼われる日々~だけど憎めぬ変態兄貴~』
……うむ、妹はとっくの昔に毒されていたようだ。
どこで購入したんだよ、こんなR指定確定の本。
そう思って、タイトルの下を見てみる。
『アテナポーン出版。作者・ゾルバディアポゲロス』
なるほど、どこかで見たペンネームだな。
てか、これさっき姉ちゃんが持ってた怪しげな本の作者だよな。
何この人、守備範囲広いよ。今どき両刀使い?
……見なかったことにしよう。
妹だって思春期、こういう物にだって興味くらい湧くさ。
そっと十字を切ってベッドの端に押し込んでおく。
そして、さっきとは違い比較的浅い所に指を這わせる。
すると、今度は変な紙に指が触れた。
「……? なんだこれ」
包装を解いて間もないと思われるそれは、変な日記帳らしきノートだった。表面には
『見ないでっ! 見ると後悔します』
と書かれている。それならこんな所に置いとかず、鍵付きの所に保管しとけや。
とは言うものの、こういう注意書きをされれば見たくなってしまうのが人のサガ。
恐る恐る、俺はノートの一ページ目をめくった。
『お兄ちゃん。あのね、私はお兄ちゃんのことが大好きです。大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きなのに。大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで、こんなにも恋焦がれているのに。私を見てください。他に触らないでください。私だけのお兄ちゃんでいてください。お姉ちゃんばっかに構わないでください。好きだよ、大好きだよお兄ちゃん。。好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き――――』
閉じた。
思わずノートを閉じた。
胸の奥が焼けつくような、澱んだ不快感が残る。
何? 後悔ってこういう後悔?
先に宣告してよ、地雷を仕掛けたんなら教えるのがルールだろ?
こんな核弾頭を設置して、無言は酷いって。
詩織がふざけて書いたことを願って、危険物をそっとベッドの下に放り込んだ。
……もう嫌だ、どこにあるんだよ俺の下着。
ここにあるんだろ? このベッドの下にあるんだろ?
こんな人外魔境を持ち主に探させるような苦労を強いてるんだから、早く出てこいよ。
そう思って再度手を突っ込んだ瞬間、布のような物体に触った感覚が、指に走った。
「こ、これは今度こそっ――」
心躍って、歓喜とともにそれを引きずり出す。
かくして、それは確かに下着だった。
俺の両手が握り締めているのは、フリフリのレースが付いたセクスィーパンツ。
そして、平均より若干大きめのサイズのスポーツブラ。
どうみても、妹の私物である。
「……は?」
自分が置かれた現状に、やむなく思考が停止した瞬間、辺りが白い光りに包まれた。
――カシャッ
それがカメラのフラッシュの光であるのに気付いたのは、数秒後のことだった。
すなわち、カメラを片手に勝ち誇った顔をしている詩織が、部屋に侵入してきて、初めてその意図に気づいたのだ。
「……詩織、お前」
「むふふ、これでお兄ちゃんは私に逆らえない。これを自宅と学校にばら撒かれたら、お兄ちゃんの名声は地に落ちるね!」
「…………」
「さぁさぁ、バラされたくなかったら、追加の下着をよこしなさい! 今履いてる下着でいいから、早く早く」
「……なあ詩織」
「ん? 何かなお兄ちゃん」
「人間ってさ、不完全な生き物だよな」
俺は怒りもせず、悟ったように妹に向き直った。
すると、妹は再び不敵に微笑む。
「そうだね。人間は欲望の権化だよっ。だけど、それがどうかしたの?」
「いや、そうじゃないんだ。欲望じゃなくて、理性の話。……人間ってさ、我慢の限界が来ると、理性が吹き飛ぶんだよな」
呪詛を唱えるように低い声で呟きながら、俺は妹に接近する。
すると、詩織の笑顔が強張ったものになる。
「ま、まさかお兄ちゃん。私女の子だよ? こんなにもか弱い、普通の女の子。そうだよね?」
えへっと、詩織は天使のような笑顔を浮かべる。
なるほど、今までの俺なら、確かにここで引いていただろう。
だが、人間にも我慢の限界というものがある。
怒りというダムが、決壊することがある。
「……普通の女の子が」
「わわ、ちょっと待っ――」
「兄を脅迫して下着をねだるかぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
ベッドを踏み台にして、虎爪のように腕をしならせて、ラリアットを繰り出した。
その攻撃は、カメラを破砕し、詩織の首にダメージを与えて悶絶させるのには、十分な一撃だった。
俺は虚しく体制を立て直し、妹の懐を漁る。
するとやはり、そこに下着はあった。
かくして、俺の不安は解決したのである。
もちろん、パンツは妹の唾液その他が付着してて、そのまま使うことは出来なかったけども。
俺が震え上がるほどの野望を阻止できたので、これくらいの被害には目をつぶるとしよう。
さて、一件落着めでたしめでたし。
◆◆◆
後日談というか、蛇足なおまけ。
壊したカメラの弁償ということで、俺は翌日にデートに引っぱり出されていた。
「お兄ちゃーん、遅い遅い!」
「騒ぐな恥ずかしい。往来で大声を出すんじゃない」
休日に見る詩織の私服姿は、確かに人気が出るのが分かるくらい、可愛らしかった。
「おい、電器店はこっちだぞ。どこに行ってるんだ?」
すると、詩織は小悪魔のような笑顔を浮かべた。
それは太陽のように輝かしかったし、月のように妖しかった。
「ううん、カメラはいいよ。どうせ寿命だったし。その代わり、他の買い物に付き合ってもらって良い?」
「ああ、いいけどさ」
そして、妹は言う。
後に俺のトラウマを、ブルドーザー並みに掘削することになる、ある言葉を。
「それじゃ、下着選びに付き合ってね!」
「…………はぁ?」
こうして、妹に対する苦手意識は、高まっていく一方なのであった――