第6話 中庭に埋まっていた鍵
校舎に囲まれた四角い中庭は、昼休みには弁当を食べる生徒や自販機帰りの近道に使われるくせに、放課後になると急に「学校の裏側」めいた顔をする。花壇の縁。低い生垣。去年の名残みたいに乾いたプランター。そこへ園芸部の一年が三人、しゃがみ込んでスコップを入れていた。
夏の花に植え替える前の土起こしだ。
だから、そのうちの一人が「え」と短く声を上げたのも、最初は石でも当たったのだろうと思った。
だが次の瞬間、その声は少しだけ弾んだ。
「ちょっと待って。これ、鍵じゃない?」
なかなかいい。
僕――雨宮 光一は、昇降口へ向かいかけていた足を止めた。
「光一」
すぐ横で、聞き慣れた平坦な声がした。
「今、止まった」
「面白そうな単語が聞こえたからな」
「嬉しそう」
「鍵だぞ」
「知ってる」
「花壇から出たんだぞ」
「見れば分かる」
篠宮 澪は、いつもの無表情に近い顔で中庭の方を見ていた。図書委員の当番帰りらしく、腕には返却本の束がない。そのかわり、いかにも巻き込まれる準備はできていない、という目をしている。
僕はその視線を置いて、人だかりになりかけた花壇の方へ歩いていった。
園芸部の一年生が、軍手越しにつまんでいるのは、真鍮色の古い鍵だった。リングに小さなアルミの札がぶら下がっていて、土で汚れている。長さは人差し指ほど。今どきのロッカーや自転車の鍵よりずっと古風で、歯の刻み方も深い。
「触っていいか」
「え、あ、はい」
一年生は少し戸惑いながらも、僕に鍵を渡した。
見た目の第一印象は、古い、だった。だが、手に取った印象は少し違う。古いのに、死んでいない。
金属のくすみはある。だが、鍵の歯の先には新しい擦れがある。リングにも、最近別の金具とぶつかったような銀色の筋が残っていた。アルミ札の表面には土の膜がついているが、その下に赤い塗料の剥げた跡が見える。
「どの辺から出た?」
「そこです。まだそんなに深く掘ってなくて……」
一年生が、花壇の中央より少し手前を指さした。スコップで返された土は黒く湿っている。鍵が出た場所の周囲だけ、表面の土色が少し違った。上に乾いた土、下に湿った土。その境目の浅いところから出たらしい。
僕はしゃがみ込んだ。
「深さは?」
「これくらいです」
一年生が指で三センチほどを示す。
「石と一緒に出た?」
「いえ、鍵だけでした」
澪が後ろから言った。
「落ちてたんじゃなくて、埋まってたんだ」
「その違いは大きい」
「そう」
「もう少し驚いてくれてもいいんだぞ」
「光一の分まで私が驚く必要はないし」
周囲には、すでに何人か野次馬が集まっていた。
宝の鍵だの、旧校舎の秘密だの、ありがちな言葉が飛び交う。こういうとき、人はすぐに「隠し部屋」の方へ imagination を伸ばしたがる。学校という場所は、秘密があるように見えて、たいていは手続きと備品でできているのだが。
僕は鍵を光にかざした。
札の片面に、かすれて数字が残っている。
4――いや、2かもしれない。もう一文字は読めない。
「職員室に届けるべきかな」
園芸部の一年が言う。
「その前に少しだけ見せてくれ。どうせ届ける先は同じでも、鍵そのものが何か分かっていた方が話は早い」
「それ、たぶん光一が勝手に面白がってるだけ」
澪が言った。
「正確には、面白がりながら話を早くしている」
「順序が逆だと思う」
僕は立ち上がった。
「まず、これは何年も前から花壇に埋まっていた鍵じゃない」
「分かるの?」
園芸部の一年が目を丸くする。
「完全にではないけどな。見ろ」
僕は鍵の歯の先を指した。
「ここだけ金属が新しい。長く土に埋まっていたなら、もっと均一にくすむ。リングの擦れも新しい。つまり、古い鍵だが、最近まで誰かが持ち歩いていた」
「じゃあ、最近埋められたってこと?」
「その可能性が高い」
僕は花壇の土を見た。
「しかも、かなり浅い。偶然落ちて踏み込まれたんじゃなくて、隠すつもりで埋めたんだと思う」
澪が、僕ではなく鍵を見たまま言った。
「古い鍵を、最近、わざわざ」
「そういうことになるな」
「なくしたんじゃなくて?」
「なくしただけなら、もっと別の場所だろ。わざわざ花壇の土の中に入らない」
「そう」
澪は少しだけ間を置いた。
「じゃあ、なくなったことにしたかったんだ」
その言い方が、妙に引っかかった。
だが、今はそちらを考えるより先がある。僕は鍵を園芸部の一年に返しながら言った。
「届けるのはあと十分待ってくれ。その間に、何の鍵かだけ当ててみる」
「当てる前提なんだ」
「こういうのは、当てるところまでが礼儀だ」
最初に向かったのは用務員室だった。
校舎の裏手にある小さな部屋には、古い工具と蛍光灯の箱と、学校中の「今すぐ使わないが捨てられないもの」が集まっている。用務員の古橋さんは、僕を見るなり少しだけ苦い顔をした。
「また何か見つけたのか、雨宮」
「また、とは心外だな。今日は鍵だ」
「それがもう面倒そうなんだよ」
事情を話すと、古橋さんは軍手を外して鍵を受け取った。
手の上でひっくり返し、札を見る。
「古い型だな。今の倉庫の鍵じゃない」
「やっぱり?」
「見りゃ分かる。これは校舎増築前のやつだ。昔の鍵札は、用途ごとに色を塗ってた」
「色?」
「赤は旧校舎、青は倉庫、黄は教員用の備品棚だったかな」
僕は鍵の札に残った剥げ跡を思い出した。
「赤が残ってた」
「なら旧校舎だな」
旧校舎。
今は半分以上使われていない、校舎の端の古い建物。音楽室や美術準備室の一部だけが現役で、あとは資料室や空き教室が残っている。生徒にとっては、怪談と立入禁止札が似合う場所だ。
「どの部屋か分かる?」
「そこまではな。番号が読めりゃ別だが」
「札の数字は半分消えてる」
「台帳ならあるかもしれんが、職員室の棚だ。勝手に漁るなよ」
「漁るんじゃない。調べるんだ」
「その言い換えで通ると思うな」
用務員室を出たところで、澪が壁にもたれて待っていた。
「旧校舎」
「当たりだ」
「嬉しそう」
「当然だろ。埋まっていた古い鍵が、よりによって旧校舎だ。学校が急に少しだけ面白くなった」
「学校はいつも面白いよ。光一が勝手に分かりやすい方だけ拾ってるだけで」
「その言い方は気になるが、今は流す」
次は図書室だった。
学校の歴史や校舎案内の古い冊子は、たいてい図書室の郷土資料棚にある。澪の領分だ。僕が棚の前で腕を組んでいる間に、澪は三分もかからず古い校内案内図のファイルを引っ張り出してきた。
「二〇一九年度校内施設一覧」
「早いな」
「探し慣れてるから」
「こういうときだけ頼もしい」
「こういうとき以外も頼もしいよ。たぶん」
冊子の末尾に、旧校舎の部屋番号一覧があった。
赤札の管理番号と部屋番号の対応表は残っていない。だが、旧校舎二階の空き教室群の一角に「資料室」「旧備品室」「印刷室」といった、鍵のありそうな部屋が並んでいる。
「埋めるほど困る鍵、か」
僕は一覧を見ながら言った。
「音楽室や美術室なら、普段から使う。なくしたらすぐ問題になる。逆に、日常的に使わない部屋の鍵なら、一時的に持ち出しても気づかれにくい」
「そして、持ち出す理由がある」
澪が淡々と言う。
「あるな。たとえば、古い書類を見たいとか」
「たとえば、ね」
「なんだ」
「別に」
その「別に」は、だいたい別にではない。
僕は冊子を閉じた。
「旧校舎のどこかまでは絞れた。でも、まだ足りない。なぜ花壇に埋めた?」
「急いで隠したから」
「それはそうだが、どのタイミングで?」
「教員に見られたくなかった時」
「うん。そこまでは同意だ」
「つまり、校舎の外に出た時点では持っていた。でも、そのまま持っていられなくなった」
「澪」
「なに」
「今日は珍しく会話が速いな」
「光一が遅いだけかも」
僕は少し考えた。
旧校舎から中庭へ抜けるには、渡り廊下を通る。中庭の花壇は、その途中から少しそれた位置にある。人目はあるが、職員室からは死角。昇降口へ向かう前に、数秒しゃがみ込む時間があれば、浅く埋めることはできる。
「持っているところを見られそうになって、近くにあった花壇へ一時的に隠した」
「たぶん」
「だったら、長く放置するつもりはなかった」
「そうなる」
「なら、回収に来る」
澪が、ようやく僕を見た。
「張るの?」
「張る」
「そう」
「嫌そうだな」
「夕方の蚊が嫌いなだけ」
とはいえ、その前に当たりをもう少し絞りたかった。
旧校舎に行くと、二階の廊下は昼の校舎とは違う匂いがした。
古い木材と、長く閉めたままの部屋の乾いた埃の匂い。窓際だけが妙に明るく、廊下の中央は少し暗い。掲示物は去年で止まり、消火器の点検票だけが現在とつながっている。
資料室、旧備品室、印刷室。
どの扉も古く、鍵穴の形も今の校舎とは違う。
当然、見つけた鍵を勝手に差し込むわけにはいかない。代わりに、僕は扉や周囲の痕跡を見ることにした。
資料室の前には、昨日今日でついたらしい靴跡がある。埃の薄い膜が、扉の前だけ少し乱れていた。
旧備品室の扉は、下端に白い塗料が固まっている。印刷室の前には何もない。
「資料室だな」
僕が言うと、澪はすぐには頷かなかった。
「どうして」
「ここだけ最近人が立ってる」
「最近って、いつ」
「少なくとも今週」
「曖昧」
「痕跡の言語はいつも少し曖昧なんだよ」
「便利だね」
「便利だろ」
資料室の扉の脇には、何かをぶつけたような細い傷があり、その近くにごく小さな赤い塗料片が落ちていた。鍵札の赤と同じ色かどうかまでは分からない。だが、話としては十分きれいにつながる。
「資料室の鍵を持ち出した誰かが、急いで戻る途中で中庭に埋めた」
「それで」
「資料室に用がある人間を当たればいい」
「何人くらい」
「文化祭実行委員、新聞部、図書委員、あと生徒会」
「ずいぶんいる」
「学校は秘密より書類の方が多いからな」
当たりをつけて聞き込みを始めた結果、最初に有力だったのは新聞部の一年だった。
旧校舎の過去写真を探していたらしい。だが、そいつは昨日ずっと職員会議の手伝いで視聴覚室にいた証言がある。次に文化祭実行委員の二年。去年の会場図を見たいと言っていた。しかし彼女はそもそも旧校舎の鍵の存在を知らなかった。
生徒会室に顔を出すと、久慈原 仁が、いつもの人当たりのいい笑顔で迎えた。
「どうしたの、雨宮くん」
「中庭から鍵が出た」
「ずいぶん急だね」
「謎はだいたい急だよ」
「それはそうかもしれない」
事情を話すと、久慈原は少しだけ目を細めた。
「旧校舎の赤札、か。まだ残ってたんだね」
「知ってるのか」
「生徒会は備品移動の書類も扱うから。去年、古い鍵の整理の話が出ていたんだ」
「資料室の鍵も?」
「たぶんあったと思うよ。正確には覚えてないけど」
覚えていないにしては、反応が早かった気がした。
だが、それだけで引っかかるほどではない。
「最近、資料室を使いたがっていた人は?」
「文化祭の関係で、三年の塩見先輩が去年の配置図を見たいって言ってたかな」
「塩見?」
「うん。実行委員のまとめ役の人。せっかちだけど悪い人じゃないよ」
その名前は、今日三回目だった。
放課後六時前。
僕と澪は、中庭の低い生垣の陰にいた。
鍵はもう職員室へ届けたが、古橋さんに頼んで、発見場所だけはそのままにしてもらってある。もし本当に「隠したものを取りに来る」つもりなら、埋めた場所を確認しに来るはずだ。
「来ると思う?」
澪が小さく言った。
「来る。浅く埋めた物は、持ち主の頭の中でずっと気になる」
「経験談みたい」
「推理だよ」
中庭には、部活帰りの生徒が時々通る。だが、花壇の前で立ち止まる者はいない。
十分。
二十分。
校舎の窓の明かりが少しずつ減っていく。
諦めかけたころ、渡り廊下の向こうから、ひとりの男子生徒が早足で入ってきた。
三年。腕章は外しているが、文化祭実行委員で見た顔だ。塩見 亮介。
塩見は中庭の中央まで来ると、周囲を見回した。視線が、まっすぐ例の花壇に落ちる。
そして二歩近づき、しゃがみかけたところで、僕は生垣の陰から出た。
「探し物か、塩見先輩」
塩見の肩が大きく跳ねた。
「うわっ……雨宮」
「ここに来ると思った」
「何の話だよ」
「花壇に埋めた鍵の話」
一瞬で、顔色が変わる。
否定しようとして、しかし相手が誰かを思い出したらしい。塩見は深く息を吐いた。
「……あんまり、大声で言うな」
「なら、小声で説明してくれ」
澪も出てきた。塩見は観念したように頭を掻く。
「盗むつもりとかじゃない。去年の文化祭の中庭配置図と、電源の引き回し記録が必要だったんだ。職員室に正式に頼むと時間がかかるし、生徒会の棚に古い鍵束が残ってるのを見つけて……たぶんこれだと思って持っていった」
「資料室の鍵か」
「たぶん、そう。開いたから」
「勝手に」
「悪かったとは思ってるよ」
塩見は視線を落としたまま続けた。
「で、資料を見つけて出てきたところで、生活指導の安西先生が渡り廊下の方から来たんだ。旧校舎の鍵なんか持ってるの見られたら面倒だろ。とっさに中庭へ回って、花壇に埋めた。昼に回収するつもりだったのに、実行委員の呼び出しが続いて……」
「そのまま園芸部に掘り出された」
「そういうこと」
僕は腕を組んだ。
「筋は通る」
「偉そうに言うな」
「推理役はだいたい偉そうなんだ」
塩見は苦笑しかけ、それから真顔に戻った。
「職員室には?」
「もう届いてる」
「終わった……」
「勝手に持ち出した件は終わってないだろうな」
「分かってるよ」
そのとき、渡り廊下の方から柔らかい声がした。
「やっぱり、塩見先輩でしたか」
久慈原 仁だった。
いつからいたのか分からない自然さで、こちらへ歩いてくる。
「雨宮くんから話を聞いて、少し気になってたんです」
そう言って、久慈原は塩見に向き直った。
「事情は分かりました。僕から先生には説明しておきます。配置図が急ぎで必要だったことも含めて」
「悪い……」
「ただ、次からは正式に頼んでくださいね」
完璧に収まる言い方だった。
誰も大きく傷つけず、誰も強く責めず、その場だけをきれいに片づける。
僕は少しだけ得意になって言った。
「つまり、こういうことだ。鍵は古いが、埋まったのは最近。浅さと金属の擦れから一時隠匿と見て、旧校舎の赤札と資料室の痕跡から用途を絞った。あとは回収に来る人間を待てばいい」
「見事だね、雨宮くん」
久慈原が笑う。
「助かったよ。変な噂になる前に済んで」
気分は悪くない。
こうして筋道だった答えがぴたりとはまる瞬間は、やはりいい。世界のざらつきが、ほんの少しだけ手のひらに収まる気がする。
だが、隣で澪だけは、その「きれいな収まり」を見ていなかった。
塩見と久慈原が先に渡り廊下の方へ歩いていく。
その背中を見送りながら、澪がぽつりと言った。
「埋まってたことより、気になることがある」
「何だ」
「生徒会の棚に、まだその鍵が残ってたこと」
「古い鍵束の整理が終わってなかったんだろ」
「かもね」
「それだけか」
「それだけじゃないけど、今はいい」
澪は花壇の土を見た。
鍵が出た場所は、小さくえぐれたままになっている。
「光一」
「なんだ」
「今日の答え、たぶん間違ってないよ」
「たぶん、じゃなくて合ってる」
「うん。そういうところ」
言い方が引っかかる。
だが、その先を尋ねる前に、澪はもう歩き出していた。
僕は少し遅れて、その背中を追う。
後ろでは、夕方の中庭に、掘り返された土の匂いだけが残っていた。




