婚約破棄した彼女は戻りません。今度は、私が証言する番です
「お詫びは伺いました。ですが、もうお会いしたくありません」
セラフィーヌは、私が差し出した花を受け取らなかった。白い薔薇なら間違いないと思っていた。婚約していた三年間、彼女の部屋にはいつも同じ花が飾られていたからだ。今、その卓上にあるのは、名前も知らない青い花だった。
「すぐにとは言わない。時間がかかっても、償わせてほしい」
「では、こちらへはお越しにならないでください」
私は花束を持ち直した。門前で追い返されず、応接室へ通されたことに、まだ望みがあると思っていたのだ。彼女は私の好みを尋ねず、茶も出さなかった。そのことに気づいたのは、謝罪を終えてからだった。
「君に何もしてやれないままでは……」
「私のお願いを聞くことでは、足りませんか」
言葉が続かなかった。
彼女は席を立ち、扉のそばに控えていた使用人へ頷いた。私も立たなければならない。分かっていても、膝に力が入らなかった。
「君が私を許せないのは、当然だと思っている」
「許すかどうかを、今日お答えするつもりはありません。ただ、お会いしたくないのです」
もう一度、同じことを言わせた。
私は花束を持ったまま頭を下げ、部屋を出た。門へ向かう途中、庭師が空の鉢を運んでいるのが見えた。以前なら、私の馬車が見えなくなるまでセラフィーヌが玄関に立っていた。振り返ると、扉は閉まっていた。
私が彼女との婚約を破棄したのは、三か月前のことだ。
王宮の舞踏会で、別の令嬢をかばい、彼女を悪女と呼んだ。手紙を奪った、階段から突き落とそうとした、身分を盾に人を従わせた。泣きながら聞かされた訴えを、私は一つずつ読み上げた。セラフィーヌが口を開くたび、言い逃れは見苦しいと遮った。
彼女の父が正式な調査を要求しなければ、それで終わっていたかもしれない。手紙の筆跡は彼女のものではなく、階段の件には別の目撃者がいた。私がかばった令嬢は虚偽の告発を認め、私は王太子の地位を失った。
王位継承権の放棄と、公務からの解任。それに、王室が支援する地方救護院で一年間働くことが、父王から言い渡された処分だった。
その出立の前日、私は彼女に会いに来た。
許してもらえなくても、変わろうとしていることだけは知ってほしかった。帰りの馬車で、持ち帰った花束を隣の席に置く。白い花弁の一枚が、上着に貼りついていた。
*
「その皿は、こちらです」
声をかけられ、私は持っていた盆を見下ろした。どの皿にも同じ粥が入っている。奥の寝台へ運ぶよう言われたはずだったが、女は私の盆から一枚を取り、別のものと取り替えた。
「この方は塩を控えています。皿の縁に印があるでしょう」
「そうだったか」
「先ほど、ご説明しました」
皿の縁には青い線があった。説明を聞いていなかったわけではない。ただ、六枚を一度に覚えきれなかった。言い訳をしかけて、粥を冷ますだけだと口を閉じる。
女は私が正しい寝台へ皿を置くところまで見届け、それから自分の仕事へ戻った。袖口を肘までまくり、細い腕で湯の入った桶を運んでいる。私より年下に見えたが、ほかの職員は分からないことがあると彼女に尋ねていた。
ミナという名だった。
救護院に着いた朝、院長から紹介されたときにも、彼女は頭を下げただけで、私を見ようとしなかった。王都から遠く離れた町でも、私のしたことは知られているらしい。そんなふうに考えていた。
夕方、洗った皿を棚へ戻していると、ミナが背後を通った。高い棚に重ねようとしていた皿を一度下ろし、私は声をかけた。
「どこかで会ったことがないか」
彼女の足が止まった。
「公爵家の侍女をしていました」
皿を持つ指が滑った。落とさずに済んだが、縁が棚に当たり、硬い音を立てる。ミナは皿ではなく、私を見ていた。
「セラフィーヌの?」
「はい」
「なぜ、ここに」
「私が証言しようとしたことは、覚えていらっしゃいますか」
舞踏会の夜、壁際から進み出た侍女がいた。階段で起きたことを見ていた、と言った。私はその先を聞かなかった。主人をかばうためなら、使用人はいくらでも嘘をつく。そう言って、衛兵に下がらせた。
その後の調査では証言が採用されたと聞いていた。私は報告書の中で彼女の名前を読んだはずだった。
「あのときの……」
「人前で嘘つきだとおっしゃったのは、殿下です」
私は皿を棚へ置いた。ミナは洗い上がった布を両腕に抱えている。その一番上に、まだ染みの残った布があった。彼女はそれを抜き取り、洗い桶へ戻した。
「父も王宮で働いていました。私が嘘の証言をしたと知れ渡って、職場で何度も問い詰められたそうです。調査が終わる前に、仕事を辞めました」
「公爵家からは、何も……」
言いかけた途端、ミナの口元が硬くなった。
「奥様が父の療養先を探してくださいました。こちらのお仕事も、ご紹介いただきました」
私は視線を落とした。公爵家が助けていなければ、誰を責めるつもりだったのだろう。
「すまなかった。私が君の話を聞いていれば」
「その話は、今日はしたくありません」
ミナは布を抱え直した。
「夕食までに、ここを片づけます。皿は手前から使うので、洗ったものは奥へ入れてください」
私は、並べ終えたばかりの皿を取り出した。彼女は手伝わず、病室へ戻っていった。
その晩、書きかけていたセラフィーヌ宛ての手紙を開いた。
ここでは朝から働いていること。慣れない仕事ばかりだが、逃げずに務めるつもりでいること。書いてあるのは、私がどう過ごしているかという話ばかりだった。ミナのことを書こうとして、ペンを止める。彼女から事情を聞いたばかりの私が、何を報告できるのか分からなかった。
封をせず、引き出しへしまった。翌朝も、返事を待つ手紙は増やさなかった。
*
救護院では、転んで腰を痛めた老人も、仕事中に腕を折った職人も、同じ食堂で食事をした。家族が迎えに来て帰る人がいれば、寝台から動けなくなる人もいる。私は薪を運び、便器を洗い、食事の盆を持った。
最初の月は、毎晩指が痛んだ。働いた証拠のように思っていた掌の傷も、濡れた布を絞るときには邪魔でしかない。ミナが棚に軟膏を置き、職員用ですと言ったので、使わせてもらった。
「蓋はきちんと閉めてください。前の方が緩くして、乾いてしまいましたから」
礼を言うと、彼女はもう隣の棚を数えていた。薬瓶を手に取っては、帳簿の数字と照らし合わせている。食事のあとも同じことをしていたので、毎日数えるのかと尋ねた。
「院長先生がお使いになる分を、私が出しています。残りが分からないと、注文できません」
「昨日も届いていたな」
「全部は届きませんでした」
ミナは帳簿をこちらへ向けた。一列に並んだ薬の名前のうち、解熱薬の欄だけ、注文数の隣に小さな数字が記されている。
「十二瓶頼んで、六瓶です。残りは次の便になると」
「いつ届く?」
「先月も同じ返事でした」
彼女は余白に日付を記した。私が覗き込んでいるからといって説明を足すこともなく、次の棚へ移る。そこには六瓶、同じ色の瓶が並んでいた。
三か月目に入るころ、私は配膳で皿を取り違えなくなった。字が読めない職員の代わりに荷札を読み、院長が往診に出る間は、来訪者の用件を控える仕事も増えた。ただし、薬棚の鍵は預けられなかった。私が片づけた道具も、ミナは使う前に数え直す。
ある夕方、二度数えなくても合っていると言いそうになり、舌を噛んだ。私が正しいと言うだけで、彼女に信じる理由ができるわけではなかった。
冬の雨が続いた週、熱を出す入所者が増えた。院長は診察を終えると薬棚を開け、空の箱を手に取った。ミナが追加注文の控えを差し出す。
「三日前に使いを出しています。返事は、明後日なら、と」
「隣町から分けてもらおう。馬車を頼んでくれるか」
院長は財布を開いた。救護院の薬は王室の会計から支払われるが、急ぎで買う分は立て替えになるという。ミナが馬車を探しに出て、私は診察室の火を絶やさないよう薪を足した。
夜半に薬が届いた。院長の外套から水が滴っている。私は湯を沸かそうとして呼び止められ、先に、濡れた箱から薬を出すのを手伝った。
その箱を抱えたとき、底に焼き印があるのが見えた。
王都のヴァルト商会の紋だった。
「ここへ薬を運ぶのも、この商会ですか」
「そうだ。君がいたころの王太子府で、一括契約にした」
院長は瓶の封を調べながら答えた。
「隣町の薬屋では、すぐ買えたよ。救護院向けは足りないと言われているのだがね」
私は箱を床へ下ろした。ヴァルト商会との契約を進めたのは、王太子府の財務顧問だったオルセン伯爵だ。仕入れをまとめれば支出を減らせる。私はそう説明され、契約書に署名した。
伯爵が舞踏会の夜にも隣にいたことを思い出す。これ以上、令嬢に弁明させれば被害を受けた娘が傷つく。あのときも私は、伯爵の言葉に頷いた。
*
翌週、救護院へ役人が二人来た。
支給薬の不足について調べるためだというので、院長は注文控えを用意させた。ところが、彼らが卓上に広げた書類には、十二瓶すべてを納めたと記されていた。先月も、その前の月も同じだった。
「受け取りは、ミナという職員ですね」
年上の役人が、彼女を見た。ミナは自分の帳簿を開き、六瓶しか届かなかった日の記録を示す。受領書も控えを残してあると言うと、役人は手を差し出した。
私は彼女の後ろから書類を見た。ミナの控えには六瓶、役人の持参した月次報告には十二瓶。両方に日付と商会の印があったが、月次報告に彼女の署名はない。
「その十二瓶という数字は、誰が確かめたのですか」
「商会から王都へ提出されたものです」
「では、商会にも確認を」
「もちろん、行います」
役人は私の言葉を遮らずに聞いた。ただ、書類を閉じると、ミナに薬棚の鍵を出すよう告げた。
「疑いが晴れるまで、薬の出し入れからは外れていただきます。院長、お預かりください」
ミナは腰から鍵を外した。震えているようには見えなかった。いつもどおりに輪を持ち、卓上へ置く。その手から離れた鍵が、小さな音を立てた。
役人が帰ったあと、院長は王都の監察局へ送る報告を書き始めた。救護院の収支も合わせて調べてもらうと言う。ミナには、疑っているわけではないと伝え、記録を出せるだけ出してほしいと頼んだ。
私は廊下で彼女に追いついた。
「商会の報告だけで、君が持ち出したことにはならない。私からも話す」
「何をですか」
その問いに、足が止まった。
「君が毎日、数を確かめていることを」
「それは話していただければ助かります。でも、私が盗んでいないところを、ずっと見ていたわけではないでしょう」
ミナは空の桶を持っていた。薬の仕事から外されても、洗濯物は減らない。桶を持とうとした私に、彼女は首を振った。
「見ていないことまで言わないでください。私が本当に言ったことまで、疑われます」
私は手を下ろした。彼女が行ったあと、薬の届いた日のことを紙に書き出した。自分が箱を運んだ日と、ほかの者から聞いただけの日を分ける。覚えていない数は、空けたままにした。
その夜、私宛てに王都から手紙が届いた。
差出人はオルセン伯爵だった。救護院での勤勉な働きは聞いている、と書き出し、最後に、王都への帰還について口添えできるとあった。
『まずは、今回の紛失の責任を明らかにすることです。薬棚を管理していた者の怠慢を、あなたから報告なさればよい。王族として、身近な者にも公正に処分を下せるところをお示しください。』
手紙を読み終えても、机へ置けなかった。
王都の部屋には、まだ私の本がある。湯が冷める前に入浴でき、朝には磨かれた靴が並ぶ。食べ物の好みを説明しなくてもよかった。ここへ来てから、思い出すたびに押し込めていた暮らしが、急にはっきり浮かんだ。
伯爵は、ミナを犯人だと書いてはいない。管理が足りなかったと報告するだけなら、間違いではないのかもしれない。
扉が叩かれた。夜勤の職員が、熱のある老人の寝台を移すので手を貸してほしいと言う。手紙を引き出しに入れようとして、封をしていない別の便箋が見えた。
逃げずに務めるつもりだと、セラフィーヌへ書いた手紙だった。
「今、行きます」
伯爵の手紙は、机に残した。
*
翌朝、私は院長に手紙を渡した。
院長は最後まで読み、もう一度、差出人を確かめた。その間、私は椅子に座れなかった。帰還を断ると決めたからといって、惜しくなくなるわけではない。院長から、悪く考えすぎではないかと言われれば、頷いてしまいそうだった。
「君は、この契約を知っているのか」
「署名したのは、私です」
院長は卓上の報告書へ目を向けた。
「確か、納入数の確認を商会の月次報告で済ませる条項がありました。各施設からの書類を待たずに支払えるように、と」
「ここから受領書を送っているのにか」
「送られたものと照合する部署は……」
私は答えられなかった。そこまで聞いていない。伯爵が用意した説明書には、支払いの遅延をなくすことと、事務の負担を減らすことが書かれていた。私はそれを、そのまま父へ説明した。
「王都から契約書を取り寄せてください。私の承認した付属条項も、全部」
院長はペンを持ち直した。
「分かった。だが、君自身も調べられることになる」
「はい」
「今の処分で済むとは限らない」
私は机の端を握った。院長は返事を急がず、こちらを見ている。やがて指を離し、持ってきた自分の記録を、伯爵の手紙の隣へ置いた。
「それも含めて、調べていただきたい」
監察官が到着したのは、十日後だった。
それまでの間、院長は薬を近隣から買い集め、職員たちは受領書の控えを日付順に並べた。私は書類を運び、どの箱に何があったかを記録する。自分で証拠を握っていたいとは言えなかった。契約に署名した私も、調査を受ける側だった。
隣町の薬屋から、救護院へ納めるはずの番号がついた木箱が見つかった。王室向けの箱には、納入先と番号を記す決まりがある。薬屋の主人は商会から買ったと証言し、支払いの控えも出した。
商会は、余った品を売っただけだと説明した。だが、救護院では同じ番号の箱を受け取っていない。ほかの施設でも不足が見つかり、商会の帳簿と照合する作業が始まった。
調査が進むにつれ、救護院を訪ねる人が増えた。その中に、伯爵の使いもいた。私にだけ会いたいと言ったが、院長のいる応接室へ通した。
「伯爵は、殿下のご身分を案じておられます」
使いは座らず、私の顔を見た。
「ご自身の承認された契約を問題にすれば、先の件だけでは済みません。国庫に損失を与えた責任まで、お負いになるのですよ」
「承知しています」
「王都へ戻るお話も、難しくなります」
私は、膝の上で両手を組んだ。
「そのお話は、お断りします」
使いは初めて院長を見た。私が二人きりになるのを断った理由が、そこで分かったらしい。唇を結び、預かってきたという封筒を懐へ戻した。
帰ったあと、私はしばらく動けなかった。院長がお茶を注ぎ足してくれたが、冷めるまで手をつけなかった。
*
審理は、冬の終わりに州庁舎で開かれた。
支援を受ける施設の代表と、王都から来た監察官たちが席につく。傍聴席には商人も職員もいた。オルセン伯爵は紺の上着を着て、中央の席に座っていた。私を見ると立ち上がりかけ、すぐに座り直す。
私が案内されたのは、伯爵の隣ではなく、証言をする者のための椅子だった。
商会が王室から十二瓶分の代金を受け取りながら、救護院へは六瓶しか納めず、残りを市中で売っていたことは、複数の帳簿から確かめられていた。伯爵の管理する事務所には、商会から継続して金が支払われている。名目は契約に関する助言料だった。
伯爵は横流しへの関与を否定した。商会の虚偽報告に気づけなかったことは認めるが、契約に従って処理しただけだと言う。
「この方式をお決めになったのは、当時の王太子殿下です」
伯爵がこちらを向いた。何人かの視線が、私へ移る。私は立ち、監察官から差し出された契約書を確かめた。
「私の署名です。付属条項も、私が承認しました」
伯爵は頷いた。
「私が進言したのは、支払いを円滑にするためでした。現場の職員が管理を怠った場合まで、予見できるものではありません」
「受領数の記録は残っていました」
「その記録を、全面的にお信じになるのですか」
伯爵の目が、傍聴席へ動いた。そこにミナが座っている。彼女は両手を膝に置き、こちらを見ていた。
「また、女性の言葉を信じて判断を誤られるおつもりですか」
頬が熱くなった。舞踏会の夜を知らない者はいない。自分がかばった令嬢の泣き顔も、セラフィーヌの説明を遮った声も、思い出したくないほど鮮明だった。
それでも私は、ミナから視線を外さなかった。彼女に頷いてもらおうとはしなかった。
「以前の私は、聞きたい話だけを聞き、確かめずに人を裁きました」
伯爵が口を開きかけた。私は監察官へ向き直る。
「今回は、私が見ていないことも含めて、調べていただいています。ミナの控えは、荷を運んだ者の記録とも一致しました。私が彼女を信じるかどうかで、決める話ではありません」
監察官が、運送人の証言を記した書類を示した。伯爵はそれを見ると、契約の不備と商会の不正は別だと言い直す。
「王太子府としては、善意で制度を整えたのです。責任を問うのであれば、承認された方にも」
「はい」
伯爵の言葉が止まった。
「私は承認しました。誰が納入数を確かめるのか、問い合わせもしませんでした。その責任はあります」
手の内側が汗で濡れていた。卓に置かれた書類には、当時の私が、支出の削減を自分の成果として父へ報告した記録もある。伯爵から言われるまで、その数字を確かめたこともなかった。
「ですが、私に責任があっても、あなたへの調査をやめる理由にはなりません」
監察官が、別の封筒を取り出した。
私へ届いた伯爵の手紙だった。調査前に薬の管理者を処分するよう勧め、帰還への口添えを申し出た経緯を問われると、伯爵は椅子に座り直した。
「怠慢があれば、と申し上げたまでです。犯人と決めつけたわけでは」
「なぜ、商会の報告についての確認を求めなかったのですか」
監察官の問いに、伯爵は答えなかった。
さらに、商会へ宛てた伯爵の事務所の指示書が読み上げられる。実際の納入数について施設から照会が来ても、月次報告の数字を変えないように。事務所に残っていた控えと、商会側の原本は一致していた。書類を運んだ書記も、その場に呼ばれていた。
「担当者が、私の意図を取り違えたのでしょう」
伯爵は書記を見た。書記は俯きかけたが、監察官に促され、伯爵から受けた指示を答えた。途中で声が震えたときも、審理は止まらなかった。誰も、身分を理由に彼を下がらせなかった。
休憩が告げられると、伯爵が私のそばへ来た。衛兵が付き添っているため、近くで立ち止まるしかない。
「レオン殿下。これ以上は、互いのためになりません」
以前は、私にだけ聞こえる声で助言してくれた。その声で、伯爵は続けた。
「私がいなければ、あなたを王都へ戻そうとする者はおりませんよ」
私は椅子から立った。
「提出するものは、すべて監察官へ渡しました」
伯爵の目が動いた。私の手元から、書類を抱えて席を立つ監察官へ。呼び止めようと一歩進んだところで、衛兵に制された。
私は傍聴席の出口へ向かった。ミナは院長と一緒に立っていたが、話しかけてはこなかった。私も、そのまま廊下へ出た。
窓のそばまで行ってから、ようやく大きく息を吐いた。拳を開くと、掌に爪の跡が残っていた。
*
判決が出たのは、それからひと月後だった。
伯爵は財務に関わる役職を解かれ、商会の責任者とともに、薬代の不正請求と調査妨害について刑を受けることになった。取り戻された金の一部は、救護院が立て替えた薬代に充てられた。院長は帳簿を確かめ、ようやく、新しい寝台を一つ注文できると言った。
ミナが薬を持ち出した事実はなく、受領した数も正確に記録していたと、判決には明記された。最初に彼女の鍵を預からせた役人が、その書面を持ってきた。院長は職員を集め、全員の前で読み上げた。
私には、監督を怠った責任があるとされた。
私有財産から損失の一部を補い、救護院での勤務を二年延長する。今後、会計に関わる公務へ戻るには、定められた課程と試験を経なければならない。処分を読み終え、私は書面に署名した。
王都の本を何冊か売ってよいかと、財産を管理する者へ手紙を書いた。売りたくない本の題名を並べかけたが、まず一覧を送ってもらうことにした。弁償する金額を、まだ自分で把握できていなかったからだ。
数日後、院長室で、ミナと二人になった。
返された薬棚の鍵を受け取りに来た彼女は、机に座っていた私へ声をかけた。
「証言してくださって、ありがとうございました」
私はペンを置いた。言われるとは思っていたのかもしれない。胸が緩むのを感じ、そのことが恥ずかしかった。
「君の記録が正しかったからだ」
「それでも、殿下の手紙がなければ、責任を曖昧にされたかもしれません」
ミナは鍵を腰につけた。輪に指を通して留め具を確かめる、見慣れた動作だった。
「今回のことには、お礼を申し上げます。でも、父のことを許せたわけではありません」
「分かっている」
すぐに返事をしてから、私は言い直した。
「いや。分かったつもりで、何か求めないようにする」
ミナは私を見た。頷きはしなかったが、扉へ向かいかけて足を止める。
「次の受け取りから、薬は二人で数えることになりました。手が空いていたら、お願いします」
「空けておく。何時だ」
「十時です」
私は机の紙に時刻を書いた。彼女はそれを確かめ、病室へ戻っていった。
その晩、引き出しの手紙を整理した。
セラフィーヌ宛ての便箋は、角が折れていた。救護院に来たばかりの私が、慣れない仕事に耐えていることを、何行も使って書いている。裏返すと白紙だったので、切って、仕事の控えに使うことにした。
判決のことを彼女に知らせる手紙は書かなかった。
*
春になり、救護院の庭に洗濯物を干せる日が増えた。
新しい寝台は、窓際の部屋に置かれた。私は組み立てを手伝ったが、脚を一本逆につけ、職人にやり直してもらった。次の修繕では、先に尋ねるようにした。
薬の納入にも新しい商会が入った。私が数を読み上げ、ミナが帳簿に記し、二人で受領書を確かめる。数が合わなければ、その場で箱を開け直した。受領書の控えは、月末に王都の会計局へ送ることになった。
ある朝、ミナが院長と話しているところへ、私は洗った器具を運んでいった。父親の診察に付き添うため、明日、隣町へ行きたいらしい。院長は許可したが、彼女は入口でまだ何か考えていた。
「帰りの馬車が、夕方になるかもしれません。薬の受け取りは前倒しにしていただいたのですが」
「午後の仕事か」
私が尋ねると、ミナは手に持っていた紙を見た。配膳の注意と、替える必要のある寝具が、寝台ごとに書かれている。
「ほかの方に分けて頼むつもりです」
「私でよければ、引き継ぐ」
ミナはすぐには答えなかった。私は器具を棚にしまい、濡れているものがないか確かめた。背後で紙の動く音がして、振り向くと、彼女が一枚を差し出している。
「午後の配膳を、お願いできますか。五番の方は、青い縁の皿です」
「塩を控えている方だな」
「はい。食べるのに時間がかかるので、ほかの方が済んでも下げないでください」
私は紙を受け取った。読み終えて、夕方の薬について尋ねる。薬は別の職員が担当し、私は食後の様子を記録する。その確認まで済むと、ミナは手帳を閉じた。
「では、お願いします」
翌日、五番の老人は、ほかの者が食べ終わっても半分しか粥を食べていなかった。私は空の皿を下げ、卓を拭き、彼のそばへ戻った。老人は匙を持ったまま、申し訳なさそうに私を見る。
「遅くて悪いね」
「急がなくて結構です」
窓から風が入ったので、閉めてよいか尋ねた。老人が頷くのを待ち、窓を閉じる。戻ると、彼はまた一口食べていた。
私は隣の椅子を引き、食事の記録を開いた。皿を下げる時刻は、まだ空けておいた。




