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第一話「転生初日、段取りゼロ」

 目が覚めた。


 天井があった。


 石造りの、古い天井。染みが三つ。亀裂なし。崩落リスクなし。型枠の歪みもない。


 安全確認、完了。


 ……俺は何をやっているんだ。



 体を起こすのに、手間取った。


 軽すぎた。


 五十年分の重さが、どこかに消えていた。膝の古傷も、右肩の凝りも、朝一番の腰の鈍痛も。全部ない。


 手を見た。


 小さかった。指が細い。タコも傷もない、素人の手だ。


 俺の手じゃなかった。


 でも動いた。


 握って、開いて、また握った。三十秒ほどそうしていた。


 泣くかと思ったが、泣かなかった。


 現場で泣いたことがない。たぶんそういう体質だ。



 部屋の隅に鏡があった。


 覗いた。


 知らない顔が映っていた。十五歳くらいの少年。黒髪。目が少し大きい。整った顔だが、その目の奥に戸惑いが滲んでいた。


 俺の目だった。


 深く息を吸った。吐いた。もう一度吸った。


 感情的になる時間は後でいい。まず現状を把握する。それが五十年の癖だった。



 テーブルに革袋と紙が置いてあった。


 文字が読めた。なぜ読めるかは考えないことにした。現場でも「なぜこの設計なんだ」と思うことはある。でもまず読む。動く。考えるのは動きながらだ。


「目覚めたならギルドへ行け。あとは自分で考えろ」


 ぶっきらぼうな文章だった。


 うちの部長に似ている、と思った。現場上がりで口が悪くて、でも言ってることは的確な、あの部長に。


 銅貨を数えた。七枚。


 現実換算で七百円ほどか。


 ……少ない。


 宿代も飯代もわからないが、これだけで何日持つかは怪しい。


 予算確認は基本だ。そして今の予算は、かなり厳しい。



 一階の食堂は朝から騒がしかった。


 革鎧の男たち。腰に剣を差した女。子供は俺一人だった。


 壁際の席を選んだ。出口が見える。全体が把握できる。背中を壁につけられる。


 現場の朝礼と同じ立ち位置だ。全員の顔が見える場所に立つ。それだけで情報量が違う。


 給仕が来てパンとスープを置いた。礼を言った。


 声が裏返った。


 ……そうか。声変わり前か。


 三十年ぶりだな、と思いながらスープを一口飲んだ。塩辛い。でも温かかった。


 文句は言わない。現場の飯はもっとひどかった。冬場の外仕事で食う冷めた弁当に比べれば、温かいだけで百点だ。



 耳だけ立てた。


「北の森、ゴブリンが三体確認された」「採取依頼が一件出た」「あの報酬、安すぎる」「昨日Dランクが一人やられた」


 断片が入ってくる。


 ゴブリン。採取。依頼。報酬。やられた。


 最後の一言が、少し耳に残った。


 やられた、というのは、死んだということか。


 スープを飲みながら、それとなく声のした方を見た。三十代くらいの男が二人、肉を食いながら話している。片方は傷だらけの革鎧。もう片方は腕に包帯を巻いていた。


 表情は暗くない。


 日常の話をしている顔だった。


 ……なるほど、と思った。


 ここでは、人が死ぬのは日常だ。


 俺はスープの残りを静かに飲み干した。



 外に出た。


 アーゼルタウン。城壁に囲まれた街。


 石畳の通り。木組みの家。露店の声。馬車の音。遠くで鍛冶の音がしている。どこかで子供が笑っている。


 一歩出たところで、立ち止まった。


 いきなり動かない。全体を見渡す。人の流れを読む。危険箇所を把握する。


 現場に入るときのやり方だ。


 通りは東西に伸びている。人が多い方が商業地区のはずだ。ギルドがあるなら人の流れに乗ればいい。看板が出ているかもしれない。


 歩き始めた。


 道を一本間違えた。戻った。また歩いた。


 地図がないと不便だな、と思った。初めての現場では必ず全体図を入手するのに、今日はそれを怠った。明日からは地図を買う。予算に組み込もう。



 ギルドはすぐ見つかった。


 大きな建物。剣と盾の旗。人の出入りが多い。


 扉の前で一度立ち止まった。


 深呼吸した。


 現場の朝礼前みたいな感覚だった。ここから一日が始まる。気合いを入れるわけじゃない。ただ、呼吸を整える。それだけ。


 扉を押した。



 広いホールだった。


 掲示板。カウンター。数十人の男女が行き来している。声が重なり合っている。金属の音。革の匂い。汗の匂い。


 俺は入り口近くで全体を見た。


 どこへ行けばいい。何をすればいい。


 わからなかった。


 五十年のキャリアが、一ミリも役に立たない。


 建設の現場でなら、どこに何があるか、誰に何を聞けばいいか、体で知っている。でもここは違う。ルールが違う。常識が違う。


 これは新鮮な感覚だった。


 現場では「何もわからないふりをしながら全部把握している課長」だった。今は「本当に何もわからない十五歳」だ。


 開き直るしかない。知らないことを恥じない。聞ける奴が伸びる。


 カウンターに向かった。



 受付の女性は三十代くらいで、目の下に疲れがあった。俺を見て、眉が少し上がった。


 子供が一人で来た、という顔だった。


「登録か?」


「はい。ただ、仕組みをまだ知らなくて。教えていただけますか」


 知らないことを恥だと思わない。現場でも「わからないことを聞ける新人」の方が伸びる。聞けない奴が一番危ない。


 女性は少し表情を緩めた。


「正直でいいね」


 簡潔に説明してくれた。


 無登録でも緑の依頼は受けられる。採取と収集が中心。危険度は低い。報酬も薄い。実績を積めばギルドカード発行の道が開ける。ランクはEからスタート。


「今日はどうする」


「無登録で採取の仕事を一件お願いしたいです」


「ならあの掲示板の緑の紙だ。選んで来い」


 礼を言って掲示板に向かった。



 緑の紙が十枚ほど並んでいた。


 全部読んだ。


 薬草採取。キノコ採取。川の石を拾う。木の実を集める。


 比較した。報酬と難易度と場所のバランス。川は遠い。キノコは種類の見分けが難しそうだ。木の実は季節次第で見つからない可能性がある。


「街道沿いの草原で薬草を五束採取」。報酬は銅貨八枚。紙に絵が描いてある。


 絵があるから判断基準が明確だ。答え合わせができる。街道沿いなら迷わない。撤退路も確保しやすい。


 段取り八分。判断材料が多い仕事を選ぶ。


 紙を持って受付に戻った。



「一つ注意がある」


 受付の女性が、声をわずかに落とした。


「子供の一人仕事は、街から見える範囲まで。いいな」


「わかりました。見える範囲で終わらせます」


 女性はしばらく俺を見た。


「……素直だな」


「無茶は嫌いなので」


 ふっと笑った。小さな笑いだった。


「そういう子供は長生きするよ」


 お世辞でも嬉しかった。


 長生きする。ここではそれが、一番大事なことだ。



 南門を出た。


 空が広かった。


 草原が広がっている。風が来た。草の匂い。土の匂い。遠くに森が見える。


 俺は門の脇で立ち止まって、全体を見渡した。


 どこまで見通せるか。障害物はどこか。門まで全力で走れば何秒か。


 百メートル以内の範囲で動く。それ以上は出ない。今日はそこまでだ。


 決めてから歩き始めた。



 薬草探しは、想像より地味だった。


 しゃがんで、紙の絵と見比べて、また立って、移動する。繰り返す。繰り返す。


 地中埋設物の調査に似ている。地面を這いずりまわる仕事だ。あれも地味だが手を抜くと後で大事になる。ガス管を傷つけたら洒落にならない。


 三十分で一束見つけた。


 葉の形が合っている。根元の色も同じ。


 慎重に引き抜いた。根が切れないように。素材は丁寧に扱うのが基本だ。


 立ち上がって、あたりを見回した。


 人はいない。


 静かだった。


 風だけが草を揺らしていた。


 ……綺麗だな、と思った。


 余計なことを考えている場合じゃないが、素直にそう思った。



 二束目を探していたとき、草むらが動いた。


 かさ、という音。


 体が固まった。


 心臓が跳ねた。一度、強く。


 どくん。


 方向は三メートルほど先。草が揺れている。大きさがわからない。何がいるのかわからない。


 脚が動かなかった。


 五十年で担いだ度胸が、ここでは全部白紙だった。子供の体が正直に怖がっている。心拍が速い。息が浅い。


 意識して、ゆっくり吸った。


 ゆっくり、吐いた。


 三秒待った。


 草から出てきたのは、丸っこい小動物だった。リスに似た生き物。耳が丸くて毛並みがいい。こちらを一瞥して、すたこら逃げた。


 俺は長い息を吐いた。


 膝が少し震えていた。


 ……新人みたいな反応をした。


 いや、新人で正解だ。俺はここでは本当に新人だ。怖がりの新人は育つ。怖いもの知らずの新人は怪我をする。三十年間、そう言い続けてきた。


 自分に言い聞かせて、また草を探し始めた。



 三束目を見つけた頃、遠くで声がした。


 男の怒鳴り声だった。方向は森の手前。距離がある。


 俺は立ち上がって、目を凝らした。


 二人の男が揉めているのが見えた。革鎧の大柄な男と、もう一人。もう一人は小柄で、距離があって顔まではわからない。


 関係ない、と思った。


 俺には戦う力もなければ止める手段もない。介入するリソースがない。


 現場で言えば、自分の担当区域以外のトラブルに無資格で突っ込むのと同じだ。悪化させるだけだ。


 俺は視線を戻して、薬草探しを続けた。


 揉め声は、しばらくして聞こえなくなった。



 五束目が揃ったのは、日が中天を過ぎた頃だった。


 立ち上がって、門を確認した。


 まだ見えている。


 よし、と思った。


 引き返す。今日はここまでだ。



 ギルドに戻ると、受付の女性が薬草を確認した。


「根が全部ついてる。丁寧な仕事だな」


「素材は丁寧に扱えと染みついてまして」


「誰かに教わったか?」


「昔の仕事で」


 女性は首を傾けたが、それ以上は聞かなかった。


「銅貨八枚。明日も来るか?」


「来ます」


「ならこっちの紙を持っていけ」


 小さな紙を渡された。無登録者の通し番号が書いてある。次からはこれを見せれば手続きが早くなるらしい。


 細かい。でも合理的だ。


 ギルドというのは、なかなかちゃんとした組織だと思った。



 宿を探した。


 街を歩いていると、「星の宿」という看板が目に入った。


 扉を押した。


 中は薄暗くて、木の匂いがした。カウンターの奥から、どっしりした体格の女が出てきた。四十歳くらい。エプロン姿。目が細くて、笑うと目尻に深い皺が寄りそうな顔だった。


 笑っていなかったが、怖くはなかった。


「一人かい?」


「はい」


「素泊まりか、食事付きか」


「食事付きで……いくらですか」


「銅貨五十枚。前払いだよ」


 俺は袋を出した。


 数えた。


 七枚。


 足りない。


 当然だった。最初からわかっていた。でも実際に数えると、改めて現実が重くなった。


「……すみません。今日の報酬が八枚で、手持ちが七枚しかなくて」


 正直に言った。


 嘘をついても意味がない。


 マルティナは俺を見た。


 品定めでも、同情でもない。


 ただ、静かに見ていた。


 少し間があった。


「素泊まりは銅貨三十枚。飯は食堂で別に払う。一食五枚から」


「それも……今日の分は払えます。でも明日以降は」


「立て替えておくよ」


 短かった。


「え」


「稼げるようになったら返せばいい。逃げなければね」


 俺はしばらく、マルティナを見た。


 なぜ、と聞きかけた。


 でも聞かなかった。


 理由を聞いて、相手が困るようなことを聞くな。これも現場で学んだことだ。


「……ありがとうございます。必ず返します」


「知ってるよ」


 マルティナはそれだけ言って、帳簿に何か書き込んだ。


 俺の名前と、金額だろう。


 几帳面な人だ、と思った。



「初めて見る顔だね。どこから来た」


「遠いところです」


「身寄りは?」


「ないです」


 マルティナはもう一度俺を見た。


「マルティナっていうんだ。何かあったら言いな」


 それだけだった。


 余計なことは言わなかった。


 俺はそれが気に入った。



 夕食の時間、食堂に降りた。


 席についたとき、隣のテーブルに女がいた。


 革の軽鎧。腰に短剣を二本。肩より少し長い茶色の髪を、無造作に束ねている。


 十七か十八か。


 夕食を食べながら、依頼の紙を読んでいた。食べ方に無駄がなかった。考えながら食べている。


 ふと視線が上がった。


 俺と目が合った。


 向こうはすぐ目を逸らした。


 俺も戻した。


 知らない女性の顔をじろじろ見るのは礼儀に反する。


 それに。


 俺は十五歳の体で五十歳の目線を持っている。それは自覚しておかなければいけない。


 夕食は豆と肉の煮込みだった。塩辛かったが、悪くなかった。



 部屋に戻った。


 窓の外に夕陽が見えた。石造りの街を橙色に染めている。


 今日の収支を確認した。


 収入、銅貨八枚。支出、銅貨三十五枚(素泊まり+夕食)。差し引き、銅貨二十七枚の赤字。


 ただし、マルティナが立て替えてくれた。


 借金だ。


 五十年生きて、初日から借金とは。


 ……まあ、最初から黒字が出る現場はない。赤字を把握して、返済計画を立てる。それだけだ。


 今日わかったこと。採取の仕事は体力より注意力が要る。段取りの感覚は通じる。銅貨八枚で採取一件。宿は素泊まりで三十枚。つまり最低でも四件以上こなさないと赤字が膨らむ一方だ。地図が必要だ。魔物の情報も要る。


 今日わからなかったこと。魔物の実力。自分の限界。この街のルール全体。


 わからないことの方が、圧倒的に多い。


 でも初日だ。現場も初日は段取りだけで終わる。


 布団に横になった。


 目を閉じた。


 草の匂いが、まだ指先に残っていた。


 死ななかった。


 今日一日、死ななかった。


 マルティナへの借金は、必ず返す。


 それが今できる、唯一の誓いだった。


第一話「転生初日、段取りゼロ」 了

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