第十八話「契約書と、マユミの変化」
月曜日の朝。
目が覚めた。
今日、ドガンが契約書を持ってくる。
先週「来週、確認してくれ」と言っていた。
契約書というのは、読む前に判断してはいけない。
どんなに信頼できる相手でも、書面は書面だ。
感情と契約は別物だ。
現場でも同じだった。
いい人間だから、と思って読まずに判子を押した結果、後で揉めた案件を何件も見てきた。
今日は丁寧に読む。
それだけだ。
食堂に降りた。
マユミがいなかった。
珍しかった。
マルティナに聞いた。
「マユミさんを見ましたか」
「早朝に出て行った。依頼があるって言ってた」
「朝一番で」
「うん。珍しいだろ」
俺は少し考えた。
昨日の夜、マユミは普通だった。
食堂で一緒に飯を食って、少し話して、おやすみと言って部屋に戻った。
特に変わった様子はなかった。
でも今朝は、早朝に一人で出て行った。
……まあ、依頼があるなら仕方ない。
深追いしない。
朝食を食べた。
ドガンの仕事に向かった。
倉庫に着くと、ドガンがルークと話していた。
俺を見て頷いた。
「来たか。今日は少し早く終わらせてくれ。その後に話がある」
「わかりました」
ルークと二人で動いた。
今日は在庫の確認が少なめだった。
五十分で終わった。
ドガンが封筒を出した。
「契約書だ。読んでくれ」
受け取った。
封筒を開けた。
紙が三枚入っていた。
一枚目が契約の概要。二枚目が詳細条件。三枚目が署名欄だった。
俺はゆっくり読んだ。
一文ずつ、確認しながら。
ドガンは黙って待っていた。
急かさなかった。
それが、この人らしかった。
十分ほどで読み終わった。
三か所、確認したいことがあった。
「一つ目です」
俺は紙の該当箇所を指した。
「契約期間が一年とありますが、途中解約の条件が書いていません。万が一、どちらかの都合で終了したい場合の手続きを明記してほしいです」
ドガンは少し目を細めた。
「どちらかの都合、というのは、お前が辞めたい場合も含むか」
「はい。俺がいなくなる可能性もゼロではないので」
「……正直だな」
「隠しても意味がないので」
ドガンは頷いた。
「わかった。一ヶ月前の通告で解約可能、という条件を追加する」
「ありがとうございます」
「二つ目です」
俺は次の箇所を指した。
「追加依頼の報酬は都度合意、とありますが、合意の方法が口頭だけだと後で確認が取れなくなります。追加依頼の都度、簡単な書面を残す形にしてほしいです」
「書面、というのは大げさじゃないか」
「紙一枚でいいです。依頼の内容と報酬を書いて、両方がサインする。それだけです」
ドガンはしばらく考えた。
「……それは、俺たちにとっても都合がいいな。トラブルの防止になる」
「そういうことです」
「了承した」
「三つ目です」
俺は最後の箇所を指した。
「報酬の支払いが月末一括とありますが、月の前半と後半で二回に分けてほしいです」
「なぜだ」
「月末一括だと、月の途中で生活費が足りなくなったとき、対応できません。二回払いにすることで、生活の安定性が上がります」
ドガンは少し笑った。
「所帯じみた理由だな」
「現実的な理由です」
「まあ、構わない。月二回払いにする」
「ありがとうございます」
「三か所とも修正する。来週、改めて契約書を持ってくる」
「わかりました」
「……お前、本当に子供か」
「体は子供です」
「また言ってる」
ドガンは苦笑した。
「一つだけ聞いていいか」
「はい」
「契約書を読んで、修正を求めてくる人間は、この街ではほとんどいない。みんな、出された書面にそのまま判子を押す」
「それは危ないですね」
「危ない。でも、それが普通なんだ。なぜお前は違う」
俺は少し考えた。
「昔の仕事で、契約書を読まなかった人間が何人も損をするのを見てきたので。読むのは当たり前だと思っています」
「昔の仕事、か」
「はい」
「……いつかその話を聞かせてくれ」
「いつか機会があれば」
ドガンは頷いた。
「来週、また来てくれ」
「はい」
ギルドに向かった。
掲示板を確認しようとしたとき、マユミが入り口から入ってきた。
朝より少し疲れた顔をしていた。
でも、どこか、すっきりした顔でもあった。
「おかえりなさい。依頼はどうでしたか」
「終わった」
「何の依頼でしたか」
マユミは少し間を置いた。
「昔の知り合いに会いに行ってた」
俺は少し止まった。
「会いに行った、というのは、自分から」
「うん。先週、偶然会って。今日は自分から会いに行った」
「話せましたか」
「話せた」
マユミは答えた。
短かったが、重さがあった。
「よかったです」
「うん」
マユミは掲示板の前に立った。
依頼を確認し始めた。
俺は隣に立った。
聞くべきか、聞かないべきか。
少し考えた。
マユミはすでに動き始めていた。
今日の依頼を探している。
それが答えだと思った。
前を向いている。
それで十分だ。
「今日の午後、一緒に採取に出ますか」
「出る」
「川沿いの奥でいいですか」
「いい」
それだけだった。
でも、それが今日一番大事なことだった気がした。
午後の採取。
川沿いを歩きながら、マユミが口を開いた。
「今日の話、少し聞いてくれるか」
「はい」
「昔の知り合い——幼馴染なんだが、実家の近くに住んでいる。家を出るとき、何も言わなかったから、ずっと気になってた」
「今日会って、どうでしたか」
「最初は怒ってた。なんで急にいなくなったんだって」
「それは当然だと思います」
「うん。私も、ちゃんと謝った。初めて」
俺は黙って歩いた。
「怒ってたけど、最後は話を聞いてくれた。冒険者になりたかったこと、ここでちゃんとやってること、仲間ができたこと」
「仲間ができたこと、と言いましたか」
「言った」
マユミは少し前を向いたまま言った。
「お前のことも話した」
「俺のことを」
「変な子供がいる、って」
俺は少し笑った。
「変な子供、ですか」
「否定するか」
「否定しません」
マユミも少し笑った。
「幼馴染が言ってた。お前が楽しそうに話すのは久しぶりだって」
俺は何も言わなかった。
マユミが続けた。
「……ここに来てから、少し変わったんだと思う。自分では気づかなかったけど」
「どう変わりましたか」
「前は、冒険者になることだけ考えてた。なれたはいいけど、思ってたのと違って、ただ必死だった。でも今は、必死なのは変わらないけど、なんか、違う感じがする」
「違う感じ、というのは」
マユミは少し止まった。
草を踏む音だけがした。
「一人じゃない、って感じ、かな」
俺は少し考えた。
「それはいいことだと思います」
「そうだな」
「俺も同じです」
マユミが振り返った。
「お前も、か」
「来てから一ヶ月以上、一人でいると思ったことがないです。マルティナさんがいて、マユミさんがいて、ガッツさん、コルテさん、ドガンさん、ミルヴァさん。いつの間にか、顔を思い浮かべられる人間が増えていた」
マユミはしばらく俺を見た。
「お前、そういうことをちゃんと言えるんだな」
「言えないと、相手に伝わらないので」
「現場仕込みか」
「そうです」
マユミはくすりと笑った。
「……ありがとう」
「何のお礼ですか」
「一緒にいてくれること、かな」
俺は少し止まった。
何か言おうとした。
でも、言葉より先に、マユミが歩き始めた。
「採取に集中するぞ。今日もいい場所があるはずだ」
「……はい」
俺も歩き始めた。
採取を終えて、宿に戻った。
夕食の時間、三人で食堂に座った。
マルティナが今日の料理を出しながら、マユミを見た。
「今日は顔が違うな」
「そうか」
「すっきりした顔だ」
「少し、やり残してたことを片付けた」
「そうか」
マルティナはそれだけ言って、厨房に戻った。
余計なことを聞かない。
それがマルティナだ。
食事が終わった頃だった。
マユミが立ち上がろうとして、少し止まった。
「ヒコ」
「はい」
「今日、少し話があるんだが……部屋に来てもらってもいいか」
俺は少し間を置いた。
マユミの顔を見た。
真剣だった。
怒っているわけでもない。
ただ、何かを伝えようとしている顔だった。
「わかりました」
マルティナが厨房から顔を出した。
何も言わなかった。
でも、口元が少し動いた気がした。
マユミの部屋に入った。
小さい部屋だった。俺の部屋と同じ広さだ。
でも、マユミの部屋には地図が壁に貼ってあった。
採取ルートに印がついている。
俺のものとは別の印だった。
マユミは椅子に座った。
俺は向かいに座った。
「今日の話、続きがある」
「はい」
「幼馴染に、帰ってこないのかって、また聞かれた」
「今日もですか」
「うん。先週も聞かれた。今日も聞かれた」
「なんて答えましたか」
マユミはしばらく黙った。
「帰らない、って答えた」
俺は少し止まった。
「はっきり言えたんですね」
「言えた。先週は、まだわからない、って言ったけど。今日は、はっきり言えた」
「何が変わりましたか」
マユミは俺を見た。
真っ直ぐな目だった。
「お前が、かっこいいって言ったから」
俺は少し黙った。
「先週の夜、覚えてるか」
「覚えています」
「あの言葉が、ずっと残ってた。かっこいいかどうかは結果じゃなくて、どう動いてるかだって」
「はい」
「私、今どう動いてるかを、ちゃんと考えた。そしたら、帰りたくないって思った。ここでやり続けたいって思った」
マユミは少し息を吸った。
「だから、帰らないって言えた」
俺は少し考えた。
「それはよかったです」
「それだけか」
「それだけ、というのは」
「もっと何か言えよ」
俺は少し笑った。
「マユミさんが自分で決めた話です。俺が言えることは、よかった、だけです」
「……まあ、そうだな」
マユミは少し下を向いた。
それから、顔を上げた。
「もう一つ言いたいことがある」
「はい」
マユミは少し間を置いた。
灯りが揺れた。
「お前のことが、好きだ」
静かな声だった。
でも、はっきりしていた。
俺は少し黙った。
動悸が、少し速くなった。
子供の体は正直だ。
でも、頭は五十歳だ。
十七歳の女の子に好きだと言われた五十歳の元課長として、何を言うべきか。
……いや、違う。
今の俺は十五歳だ。
体も、この世界での経験も。
マユミと一緒に地べたから動いてきた、十五歳だ。
五十年の記憶はある。
でも、今ここにいるのは、ヒコだ。
「俺も」
俺は言った。
「マユミさんのことが、好きです」
マユミは少し目を丸くした。
それから、また笑った。
今まで見た中で、一番素直な笑いだった。
「……さらっと言うな」
「本当のことを言っただけです」
「本当のことでも、さらっと言うな」
「すみません」
「謝るな」
二人で少し笑った。
しばらく、二人でそのままでいた。
灯りが揺れていた。
部屋が静かだった。
マユミが少し、俺の方に体を傾けた。
肩が触れた。
温かかった。
俺は動かなかった。
マユミも動かなかった。
ただ、そのままでいた。
しばらくして、マユミが言った。
「今日は、これだけだ」
「はい」
「続きは、またいつか」
「いつか」
「焦るな」
「焦っていないです」
「嘘つくな、少し焦ってただろ」
「……少しだけ」
マユミはまた笑った。
「正直でいい」
俺は部屋を出た。
廊下に出ると、空気が少し違った気がした。
心臓の音が、まだ少し速かった。
五十年の記憶を持っていても、こういうことは慣れないものだ。
自分の部屋に入った。
窓の外を見た。
夜のアーゼルタウン。
城壁の上の灯り。
今日、契約書を確認した。
三か所、修正を求めた。
ドガンが全部飲んだ。
マユミが自分の答えを出した。
帰らない、と言えた。
そして。
「好きだ」と言われた。
俺も言った。
肩が触れた。
それだけだった。
でも、それで十分だった。
今日は。
目を閉じた。
第十八話「契約書と、マユミの変化」 了




