第9話 放送室から流れた告白
昼休みの校内放送には、学校ごとの癖が出る。
うちの場合、それは妙にまじめだ。献立、連絡、部活動の呼び出し。それが終わると、放送委員の選んだ当たり障りのない曲が一、二曲流れて、弁当の時間はだらけた雑音に戻る。
だから、その日、最初の十秒で空気が変わったのが分かった。
チャイムのあとに流れてきたのは、音楽じゃなかった。
男子の声だった。
「……二年四組の、田中真帆さん」
教室じゅうの箸が止まった。
前の席のやつが半分立ち上がり、廊下の向こうでも何人かが一斉に顔を上げた。声は少しだけくぐもっていたが、はっきり聞こえた。
「先週、図書室でしおりを拾ってくれて、ありがとう。ずっと好きでした。放課後、図書室で待っています」
それだけだった。
ぶつ、と小さく切れて、五秒ほどの無音。そこから何事もなかったみたいに、昼の放送用の軽いピアノ曲が流れ始めた。
教室は、爆発する前の一拍を置いてから、きれいにざわめいた。
「え、今の誰」
「田中って四組の田中?」
「しおりって何」
「図書室って言ってたよな」
当の田中真帆は、隣のクラスだ。廊下の向こうで、誰かに囲まれているのが見える。
そして、うちの教室の窓側、三列目。弁当箱を開いたまま固まっている男子が一人いた。
岡野遼。
静かで、背が高くて、目立たないくせに目立つタイプのやつだ。先週、図書室で栞を落としていたのを見た、というどうでもいい記憶が、僕の頭の中にもあった。
教室の視線が、音もなくそっちへ寄っていく。
岡野は青ざめた顔で、最初に僕ではなく、廊下の向こうを見た。たぶん田中のいる方だ。それから、遅れて自分が見られていることに気づいた。
「違う」
誰にともなく言った声は、少し掠れていた。
その一言で、むしろ場が固まった。
「光一」
窓際で牛乳パックをたたんでいた篠宮澪が、僕を見ずに言った。
「今日は、あんまり嬉しそうじゃないね」
「そう見えるか」
「見える。あと、ちょっとだけ、がっかりもしてる」
「失礼だな。僕はいつだって真剣だよ」
「そういう顔で真剣なのが問題」
言い返す前に、廊下の向こうで女子の大きな声が上がった。誰かが泣きそうな声で、違う、ほんとに知らない、と繰り返している。
僕は弁当箱の蓋を閉めた。
「放送室だ」
「行くんだ」
「行かない理由がない」
「あると思うけど」
澪はそう言いながら、結局立ち上がった。
放送室の前は、すでに人で詰まっていた。野次馬と、放送委員と、追い払おうとしている教師と、事情だけ知りたい生徒たち。その全部が、狭い廊下で一緒くたになっている。
「通して。新聞部」
「違うでしょ」
「気分の問題だよ」
人垣の隙間を縫って中を覗くと、放送卓の前で一年の放送委員が半泣きになっていた。昼当番らしい女子で、名札には小川とある。
「私じゃないです。ほんとに、曲を流す設定にして、それで……」
「落ち着いて」
教師が言う。落ち着いていない人間に対して、いちばん効果の薄い言葉だ。
卓上のマイクは下ろされたまま。ミキサーのフェーダーも、音楽用の入力以外は下がっている。少なくとも、今この場で誰かが生で喋ったわけではなさそうだった。
僕は壁際のスピーカー確認表、卓の横のスケジュール表、開いたままのノートPCを順に見た。
「小川さん、曲の前にあの音声が入ってたの?」
「ち、違います。プレイリストは昼休み用のままで……でも、最初だけ知らないファイルが割り込んで」
「ファイル名は?」
「えっと、『お知らせ2』です」
雑だな、と口の中で呟いた。
小細工をする人間は、変なところで面倒くさがる。そこは割と好きだ。
「そのファイル、どこから開いた」
「自動です。いつも使ってるフォルダの中に入ってて……」
放送室のPC画面には、昼放送の音源フォルダが開いていた。『bgm_昼』『連絡』『校歌』『予備』。その中に一つだけ、『お知らせ2』。
更新時刻は今日の十一時五十八分。
昼休み開始の二分前だ。
「放送室に自由に入れるのは?」
僕が問うと、教師より先に小川が答えた。
「放送委員と、先生と……あと、今日は生徒会から、お昼の連絡文を置きに来た人が一人」
「誰」
「久慈原先輩じゃなくて、一年の手伝いの子です。紙だけ置いてすぐ帰りました」
澪が僕の横で、わずかに目を細めた。
けれど僕は、まだそこには飛びつかなかった。
まずは、いちばん分かりやすい答えを潰すべきだ。
放送委員の内輪の悪ふざけ。
あり得る。あり得るけれど、いかにもあり得すぎる。
僕は小川のキーボードの横に置かれたメモ帳を見た。昼の曲順、連絡事項、機材の確認。字は几帳面で、あの杜撰なファイル名をつける性格とは噛み合わない。
「光一」
澪が小さく言った。
「何」
「その子、今、誰かをかばう顔じゃない」
「うん」
「ただ、怖がってる」
「同感だ」
僕は小川から目を離し、今度は音声ファイルそのものを再生してもらった。
最初に小さなノイズ。次に、あの声。
『二年四組の、田中真帆さん。先週、図書室でしおりを拾ってくれて、ありがとう。ずっと好きでした。放課後、図書室で待っています』
短い。
そして、聞き終わる前から分かることがいくつかあった。
「生じゃない」
「それは見れば分かる」
「そういう意味じゃない。録音じゃなくて、編集だ」
澪が僕を見る。
「どうして」
「『田中真帆さん』の前後で、息の距離が違う。『好きでした』の『た』だけ、妙に乾いてる。声の高さも、一箇所だけ不自然だ」
もう一度流す。
今度は、岡野遼の顔を思い浮かべながら聞いた。
似ていない、とは言い切れない。教室のスピーカー越しに聞けば、そう思い込むには十分だ。だが、思い込みが乗るように作られている。
「誰かの声を加工したか、複数を繋いだか」
「どっち」
「まだ半々」
放送室を出ると、廊下の熱はさらに増していた。僕らを見る目まである。何か分かったのか、と書いてある顔だ。
嫌いじゃない。むしろ好きだ。
でも、その視線の先にいる岡野の顔を見た瞬間だけ、少しだけ胃の奥が重くなった。
僕らはまず図書室へ向かった。
告白の文面に出てきた場所だからではない。あの音声の後ろに、紙を硬い机へ置くような、平たい音が一度だけ混ざっていたからだ。放送室の机より、図書室の貸出カウンターの方が近い。
「聞き分けすぎじゃない?」
澪が言う。
「褒め言葉として受け取っておく」
図書室は昼休みで混んでいた。だが、貸出カウンターの横にある視聴覚ブースは空いている。小さな編集卓と、古いPC、簡易録音用のマイクがある。文化祭の動画や朗読の録音にも使う場所だ。
僕は机を指で軽く叩いた。同じ音はしない。
椅子を引く。これも違う。
貸出カウンター横の返却口の板を押し下げる。乾いた、薄い音がした。
「これだ」
「その程度で?」
「その程度だからいいんだよ」
視聴覚ブースの利用表を見せてもらう。今日の四時間目のあとから昼休み直前まで、三十分だけ名前があった。
倉持由奈。
二年四組。
田中真帆と同じクラスだ。
「近すぎるね」
「近すぎる。だから、たぶんそのままではない」
利用理由は『クラス紹介動画の確認』。
嘘ではないかもしれない。だが、それだけでもない。
次に僕らは、先週の図書室当番の貸出記録を見た。田中真帆の名前はある。返却処理の時間帯も、昼休みの終わり際。
栞の拾得届までは残っていない。あれくらいの小物なら、誰かが本人に返して終わりだ。
つまり、『先週、図書室でしおりを拾ってくれて』という文は、本人たちと、周囲にいた少人数しか知らない程度には具体的で、でも絶対の秘密というほどではない。
「岡野本人が喋った線は?」
澪が訊いた。
「まだある。でも、だいぶ細い」
「どうして」
「本人がやるなら、もっと自然に見せる。わざわざ『田中真帆さん』なんてフルネームで呼ばない。昼の放送で、自分だと分かってほしい人間が、いちばん最初にやることじゃない」
「それはそう」
「あれは逆だ。誰かに、岡野だと思わせたかった」
図書室を出る途中、貸出カウンターの奥から、返却図書を積んだワゴンが軋む音がした。
さっきの音声ファイルの最後に、同じ金属の鳴りがあった気がした。
僕は足を止めた。
「何」
「音だ」
「今日はずいぶん耳がいい」
「今日だけじゃない」
図書室脇の視聴覚ブースで録った。文面は田中と岡野を知る人間のもの。だが、声は岡野本人じゃない。
そこでようやく、僕の中で候補が一人に寄った。
倉持由奈。
動画編集ができて、視聴覚ブースを使えて、田中真帆に近い。
それでも、まだ一枚足りない。
僕らは二年四組へ行き、文化祭実行の掲示板の横に貼られたクラス紹介動画の担当表を見た。動画編集担当、倉持由奈。
その横に、小さく名前の入った素材提供欄がある。
岡野遼。
「なるほど」
僕は思わず声に出した。
「何が」
「声だよ。クラス紹介の動画なら、全員ぶんの自己紹介素材がある」
「そこから繋いだ?」
「全部じゃない。でも、土台にはなる」
名字とクラス。『ありがとう』。『待っています』。短い文なら、足りる。足りないぶんは、似た声で埋めればいい。
「似た声って」
「たぶん、女子」
澪が眉を上げた。
「女子?」
「低く作ってる。でも、息の抜き方が軽すぎる。男が無理に高くしてるんじゃなくて、女が低くしてる感じだ」
「そこまで分かるの」
「分かってしまう」
倉持由奈は、四組の廊下の端にいた。
呼び止めたとき、彼女は最初から、逃げる準備をしている顔をしていた。
「何」
「昼の放送の話」
「知らない」
「まだ何も言ってない」
彼女の喉が、ひくりと動いた。
教室の中で田中真帆が誰かに慰められているのが見える。岡野の姿はない。
倉持はその方を見ないようにしていた。
「視聴覚ブース、使ったよね」
「動画の確認で」
「うん。それも本当だろう。でも、そのとき音声も触った」
「……証拠あるの」
「今から積む」
僕は壁に寄りかかって、ひとつずつ並べた。
放送室のファイル更新時刻。図書室脇ブースの利用表。クラス紹介動画の素材。音声の継ぎ目。貸出ワゴンの軋み。岡野本人ならやらない文の作り方。
倉持は途中から顔を伏せた。
「あと一つ」
僕は言った。
「あの音声、『好きでした』のところだけ、声が少しだけ違う。そこだけ、素材が足りなくて、自分で読んだんだろ」
彼女の肩が、ぴくりと跳ねた。
「……別に、そんなの」
「倉持さん」
澪が初めて口を挟んだ。
「もうやめた方がいい」
その声は静かだったけれど、僕の言葉よりずっと逃げ道がなかった。
倉持由奈は、しばらく黙ったまま、爪の先でスカートの脇をつまんでいた。
やがて、絞るみたいに言った。
「……だって、あのままだと、もっと変なことになると思ったから」
僕は黙って続きを待った。
「真帆、この前からずっと、変な噂立てられてて。三年の先輩とどうとか、図書室で誰と会ってたとか。ほんとは違うのに、みんな勝手に面白がって」
田中真帆のことか。
「だから?」
「だから、もっとくだらない方に、話をずらしたかった」
その言い方に、僕は少しだけ息を止めた。
「くだらない方?」
「誰かが好きだとか、そういう方が、すぐ飽きると思った。岡野なら、たぶん本気で怒れないし……」
そこで彼女は、はじめて自分の言葉に躓いた。
「たぶん、って」
「だって、あいつ、真帆のこと……」
最後までは言わなかった。
言わなくても十分だった。
田中真帆を庇うつもりで、岡野遼を勝手に使った。しかも、たぶん気持ちまで分かったつもりで。
倉持由奈のやったことは、悪質だ。けれど、笑って済む悪質さではない。誰かを守るつもりが、別の誰かの逃げ場を消している。
「本人たちに話した?」
澪が訊く。
倉持は首を振った。
「じゃあ、なおさらだよ」
短い一言が、いちばん痛かった。
結局、担任と図書委員の教師を呼び、事情を伝えることになった。大ごとにしないでほしいと倉持は何度も言ったが、大ごとにしてしまったのはもう彼女自身だった。
廊下の向こうで、田中真帆がこわばった顔で立っていた。岡野遼は、その少し後ろにいた。
僕が説明すると、教師は安堵した。少なくとも、昼の放送が本物の告白ではなかったと分かったからだろう。
でも、安堵したのは教師だけだった。
田中は倉持を見たまま、ありがとうでも、ごめんでもなく、ただ一言だけ言った。
「頼んでない」
倉持は、泣きそうな顔で俯いた。
岡野は無言だった。
その沈黙だけで、たぶん一番たくさんのことが壊れた。
僕はそこで、ようやく自分の胸の中に引っかかっていたものの形が分かった。
解けた。
論理は通った。
誰が、どうやって、何のためにやったかも、説明できた。
それでも、ここにいる誰の顔も、少しも晴れていない。
教師が「とにかく事実が分かってよかった」と言うたび、その言葉だけが、場の上を滑っていく。
「光一」
廊下に出たところで、澪が呼んだ。
「何」
「今の、誰か喜ぶ結末だった?」
返事がすぐに出なかった。
僕は普段なら、事実にたどり着くこと自体に価値がある、と言う。
たぶん今日の午前までなら、迷わずそう言っていた。
でも今、頭の中に浮かぶのは、倉持の泣きそうな横顔と、田中の冷たい一言と、岡野の黙ったままの目だけだった。
「……少なくとも、誤解は解けた」
やっとのことで言うと、澪は首を傾げた。
「そうだね。誤解は解けた」
肯定の形をしているのに、少しも褒めていない声だった。
そのまま階段を下りると、一階の渡り廊下のところで、見覚えのある先輩が壁にもたれていた。
及川真奈美だった。
元新聞部部長。最近ほとんど部室に来ないくせに、こういう時だけ、こちらの進路を知っていたみたいな場所に立っている。
「やっぱり、雨宮くんだった」
「どういう意味ですか」
「昼の騒ぎ、きれいに片づけたんでしょ」
「片づけた、というか」
「そういう言い方をするところも、だいたい予想通り」
及川はそこで、廊下の奥を顎で示した。
生徒会室の方角だった。
「さっきの放送の間ね、あっち、五分くらい空いたよ」
「空いた?」
「昼の連絡持ってく一年が遅れて、先生も野次馬で引っ張られて、生徒会の子も放送室見に行った」
胸の奥が、嫌な形で冷えた。
「何が言いたいんです」
「別に。偶然かもしれないし」
偶然、という言葉を、この人はあまり信じていない顔で使う。
「でも、同じ時間に、生徒会室のUSBが一本なくなったって」
僕は何も言えなかった。
及川は少しだけ笑った。人をからかう笑いではなく、疲れた人間が諦めの形で作る笑いだった。
「雨宮くん、あなた、ずっと使われてるよ」
「何に」
「小さい方の答えに」
それだけ言って、彼女は去っていった。
廊下の窓の外では、昼の薄い光が校舎の壁で止まっていた。
生徒会室のUSB。
昼の放送。
田中真帆の噂。
倉持由奈の短絡。
岡野遼の沈黙。
全部が同じ線で結ばれるとは、まだ言えない。
でも、僕が解いたばかりの事件が、誰かにとっては、ただ目を逸らさせるための都合のいい騒ぎだった可能性だけは、嫌になるほどよく分かった。
「光一」
隣で澪が言った。
「今日は、あんまり勝った顔してない」
「うるさいな」
「うん。でも、その方がいい」
いつもなら癇に障る言い方だった。
なのにそのときは、言い返す気力が少しだけ足りなかった。
放送は終わっている。
騒ぎも、そのうち次の噂に追いやられて消えるだろう。
けれど、消えないものがある。
それを、今日は少しだけ見た気がした。




