アロマの部屋
短編ホラーです。
シングルベッドと大きめの洋服ダンスの間に脱ぎ捨てられた服や雑誌が折り重なっている。天井の低い部屋のオレンジ色のライトはタクヤの顔の輪郭を柔らかくする。窓に掛かった分厚いカーテンはいつも閉め切ってある。部屋に満ちた甘ったるいアロマの香りは外に漏れずに漂う。景子がタクヤに背を向けるとぎしとベッドが鳴った。ガラスコップの乾いた口紅の跡を見る。コップには《FROM YUKA》の文字が一文字ずつ違う色のマーカーで書かれている。コップは片付けられずにずっとベッド脇のガラス卓の上に置いてあった。
ひと月ほど前青山通りでタクヤに声を掛けられた。ナンパされるなんて久しぶりだった。細い顎の線が女の子みたいにきれいで思わず足を止めた。
ラベンダーをベースにして桜やら苺やらのアロマとお寺で使う線香を一緒に大量に炊くのがタクヤの趣味で、タクヤはそれを一度も欠かしたことはない。初めての夜、この強烈なアロマの香りに眩暈がして目の前にちかちかと極彩色の光が見えた。赤や黄色や紫色の幾何学模様がぐるぐる回ってまるで万華鏡の中にいるみたいだった。この部屋の匂いと光は景子の体と心を癒す。タクヤが違うアロマを加える度に景子には新しい鮮やかな模様が輝くのが見えた。
横で寝ているタクヤの顔を両手で押さえてキスをする。タクヤが目を開けた。またほんの一瞬だけどタクヤの瞳が左右に激しく揺れた。景子はタクヤから目を逸らし、少しだけ開いている洋服タンスの扉に目を向けたままずっと訊けずにいることを思い切ってタクヤに尋ねた。
「ねえ、ゆかって誰?元カノ?か、誰か?」
「ああ」
「ああって!?」
責める口調になったのに自分で慌てて景子はタクヤの顔を見る。タクヤは笑っている。
「だいぶ前にケンカして、それっきり。だから心配ないよ」
「それっきりって?」
タクヤの瞳を覗く。嘘だと思った。甘い煙がゆらゆら漂いタクヤの表情を隠す。景子は胸に手をやった。いつもこうだ。ふいに涙がこみ上げて来るのを必死で堪えて、タクヤに精一杯笑いかけた。
「よかったあ」
淡い光の中で端正な横顔が揺れ、タクヤがすっとベッドから起き上がる。
「待って」
景子は咄嗟にタクヤの細い手首を掴んでいた。お願いという言葉は声にならなかった。
「トイレだよ」
タクヤは薄く笑い、景子に華奢な背中を見せたままトイレのドアを閉めた。
鼻孔に密度の濃い空気が纏わりついてうまく息が吸えない。体を起こし長く息を吸い込んだ。洋服タンスの扉がさっきより少し開いている。この部屋は歪んで全体が少し西に少し傾いているのかもしれない。息が苦しい。赤と紫色のたくさんのガラス片がオレンジ色の光に反射しながら目の前をゆっくり回っている。いつの間にか私はこの万華鏡の中に閉じ込められてしまった。
裸のままベッドから立ち、片手でこめかみをおさえる。タンスの扉をそっと開けた。タンスの中は暗くて視点が定まらない。目を凝らすと底の方にバスケットボールくらいの大きさの真っ黒い塊が見えた。景子は屈みこんでそれに手を触れた。ごろんと音がした。黒い長髪がほどけ白骨化した顔がこちらを向く。底の見えない二つの窪みと真っ直ぐに目が合った。その瞬間、部屋全体が真っ白に光った。
いつの間にか景子の後ろにタクヤが立っている。冷たく強張った背中に手が触れた。
「優香とはそれきりっていったじゃない」
叫び声は喉の辺りでかすれ声に変わっていた。景子は体をよじり、ベッドの上に飛びあがると震える手で力任せにカーテンを引いた。
窓ガラス越しに夏の強烈な日差しが差し込み、淡いピンクと黄色の煙の混じりあった部屋の真ん中にぺたりと座り込んだタクヤが見えた。煙は光の中で時間を包み込むように漂っていた。
(了)
読了ありがとうございました。
短いものほど起伏をつけるのが難しいです。何でもご指摘頂けると嬉しいです。よろしくお願いいたします。