第7話 屋上の白い靴跡
屋上の鍵は、学校という場所において妙に強い想像力を刺激する。
ふだんは閉まっている。生徒は出入りできない。なのに、その向こうにはちゃんと空があって、風があって、落ちればただでは済まない高さがある。だから、「屋上」という単語にはいつだって、事実より先に噂が寄ってくる。
その日の昼休み、二年棟の階段踊り場で最初に耳へ飛び込んできたのも、そういう種類の噂だった。
「見た? 屋上」
「見た見た。白いの、ずっと続いてた」
「しかも途中で消えてたって」
「やばくない?」
「誰か、飛んだとかじゃないよね」
なかなかいい。
僕――雨宮 光一は、購買の焼きそばパンを片手に階段を上がりかけていた足を止めた。
「光一」
すぐ横から、平坦な声がした。
「今、嬉しかったでしょ」
「失礼だな。まだ何も見てない」
「見てなくても分かる。『屋上』『白い』『消えてた』で、もう顔が違う」
「顔はともかく、単語の並びは悪くない」
「そう」
「しかも噂が先に立ってる。いい入り方だ」
「私は、そういうときの光一が一番信用できない」
篠宮 澪は、牛乳パックのストローを折り曲げながら、踊り場の窓の方へ視線を向けた。そこから、二年棟の屋上へ上がる最後の階段の先、金属製の扉が見える。その向こうは当然見えない。見えない場所ほど、人は話を盛る。
僕は焼きそばパンの袋を丸めた。
「行くぞ」
「昼休み、十五分しか残ってないけど」
「十分あれば現場は見られる」
「いつも最初にそう言う」
「今回は当たる」
「根拠は?」
「勘だ」
「最低」
言いながらも、澪はついてきた。
最後の踊り場には、すでに四、五人の生徒がたむろしていた。屋上への鉄扉は閉まっているが、小窓の曇りガラス越しに白っぽいものが見える。確かに、黒ずんだ床の上へ何かが点々と続いているらしい。
「先生呼んだ?」
僕が聞くと、一年らしい男子が首を振った。
「さっき三年の人が見つけて、でも鍵がなくて開けられなくて」
「誰も入ってない?」
「たぶん。ここでみんな見てただけです」
扉の把手を引く。鍵がかかっている。ふつうのことだ。
だが、扉の下の隙間から吹き込む風はやけに乾いていて、白い粉の匂いはしなかった。石灰やチョークなら、もう少し粉っぽい気配がある。
小窓へ顔を寄せる。曇りガラス越しでも、黒い防水床の上に白い足跡が続いているのは見えた。
ただし、妙だった。
「右足だけだな」
「え?」
背後で誰かが声を上げた。
もう一度目を凝らす。
扉のすぐ向こうから、白い靴跡がぽつ、ぽつ、と屋上の中央へ伸びている。向きはフェンスの方。だが見える範囲では、左足の跡がない。右足だけが並んでいるように見える。
「片足で歩いたってこと?」
一年生の一人が、不安そうに言った。
「それか、引きずられたとか……」
「いや、それは違う」
僕は即座に否定した。
「歩幅が一定だ。引きずった跡もない。少なくとも、ここから見えるぶんは普通に歩いてる」
「普通に歩いてるのに右足だけ」
澪が言った。
「そういう見え方をしている」
「言い換えただけ」
「推理の第一歩は、雑な言い換えから始まるんだよ」
「胸を張るところではないと思う」
ここで教師が来ないのはありがたい。来れば現場が開いて、僕の出る幕は半分になる。だが、ずっと閉めたままというわけにもいかない。
僕は一階の用務員室へ走った。
昼休みの校内を全力で移動すると、学校という建物の機嫌が少し分かる。階段の軋み、廊下の乾き具合、どこに教師がいてどこにいないか。用務員室の前には、ちょうど校内の掲示を張り替えていた事務職員の人がいた。
「屋上の鍵、今どなたが」
「二年棟の?」
「はい」
「管理は教頭先生だけど、予備なら用務員室に……どうしたの」
「白い靴跡です」
「何それ」
反応がよい。
事情を簡単に話すと、用務員の片岡さんが眉をひそめながら鍵束を持ってきてくれた。屋上へ戻る道すがら、片岡さんは言う。
「誰か勝手に入ったのかねえ。昨日の夕方は水槽点検もなかったけど」
「最近、屋上を使った部活は?」
「写真部がこの前、夕焼け撮るとかで申請してたかな。今週じゃないけど」
「白い粉を使う場所は」
「白線なら体育。チョークなら教室。ペンキなら美術室か用務員室。あと理科室で石膏を使うこともある」
十分だ。
扉の前へ戻ると、澪が人だかりを半分追い払っていた。
「増えてきたから、見世物みたいになる前に減らしておいた」
「助かる」
「光一が楽しそうだから、余計に人が集まる」
「それは僕のせいじゃない」
「たぶん半分はそう」
片岡さんが鍵を差し込み、扉を開けた。
風が入る。
昼の乾いた陽射しに焼かれた防水床の匂い。フェンスの金属臭。遠くで体育の笛が鳴っている。
そして、白い靴跡。
予想よりもずっとはっきりしていた。
防水床のほぼ中央を、右足の靴跡だけが点々と続いている。上履きだ。学校指定の、青いゴム縁のあの上履き。サイズは大きすぎない。二年か一年、あるいは足の小さい三年生。
足跡は扉からまっすぐ伸び、屋上の中央を横切って、フェンス際でいったん途切れる。
いや、完全には消えていない。フェンスの根元に、白い擦れが少しだけ残っている。
「ほら……」
さっきの一年生が、開いた扉の外から覗き込んで息をのんだ。
「やっぱり、なんかやばくないですか」
「やばいのは、噂の育ち方の速さだ」
僕はしゃがみ込んだ。
近くで見ると、白い跡は粉ではなく、薄く塗りつけられたものに見えた。
輪郭が少し滲み、つま先側にだけ細い筋が伸びている。乾いた粉ならもっとかすれる。これは湿ったものを踏んで、数歩のあいだ床へ転写した跡だ。
指先で、跡の脇に落ちた白い欠片を拾う。爪の間で潰すと、粉になるというより、薄い膜が砕ける感じがある。
「チョークじゃないな」
「石膏でもなさそう」
澪が僕の横にしゃがみこんだ。
「割れ方が軽い」
「そこまで見た?」
「見た。光一が得意そうだから、少し腹が立つくらいには」
「今日は素直じゃないな」
「今日“も”だよ」
僕は靴跡を追った。
歩幅は一定。踵の向きもほぼ同じ。片足だけで跳ねたわけではなく、普通に歩いている。つまり、左足もそこにあった。ただ、白くないだけだ。
「右足だけ汚れてた」
「そう見える」
「問題は、何で汚れたか、だ」
フェンス際まで行く。
そこから見下ろせるのは、中庭と、二年棟と旧校舎のあいだの渡り通路、そして旧校舎脇の細い通用口だった。人目につきにくい場所だ。屋上からだとよく見える。
フェンスの金具に、細い繊維が引っかかっていた。白ではなく、くすんだ灰色。糸というより、麻ひもに近い。
さらに足元には、銀色の小さな鱗のようなものが落ちている。アルミ箔か、乾いた塗膜か。
「何か見える?」
澪が隣へ来た。
「中庭。通路。旧校舎側の通用口」
「ずいぶん細かいところまで見てる」
「立ち位置がそうなってるからな。ここへ来た人間は、下を見た」
「飛ぶために?」
「だとしたら、もっと前へ寄る。しかも足跡は戻ってない」
「戻ってないのに、落ちてもいない」
「少なくとも騒ぎにはなってない」
「なら、途中で消えた理由がある」
そこだ。
僕はフェンスから扉まで、もう一度逆に靴跡を見た。
右足の白い跡は全部で九つ。最後の一つだけ、踵が薄い。つまり、汚れは少しずつ落ちている。最初に多く、終わりに少ない。だったら、白いものは屋上の上で付いたのではなく、来る前から靴底についていたはずだ。
問題は、なぜ右足だけか。
「光一」
澪が、扉の外側を見たまま言った。
「階段には跡がない」
「……そうだな」
屋上までのコンクリート階段を振り返る。たしかに白い跡はない。
「屋上へ入ってから急に付いた?」
「でも、床の上に白いものは落ちてない」
「なら?」
「扉のところで、何かした」
僕は扉の足元を調べた。
金属の敷居の脇に、透明な薄いものが貼りついている。ビニールの切れ端だった。風で半分めくれ、端に白い乾いた膜がついている。
「なるほど」
「見えた?」
「かなり」
だが、まだ材料は足りない。
白いものの正体と、屋上へ来た理由が要る。
昼休みはもう終わる。教師が本格的に介入する前に、取れるだけ取っておきたい。
僕は片岡さんに頼んで、屋上は一度閉めてもらった。そのまま五時間目を乗り切り、放課後、澪を連れて校内を回ることにした。
「順番に潰す」
僕が言うと、澪は鞄を肩に掛け直した。
「光一がそう言うとき、だいたい遠回りになる」
「推理に近道はない」
「よく言う」
「まず体育倉庫」
「白いもの候補?」
「白線用の粉。校庭の石灰」
「でも、あれならもっと粉っぽい」
「確認は必要だ」
体育倉庫で見たライン引きの石灰は、粒が粗く、屋上の跡とは違った。ゴム底で踏むと縁がぼやけず、もっと乾いた白になる。
次に理科準備室で石膏を見せてもらう。これも違う。固まり方は近いが、跡に残っていた青い極小の繊維みたいなものを説明できない。
「残るは美術室か」
僕が言うと、澪は小さく息をついた。
「最初からそこだと思ってた」
「言えよ」
「光一、寄り道も楽しそうだったから」
「それは否定できない」
美術室は、放課後の西日で妙に明るかった。
木枠にもたせたキャンバス。乾きかけのポスターカラー。溶き忘れた筆洗いの水。奥では文化祭用の大きなベニヤ板が何枚も立てかけられている。白い下地が塗られていた。
「ジェッソ」
澪が板を見て言った。
「何」
「下地剤。白い」
「知ってるならもっと早く」
「聞かれなかった」
近づいて見ると、床の一角に白い足跡が乾いて残っていた。
ただし、そこにあるのは左右ばらばらの踏み荒らしで、屋上のきれいな列とは違う。その中で一つ、右足の青縁上履きだけが、踵の外側へ小さく欠けた跡を残している。
「この欠け」
僕がしゃがみ込むと、澪も隣へ来た。
「屋上の三つ目の跡と似てる」
「見てた?」
「光一より先に」
「やっぱり今日は嫌な感じに冴えてるな」
「光一が遅いだけ」
ちょうどそのとき、美術室の奥から男子生徒が出てきた。
肩に麻ひもの束をかけ、右手にカッター、左脇に丸めた銀色のシートを抱えている。美術部の二年、矢野だ。文化祭の看板をいつもやっているのを知っている。
「何してるんだ、雨宮」
「こっちの台詞だ。お前、今日の昼、屋上へ行った?」
矢野の動きが、一瞬だけ止まった。
「……何の話」
「右足だけ白い靴跡が、二年棟の屋上に残ってた」
「知らないけど」
「じゃあ、その右足の踵、見せろ」
露骨に嫌そうな顔をしたが、矢野は観念したらしい。
上履きの右足を持ち上げる。踵の外側が小さく欠け、乾いた白が入り込んでいた。屋上の跡とぴたり重なる。
「決まりだな」
「いや、待てよ。行ったのは事実だけど、別に変なことしてない」
「だったら最初からそう言え」
「屋上に無断で入ったってバレたくなかったんだよ」
矢野は苦々しい顔で、脇に抱えていた銀色のシートを机へ置いた。
アルミ蒸着の薄い反射シートだった。文化祭の立看板に貼る、光を返す素材らしい。
「看板の位置を見たかった」
「屋上で?」
「旧校舎の壁に仮で垂らす予定の横断幕が、中庭からどれくらい見えるか。下からだと分かりにくくて、上から位置を見たかったんだよ。去年、目立たないって怒られたから」
「それで無断で屋上へ」
「鷺沢先生に頼んだら、まず下で測れって言われた。でも上から見ないと、旧校舎の通用口のひさしで隠れる場所があるんだ」
「通用口のひさし」
「あと、カメラの死角。あそこ、横断幕の仮紐を垂らしても下から見えにくいんだよ。……って、そういうのも含めて、先に見たかった」
澪が、そこで初めて矢野の顔をまっすぐ見た。
「カメラの死角って、どこの」
「旧校舎の脇。通用口の真上あたり。屋上からだと分かるんだよ。フェンス越しに見ると、ちょうど柱の陰になる」
「へえ」
僕は答えながらも、そこにはあまり食いつかなかった。
「で、右足だけ白かった理由は」
「これ」
矢野は美術机の下から、くしゃくしゃになった透明のビニール袋を引っ張り出した。
片方だけ、底に白い乾いた塗膜がついている。
「昼前にジェッソこぼして、右足だけ踏んだ。急いでたから、階段を汚さないように屋上の扉までビニール被せて、入ってから外したんだよ。たぶん、そこで端がちぎれた」
「扉の敷居に残ってた切れ端か」
「うん。左足は最初から汚れてない。だから白い跡が右だけ残った」
「フェンスに引っかかってた繊維は」
「麻ひも。横断幕を吊るす長さの目安を取ろうとして、少し引っかけた」
きれいに繋がる。
屋上の扉までビニールで右足を覆う。
階段には跡が残らない。
屋上へ入って外す。
ジェッソのついた右足だけが、防水床に白い跡を落とす。
フェンス際では、看板用のひもを試し、旧校舎側の見え方を確認する。
湿ったジェッソは九歩でほぼ落ち切る。
「なるほど」
僕は腕を組んだ。
「だいたい見えた」
「だいたい、じゃない。全部そう」
澪が言う。
「珍しく最初から最後まで、余計なドラマがなかった」
「あると思ったのか」
「光一はそういう方が好きだから」
「好きだが、事実はもっと好きだ」
「今の言い方、少しだけ格好つけた」
「少しだけな」
矢野は心底面倒そうな顔で言った。
「で、これ、先生に言うのか」
「無断で屋上へ入った件は、言われても仕方ない」
「最悪」
「でも、飛び降りだの何だのって噂は、僕が片づける」
「助かる……のか、それ」
「感謝の仕方は自由だ」
「うわ、出た」
僕はその場で、必要なところだけを切り出して職員へ伝えた。
文化祭準備中の美術部員が無断で屋上へ入り、下地剤のついた上履きで跡を残した。危険な行動ではあるから注意は必要だが、飛び降りや侵入者の類ではない。
学校はそういう「収まりのよい説明」を好む。僕も、その形へ整えるのは嫌いじゃない。
帰り際、二年棟の渡り廊下から旧校舎の方が見えた。
夕方の色で輪郭の柔らかくなった壁。通用口のひさし。監視カメラ。屋上から見れば死角になるという柱の位置。
「光一」
隣で澪が立ち止まった。
「何だ」
「さっきの、覚えておいた方がいいかも」
「どれ」
「旧校舎の通用口」
「文化祭の横断幕の話か?」
「そうじゃなくて」
澪は少しだけ目を細めた。
「屋上に上がる理由って、景色を見るためだけじゃないんだなって」
「当たり前だろ。観測、撮影、確認、測量。上からじゃないと分からないことはいくらでもある」
「うん」
「何だよ」
「別に」
「その『別に』は、別にじゃないやつだろ」
「そうかも」
風が吹いて、渡り廊下の窓が小さく鳴った。
下では、誰かがまだ「屋上の件、やばかったらしいよ」と話している。事実はもう片づいたのに、噂だけが半歩遅れて育っていく。
「噂は推理の敵だ」
僕が言うと、澪は首を振った。
「違うよ、光一」
「何が」
「噂は、使う人がいるだけ」
「また抽象的なことを」
「光一は、収まりがいい答えが好きだから」
「悪いか」
「悪くはない」
澪はそう言って、旧校舎の通用口へもう一度だけ目を向けた。
「ただ、それで見えなくなるものもあるってだけ」
そのときの僕は、まだその一言を、ただの気の利いた皮肉だと思っていた。




