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婚約破棄した彼女は戻りません。今度は、私が証言する番です

作者: パリトン
掲載日:2026/10/30

「お詫びは伺いました。ですが、もうお会いしたくありません」


 セラフィーヌは、私が差し出した花を受け取らなかった。白い薔薇なら間違いないと思っていた。婚約していた三年間、彼女の部屋にはいつも同じ花が飾られていたからだ。今、その卓上にあるのは、名前も知らない青い花だった。


「すぐにとは言わない。時間がかかっても、償わせてほしい」

「では、こちらへはお越しにならないでください」


 私は花束を持ち直した。門前で追い返されず、応接室へ通されたことに、まだ望みがあると思っていたのだ。彼女は私の好みを尋ねず、茶も出さなかった。そのことに気づいたのは、謝罪を終えてからだった。


「君に何もしてやれないままでは……」

「私のお願いを聞くことでは、足りませんか」


 言葉が続かなかった。

 彼女は席を立ち、扉のそばに控えていた使用人へ頷いた。私も立たなければならない。分かっていても、膝に力が入らなかった。


「君が私を許せないのは、当然だと思っている」

「許すかどうかを、今日お答えするつもりはありません。ただ、お会いしたくないのです」


 もう一度、同じことを言わせた。

 私は花束を持ったまま頭を下げ、部屋を出た。門へ向かう途中、庭師が空の鉢を運んでいるのが見えた。以前なら、私の馬車が見えなくなるまでセラフィーヌが玄関に立っていた。振り返ると、扉は閉まっていた。


 私が彼女との婚約を破棄したのは、三か月前のことだ。

 王宮の舞踏会で、別の令嬢をかばい、彼女を悪女と呼んだ。手紙を奪った、階段から突き落とそうとした、身分を盾に人を従わせた。泣きながら聞かされた訴えを、私は一つずつ読み上げた。セラフィーヌが口を開くたび、言い逃れは見苦しいと遮った。

 彼女の父が正式な調査を要求しなければ、それで終わっていたかもしれない。手紙の筆跡は彼女のものではなく、階段の件には別の目撃者がいた。私がかばった令嬢は虚偽の告発を認め、私は王太子の地位を失った。

 王位継承権の放棄と、公務からの解任。それに、王室が支援する地方救護院で一年間働くことが、父王から言い渡された処分だった。


 その出立の前日、私は彼女に会いに来た。

 許してもらえなくても、変わろうとしていることだけは知ってほしかった。帰りの馬車で、持ち帰った花束を隣の席に置く。白い花弁の一枚が、上着に貼りついていた。


     *


「その皿は、こちらです」


 声をかけられ、私は持っていた盆を見下ろした。どの皿にも同じ粥が入っている。奥の寝台へ運ぶよう言われたはずだったが、女は私の盆から一枚を取り、別のものと取り替えた。


「この方は塩を控えています。皿の縁に印があるでしょう」

「そうだったか」

「先ほど、ご説明しました」


 皿の縁には青い線があった。説明を聞いていなかったわけではない。ただ、六枚を一度に覚えきれなかった。言い訳をしかけて、粥を冷ますだけだと口を閉じる。

 女は私が正しい寝台へ皿を置くところまで見届け、それから自分の仕事へ戻った。袖口を肘までまくり、細い腕で湯の入った桶を運んでいる。私より年下に見えたが、ほかの職員は分からないことがあると彼女に尋ねていた。


 ミナという名だった。

 救護院に着いた朝、院長から紹介されたときにも、彼女は頭を下げただけで、私を見ようとしなかった。王都から遠く離れた町でも、私のしたことは知られているらしい。そんなふうに考えていた。


 夕方、洗った皿を棚へ戻していると、ミナが背後を通った。高い棚に重ねようとしていた皿を一度下ろし、私は声をかけた。


「どこかで会ったことがないか」


 彼女の足が止まった。


「公爵家の侍女をしていました」


 皿を持つ指が滑った。落とさずに済んだが、縁が棚に当たり、硬い音を立てる。ミナは皿ではなく、私を見ていた。


「セラフィーヌの?」

「はい」

「なぜ、ここに」

「私が証言しようとしたことは、覚えていらっしゃいますか」


 舞踏会の夜、壁際から進み出た侍女がいた。階段で起きたことを見ていた、と言った。私はその先を聞かなかった。主人をかばうためなら、使用人はいくらでも嘘をつく。そう言って、衛兵に下がらせた。

 その後の調査では証言が採用されたと聞いていた。私は報告書の中で彼女の名前を読んだはずだった。


「あのときの……」

「人前で嘘つきだとおっしゃったのは、殿下です」


 私は皿を棚へ置いた。ミナは洗い上がった布を両腕に抱えている。その一番上に、まだ染みの残った布があった。彼女はそれを抜き取り、洗い桶へ戻した。


「父も王宮で働いていました。私が嘘の証言をしたと知れ渡って、職場で何度も問い詰められたそうです。調査が終わる前に、仕事を辞めました」

「公爵家からは、何も……」


 言いかけた途端、ミナの口元が硬くなった。


「奥様が父の療養先を探してくださいました。こちらのお仕事も、ご紹介いただきました」


 私は視線を落とした。公爵家が助けていなければ、誰を責めるつもりだったのだろう。


「すまなかった。私が君の話を聞いていれば」

「その話は、今日はしたくありません」


 ミナは布を抱え直した。


「夕食までに、ここを片づけます。皿は手前から使うので、洗ったものは奥へ入れてください」


 私は、並べ終えたばかりの皿を取り出した。彼女は手伝わず、病室へ戻っていった。


 その晩、書きかけていたセラフィーヌ宛ての手紙を開いた。

 ここでは朝から働いていること。慣れない仕事ばかりだが、逃げずに務めるつもりでいること。書いてあるのは、私がどう過ごしているかという話ばかりだった。ミナのことを書こうとして、ペンを止める。彼女から事情を聞いたばかりの私が、何を報告できるのか分からなかった。

 封をせず、引き出しへしまった。翌朝も、返事を待つ手紙は増やさなかった。


     *


 救護院では、転んで腰を痛めた老人も、仕事中に腕を折った職人も、同じ食堂で食事をした。家族が迎えに来て帰る人がいれば、寝台から動けなくなる人もいる。私は薪を運び、便器を洗い、食事の盆を持った。

 最初の月は、毎晩指が痛んだ。働いた証拠のように思っていた掌の傷も、濡れた布を絞るときには邪魔でしかない。ミナが棚に軟膏を置き、職員用ですと言ったので、使わせてもらった。


「蓋はきちんと閉めてください。前の方が緩くして、乾いてしまいましたから」


 礼を言うと、彼女はもう隣の棚を数えていた。薬瓶を手に取っては、帳簿の数字と照らし合わせている。食事のあとも同じことをしていたので、毎日数えるのかと尋ねた。


「院長先生がお使いになる分を、私が出しています。残りが分からないと、注文できません」

「昨日も届いていたな」

「全部は届きませんでした」


 ミナは帳簿をこちらへ向けた。一列に並んだ薬の名前のうち、解熱薬の欄だけ、注文数の隣に小さな数字が記されている。


「十二瓶頼んで、六瓶です。残りは次の便になると」

「いつ届く?」

「先月も同じ返事でした」


 彼女は余白に日付を記した。私が覗き込んでいるからといって説明を足すこともなく、次の棚へ移る。そこには六瓶、同じ色の瓶が並んでいた。


 三か月目に入るころ、私は配膳で皿を取り違えなくなった。字が読めない職員の代わりに荷札を読み、院長が往診に出る間は、来訪者の用件を控える仕事も増えた。ただし、薬棚の鍵は預けられなかった。私が片づけた道具も、ミナは使う前に数え直す。

 ある夕方、二度数えなくても合っていると言いそうになり、舌を噛んだ。私が正しいと言うだけで、彼女に信じる理由ができるわけではなかった。


 冬の雨が続いた週、熱を出す入所者が増えた。院長は診察を終えると薬棚を開け、空の箱を手に取った。ミナが追加注文の控えを差し出す。


「三日前に使いを出しています。返事は、明後日なら、と」

「隣町から分けてもらおう。馬車を頼んでくれるか」


 院長は財布を開いた。救護院の薬は王室の会計から支払われるが、急ぎで買う分は立て替えになるという。ミナが馬車を探しに出て、私は診察室の火を絶やさないよう薪を足した。

 夜半に薬が届いた。院長の外套から水が滴っている。私は湯を沸かそうとして呼び止められ、先に、濡れた箱から薬を出すのを手伝った。


 その箱を抱えたとき、底に焼き印があるのが見えた。

 王都のヴァルト商会の紋だった。


「ここへ薬を運ぶのも、この商会ですか」

「そうだ。君がいたころの王太子府で、一括契約にした」


 院長は瓶の封を調べながら答えた。


「隣町の薬屋では、すぐ買えたよ。救護院向けは足りないと言われているのだがね」


 私は箱を床へ下ろした。ヴァルト商会との契約を進めたのは、王太子府の財務顧問だったオルセン伯爵だ。仕入れをまとめれば支出を減らせる。私はそう説明され、契約書に署名した。

 伯爵が舞踏会の夜にも隣にいたことを思い出す。これ以上、令嬢に弁明させれば被害を受けた娘が傷つく。あのときも私は、伯爵の言葉に頷いた。


     *


 翌週、救護院へ役人が二人来た。

 支給薬の不足について調べるためだというので、院長は注文控えを用意させた。ところが、彼らが卓上に広げた書類には、十二瓶すべてを納めたと記されていた。先月も、その前の月も同じだった。


「受け取りは、ミナという職員ですね」


 年上の役人が、彼女を見た。ミナは自分の帳簿を開き、六瓶しか届かなかった日の記録を示す。受領書も控えを残してあると言うと、役人は手を差し出した。

 私は彼女の後ろから書類を見た。ミナの控えには六瓶、役人の持参した月次報告には十二瓶。両方に日付と商会の印があったが、月次報告に彼女の署名はない。


「その十二瓶という数字は、誰が確かめたのですか」

「商会から王都へ提出されたものです」

「では、商会にも確認を」

「もちろん、行います」


 役人は私の言葉を遮らずに聞いた。ただ、書類を閉じると、ミナに薬棚の鍵を出すよう告げた。


「疑いが晴れるまで、薬の出し入れからは外れていただきます。院長、お預かりください」


 ミナは腰から鍵を外した。震えているようには見えなかった。いつもどおりに輪を持ち、卓上へ置く。その手から離れた鍵が、小さな音を立てた。


 役人が帰ったあと、院長は王都の監察局へ送る報告を書き始めた。救護院の収支も合わせて調べてもらうと言う。ミナには、疑っているわけではないと伝え、記録を出せるだけ出してほしいと頼んだ。

 私は廊下で彼女に追いついた。


「商会の報告だけで、君が持ち出したことにはならない。私からも話す」

「何をですか」


 その問いに、足が止まった。


「君が毎日、数を確かめていることを」

「それは話していただければ助かります。でも、私が盗んでいないところを、ずっと見ていたわけではないでしょう」


 ミナは空の桶を持っていた。薬の仕事から外されても、洗濯物は減らない。桶を持とうとした私に、彼女は首を振った。


「見ていないことまで言わないでください。私が本当に言ったことまで、疑われます」


 私は手を下ろした。彼女が行ったあと、薬の届いた日のことを紙に書き出した。自分が箱を運んだ日と、ほかの者から聞いただけの日を分ける。覚えていない数は、空けたままにした。


 その夜、私宛てに王都から手紙が届いた。

 差出人はオルセン伯爵だった。救護院での勤勉な働きは聞いている、と書き出し、最後に、王都への帰還について口添えできるとあった。


『まずは、今回の紛失の責任を明らかにすることです。薬棚を管理していた者の怠慢を、あなたから報告なさればよい。王族として、身近な者にも公正に処分を下せるところをお示しください。』


 手紙を読み終えても、机へ置けなかった。

 王都の部屋には、まだ私の本がある。湯が冷める前に入浴でき、朝には磨かれた靴が並ぶ。食べ物の好みを説明しなくてもよかった。ここへ来てから、思い出すたびに押し込めていた暮らしが、急にはっきり浮かんだ。

 伯爵は、ミナを犯人だと書いてはいない。管理が足りなかったと報告するだけなら、間違いではないのかもしれない。


 扉が叩かれた。夜勤の職員が、熱のある老人の寝台を移すので手を貸してほしいと言う。手紙を引き出しに入れようとして、封をしていない別の便箋が見えた。

 逃げずに務めるつもりだと、セラフィーヌへ書いた手紙だった。


「今、行きます」


 伯爵の手紙は、机に残した。


     *


 翌朝、私は院長に手紙を渡した。

 院長は最後まで読み、もう一度、差出人を確かめた。その間、私は椅子に座れなかった。帰還を断ると決めたからといって、惜しくなくなるわけではない。院長から、悪く考えすぎではないかと言われれば、頷いてしまいそうだった。


「君は、この契約を知っているのか」

「署名したのは、私です」


 院長は卓上の報告書へ目を向けた。


「確か、納入数の確認を商会の月次報告で済ませる条項がありました。各施設からの書類を待たずに支払えるように、と」

「ここから受領書を送っているのにか」

「送られたものと照合する部署は……」


 私は答えられなかった。そこまで聞いていない。伯爵が用意した説明書には、支払いの遅延をなくすことと、事務の負担を減らすことが書かれていた。私はそれを、そのまま父へ説明した。


「王都から契約書を取り寄せてください。私の承認した付属条項も、全部」


 院長はペンを持ち直した。


「分かった。だが、君自身も調べられることになる」

「はい」

「今の処分で済むとは限らない」


 私は机の端を握った。院長は返事を急がず、こちらを見ている。やがて指を離し、持ってきた自分の記録を、伯爵の手紙の隣へ置いた。


「それも含めて、調べていただきたい」


 監察官が到着したのは、十日後だった。

 それまでの間、院長は薬を近隣から買い集め、職員たちは受領書の控えを日付順に並べた。私は書類を運び、どの箱に何があったかを記録する。自分で証拠を握っていたいとは言えなかった。契約に署名した私も、調査を受ける側だった。


 隣町の薬屋から、救護院へ納めるはずの番号がついた木箱が見つかった。王室向けの箱には、納入先と番号を記す決まりがある。薬屋の主人は商会から買ったと証言し、支払いの控えも出した。

 商会は、余った品を売っただけだと説明した。だが、救護院では同じ番号の箱を受け取っていない。ほかの施設でも不足が見つかり、商会の帳簿と照合する作業が始まった。


 調査が進むにつれ、救護院を訪ねる人が増えた。その中に、伯爵の使いもいた。私にだけ会いたいと言ったが、院長のいる応接室へ通した。


「伯爵は、殿下のご身分を案じておられます」


 使いは座らず、私の顔を見た。


「ご自身の承認された契約を問題にすれば、先の件だけでは済みません。国庫に損失を与えた責任まで、お負いになるのですよ」

「承知しています」

「王都へ戻るお話も、難しくなります」


 私は、膝の上で両手を組んだ。


「そのお話は、お断りします」


 使いは初めて院長を見た。私が二人きりになるのを断った理由が、そこで分かったらしい。唇を結び、預かってきたという封筒を懐へ戻した。

 帰ったあと、私はしばらく動けなかった。院長がお茶を注ぎ足してくれたが、冷めるまで手をつけなかった。


     *


 審理は、冬の終わりに州庁舎で開かれた。

 支援を受ける施設の代表と、王都から来た監察官たちが席につく。傍聴席には商人も職員もいた。オルセン伯爵は紺の上着を着て、中央の席に座っていた。私を見ると立ち上がりかけ、すぐに座り直す。

 私が案内されたのは、伯爵の隣ではなく、証言をする者のための椅子だった。


 商会が王室から十二瓶分の代金を受け取りながら、救護院へは六瓶しか納めず、残りを市中で売っていたことは、複数の帳簿から確かめられていた。伯爵の管理する事務所には、商会から継続して金が支払われている。名目は契約に関する助言料だった。

 伯爵は横流しへの関与を否定した。商会の虚偽報告に気づけなかったことは認めるが、契約に従って処理しただけだと言う。


「この方式をお決めになったのは、当時の王太子殿下です」


 伯爵がこちらを向いた。何人かの視線が、私へ移る。私は立ち、監察官から差し出された契約書を確かめた。


「私の署名です。付属条項も、私が承認しました」


 伯爵は頷いた。


「私が進言したのは、支払いを円滑にするためでした。現場の職員が管理を怠った場合まで、予見できるものではありません」

「受領数の記録は残っていました」

「その記録を、全面的にお信じになるのですか」


 伯爵の目が、傍聴席へ動いた。そこにミナが座っている。彼女は両手を膝に置き、こちらを見ていた。


「また、女性の言葉を信じて判断を誤られるおつもりですか」


 頬が熱くなった。舞踏会の夜を知らない者はいない。自分がかばった令嬢の泣き顔も、セラフィーヌの説明を遮った声も、思い出したくないほど鮮明だった。

 それでも私は、ミナから視線を外さなかった。彼女に頷いてもらおうとはしなかった。


「以前の私は、聞きたい話だけを聞き、確かめずに人を裁きました」


 伯爵が口を開きかけた。私は監察官へ向き直る。


「今回は、私が見ていないことも含めて、調べていただいています。ミナの控えは、荷を運んだ者の記録とも一致しました。私が彼女を信じるかどうかで、決める話ではありません」


 監察官が、運送人の証言を記した書類を示した。伯爵はそれを見ると、契約の不備と商会の不正は別だと言い直す。


「王太子府としては、善意で制度を整えたのです。責任を問うのであれば、承認された方にも」

「はい」


 伯爵の言葉が止まった。


「私は承認しました。誰が納入数を確かめるのか、問い合わせもしませんでした。その責任はあります」


 手の内側が汗で濡れていた。卓に置かれた書類には、当時の私が、支出の削減を自分の成果として父へ報告した記録もある。伯爵から言われるまで、その数字を確かめたこともなかった。


「ですが、私に責任があっても、あなたへの調査をやめる理由にはなりません」


 監察官が、別の封筒を取り出した。

 私へ届いた伯爵の手紙だった。調査前に薬の管理者を処分するよう勧め、帰還への口添えを申し出た経緯を問われると、伯爵は椅子に座り直した。


「怠慢があれば、と申し上げたまでです。犯人と決めつけたわけでは」

「なぜ、商会の報告についての確認を求めなかったのですか」


 監察官の問いに、伯爵は答えなかった。

 さらに、商会へ宛てた伯爵の事務所の指示書が読み上げられる。実際の納入数について施設から照会が来ても、月次報告の数字を変えないように。事務所に残っていた控えと、商会側の原本は一致していた。書類を運んだ書記も、その場に呼ばれていた。


「担当者が、私の意図を取り違えたのでしょう」


 伯爵は書記を見た。書記は俯きかけたが、監察官に促され、伯爵から受けた指示を答えた。途中で声が震えたときも、審理は止まらなかった。誰も、身分を理由に彼を下がらせなかった。


 休憩が告げられると、伯爵が私のそばへ来た。衛兵が付き添っているため、近くで立ち止まるしかない。


「レオン殿下。これ以上は、互いのためになりません」


 以前は、私にだけ聞こえる声で助言してくれた。その声で、伯爵は続けた。


「私がいなければ、あなたを王都へ戻そうとする者はおりませんよ」


 私は椅子から立った。


「提出するものは、すべて監察官へ渡しました」


 伯爵の目が動いた。私の手元から、書類を抱えて席を立つ監察官へ。呼び止めようと一歩進んだところで、衛兵に制された。

 私は傍聴席の出口へ向かった。ミナは院長と一緒に立っていたが、話しかけてはこなかった。私も、そのまま廊下へ出た。

 窓のそばまで行ってから、ようやく大きく息を吐いた。拳を開くと、掌に爪の跡が残っていた。


     *


 判決が出たのは、それからひと月後だった。

 伯爵は財務に関わる役職を解かれ、商会の責任者とともに、薬代の不正請求と調査妨害について刑を受けることになった。取り戻された金の一部は、救護院が立て替えた薬代に充てられた。院長は帳簿を確かめ、ようやく、新しい寝台を一つ注文できると言った。

 ミナが薬を持ち出した事実はなく、受領した数も正確に記録していたと、判決には明記された。最初に彼女の鍵を預からせた役人が、その書面を持ってきた。院長は職員を集め、全員の前で読み上げた。


 私には、監督を怠った責任があるとされた。

 私有財産から損失の一部を補い、救護院での勤務を二年延長する。今後、会計に関わる公務へ戻るには、定められた課程と試験を経なければならない。処分を読み終え、私は書面に署名した。

 王都の本を何冊か売ってよいかと、財産を管理する者へ手紙を書いた。売りたくない本の題名を並べかけたが、まず一覧を送ってもらうことにした。弁償する金額を、まだ自分で把握できていなかったからだ。


 数日後、院長室で、ミナと二人になった。

 返された薬棚の鍵を受け取りに来た彼女は、机に座っていた私へ声をかけた。


「証言してくださって、ありがとうございました」


 私はペンを置いた。言われるとは思っていたのかもしれない。胸が緩むのを感じ、そのことが恥ずかしかった。


「君の記録が正しかったからだ」

「それでも、殿下の手紙がなければ、責任を曖昧にされたかもしれません」


 ミナは鍵を腰につけた。輪に指を通して留め具を確かめる、見慣れた動作だった。


「今回のことには、お礼を申し上げます。でも、父のことを許せたわけではありません」

「分かっている」


 すぐに返事をしてから、私は言い直した。


「いや。分かったつもりで、何か求めないようにする」


 ミナは私を見た。頷きはしなかったが、扉へ向かいかけて足を止める。


「次の受け取りから、薬は二人で数えることになりました。手が空いていたら、お願いします」

「空けておく。何時だ」

「十時です」


 私は机の紙に時刻を書いた。彼女はそれを確かめ、病室へ戻っていった。


 その晩、引き出しの手紙を整理した。

 セラフィーヌ宛ての便箋は、角が折れていた。救護院に来たばかりの私が、慣れない仕事に耐えていることを、何行も使って書いている。裏返すと白紙だったので、切って、仕事の控えに使うことにした。

 判決のことを彼女に知らせる手紙は書かなかった。


     *


 春になり、救護院の庭に洗濯物を干せる日が増えた。

 新しい寝台は、窓際の部屋に置かれた。私は組み立てを手伝ったが、脚を一本逆につけ、職人にやり直してもらった。次の修繕では、先に尋ねるようにした。

 薬の納入にも新しい商会が入った。私が数を読み上げ、ミナが帳簿に記し、二人で受領書を確かめる。数が合わなければ、その場で箱を開け直した。受領書の控えは、月末に王都の会計局へ送ることになった。


 ある朝、ミナが院長と話しているところへ、私は洗った器具を運んでいった。父親の診察に付き添うため、明日、隣町へ行きたいらしい。院長は許可したが、彼女は入口でまだ何か考えていた。


「帰りの馬車が、夕方になるかもしれません。薬の受け取りは前倒しにしていただいたのですが」

「午後の仕事か」


 私が尋ねると、ミナは手に持っていた紙を見た。配膳の注意と、替える必要のある寝具が、寝台ごとに書かれている。


「ほかの方に分けて頼むつもりです」

「私でよければ、引き継ぐ」


 ミナはすぐには答えなかった。私は器具を棚にしまい、濡れているものがないか確かめた。背後で紙の動く音がして、振り向くと、彼女が一枚を差し出している。


「午後の配膳を、お願いできますか。五番の方は、青い縁の皿です」

「塩を控えている方だな」

「はい。食べるのに時間がかかるので、ほかの方が済んでも下げないでください」


 私は紙を受け取った。読み終えて、夕方の薬について尋ねる。薬は別の職員が担当し、私は食後の様子を記録する。その確認まで済むと、ミナは手帳を閉じた。


「では、お願いします」


 翌日、五番の老人は、ほかの者が食べ終わっても半分しか粥を食べていなかった。私は空の皿を下げ、卓を拭き、彼のそばへ戻った。老人は匙を持ったまま、申し訳なさそうに私を見る。


「遅くて悪いね」

「急がなくて結構です」


 窓から風が入ったので、閉めてよいか尋ねた。老人が頷くのを待ち、窓を閉じる。戻ると、彼はまた一口食べていた。

 私は隣の椅子を引き、食事の記録を開いた。皿を下げる時刻は、まだ空けておいた。


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― 新着の感想 ―
こういう、人はやり直し出来る。でも自分の過ちに向き合わないといけないみたいな物語は良いなぁ。
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