第十六話「セリウスと、ギルドカードの話」
月曜日の朝。
目が覚めた。
先週、初めて週黒字になった。
十五枚の黒字だった。
小さい。
でも、方向が変わった。
今週は、その黒字を維持する。
それだけを考えた。
食堂に降りた。
マユミがいた。
今日は少し遅かった。
「おはよう」
「おはようございます。よく眠れましたか」
「よく眠れた。先週黒字になったからかもしれない」
「俺もそうです。数字が安定してくると、眠りが変わりますね」
「現場仕込みか」
「そうです。現場の予算が黒字になると、監督の顔が変わります」
マユミはスープを飲みながら少し笑った。
マルティナが朝食を出した。
今日はパンが少し大きかった。
俺はそれを見て、何も言わなかった。
マルティナも何も言わなかった。
でも、伝わった。
ドガンの仕事に向かった。
いつもと同じ流れで動いた。
一時間半で終わった。
ドガンが報酬を渡しながら言った。
「先週の薬草管理、うまく機能してる。今週から別の棟にも同じ方式を広げた」
「それはよかったです」
「お前の提案が採用された、ということだ。ちゃんと覚えておいてくれ」
「はい」
「それから、以前言った大きい話だが」
俺は少し身構えた。
「来週あたり、詳しく話せると思う。今日はまだ準備中だ」
「わかりました。いつでも」
「急かさなくていいのか」
「急かしても相手の準備が整わなければ意味がないので」
ドガンは少し笑った。
「そういうところが、お前らしいな」
それだけだった。
ドガンの仕事を終えて、ギルドに向かった。
掲示板を確認しようとしたとき、声をかけられた。
「少し話があります。時間はありますか」
振り返った。
初めて見る顔だった。
五十代くらいの男だった。体格はがっしりしているが、動きが静かだった。
目が、落ち着いていた。
品定めでも値踏みでもない目だった。
ただ、見ていた。
スキルで確認した。
男。職業の雰囲気……冒険者。いや、それだけじゃない。何か別の雰囲気も重なっている。
体の状態。
消耗していない。余裕がある。でも油断もしていない。
長年、何かを続けてきた人間の状態だった。
「はい。どなたですか」
「セリウス・ハルトといいます。冒険者ギルドのマスターを務めています」
俺は少し止まった。
セリウス。
ギルドマスター。
来てから一ヶ月、一度も会っていなかった。
でも、名前は知っていた。
「前田……ヒコです」
「知っています」
「俺のことを」
「ギルドに関わる人間の顔と名前は、だいたい把握しています」
セリウスは静かに言った。
威圧感はなかった。
でも、この人が把握していない情報はないだろう、という感じがした。
「少し、座りませんか」
ギルドの端の席に案内された。
向かいに座った。
セリウスはしばらく俺を見た。
俺もセリウスを見た。
先に口を開いたのはセリウスだった。
「一ヶ月、無登録で動いていますね」
「はい」
「なぜですか」
俺は少し考えた。
「登録する理由がなかったので」
「理由がない、というのは」
「採取の仕事は無登録でもできます。今の俺には、登録しなければできない仕事がなかった」
セリウスは少し間を置いた。
「合理的な判断ですね」
「そうですか」
「普通、この街に来た冒険者志望の若者は、すぐ登録したがります。ランクが上がれば仕事の幅が広がるから。でもあなたは一ヶ月、登録しなかった」
「今の実力でランクを上げても、危険な依頼を受ける準備ができていないので」
セリウスはまた少し間を置いた。
「今日声をかけたのは、そろそろカードを作ってほしいからです」
「登録を勧めているんですか」
「はい。ただし、ランクアップを急げという話ではありません」
俺は少し考えた。
「俺が登録する理由を、教えてもらえますか」
セリウスは少し目を細めた。
笑ったのかもしれない。
「あなたが登録すれば、ギルドがあなたを正式に保護できます。今は無登録なので、万が一何かあったとき、ギルドが動けない」
「何かあったとき、というのは」
「事故、トラブル、魔物による被害。無登録者は補償の対象外です」
俺は少し考えた。
補償。
盲点だった。
採取中に何かあっても、今の俺はギルドの補償を受けられない。
マルティナへの借金がある状態で、無補償のリスクを負い続けていた。
「……考えていませんでした」
「そうですね」
「登録費用は」
「無料です。ただし、試験か保証人が必要です」
「試験の内容は」
「基礎的な戦闘技術と、依頼の達成実績です。あなたの場合、戦闘技術は難しいかもしれませんが、依頼の達成実績は十分すぎるほどあります」
俺は少し考えた。
「保証人は誰でもいいですか」
「Eランク以上の冒険者であれば」
マユミはEランクだ。
「わかりました。登録します」
「そうですか」
セリウスは短く頷いた。
それだけだった。
立ち上がろうとしたとき、セリウスがもう一度口を開いた。
「一つ聞いていいですか」
「はい」
「あなたのスキルは何ですか」
俺は少し間を置いた。
「可視化です」
セリウスは動かなかった。
表情も変わらなかった。
でも、目が少し変わった気がした。
「そうですか」
「何か」
「いえ。ただ、確認したかっただけです」
セリウスは立ち上がった。
「登録は受付で話を通しておきます。今日の午後にでも来てください」
「わかりました」
「一つだけ、覚えておいてください」
セリウスは俺を見た。
「可視化は、珍しいスキルです。使い方によっては、非常に価値がある。でも同時に、知られたくない人間もいる」
「知られたくない、というのは」
「自分のステータスを他人に見られたくない者は、どこにでもいます。あなたのスキルが広まれば、面倒なことになるかもしれない」
「つまり、あまり話すなということですか」
「あなたの判断に任せます」
セリウスはそれだけ言って、歩いて行った。
背中が静かだった。
午後の採取に出る前に、マユミを探した。
ギルドの掲示板の前にいた。
「少し頼みたいことがあります」
「何だ」
「冒険者登録の保証人になってもらえますか」
マユミは少し止まった。
「保証人?」
「Eランク以上の冒険者が必要で。セリウスさんから登録を勧められました」
マユミはしばらく俺を見た。
「なんで今まで登録してなかったんだ」
「理由がなかったので」
「……相変わらずだな、お前は」
「すみません」
「謝るな。やる。保証人になる」
「ありがとうございます」
「でも一つ聞いていいか」
「はい」
「セリウスさんが直接声をかけてきたのか」
「そうです」
マユミは少し考えた。
「セリウスさんが直接動くのは珍しい。よっぽど気になる人間じゃないと声をかけない」
「そうなんですか」
「あの人、ギルドマスターだけど、もともとSランクの冒険者だったって聞いた。普通は受付を通して処理する。直接来たということは……」
マユミは少し言葉を止めた。
「お前、何かある」
「何がですか」
「普通じゃない、という意味だ」
俺は少し考えた。
「セリウスさんに可視化のスキルを話しました」
「それだ」
「それが理由ですか」
「たぶん。可視化は珍しいスキルだから」
ミルヴァも同じことを言っていた。
珍しい。使いこなせれば怖い。
セリウスも同じ評価をしている。
「気をつけた方がいいのかもしれません」
「何に」
「スキルのことを、あまり広めない方がいいかもしれない、と言われました」
マユミは真剣な顔になった。
「それは、素直に聞いておけ」
「そうします」
午後、ギルドの受付でマユミの保証のもと、登録手続きをした。
受付の女性が書類を出した。
「名前、年齢、スキル、出身地を記入してください」
俺は少し考えた。
スキルの欄を見た。
セリウスの言葉が頭に残っていた。
知られたくない人間もいる。
「スキルは書かなければいけませんか」
「記入は任意です。ただし、依頼によっては開示が必要な場合もあります」
「今日は空欄にします」
「わかりました」
書類を記入した。
受付の女性がスタンプを押した。
薄い金属のカードが出てきた。
名前と登録番号が刻まれている。
Eランク。
俺のギルドカードだった。
手の平に乗せた。
小さかった。
でも重さがあった。
マユミが隣で言った。
「遅いぞ、一ヶ月も」
「今が適切なタイミングだったと思っています」
「また現場の話をするのか」
「しません」
マユミは少し笑った。
夕食の時間、食堂でマルティナにカードを見せた。
「登録できました」
マルティナはカードを手に取った。
少し見て、返した。
「よかった。これで何かあったときに動けるようになる」
「そうですね。遅くなりました」
「気づいたときが適切なタイミングだよ」
俺はその言葉を、少し反芻した。
セリウスも、マルティナも、同じことを別の言葉で言っている。
気づいたときに動け。急ぎすぎるな。でも遅すぎるな。
それが、この街で生きている人間の共通認識なのかもしれない。
夕食を食べながら、マユミが言った。
「セリウスさんのこと、少し調べた」
「どうやって」
「ミルヴァさんに聞いた」
「なるほど」
「もともとSランクで、十五年前に現役を引退してギルドマスターになった。引退の理由は非公開。でも、今でも実力は衰えていない、という話だ」
「ミルヴァさんはなんでも知っていますね」
「情報屋だから。それから」
マユミは少し声を低くした。
「可視化のスキルを持った人間が、過去に何人かいたらしい。でも全員、途中でこの街からいなくなってる」
俺は手を止めた。
「いなくなった、というのは」
「わからない。ミルヴァさんも詳しくは知らないって言ってた。でも、一人や二人じゃないらしい」
俺は少し考えた。
セリウスの言葉。
知られたくない人間もいる。
可視化のスキルを持った人間が消えていく。
点と点が、少し繋がった。
でも、まだ線にはならない。
「ミルヴァさんに情報料を払いましたか」
「払った。銅貨十枚」
「それは俺が払います」
「いい。私が聞いたんだから私が払う」
「でも俺のための情報です」
「お前のためだけじゃない。一緒に動いてる以上、お前のリスクは私のリスクだ」
俺は少し黙った。
また、こういうことをさらっと言う。
「……ありがとうございます」
「お礼はいい」
マルティナが厨房から顔を出した。
「難しい顔をしてるな、二人とも」
「少し考えていることがあって」
「飯を食いながら考えるな。まず食え、考えるのはその後だ」
俺は頷いた。
「そうですね」
スープを一口飲んだ。
温かかった。
まず食う。考えるのはその後だ。
現場でも同じだった。
腹が減った状態で判断を下すな。
それが鉄則だった。
部屋に戻った。
窓の外を見た。
夜のアーゼルタウン。
今日、ギルドカードができた。
セリウスと話した。
可視化のスキルを持った人間が消えていく、という話を聞いた。
不安がないわけじゃない。
でも、今日の俺にできることは限られている。
情報を集める。判断できるようになるまで待つ。動ける状態を維持する。
段取りが組めるほど、まだ情報が揃っていない。
わからないことが多い。
でも、わからないことがあることはわかった。
それで十分だ。
今日の段階では。
ギルドカードを手の平に乗せた。
小さい金属の板だ。
でも重さがある。
この街で生きている証明が、少し増えた気がした。
目を閉じた。
第十六話「セリウスと、ギルドカードの話」 了




