最終話
……僕は一体何をしているのであろうか。
苦しんでいる彼女に、僕はとんでもないことをしてしまったのではないか。
後悔が耳障りな旋律となって僕に押し寄せる。
僕は彼女の矛盾の裏にある本心を知ってしまった。
明るく、一見前向きに見せていた彼女が、本当は死を誰より恐れていた。
僕は勘違いをしていた。
彼女が冗談めかして言った死は、本心の裏返しだ。
死の恐怖を知り、そこに生への渇望を求めていた。
僕と約束することで、彼女自身の励みにしようとしていた。
必死に生きようとしていた。
死に抗おうとしていた。
かたちはどうあれ、彼女は一人で戦っていたのだ。
あきらめと、未来への展望を同居させながら。
それなのに、僕は何をしている。
彼女の恐怖に比べたら、僕の悩みのなんと小さいことか。
僕は彼女を責める権利などない人間なのだ。
ピアノから逃げ出してしまうような人間なのだから。
僕は弱い。
今は分かる。
僕は弱い。
まだ、僕は生きて二十年にも達していない。未来はどこまでも開けている。
なのに、一時の挫折だけであきらめてしまうのは、愚の骨頂ではないのか。
人生は挑戦だ。
生命の続く限り、挑戦するべきだ。
才能を有するものが、一の努力をするなら、僕は十の努力をして、才能を凌駕してやる。
そして、今は才能があるとかないとか、そんなことはどうだっていい。
彼女は僕の音色を必要としている。
彼女が必要としている事実、それだけで十分だ。
僕には才能があったって、なくたって関係ない。
――僕は、僕にしか出来ないことをするから。
僕は病院へ引き返す途中、ある植物を買った。
それは、不器用な僕に出来る、唯一の優しさの意思表示だった。
病室に入ってきた僕を見た彼女は、至って冷静そのものだった。
僕は、彼女の目の前に鉢植えを下ろした。
身長一メートルは超えているだろう。
『これは?』
目を赤く腫らしたまま、書いて見せた。
僕は、かつてないしっかりとした口調で答えた。
「【梔子】だよ」
僕の声を聞いた直後、彼女の顔は悲しみと失望の色に染められた。
『梔子』
『それは【口無し】ってこと?』
『酷いよ』『私、君だけは』『そんなことをする人じゃないと』『思ってた』
『なのに』『酷い』『酷すぎる』『嫌い』『大嫌い』
『何が楽しいの?』『最低だよ』
僕は呆然としていたが、あわてて彼女の書き連ねる手を止める。
彼女が僕の手を振り解き、再び書き始める。
それでも僕は、彼女の行為を止めようとする。
しかし、彼女はより強い力で抵抗した。だから僕は、無理矢理彼女を抱きしめ、出来る限り優しく言葉を形成した。
形成された僕の本心は、彼女の傷つき、疲弊しきった心に届いただろうか。
「口が利けないから【口無し】じゃない」
僕に出来ること。
「永久に生きるから【朽ち無し】なんだ」
それは、彼女と約束すること。
約束は未来にするものだ。
僕の心はうわべじゃない。彼女には永遠に生き続けて欲しい。切にそう願う。
僕の心の中で――とか、そういうものではなく。
僕と同じ時を、僕と共に感じて欲しい。
歓喜や、怒り、悲哀、苦痛、それら全てを分かち合いたい。
僕の気持ちは抱きしめる強さ。
彼女の動きが止まり、ほんのわずかだけだが、震えていた。
やがてそれが嗚咽に変わる。
「……千夏に勝つよ。僕は……千夏の病気が治る前に、絶対にピアノコンクールで入賞する」
僕の耳のそばで、彼女の嗚咽がいつまでも、いつまでも、響いていた。
……僕は帰り道、彼女からの伝言を読んだ。
『私も頑張る。君に勝つように』
僕が彼女にもらった文字の中で、最も筆圧が強かった。
それからの一ヶ月、僕は再びピアノと向き合い、ついにピアノコンクール入賞を果たした。
僕は急いで病院へと疾走した。
その道すがら、僕は思いを胸に膨らませていた。
彼女は僕が入賞したことを聞いたら、どんな顔をするだろうか。
『おめでとう』
と書いて笑顔を見せるだろうか。それとも。
『負けちゃった』
と書いて悔しがるだろうか。
一ヶ月も会わなかったことで、僕の心は彼女の笑顔を想像してやまない。
実際、ピアノコンクールで演奏しているときも、彼女の笑顔が心の中にあった。
彼女――千夏の表情。
僕に紙を渡すときの彼女の嬉しそうな表情。
そして、僕が返答するまでの彼女のわくわくした表情。
自分の病気をかえりみず僕の心配をしてくれた彼女の憂慮の表情。
【口無し】と誤解したときの彼女の怒った表情。
泣きながら見詰め合ったときの表情。
その全ての表情が、昨日のことのように思い出せた。
毎日想っていたから忘れることのなかったあの表情。
僕は走る勢いそのままに、彼女の病室のドアを開けた。
「千夏!」
病室には何もなかった。
病床も綺麗に整えられ、染み一つなく、壁にかけられていたはずの萌黄色の制服も見当たらない。
月下美人も、梔子も、そしてなによりも千夏が見当たらなかった。
僕は混乱した。
確かにこの病室で間違いないはずだ。
三階で、突き当たりの廊下を曲がった後の、三番目の病室。
ここは、その病室だ。間違いない。
僕は、約束を思い出した。
「……あ、そうか、競争に負けたのか……。そうか……千夏、治ったんだ……」
その刹那、背後から僕の名前を呼ぶ声がした。そこに立っていたのは――
――千夏の母親だった。
母親は、僕に何かを包み隠すような堅固な面持ちで、
「千夏のイシです」
と言って、テープレコーダーを差し出した。
そのテープレコーダーは、間違いなく彼女が僕から遠ざけていたものだった。
僕は訳も分からぬままそれを受け取ると、再生ボタンを押した。
テープ独特の静かなノイズ音が辺りに響く。
――……せ……ち……。
僕は先程の母親の言葉を考えていた。
イシ、と言った。すなわち、意思か、それとも遺志か。
――せ……い……ろ……う……。
僕は彼女の母親を視界におさめるが、母親は深く頭をたれたままだった。
なぜ彼女の母親が、これ以上何も言おうとしないのか不思議だった。
退院したのだから、もっと喜びを表してもいいのではないか。
――……いー……ろ……。
それにこの声は何なのか、聞いたこともない美しい声。
――せいー………う……。
とつとつと話しているようにも聞こえるが、ただ単に話せないだけなのかとも思える。
千夏は一体誰の声を録音したのだろうか。
――せい……ろう……。
なぜだろうか、僕は鼻がつんと痛くなった。
それは、自分の中で生まれる信じがたい推測がゆえだ。
――ち……う……せい……。
涙が涼雨の如く流れていく。
なぜだろうか。
きっと彼女の退院を祝う、喜びの涙なのだろう。
そう言い聞かせた。
――……せいい……ち……ろ……。
「これは…娘の声なんですよ…」
彼女の母親の声は酷くかすれていた。心なしか、目元が腫れている。
――……せいい……ちろ……う。
「彼女は、千夏は今どこにいるんですか?」
僕は耐え切れずに聞いた。
彼女に話したいことが一杯ある。一日では語りつくせないくらい多くの話。
――……せいちろ……。
そして僕は数秒後、彼女の母親の言葉に、胸を詰まらせることになる。
――………征一郎……。
それは、僕の名前だった。
興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。
以前投稿したものを携帯電話での読書用に修正しました。ダッシュの使い方、三点リーダ等の使い方も、正しいものに変更いたしました。お見苦しいままほおっておいた作者をお許しください。
評価、感想、栄養になります。




