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第8話 体育倉庫の密室メモ

雨の日の一時間目は、だいたい予定がずれる。

 校庭が使えなくなり、体育は体育館へ押し込まれ、移動したクラスのぶんだけ廊下はざわつく。いつもならそこで終わる程度の小さな混乱が、その日は妙な方向へ熱を持っていた。

「見た?」

「見てない。でも、やばいのあったって」

「体育倉庫。中に紙、置いてあったらしい」

「しかも鍵かかってたんでしょ」

「密室ってやつ?」

 いい。

 単語の並びとしては、かなりいい。

 僕――雨宮 光一は、教室の後ろで鞄を机へ引っかけたまま、その会話に耳を澄ませた。

 四月から続いてきた校内の小さな謎は、どれもそれなりに面白かった。だが、今回のそれは、最初から少しだけ質が違う。噂の輪郭が先に立ち、肝心の中身が見えていない。こういうとき、学校は勝手に想像を育てる。

「光一」

 すぐ横で、篠宮 澪が窓の外を見たまま言った。

「今、嬉しかったでしょ」

「失礼だな。まだ現物も見てない」

「『体育倉庫』『鍵』『密室』で顔が変わるの、もう見飽きた」

「変わってない」

「変わってる。しかも今回は、少し嫌な顔」

「嫌な顔?」

「楽しそうってこと」

「それはほめ言葉として受け取っておく」

 篠宮はそこでようやく僕を見た。

 平坦な目だった。

「そういう顔で見る話じゃないでしょ」

 その一言だけが、噂の温度を少しだけ下げた。

 僕は肩をすくめたが、否定はしなかった。たしかに、廊下を飛び交う声はいつもの怪談めいた軽さではなかった。「やばい」「あの日って」「旧校舎の」といった、説明を省いたままの言葉が混ざっている。

「で、何が置いてあったんだ」

「そこは知らない」

「知らないのにそんな顔してたの」

「密室というだけで八割は進める」

「残り二割で転ぶのが光一だけど」

「今日は転ばない」

「根拠は?」

「待ってました、って思ったから」

「最低」

 そう言いながらも、澪は立ち上がった。

 僕も鞄を机へ置き、教室を出る。こういうとき、制止の声より先に足が動く。僕の悪癖であり、長所でもある。

 体育館へ向かう渡り廊下は、普段より人が多かった。授業前の移動にしては足が遅い。皆、目的地へ急ぐふりをしながら、同じ場所を気にしている。視線の先にあるのは、第一体育館の脇、器具庫へ続く短い廊下だった。

 そこに、三人の教師と数人の生徒が立っていた。

 ひとりは体育の大滝先生。もうひとりは生活指導の女性教師。そしてその少し後ろに、場違いなくらい穏やかな顔で立っているのが、生徒会副会長の久慈原 仁だった。

「うわ」

 僕は小さく言った。

「思ったより大きいな」

「だから言った」

 篠宮が言う。

「軽い顔で行く話じゃないって」

 器具庫の鉄扉は開いていた。

 中はそう広くない。ボール籠、跳び箱、折りたたみマット、ライン引き、得点板。体育館の倉庫というものは、物の種類が多いわりに、どれも大きい。だから一つひとつの陰が深い。

 その中央に寄せられたボール籠の脇へ、透明なクリアファイルが一枚、床に伏せて置かれていた。

 その中に紙が入っている。

 大滝先生が生徒たちを下がらせていたが、久慈原がこちらに気づき、柔らかく手を上げた。

「雨宮くん。君まで来たのか」

「騒ぎになってるので」

「それはそうだろうね」

 久慈原は困ったように笑った。

 だが、笑顔のわりに目の奥はまったく緩んでいない。

「まだ詳細は確認中だけど、ただの悪ふざけの可能性が高い。変に広めない方がいい」

「内容次第です」

「内容は、広めない方がいい部類かな」

 その言い方で、逆に分かった。

 ただの落書きではない。

「見ても?」

 僕が訊くと、大滝先生は露骨に嫌そうな顔をしたが、久慈原が一歩だけ前へ出た。

「遠くからなら。触らないでくれ」

 器具庫の入口まで近づく。

 クリアファイルの中の紙は、A4のコピー用紙だった。三つ折りの折り目がある。印字は黒。手書きではない。

 文面は三行。

『旧校舎の事故は終わっていない。

 生徒会室の時計は二十分進んでいた。

 まだ隠している人がいる。』

 背中のどこかで、空気が一度だけ冷えた気がした。

 旧校舎の事故。

 その言葉を、この学校でまったく知らない生徒は少ない。去年、旧校舎の階段で女子生徒が転落した。学校は事故として処理したが、噂は別の形で残る。隠していることがあるだの、誰かが見ていただの、ありがちな尾ひれと一緒に。

 ただ、二行目だけが妙だった。

 時計は二十分進んでいた。

 その情報だけ、やけに具体的だ。

「なかなか趣味が悪い」

 僕が言うと、澪は僕ではなく紙を見たまま答えた。

「そういう言い方で片づけると、あとで困るかも」

「内容の真偽はともかく、まずはどうやって中へ入れたかだ」

 器具庫の扉は一枚。夜間は大滝先生が施錠し、鍵は職員室管理。窓は高い位置に細い横すべり窓が二つ。どちらも曇りガラスと金網つきで、人の出入りはもちろん、腕を深く差し込むことも難しい。

「昨日の放課後、最後にここを閉めたのは先生ですか」

 僕が訊くと、大滝先生は不機嫌そうに頷いた。

「そうだ。五時間目の二年の体育が終わって、器具を戻して、私が閉めた」

「その時点で、この紙はなかった?」

「見ていない」

「なかった、ではなく?」

「なかった、はずだ」

「はず」

「倉庫の中を一点一点検分して閉めるわけじゃないだろう」

 もっともだ。

 だが、その曖昧さは大事だった。

「今朝、最初に開けたのも先生ですか」

「そうだ。雨だったから、一時間目の授業で使うボールを出しに来た。開けて、ボール籠を引いたら、その脇にこれが落ちていた」

「引いた?」

「ん?」

「最初から床の真ん中に置いてあったわけではなく」

「いや、少なくとも私が見たときは籠の脇だ」

 そこで、僕は背後のざわめきへ振り向いた。

 噂はすでに「密室の真ん中に告発文が置かれていた」くらいまで育っているらしい。だが第一発見者の証言は違う。最初から、盛られていた。

 僕は器具庫の床を見た。

 ゴム床の上には、水を含んだ上履きの足跡が入口付近に集まっている。だが、それ以前の乾いた埃の薄さは均一で、夜のあいだに人が歩き回ったような乱れは見えない。

「光一」

 篠宮が小さく呼んだ。

「先に見た方がいいところ、違わない?」

「どこだ」

「文面」

「方法の方が先だ」

「そう」

 篠宮はそれ以上言わなかった。

 この「そう」は、賛成ではない。

 僕はまず、外からの侵入経路を潰すことにした。

 器具庫の横へ回り、窓を見る。曇りガラスの外側には金網。網目は細かく、針金を通すにしても自由度が足りない。サッシの塗装も剥がれていない。開け閉めした跡もない。

「窓は無理だな」

「紙を丸めれば入るんじゃない?」

 後ろから、一年らしい女子が言った。

「入るだけならな」

 僕は頷いた。

「でも、それじゃ三つ折りのまま、ああいう形では落ちない。端も潰れていないし、床で擦れた汚れも少ない」

 窓の次は、扉の上の換気スリットを見る。

 幅はあるが、斜めの羽根板が重なっていて、まっすぐ中へ差し込めない。僕は廊下にあったメジャーを借り、角度を測った。紙だけを滑り込ませることはできても、狙った位置へ置くのは難しい。ましてクリアファイルに入れたままでは無理だ。

「じゃあ、誰かが中に隠れてたとか?」

 野次馬のひとりが言う。

「一晩?」

 僕は器具庫の中をもう一度見た。

「なくはない。でも、そうする意味が薄い。朝まで待って、紙を置いて、そのあとどうやって出る?」

「先生が開けたときに、こっそり」

「ここ、そんな広くないぞ」

 実際、跳び箱とマットで隠れられる死角はあるが、誰にも見つからずに出るには無理がある。しかも、床の埃が乱れていない。

 候補は、合鍵、外からの差し込み、前もっての置き込み。

 順番に削るなら、その三つだ。

「鍵」

 僕は大滝先生へ戻った。

「合鍵の管理は」

「職員室。私と体育科の教員だけだ」

「生徒会や委員会に貸し出しは」

「ない」

「昨日、授業以外でここを使った部は?」

「放課後に男子バスケとバドミントンがボールを取りに来た。立ち会ったのは私だ」

 その答えを聞いたところで、澪が器具庫の入口脇へしゃがみ込んだ。

 床に落ちていた細い透明のものをつまみ上げる。光にかざして、僕へ見せた。

 幅の狭い両面テープの剥離フィルムだった。

「先生、これ、さっきからここにありました?」

「いや……気づかなかったな」

「僕もだ」

 透明で、細い。気づきにくい。

 だが、器具庫の床に自然に落ちているものではない。

 僕は視線を紙へ戻した。

 クリアファイルの口は開いている。テープで閉じた形跡はない。

 だが、ファイルの裏側、左上のあたりに細い粘着跡が残っていた。

「なるほど」

 篠宮が何か言う前に、僕は一歩だけ器具庫へ踏み込んだ。

「大滝先生。今朝、ボール籠を引いたと言いましたね」

「言った」

「どっち向きに」

「どっち?」

「昨日の放課後、籠は壁にぴったり寄せてありましたか」

「ああ。通路を空けるために、壁際へ押していたはずだ」

「今朝は、それを手前に」

「引いた」

 僕はボール籠の持ち手を見る。

 金属のフレーム。内側の一本に、わずかに粘着の曇りが残っている。ちょうどA4の紙を縦に隠せるくらいの幅だ。

「見えてきた」

「言うと思った」

 篠宮が言う。

 僕はボール籠を横から覗き込み、昨日ここへ紙を貼った場合を頭の中で組み立てた。

 ファイルごと内側のフレームへ細い両面テープで仮留めしておけば、壁際に押しつけたときは見えない。朝、大滝先生が手前へ引いた拍子に剥がれ、床へ落ちる。施錠後に誰かが侵入した必要はない。

「密室じゃない」

 僕は言った。

「少なくとも、そう思い込ませる必要はなかった」

 周囲の空気が少しだけほどけた。

 不可能状況がただの思い込みだと分かる瞬間、人は安心する。

 内容が気味悪くても、方法が凡庸なら脅威は半分になる。学校という場所は、特にそうだ。

 だが、僕の中ではまだ半分しか終わっていなかった。

 この仕込みをしたのが誰か。そこまで行かないと、今日の答えとしては締まらない。

「昨日、放課後にこの籠を動かした人は?」

「バスケ部が触ったかもしれない」

 大滝先生が言う。

「バドミントンは奥の棚だけだ」

「一緒にいた生徒、呼べますか」

「もう朝練後で教室だろうが……」

「先生」

 そこで、背後から久慈原が静かに口を挟んだ。

「必要以上に広げない方がいい」

「必要な範囲です」

「これ、悪ふざけだとしても、内容は内容だ。名前の上がる人間が増えるのはよくない」

「だからこそ、作った側を絞るべきです」

「雨宮くん」

 久慈原は穏やかな声のまま、ほんの少しだけ目を細めた。

「方法が分かったなら、それで十分かもしれないよ」

 その言い方が、妙に耳へ残った。

 十分。

 確かに、学校としては十分だ。密室ではない。侵入でもない。悪ふざけで処理できる。話はそこで終わる。

 ただ、僕はそういう「収まりのいい切り上げ」を、他人から決められるのが好きじゃない。

「僕には、まだ十分じゃない」

 久慈原は一瞬だけ黙り、それから困ったように笑った。

「君はそうだろうね」

 結局、大滝先生がバスケ部と器具係の生徒を数人、廊下へ呼び出した。

 その中に、水野という一年の男子がいた。器具庫の鍵を開けた場にはいなかったが、朝いちばんに騒ぎを広げた側のひとりらしい。背は高いが落ち着きがなく、目が泳ぎやすい。

 僕はひとりずつ、昨日の動きを確認していった。

 バスケ部はボールだけを持ち出した。籠そのものは触っていない。

 バドミントン部はネットと支柱。

 器具係はそのあと、マットを寄せて通路を空けた。

 水野はその場にいたと言う。

「紙には何て書いてあったと思う?」

 僕が何気なく訊くと、水野はすぐに答えた。

「いや、その……旧校舎のやつとか、二十分とか」

 横で、澪がこちらを見た。

 僕も止まる。

「二十分?」

「え」

「その話、君はどこで聞いた」

「え、みんな言ってましたよ」

「言ってないよ」

 篠宮が平たく言った。

「さっき廊下で回ってたのは『やばい紙があった』『旧校舎のことらしい』まで」

「でも……」

「二十分って数字、外に出てない」

 僕が続けた。

「少なくとも、僕が器具庫へ来た時点では」

 水野の肩が目に見えて固くなる。

 野次馬の生徒たちが一斉に彼を見る。そこでようやく、彼も自分の失言に気づいた顔をした。

「紙を作ったのは君か」

「……作った、っていうか」

「置いたのは」

「……昨日です」

 声は小さかった。

 大滝先生が怒鳴りかけたのを、久慈原が片手で制した。

「理由を聞こうか」

 水野は唇を噛み、しばらく黙っていたが、やがて観念したように話し始めた。

 昨日の放課後、器具係の片づけをしているときに、ボール籠の内側へクリアファイルごと紙を貼った。使ったのは自分の筆箱に入っていた細い両面テープ。朝、先生が籠を動かせば落ちると思った。密室っぽく見えるのが面白いと思った。

「面白い?」

 大滝先生の声が低くなる。

「いや、その……ちょっと騒ぎになるかなって」

「内容で?」

 水野は目を伏せた。

 それでも、次の答えは早かった。

「書いたのは、自分です。でも、文面は考えてません」

「どういう意味だ」

「そのまま、写しただけです」

「何を」

「紙です。古いやつ」

 僕の中で、何かが少しだけ引っかかった。

「どこで見つけた」

「生徒会室の前のリサイクル箱です。片面が印刷済みの紙がいっぱい入ってて、その中に、変な文章があって。捨てる紙ならいいかと思って……」

「その元の紙は?」

「もう、ないです。裏が会議の紙だったから、丸めて捨てました」

「裏?」

「なんか、議題とか書いてあって……よく見てないです」

 篠宮が小さく息を止めたのが分かった。

「君は、その文面の意味を知ってるのか」

 僕が訊く。

「知らないです」

「時計が二十分進んでいた、って?」

「ただ、具体的で気味悪かったから……」

「だから使った」

「……はい」

 廊下にいた全員が、一度だけ黙った。

 密室は崩れた。仕込みも割れた。作った人間も見つかった。ここまでは、きれいだ。

 なのに、まったく片づいた感じがしない。

 久慈原が先に口を開いた。

「分かった。大滝先生、ここから先は先生方で対応した方がよさそうです」

「当然だ」

「水野くんも、職員室へ」

 その「ここから先」を切り分ける手つきが、妙に手慣れて見えた。

 久慈原は床のクリアファイルへ視線を落とし、ほんのわずかに眉を寄せる。

「その紙、こちらで預かります」

「生徒会で?」

 僕が言うと、久慈原は首を振った。

「いや、先生に渡すために」

「そう」

 澪の相槌は短かった。

 短すぎて、何も信じていないように聞こえた。

 結局、騒ぎは「一年生による悪質ないたずら」で処理された。

 授業の合間には、密室だったという尾ひれだけがしぶとく残り、告発文の文面はなるべく伏せられた。学校はいつもそうする。核心より先に、形だけを畳む。

 昼休み、僕は屋上へ続く踊り場の窓にもたれて、紙パックのコーヒー牛乳を飲んでいた。

 勝った感じがしない。

 方法も、犯人も、ちゃんと押さえた。いつもならそこで、もう少し気分がよくなるはずだった。

「珍しい顔」

 篠宮が隣へ来て言った。

「どんな」

「解いたのに、あまり嬉しくなさそう」

「そんなことない」

「あるよ」

「方法は合ってた」

「うん」

「水野が仕込んだのも合ってた」

「うん」

「なら解決だろ」

「そう思いたいなら、止めない」

 僕は紙パックを握り直した。

「言いたいことがあるなら言え」

「もう言った」

「何を」

「方法は解いた。でも、中身は別」

「またそれか」

「またそれ」

 篠宮は窓の外を見た。雨はもう上がりかけていて、渡り廊下の屋根から水が細く落ちている。

「水野は、置いただけ」

「書いたのも本人だ」

「文字を打ったのはね」

「写したなら同じだろ」

「違う」

 篠宮は首を振った。

「『生徒会室の時計は二十分進んでいた』なんて、思いつきで出る文章じゃない。怖がらせるだけなら、もっと雑に書ける」

「だから、どこかで見つけた紙に書いてあった」

「そこ」

 僕は眉をひそめた。

「どこが」

「生徒会室の前のリサイクル箱」

 風が吹いて、濡れた鉄の匂いがした。

「偶然だろ」

「かもね」

「その言い方、嫌いだ」

「知ってる」

「だったら、もっとはっきり」

「はっきり言うと、光一はまた気持ちよく解いたつもりになるから」

 言葉が詰まる。

 篠宮はそこで、ようやく僕を見た。

「たぶん、今日の答え、間違ってないよ」

「たぶん、をつけるな」

「じゃあ、つけない」

 篠宮は言った。

「でも、今日の答えで終わらせるのは、たぶん間違い」

「つけてるじゃないか」

「そこは必要」

 いつもの調子なら、ここで僕はもう少し言い返していたはずだった。

 だが、今日はうまく続かなかった。器具庫の床の上に置かれた三行が、どうにも頭から離れない。

 旧校舎の事故は終わっていない。

 生徒会室の時計は二十分進んでいた。

 まだ隠している人がいる。

 方法は解けた。

 けれど、その文章がそこにある理由は、むしろ前より濃くなった気がする。

「光一」

 階段を下りかけた澪が、振り返らないまま言った。

「何だ」

「次に誰かが『これで終わりにしたい』って顔をしたら、そこは少し見た方がいい」

 誰の顔を指しているのか、わざわざ聞く必要はなかった。

 器具庫の前で、久慈原が見せた、あの穏やかすぎる表情のことだ。

 僕は残ったコーヒー牛乳を飲みきれずに、しばらく手の中で温くしていた。

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