前編 最弱スキル《可視化》持ちの50歳元ゼネコン課長、異世界で現場力だけで生き残る 第一幕「生存」第一話「転生初日、段取りゼロ」
目が覚めた。
天井を見た。
石造りの、古い天井だった。
染みが三つある。一つは丸く、一つは細長く、一つは不規則な形だ。
知らない天井だった。
……ここはどこだ。
体を起こした。
軋む音がした。木のベッドだ。
窓から光が入っている。朝だ。
部屋を見渡した。
小さい部屋だった。ベッドと小さな棚。床は木板。壁は石。
宿屋の一室、だと思った。
なぜ思ったのか、自分でもわからなかった。
でも、そういう気がした。
手を見た。
小さかった。
指が細い。タコも傷もない。
俺の手じゃなかった。
前田和彦、享年五十歳の手は、もっとごつくて傷だらけだった。
でも、動いた。
握って、開いて、また握った。
確認完了。とりあえず動く。
頭の中が、少しずつ整理されてきた。
最後に覚えていること。
自宅の風呂場。ひどい頭痛。足元がふらついて、倒れた。
脳梗塞か、脳出血か。まあ、どちらでも同じだ。
死んだのだろう。
そして今、ここにいる。
見知らぬ部屋。見知らぬ手。
転生、というやつか。
五十年生きてきて、まさかそんなことが起きるとは思わなかった。
でも、なってしまったものは仕方ない。
感情的になる時間は後でいい。
まず現状を把握する。改善点を探す。次の手を考える。
それが五十年の癖だった。
もう一度、頭を整理した。
すると、別の記憶が浮かんできた。
前田和彦の記憶ではない。
もっと若い。もっと素朴な。
田舎の村。母親の顔。藁葺きの屋根。
ヒコ。
その名前が、頭の中に浮かんだ。
これが、この体の元の持ち主の名前だ。
記憶を辿った。
冒険者に憧れていた少年。
里帰りする冒険者グループが村を通ったとき、「下働きでいいから」と頼み込んで同行を許可された。
街道を馬車で進んでいた。
そして——。
突然、木陰から人影が飛び出した。
盗賊だった。
冒険者たちが剣を抜いた。
俺は馬車の陰に隠れた。
誰かに殴られた。
そこで、記憶が途切れていた。
……つまり、こういうことか。
ヒコという少年が盗賊に襲われて意識を失った。
その体に、前田和彦の意識が入った。
二つの記憶が混ざり合って、今ここにいる。
だから言葉がわかる。この世界のことがなんとなくわかる。
でも、細かいことは何もわからない。
体の状態を確認した。
頭に鈍い痛みがある。右の脇腹も痛い。打撲だ。
でも動ける。骨は折れていない。
傷に布が巻いてある。
誰かが手当てをしてくれた。
礼を言わなければいけない。
立ち上がった。
少しふらついたが、すぐ安定した。
子供の体は、回復が早い。
腰の革袋を確認した。
銅貨が七枚入っていた。
それだけだった。
……七枚か。
この世界の物価がわからない。
でも、大した額じゃないことはわかった。
俺の今の全財産は、銅貨七枚だ。
扉を開けた。
廊下に出た。
木の匂いがした。ランプの油の匂い。
階段を下りた。
食堂らしい広間があった。
カウンターの奥から、どっしりした体格の女が出てきた。
四十歳くらい。エプロン姿。目が細くて、でも温かい目だった。
「目が覚めたか」
短い言葉だった。
「はい。ありがとうございます」
「礼はいい。座れ」
椅子に座らされた。
女はテーブルにパンとスープを置いた。
「食べろ。体が資本だ」
「あの……ここは」
「星の宿。私はマルティナ。この宿の女将だ。ここはアーゼルタウンだよ」
「俺を助けてくれたのは」
「商人の護衛冒険者が街まで連れてきた。意識がなかったから、私のところに預けられた」
俺は少し考えた。
盗賊に襲われた後、商人の護衛に拾われて、この宿に運ばれた。
その間、ずっと意識がなかった。
「いつから、ここにいたんですか」
「昨日の夕方だ。一晩、寝ていた」
「傷の手当ては」
「私がした。大した傷じゃない」
「ありがとうございます」
「礼はいい。飯を食え」
マルティナはそれだけ言って、厨房に戻った。
余計なことを言わない人だ、と思った。
嫌いじゃない。
パンを一口食べた。
固かった。でも、腹に沁みた。
スープを飲んだ。
塩辛かったが、温かかった。
食べながら、考えた。
まず確認すべきことがある。
宿代だ。
タダで泊めてもらえるとは思えない。
いくらかかっているか、把握しなければいけない。
食べ終えて、マルティナに声をかけた。
「宿代を確認したいです。いくらになっていますか」
マルティナは少し目を細めた。
「聞くのか」
「借りているものは、いくら借りているか把握しておきたいので」
マルティナは帳簿を出した。
「昨夜の宿代と夕食は、連れてきた護衛の人が払っていった。今朝の朝食が五枚。それは帳簿につけてある」
俺は少し止まった。
「護衛の人が……払ってくれたんですか」
「そうだ。お前が意識なかったから立て替えていった。『今回の報酬でトントンだ、後腐れなしだ』と言って、名前も言わずに去ったよ」
見ず知らずの人間が、自分の報酬をそのまま置いていった。
礼も言えなかった。
でも、そういう人間がいるということだ。
いつか、同じことができる人間になりたいと思った。
俺は頭の中で計算した。
今朝の朝食が五枚。
手持ちは七枚。
今日の朝食は払える。でも今日以降の生活費は出ない。
「今日以降の分を立て替えてもらえますか。必ず返します」
マルティナはしばらく俺を見た。
品定めでも、値踏みでもなかった。
ただ、確認するような目だった。
「わかった。帳簿につけておく」
「ありがとうございます。仕事をして、少しずつ返します」
「ギルドに行け」
「ギルド、というのは」
「冒険者ギルドだ。大通りを東に行けば旗が出てる建物がある。無登録でも採取の仕事は受けられる。まずそこから始めろ」
マルティナは小さな紙を渡した。
「これを持っていけ。受付に見せれば話が早い」
紙には「この者に採取の仕事を教えてやってくれ。マルティナ」と書いてあった。
ぶっきらぼうな文章だった。
でも、助かった。
「行ってきます」
「気をつけろ。子供が一人で出歩く街じゃない」
「子供じゃないつもりですが」
「体は子供だろ」
言い返せなかった。
外に出た。
これがアーゼルタウンか。
城壁に囲まれた街。石畳の通り。露店の声。馬車の音。鍛冶の金属音。
全部、知らない景色だった。
でも、知らないなりに読める。
人の流れを見れば、どこが商業地区かわかる。
どんな現場でも、最初の一時間は全体を見ることに使う。
それが染みついていた。
一度立ち止まって、周囲を見渡した。
東の方向に、大きな建物が見える。
旗が出ている。剣と盾の紋様だ。
あれがギルドだろう。
歩き始めた。
ギルドは思ったより広かった。
掲示板。カウンター。数十人が行き来している。
入り口で立ち止まって、全体を見た。
現場に入るときのやり方だ。
まず全体を把握する。動線を読む。それから動く。
カウンターに向かった。
受付の女性は三十代くらいで、目の下に疲れがあった。
俺を見て、眉が少し上がった。
子供が一人で来た、という顔だった。
「登録か?」
「はい。ただ、仕組みをまだ知らなくて。教えていただけますか」
マルティナの紙を渡した。
女性は読んで、少し表情を緩めた。
「マルティナさんの紹介か。なら話が早い」
簡潔に教えてくれた。
無登録でも緑の依頼は受けられる。採取と収集が中心。危険度は低い。報酬も薄い。実績を積めばギルドカード発行の道が開ける。
「今日はどうする」
「採取の仕事を一件お願いしたいです」
「ならあの掲示板の緑の紙だ。選んで来い」
掲示板の前に立った。
緑の紙が十枚ほど並んでいた。
全部読んだ。
比較した。報酬と難易度と場所のバランス。
「街道沿いの草原で薬草を五束採取。報酬銅貨八枚」。
紙に絵が描いてある。街道沿いなら迷わない。判断材料が多い。
段取り八分。情報が揃っている仕事を選ぶ。
紙を持って受付に戻った。
「一つ注意がある」
受付の女性が声をわずかに落とした。
「子供の一人仕事は、街から見える範囲まで。いいな」
「わかりました。見える範囲で終わらせます」
「……素直だな」
「無茶は嫌いなので」
小さく笑った。
「そういう子供は長生きするよ」
長生きする。
ここではそれが、一番大事なことだ。
南門を出た。
空が広かった。
草原が広がっている。風が来た。草の匂い。土の匂い。
門の脇で立ち止まって、全体を見渡した。
どこまで見通せるか。撤退路はどこか。
百メートル以内の範囲で動く。それ以上は出ない。
決めてから歩き始めた。
薬草探しは、想像より地味だった。
しゃがんで、紙の絵と見比べて、また立って、移動する。繰り返す。
三十分で一束見つけた。
葉の形が合っている。根元の色も同じ。
慎重に引き抜いた。根が切れないように。
立ち上がって、あたりを見回した。
人はいない。静かだった。
風だけが草を揺らしていた。
二束目を探していたとき、草むらが動いた。
かさ、という音。
体が固まった。
心臓が跳ねた。一度、強く。
どくん。
方向は三メートルほど先。草が揺れている。
脚が動かなかった。
五十年で担いだ度胸が、ここでは全部白紙だった。
三秒待った。
草から出てきたのは、丸っこい小動物だった。
リスに似た生き物。こちらを一瞥して、すたこら逃げた。
俺は長い息を吐いた。
膝が少し震えていた。
……新人みたいな反応をした。
いや、新人で正解だ。ここでは俺は本当に新人だ。
怖がりの新人は育つ。怖いもの知らずの新人は怪我をする。
三十年間、そう言い続けてきた。
自分に言い聞かせて、また草を探し始めた。
五束目が揃ったのは、日が中天を過ぎた頃だった。
立ち上がって、門を確認した。
まだ見えている。
よし。引き返す。今日はここまでだ。
ギルドに戻ると、受付の女性が薬草を確認した。
「根が全部ついてる。丁寧な仕事だな」
「素材は丁寧に扱えと染みついてまして」
「誰かに教わったか」
「昔の仕事で」
女性は首を傾けたが、それ以上は聞かなかった。
「銅貨八枚。明日も来るか」
「来ます」
「ならこっちの紙を持っていけ」
無登録者の通し番号が書いてあった。
細かい。でも合理的だ。
宿に戻った。
マルティナに今日の報告をした。
「採取を一件こなしました。銅貨八枚です」
マルティナは帳簿を確認した。
「今日の生活費が約三十五枚。八枚入って、差し引き二十七枚の赤字だ。今日からの借金は二十七枚だな」
「わかっています。少しずつ縮めていきます」
「焦るな。でも、止まるな」
「はい」
夕食を食べた。
豆と肉の煮込みだった。塩辛かったが、悪くなかった。
食堂の端の席で、一人食べた。
隣のテーブルに、革の軽鎧を着た女がいた。
十七か十八か。短剣を二本差している。茶色の髪を無造作に束ねていた。
食べながら、依頼の紙を読んでいた。
視線が一瞬、合った。
向こうはすぐ目を逸らした。
俺も戻した。
部屋に戻った。
今日の収支を確認した。
収入、銅貨八枚。生活費、約三十五枚。赤字、二十七枚。マルティナへの借金、二十七枚。
わかっていたことだ。でも、数字にすると重みが違う。
でも、最初から黒字が出る現場はない。
赤字を把握して、縮める方法を考える。それだけだ。
布団に横になった。
天井を見た。
染みが三つ。
今朝、目が覚めたときと同じ天井だ。
今朝はここがどこかもわからなかった。
今夜は、ここが自分の拠点だとわかっている。
一日で、それだけ変わった。
目を閉じた。
草の匂いが、まだ指先に残っていた。
死ななかった。
今日一日、死ななかった。
それで十分だ。
第一話「転生初日、段取りゼロ」 了




