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  作者: NAONAO
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第一話

 ――僕に、才能などあるのか?



 僕にとって最も重要で、最も大きな問いである。

 知りたい。

 切に思う。

 しかし、知りたくないとも思う。才能があればいいが、もし無かったら、きっと僕は――




 ピアノで生活をまかなおうと決心したときから、その問いは僕についてまわった。

 曲目を演奏しているときも、歩いているときも、人と会話しているときも、眠っているときでさえ、その問いは僕の心を悩ませる。


 最近は特に酷かった。


 些細なことで苛立つようになり、自分で言うのもなんだが、あまり社交的ではない僕は、それを人とのコミュニケーションなどで発散できずにいた。

 そのせいだろうか、僕の音色は汚濁された湖水の如く、透明度を失っていった。

 そんな日は、ピアノを見るのでさえ憂鬱になる。


『どうしたの?』


「……なんでもない」


 僕は差し出された紙に目を通すとそう言った。


『顔色悪いよ?』


 再び、紙を差し出す。

 僕はそんな執拗な彼女を一瞥すると、彼女は僕を心配そうな顔で見つめていた。



 ――僕はその顔が嫌いだった。



 彼女――千夏(ちなつ)は理解しているのだろうか。

 精神的ストレスからくる失語症、更には重度の癌という二重の病気に侵されていることを。

 知らないはずはないのだ。彼女は担当の医師から告知されているのだから。

 にもかかわらず、自分の心配をせずに僕の心配をしてくるところが、僕はたまらなく嫌だった。

 僕はそんなに惨めなのか。



 病人に心配されなければならないほどに。



『またピアノ聴きたいな』



 首から提げた金色のケースを開けて、中に入っている紙にそう書き込むと、紙をちぎって僕に渡す。

 僕はその紙を見て、千夏との邂逅を思い出した。




 僕は放課後の学校で、一人寂しくピアノを弾いていた。

 ピアノは本来一人で弾くのが普通だが、僕にとってピアノは友人以上関係だ。

 僕がピアノを弾こうとするから、ピアノも音を奏でてくれる。

 だから、二人で弾いていると感じる。


 しかし、その日、ピアノは死んでいた。


 否、僕が死んでいたと言ったほうが正しいか。

 僕は、才能の有無を確認しようとしていた。


 才能があるなら、きっとどんな曲も体現できるはずだ。

 才能があるなら、一分の狂いもなく鍵盤を叩けるはずだ。

 才能があるなら、完璧に弾きこなせるはずだ。


 僕は才能と、自分自身と戦うため様々な曲を弾いた。


 ショパン作曲、エチュード第五番変ト短調《黒鍵》。

 ベートーヴェン作曲、ピアノソナタ第十四番嬰ハ短調《月光》。

 同、二十三番へ短調《熱情》。


 特に自分の嗜好など考えず、取り出す楽曲を手当たりしだい弾いていった。

 劇的かつ荘厳な序奏部に、僕の体が大きく動き、やがて堰を切ったように指を流動させる。

 まさに指自体が意識を有する生物の如く、息つく暇も与えずに、鍵盤を縦横無尽に跳ね回る。

 呼応し、動きを増す僕の身体。

 今持てる僕の力全てを、ピアノと僕の指に注ぐ。

 僕に才能があることを信じ、また、それを確認するため。


 僕にはきっと才能がある。

 才能を開花させるための努力も人一倍している。才能がないなんてありえない。

 きっと……きっと弾ける。


 しかし、そんな希望的観測とは裏腹に、僕の心は満たされず、ただ空虚感だけが増していった。

 僕は恐れていたのだ。

 僕の中にその空虚感を作り出すもう一人の僕がいることを。

 誰より冷静な僕。

 現実を直視し、世の中を諭そうとする僕。

 そのもう一人の僕は、僕がピアノを弾いていると、決まって僕に囁きかけてくる。



 ――コンクールで入賞も出来ないのに、才能なんかあると思っているのか?



 そして、僕は思ってしまう。



 ――僕には才能が無いのではないか。



 そんな、夢をうがつ空虚感をもう一人の僕は作り出す。

 僕の指が隣の鍵盤にかすってしまった。



 ――ほら、無理だろう。才能がないからだよ。



 今度は、かすっただけでなく、調子の狂った音を曲の中に入り込ませてしまった。



 ――ほらね、才能がないから……。



 僕の集中力は、壊れるようなピアノの音とともに崩壊した。

 思い切り鍵盤に叩きつけた指は悲鳴を上げ、僕も心の中で悲鳴を上げる。肌にじっとりとまとわりつく汗は、心身の疲労を如実に証明してくれた。



「……」



 僕の中に暗雲がたちこめていく。

 僕の実力は、才能は、この程度かと思った。

 子供が小さい頃、ただ純粋に好きなだけで将来の夢を語るように、僕もただ好きなだけでこの道を選んだに等しいと思った。


 夢は所詮、夢でしかないのか。


 遠い未来に輝いている夢は、僕が一生かかっても届かないくらい遠い未来にあるのか。

 僕がどんなに全力で走ってもたどり着けないくらい、遥か遠くにあるのか。

 過去の楽聖達は、その未来にたどり着くだけの才能があった。僕が一生懸命走っても追従できない、才能という馬を駆って、未来に、夢に追いついてしまう。

 彼らが走る現実が、夢に重なってしまう。

 そのとき僕は、彼らが潜り抜けた数々の障害に、捕まってしまっている。

 そして、その間、未来は遠くへ、夢は更に遥か遠くへ、肉眼では捕捉できないくらいずっと、ずっと遠くへ僕を置き去りにする。

 僕はいたたまれなくなった。


 ピアノで生活をまかなう。


 これほど安易で無謀な考えがあっただろうか。コンクールで入賞できないということは、すでにその時点で自分よりも優れた奏者がいるということだ。

 日本だけで何人いるだろう。ましてや世界では。

 自分と同じ夢を志した者達の一体何人が生活をまかなえているだろう。


 漠然とした未来への不安が、僕をさいなむ。


 驕りも、自信も、努力も、結果の前では無力。

 結果が全てだ。

 受賞までの過程など、審査員には関係ない。

 彼らは、奏者の能力と、才能を審査する。努力は審査しない。

 ゆえに、受賞一歩手前であっても、受賞とはまったくの論外であっても、それらは全て、一つの同じまとまりに属する。

 敗者というまとまりに。


 僕は白と黒を見下ろしていた。


「弾けない原因は、僕じゃない」


 嗜虐的な考えが脳裏をよぎり、自らの右手を鍵盤に乗せた。


「この指だ。この指が……」


 意思は鍵盤蓋を下ろしていた。

 右手に強烈な痛みが走る。

 気持ちの悪い音がした。

 つぶされた指が鍵盤を押す音。


 僕は、右手に罰を与えていた。


 なぜ命令に従わないのか。思ったとおりに鍵盤を叩いてくれないのか。

 その罪を問うたのだ。

 やがて、右手の小指が本来曲がるはずのない方向に曲がっているのを見て、僕は笑いながら泣いた。

 これでは足らない。またこの指は間違いを繰り返すだろう。

 そして、もう一度、鍵盤蓋を閉じようとした時。


 彼女が止めた。


 学校に私服という不釣合いな姿の彼女は、僕をなだめるような優然な笑顔を作ると、首から提げた金色のケースを開ける。

 手馴れた作業なのか、紙にペンでさらさらと言葉を書くと、僕に渡した。


『私は好きだよ、君のピアノ』


 救われた気がした。そして、忘れていた痛みが、再び僕を襲ったのだった。

 彼女が学校に長期入院の申告をしていた先での、出会いであった。


 僕が彼女と再会したのは、その翌日。

 小指の治療で訪れた、この病院だった。




 僕は病床に伏す彼女に、視線を送る。

 彼女は同学年だが、僕より二歳年上だ。

 理由は言わずもがな。病気のためだ。本来ならとっくに学校を卒業しているはずの年齢だった。

 年齢差がそうさせるのか、性格がそうさせるのかは分からないが、彼女はお節介だ。

 何かと僕に忠告しては、僕の神経を逆撫でさせる。


 いい加減にして欲しい。かまわないで欲しい。


 これは僕の問題だ。


 だが、彼女から逃げるわけにもいかなかった。彼女の性格も理由の一つだが、僕は、彼女の母親から言わせれば、「千夏の唯一の友達」らしい。

 母親は僕に、千夏の話し相手になって欲しいと願った。

 だから僕は仕方がなく――そう、仕方なくだ。あくまで仕方なくここにいる。



 ……右手が完治しているにもかかわらず。



『何か言ってよ……』


「もう聴けないかもな」


 僕が自嘲を漏らすと彼女は、


『それって、私が死ぬから?』


 などと書いてきた。僕は冗談ではすまない言葉に、苛立ちを覚える。

 なぜ笑っている。なぜそんなことを書ける。死が怖くはないのか。

 僕はそんな彼女を、いつの間にか睨み付けていたようだ。

 彼女の相好が真剣味を帯び、ペンをとる。


『君の音が聴きたい』


『もう一度聴きたい』


 二度続けた彼女の思いを受け取った僕は、自嘲と自虐を宿しつぶやいた。


「上手でもないピアノより、CDのほうがいい……音は綺麗だし、間違うこともない」


 僕は無下に彼女の要求を断った。

 今のが本音なのを、僕は知っている。

 僕の稚拙なピアノなど、一流の奏者をもってすれば塵芥にすぎない。

 そう、才能の有無だ。

 その一線が、乾坤を分かつ。

 僕がうなづいて言った後、彼女は僕の頬を指で強くつねった。頬から伝わる痛みの波が、僕の暗澹たる心情を連れ去る。


『君のピアノがいい』


『君のピアノの、音色の中では』


『私が物語の主人公』


『君が私を主人公にしてくれる』


『一人ぼっちだった私が』


『主人公になれる』


 彼女の声が――もちろん想像上の声だが、彼女の声が聞こえてくるようだった。

 彼女は、顔を上げた僕に微笑みかけると、視線を壁にかけてある服に向けた。

 僕もそれに倣う。


 壁にかかっていたのは、制服だった。


 僕の高校の制服。萌黄色の制服。

 自分の着ている姿を想像しているのか、彼女は柔和な顔を浮かべている。


 ……一度、こんなことがあった。


 彼女が、看護士や医師達の目を盗んで病衣から制服へ着替えようと書き出したのだ。

 その紙をもらったときなどは、僕は自分の目を疑ったほどだ。

 僕は当然の如く、彼女の案に反対した。

 病人が、特に癌を患った重病人が、医師の承諾もなしに、勝手に制服に着替えるなど聞いたことがない。おそらく、前例もないだろうが。

 なにより、とがめられるのは僕だと分かっていたから、必死になって止めようとした。

 が、結局彼女が僕の前で脱ぎだしてしまったのだから手に負えない。

 僕は仕方なく、病室の外で待つことになった。


 制服を着た彼女は、意外なほど似合っていた。


 やせた頬や、無駄な脂肪のない華奢な体格が、病人であることを際立たせたが、それを除けば僕の同級生その人だ。


『似合う?』


「……それなりに」


 彼女が僕の気のない返事にため息をついた動作が、学校の教室にあふれる喧騒の中のそれに似ていた。


 僕はそのとき、彼女と登校している自分を想像してしまい、頭を振った。

 なぜ想像してしまったかは分からない。

 社交的でない僕が抱いた羨望なのかもしれない。おそらくそうだろう。彼女との交流の中で、慣れきっていたはずの対人関係に亀裂が生じたといってもいい。

 しかし、僕はそれを心の中に押し殺した。

 生まれてはじめての場所に戸惑いを抱いた子供が、その場所から逃げ出すように。


 しばらくして一足早く制服から視線を戻した彼女は、僕に紙を渡した。


『君と私、どちらが早いか』


『競争』


 一枚の紙に大きく二文字、競争、と書かれている。


「これは?」


『私が治るのが早いか』


『君が入賞するのが早いか』


 競争は僕の負けだと思った。

 僕は今現在、三週間以上ピアノに触れていない。もはや、かつての自分に戻るだけでも、相当の努力と日数を費やすのは分かっていた。

 まして、自転車のように一度乗れたら忘れない、などと都合よくいくはずがない。

 僕は右手を開いたり閉じたりしながら、心中でつぶやく。



 ――お前は弾けるのか?



 肯定的な返事が返ってきたとは思えなかった。


『決まり』


 対して彼女は前向きだ。

 明日の自分を見据えている。笑顔がある。

 彼女の心の空には、一点の曇りも存在しないと思った。

 そんな彼女なのだから、きっと失語症や癌など、当然のようにはねつけてしまうだろう。

 終始笑顔の彼女が、次に僕に書いた紙の内容は、唐突なものだった。


『この花知ってる?』


「……知らない」


『これはね【月下美人】』


『この花はね』


『夏の夜に』


『たった四時間だけ』


『世界中で』


『一番美しい花になるの』


『だからね、私もこの花のように』


『少しの間かもしれないけど』


『立派に咲き誇るの』


「……」


 釈然としない気持ちに包まれた。

 彼女は本当に前向きと言えるのだろうか。前向きというよりは、むしろあきらめではないのか。

 残された時間を精一杯生きよう。

 それは抗うことを止めた者の言い訳にすぎないのではないか――そう思えたからだ。

 僕は彼女の中に矛盾を感じた。

 一つの人間の中に、二つの感情が内在している感覚。

 多重人格とまでは言わないが、言葉の表層を紐解き、内部を見ようとすると、それは明確なる意思として形成される。



 未来を信じ、生きる希望を持ってやまない彼女。

 時間的制約の中で、出来うる限りの輝きを求めようとする彼女。



 この二つが、今彼女の中に根ざしている。互いの尾を食らう蛇の如く。

 僕は思考を停止し立ち上がる。


「……飲み物、買ってくる」


 彼女に憐憫の情ではない、他の何かを感じたから。そのせいか、この場にいることが出来なかった。


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