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  作者: NAONAO
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第二話

 ――君のピアノの、音色の中では、私が物語の主人公。

 ――私が治るのが早いか、君が治るのが早いか、競争。



 彼女の文字の一つ一つが僕の中で反芻される。

 僕は考えていた。

 才能のない僕になぜここまで求めるのか。僕の中で入賞など、夢のまた夢で、競争する以前に勝敗は決しているし、僕の下手くそな音色の中で、彼女を輝かせるのは不可能に近い。



 才能のない僕には全てが――



 ……と、僕が心の中で念じかけたときだった。



 眼前を医師と看護士が険しい表情を露にして走っていく。

 彼らの声に、聞き覚えのある名前が混じっていた。



 ――千夏。



 妙な胸騒ぎを覚え、僕は千夏の病室に急いだ。

 そして、病室のドアから中に入った瞬間、驚愕の光景に言葉を失った。



 声にならない悲鳴を上げながら、千夏がベッドの上で暴れていた。



 四肢を激しくばたつかせ、顔や首にはおびただしい発汗、そして、その全てを凌駕する、彼女の表情。苦痛に歯を食いしばり、髪が張り付いた額には、苦痛を象徴するしわ。

 その彼女を看護士が押さえつけ、その間に、医師が治療を施していった。



 僕はその光景にたまらない恐怖を覚え、その場から逃げ出してしまった。



 ……彼女と目が合ったにもかかわらず。



 しばらくして、医師が僕に、彼女が落ち着いたことを説明していった。

 僕はあのときの彼女の目を思い出す。

 彼女の目は、僕にこう言っていたように思える。



 ――タスケテ。



 僕にはどうすることも出来ないのに。なのに、彼女の目は僕を求めていた。

 僕は頭を抱える。

 どうして。

 どうして彼女は僕をそんな目で見る。

 僕は医師ではない。それ以前に、そんな勉強もしていない。

 ただピアノが好きなだけで、才能もない僕が、彼女を深遠の淵から救えるはずがない。


 無理だ。


 僕は彼女を救うことが出来ない。

 だからその意思表示をしたまなざしで彼女を見つめ返した。

 なのに彼女は、それでも僕に救いを求め続けた。

 結局、僕は逃げ出してしまった。



 ――何で僕なんだ。



 そう思ったから。

 僕は彼女の病室の前まで来たが、ドアを開けられずにいた。

 ノブを握ろうとする手が、小刻みに震えていた。

 僕は恐れている。

 ピアノに触れようとするときと同じように。

 昔はこうじゃなかった。

 生活をまかなおうと考えたときから、ピアノに触れることが、怖くてたまらなくなった。

 上へ、より上へと行かなければならないという不可視の圧力が、僕の肩にのしかかってきた。

 圧力に耐えられなかった僕は、唯一の居場所であるピアノから逃げ出し、この世をさまよっている。

 未練ある魂のそれと同様に。

 今、僕はそれを彼女に感じているのか。

 そして、不意に思った。



 ――ピアノから逃げ、彼女からも逃げるのか。



 僕は彼女にしてあげられることが、あるのではないか。

 ある、きっとあるはずだ。

 そう思ったとき、僕はすでに病室の中に入り、彼女のベッド脇に立っていた。

 ベッド脇の机にはつぼみのままの月下美人と、テープレコーダーがあった。

 いつだったかは忘れたが、僕の質問から逃れるように隠したテープレコーダー。

 いまだその答えは彼女の中にある。

 僕は渦巻く思考の中で、ほんの少しそれを思うが、まもなくもっと巨大な渦に飲み込まれていった。



 ――僕は、彼女に何を話せばいいのだろう。



 あれだけ彼女の願いを断っておきながら、いまさら手のひらを返すように約束をするのか。

 それは、最も薄情なことではないのか。

 彼女の容態が悪化したから、仕方なく約束をするのは、本心での約束ではない。うわべだけの約束だ。

 なら、僕は何を言うために彼女の病室に入ったのか。


 言葉だけでは言い表せない心は、時に歯がゆく、時に罪深い。


 まもなく、彼女の文章に思考をさえぎられた。


『私、死ぬの?』


 僕に言葉はない。


『死ぬのね』


 否定すら出来ない自分がいた。何も出来ない弱い自分がいた。

 なおも、彼女は言葉をつづる。


『怖い』


『怖いよ』


『怖い』


『怖い』


『死にたくない』『怖い』『怖い』


『死にたくない』『怖い』『こわい』『死にたくない』『こわい』『死にたくない』『しにたくない』『こわい』『しにたくない』『しにたくない』『こわい』『しにたくない』


 僕の手はその言葉でいっぱいになった。

 紙なのに、両手に重さを感じた。


『捨てて』『制服なんて』


『捨てて』『そんな希望いらない』


『そんな希望は』『あるだけ』『無駄』


『もう嫌』『何でこんな目に』


 僕の手は震えていた。

 これほどまでに彼女を追い詰めるものが、彼女に存在していたこと。

 そしてそれを、一人で抱え込んでいたこと。

 僕を頼って欲しいとは思わない。しかし、押し隠した心のままであんな約束をしようというのは、僕にとって嬉しいものではない。

 僕が彼女にとって、ただの話し相手で、頼りない人間だってことは、僕も認めざるを得ない。

 だが、それを激痛が襲ったショックで一気に爆発させる彼女は、僕にとって苛立ち以外の何物でもなかった。


 自分を隠そうと努力するぐらいなら、最初から弱いままのほうがいい。


 僕は、次第に自己中心的に肥大化していく炎を食い止めることが出来なかった。




「――うるさい!」




 僕は紙の束を彼女に投げつけて、病院から消えたのだった。


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