第九話「見えてきたもの」
九日目の朝。
目が覚めた。
天井を見た。
染みが三つ。
いつもと同じだ。
でも昨日と少し違う感覚があった。
体の奥が、静かに動いている気がした。
スキルだ、と思った。
根拠はなかった。でも、そういう感じがした。
食堂に降りた。
マルティナが朝食を出してくれた。
パンと卵のスープ。昨日と同じ。
ありがたかった。
マルティナはいつも同じだ。
昨日黒字になっても、借金が減っても、いつもと同じ顔で朝食を出す。
それが、なんとなく安心できた。
「今日は定期依頼はないですが、採取に出ます」
「気をつけな」
「はい」
それだけだった。
必要なことだけ言って、余計なことは言わない。
マルティナのそういうところが、俺は好きだ。
マユミが来た。
今日はいつもより少し遅かった。
「寝坊したか」
「少しな」
「珍しいですね」
「昨日稼いだからかもしれない。少し気が緩んだ」
マユミは自分で言って、少し苦い顔をした。
「いけないな」
「気が緩むのは自然なことです。問題は、緩んだまま動くことですよ」
「どう違う」
「緩んだと気づいて締め直せれば問題ない。気づかないまま動くのが危ない」
マユミはスープを飲みながら、少し考えた。
「……お前、今日も変な顔してるな」
「変な顔ですか」
「うん。何か見えてる顔」
俺は少し止まった。
「見えてる顔、というのは」
「前に言ってたやつ。スキルが動いてるときの顔だ」
マユミは覚えていた。
「……そうかもしれないです」
「また何か変わったか」
「まだわからないです。でも今日、何かありそうな気がして」
マユミは頷いた。
「そうか。ならちゃんと飯食え」
「食べてます」
「もう一枚パンを取れ。マルティナさんに言えばくれる」
俺は少し笑った。
「マユミさんが言ってくれますか」
「……自分で言え」
結局、自分で頼んだ。
マルティナは何も言わずにパンをもう一枚くれた。
ギルドに向かった。
掲示板を確認した。
今日は西草地の薬草採取と、別の依頼が一件。
「商人ギルド周辺の荷物運搬補助。午前二時間。銅貨十二枚」。
運搬補助か。
倉庫整理とは違う。荷物を指定の場所まで運ぶだけだ。
体力仕事だ。マユミに向いている。俺は案内と確認役に回れる。
「マユミさん、これどうですか」
紙を見せた。
「運搬か。重いやつか」
「書いてないですね。確認してみましょう」
受付の女性に聞いた。
「鉱石の袋だよ。一袋十キロ前後。十袋を倉庫から馬車まで運ぶだけ」
マユミが隣で腕を組んだ。
「余裕だ」
「じゃあこれを午前に入れて、午後に薬草採取にしましょう」
「わかった」
運搬の仕事は、思ったより早く終わった。
マユミが一袋ずつ軽々と運ぶ。
俺は荷物の数と順番を管理した。
十袋、三十分で完了。
依頼主の商人が目を丸くした。
「早いな。二時間分の依頼だが、もう終わりか」
「はい。問題なかったですか」
「問題どころか完璧だ。袋の順番まで出荷順に並べてくれた」
「そうしておいた方が後で楽だと思って」
商人はしばらく俺を見た。
四十代くらいの男だった。
がっしりした体格。目が鋭い。商人というより、元冒険者のような雰囲気があった。
そのとき。
何かが見えた。
いつもと違った。
性別、男。それはわかっていた。
職業の雰囲気。商人。それもわかっていた。
でも今日は、それに加えて、もう一つ。
体の状態が、なんとなくわかった。
元気だ。消耗していない。疲れていない。
ぼんやりとした感覚だ。数字ではない。でも確かに感じた。
……また、変わった。
俺は少し目を細めた。
「どうした」
商人が俺を見ていた。
「いえ。何でもないです」
「そうか。……報酬だ。十二枚。それと、また頼んでいいか」
「はい。喜んで」
「名前は」
「ヒコです」
「俺はドガン。また声をかける」
それだけだった。
ドガンが去った後、マユミが横に来た。
「また変な顔してたぞ」
「スキルが動きました」
「今度は何が見えた」
「体の状態が、少しわかるようになった気がします」
「体の状態?」
「元気か、疲れているか。消耗しているか、余裕があるか。まだぼんやりとした感覚ですが」
マユミはしばらく考えた。
「それって、戦闘で使えるんじゃないか」
俺は少し止まった。
戦闘。
そうだ。敵が消耗しているかどうかわかれば、戦況の判断に使える。
「……そうですね」
「ヒコが戦えなくても、俺は今仕留められるかどうか教えてくれれば」
「判断材料になりますね」
マユミは少し、目が明るくなった。
「使えるじゃないか、そのスキル」
「まだ感覚だけです。正確かどうかわからない」
「精度を上げていけばいいだろ」
俺は頷いた。
ミルヴァが言っていた。使いこなせれば、一番怖いスキルの一つ。
少しだけ、その意味がわかってきた気がした。
午後、西草地に出た。
今日は二人それぞれの依頼を別々に受けていた。
マユミは討伐依頼を一件。草原の端に出たスライムを一体処理するだけの簡単なものだ。
俺は薬草採取、五束。
合流地点を決めた。西草地の入り口、街道沿いの大きな石のそば。
「何かあれば声を出してください。聞こえる範囲でいます」
「わかった」
「マユミさんのスライム討伐、だいたい何分くらいですか」
「場所がわかってれば三十分もあれば十分だ」
「では三十分後に合流地点で待ちます。遅れるようなら声をかけてください」
「了解」
二人で別れた。
薬草採取を始めた。
一人での採取は久しぶりだった。
静かだった。
草の音。風の音。遠くで鳥が鳴いている。
一束目を見つけた。
引き抜きながら、周囲を確認した。
そのとき、草むらの向こうに何かがいるのを感じた。
音ではなかった。
気配、というやつだ。
俺はゆっくり立ち上がった。
草むらを見た。
何かがいる。
大きくはない。でも小さくもない。
スキルを意識した。
見ようとした。
性別は、わからない。魔物に性別があるのかどうかも、まだわからない。
職業の雰囲気も、魔物にはない。
でも、体の状態。
……元気だ。
消耗していない。余裕がある。
それだけがわかった。
元気な魔物と俺が一対一になれば、結果は見えている。
俺は薬草を袋に入れて、ゆっくりと後退した。
急がない。急ぐと音が出る。
三歩。五歩。十歩。
草むらが動いた。
出てきた。
リザードマンに似た、二足歩行の魔物だった。体長は俺より少し大きい。鱗が緑色。目が細い。
俺を見た。
俺は止まらなかった。
ゆっくり、でも確実に、合流地点の方向へ歩き続けた。
走らない。走ると追ってくる。でも止まらない。止まると間合いを詰められる。
リザードマンは俺をじっと見ていた。
縄張りの確認をしているのかもしれない。
十メートル。二十メートル。
リザードマンは動かなかった。
追ってこなかった。
三十メートルを超えたとき、草むらに戻っていくのが見えた。
俺は長い息を吐いた。
どくん、どくん、と心臓が鳴っていた。
子供の体は、正直だ。
合流地点に戻ると、マユミがすでに待っていた。
「早かったですね」
「スライムが思ったより近くにいた。……お前、何かあったか」
「顔に出てますか」
「出てる。青い」
「リザードマンに遭遇しました。逃げてきました」
マユミの目が変わった。
「怪我は」
「ないです。追ってこなかった」
「場所は」
俺は地図を出して、場所を示した。
「草むらの奥です。縄張り確認だったと思います。追ってはきませんでした」
「体の状態は見えたか」
「元気でした。消耗ゼロ」
「それがわかったから、逃げる判断が早かったんだな」
俺は少し考えた。
「……そうかもしれないです。元気だとわかった瞬間に、戦う選択肢が消えました」
「それでいい」
マユミは地図を見た。
「リザードマン、このあたりに出るとは聞いてなかった。ギルドに報告しよう」
「はい。それと、採取は一束しか取れなかったです」
「依頼を完了できないな」
「今日の分は諦めます。情報をギルドに上げる方が、長期的に価値がある」
マユミは頷いた。
「わかった」
ギルドに戻った。
受付の女性にリザードマンの情報を報告した。
場所。時間。体の大きさ。行動の様子。
「よく逃げてきたな。リザードマンはDランク推奨の魔物だ」
「知らなかったです」
「それで逃げ切ったのか」
「追ってきませんでした。たぶん縄張りに入り込んだだけで、俺が脅威じゃないと判断したんだと思います」
受付の女性はメモを取りながら、少し笑った。
「冷静だな」
「怖かったですけど」
「怖いのに冷静なのが大事なんだ」
採取の依頼は未完了扱いになった。報酬はなし。
でもリザードマンの情報提供に対して、少額の情報料が出た。銅貨三枚。
「情報料ってあるんですか」
「ギルドが有用と判断した情報には出る。リザードマンの出没域が広がってるなら、他の冒険者に知らせる必要がある」
なるほど。
情報にも価値がある。
ミルヴァが情報を商売にしている理由がわかった気がした。
帰り道、マユミが隣で言った。
「今日、スキルが役に立ったな」
「まだ感覚だけです」
「でも逃げる判断が早かった。あれがなければ、どうなってたかわからない」
俺は少し考えた。
「追ってこなかったので、たぶん大丈夫だったと思います」
「たぶん、だろ」
「……はい」
「たぶんと確実の差が、この世界では命取りになる」
俺は頷いた。
マユミのその言葉は、経験から来ていた。
俺みたいに理屈で言っているんじゃない。
体で知っている言葉だった。
今日の収支を確認した。
運搬補助、銅貨十二枚。
採取未完了、報酬なし。
情報料、銅貨三枚。
合計、銅貨十五枚。
生活費、約五十枚。
本日赤字、約三十五枚。
累計借金、二百七十枚から三百五枚に増えた。
昨日の黒字が、今日の赤字で消えた。
……まあ、そういう日もある。
現場でも、うまくいく日ばかりじゃない。
大事なのは、週単位、月単位でどう動くかだ。
来週から定期依頼が始まる。
そこから収支の構造が変わる。
今日の赤字は、今日だけの話だ。
夕食の食堂で、マユミが向かいに座った。
豆のスープと黒パン。
しばらく黙って食べた。
マユミが口を開いた。
「なあ、ヒコ」
「はい」
「今日、リザードマンに会ったとき、怖かったか」
「怖かったです」
「どのくらい」
「膝が震えました。心臓の音が自分で聞こえました」
マユミは少し考えた。
「私も最初の頃、そうだった」
「今は違うんですか」
「怖いことは怖い。でも最初ほどじゃない」
「慣れるんですか」
「慣れるというより……怖いのが普通になる、という感じかな」
俺は少し考えた。
「現場でも似たようなことがありました。高所作業が怖い新人が、一年後には普通に動いてる」
「現場、また現場か」
「すみません。他に例えが出てこなくて」
マユミはくすりと笑った。
「いや、わかりやすいからいい」
二人でしばらく黙って食べた。
悪くない沈黙だった。
マユミが最後にぽつりと言った。
「お前、少しずつ変わってるな」
「どう変わりましたか」
「最初の頃より、目が落ち着いてきた」
俺は少し考えた。
「この街に、少し慣れてきたのかもしれないです」
「慣れてきた、か」
「根を下ろすのは、まだ先ですけど」
マユミは少し目を細めた。
「根を下ろすつもり、あるのか」
「……あるかもしれないです」
マユミは何も言わなかった。
でも、悪くない顔をしていた。
部屋に戻って、窓の外を見た。
夜のアーゼルタウン。
九日目。
今日、スキルがまた動いた。
体の状態が、ぼんやりとわかるようになった。
リザードマンに遭遇した。逃げ切った。
採取は未完了で、今日は赤字だった。
でも、収穫はあった。
スキルが役に立った。情報を上げた。マユミと少し話した。
ガッツが言っていた。この街に根を下ろすつもりがあるなら、顔を売っておいた方がいい場所がある、と。
少しずつ、顔が増えてきた。
マルティナ。マユミ。ミルヴァ。ガッツ。コルテ。ドガン。ギルドの受付。
七人だ。
来てから九日間で、七人の顔を覚えてもらった。
現場でも最初の一ヶ月は人脈への投資だ。
悪くないペースだと思った。
目を閉じた。
第九話「見えてきたもの」 了




