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第5話 保健室の嘘つき目撃者

五月の昼休みは、春というより、もう夏の予行演習みたいな匂いがする。

 四限終わりのチャイムが鳴ったあと、窓の外ではグラウンドの土が白く乾いていて、廊下には購買へ向かう足音が一斉にあふれた。弁当のふたが開く音。椅子を引く音。パンの袋が擦れる音。そういう昼の雑音に混じって、教室の後ろで、少しだけ尖った声が上がった。

「だから、それはおかしいって言ってるの」

 声の主は、二年五組の学級委員、真柴 千尋だった。廊下側の戸口のところで、同じクラスの男子を捕まえている。捕まえられている方は背の高い、痩せぎすの男子で、見るからに居心地が悪そうだった。

 長瀬 修平。化学部。あまり騒がない。体育祭の練習でも目立たない。そういう、悪目立ちとは無縁の生徒である。

「保健室にいたんだろ、修平」

「いたよ」

「でも、和泉が中庭で見たって」

「知らないって。僕は外なんか出てない」

「じゃあ、あれ誰だったの」

 なかなかいい。

 僕――雨宮 光一は、箸箱を持ったまま立ち止まった。

「光一」

 窓際から、平坦な声が飛んできた。

「目が光った」

「気のせいだ」

「そうは見えない」

「謎の気配がしただけだよ」

「それを光一は、世間では光ったって言うんだと思う」

 篠宮 澪は、机の上に弁当を広げたまま僕を見ていた。相変わらず、言い方に温度がない。だが、こういうときの澪は止めない。止めないということは、半分くらいはついてくる気でいる。

 僕は戸口の方へ向き直った。

「詳しく聞こう」

 真柴が露骨に嫌そうな顔をした。

「呼んでないんだけど」

「呼ばれなくても来るのが探偵役だ」

「自称でしょ、それ」

「重要なのは役割だよ」

 長瀬は、助かったような、余計に面倒が増えたような、複雑な表情でこちらを見た。真柴は腕を組んだまま言う。

「長瀬が昼休みに頭痛いって保健室に行ったのは本当。白井先生のとこにも記録がある。でも、その十分もしないうちに、中庭で歩いてるところを和泉が見たの。しかも、ひとりじゃなくて、購買帰りの一年も見てる」

「同じ時間帯に?」

「ほとんど同じ。なのに、図書委員の早見は、そのころ長瀬くんはまだ保健室のベッドにいたって言ってる」

 保健室にいたはずの生徒が、同じ昼休みに中庭でも目撃される。

 怪談に寄りすぎず、しかし日常の綻びとしては十分に上等だ。しかも、中心にいるのが、嘘をつくにはあまり向いていなさそうな長瀬 修平だというのがいい。

「待ってました」

「やっぱり言った」

 澪が、遠くからそう言った。

 真柴はため息をついた。

「別に、面白がる話じゃないんだけど」

「面白がってるわけじゃない。整理してるんだ」

「今の段階で?」

「今の段階がいちばん面白い」

 そこは否定しないことにして、僕は長瀬へ向き直る。

「まず確認。昼休み、保健室には行った」

「うん」

「いつ」

「四限が終わって、少ししてから。たぶん、十二時二十分前くらい」

「で、出たのは?」

「ちゃんとは見てない。先生にもう大丈夫そうって言われて、教室に戻った」

「中庭は?」

「通ってない。たぶん」

「たぶん?」

 僕が聞き返すと、長瀬は眉を寄せた。

「保健室から戻るとき、西階段の方を使ったのは覚えてる。でも、ぼうっとしてたから、どこを通ったか細かく言われると、自信ない」

「なるほど」

「なるほど、じゃないよ」

 真柴が割って入る。

「修平、今日、掃除当番だったんだよ。もし仮病で抜けてたなら、先に言っといてくれた方がまだまし」

「だから違うって」

「じゃあ二人も三人も見間違える?」

「知らないよ」

 声を荒げるタイプではない長瀬が、そこで少しだけ強く言い返した。昼休みの教室で、数人がこちらを気にしている。噂として広がるには、十分な温度だった。

 僕は箸箱を机に置いた。

「よし。保健室に行こう」

「弁当は」

 澪が訊く。

「あとで食べる」

「また冷える」

「謎は温かいうちがいい」

「お腹は冷えるのに」

「うまいこと言ったつもりか」

「別に」

 澪は弁当箱のふたを閉じた。結局ついてくるらしい。

     *

 保健室は一階西端にある。窓の外には中庭へ続く渡り廊下が見えて、薄緑の若葉が陽に透けていた。ドアの前まで来ると、廊下の空気が少しだけ変わる。教室棟のざわつきから切り離された、薬品と日なたの混ざった匂い。昼休みの学校の中で、ここだけが別の速度で動いている。

 白井先生は、入口脇の机で利用票をまとめていた。三十代くらい、髪を一つに束ねた養護教諭で、慌てた生徒より先に状況を把握するタイプの顔をしている。

「どうしたの、そんなにぞろぞろ」

 先生は僕ら三人と、その後ろからついてきた真柴を見て言った。

「また雨宮くん?」

「また、とは失礼ですね」

「だって、たいてい騒ぎの真ん中にいるもの」

 否定できない。

 真柴がすぐに話を切り出した。

「先生、長瀬が昼休みにここに来た時間って、残ってますか」

「長瀬くん? あるわよ」

 白井先生は利用票を一枚抜いた。

「十二時十八分。頭痛。体温は三十七度一分。ベッドで少し休ませて、三十分前には戻したはずだけど」

「三十分前?」

 僕は聞き返した。

「十二時半前後。ぴったりは見てないけど、それくらい」

「その間、長瀬くんはずっとここに?」

「少なくとも、私はそう思ってたわ。途中で一回、水を取りに準備室へ入ったくらいだし」

「裏口はありますか」

「あるけど、職員用。開けると結構音がするわよ」

「中庭へ抜けられる?」

「抜けられるけど」

 真柴が言う。

「ほら。出られるじゃない」

「出られるかどうかと、出たかどうかは別だ」

 僕は答えた。

「推理の基本だよ」

「それっぽいこと言わないで」

 澪が横から言った。

「まだ何も始まってない」

「始まってるさ。入り口は確認した」

「それはただの入り口確認」

 白井先生が少し笑ったあと、記録用の棚へ目をやった。

「で、何が問題なの?」

「長瀬くんが、中庭でも目撃されたそうです」

 澪が簡潔に言う。

「同じころに、まだ保健室のベッドにいたという証言もある」

「へえ」

 先生は少しだけ目を細めた。

「それは面白……じゃなくて、厄介ね」

 今、一瞬「面白い」と言いかけた。いい先生だ。

「目撃した人を呼べますか」

「真柴、和泉なら今、中庭でご飯食べてると思う」

 後ろにいたクラスメイトの一人が言う。

「早見は図書室じゃないかな」

「よし。順番に行こう」

 僕は言った。

「まずは、中庭の目撃者からだ」

     *

 中庭の藤棚の下では、二年五組の和泉 拓海が購買の焼きそばパンを片手に立っていた。真柴に呼ばれて来たらしく、面倒そうな顔を隠していない。

「俺、別に大したこと見たわけじゃないんだけど」

「その大したことじゃないやつを、できるだけ正確に」

 僕は言う。

「見たのは誰」

「長瀬」

「顔を見た?」

「見た。横から」

「いつ」

「十二時二十五分くらい」

「なぜ分かる」

「パン買って、中庭に戻ってきたとき、購買前の時計見たから」

「場所は?」

「渡り廊下の手前。花壇の横」

「ひとり?」

「ひとり。なんか、あんまり元気なさそうに歩いてた」

「立ち止まってた? 誰かと話してた?」

「いや。歩いてただけ」

「服装」

「制服。カーディガン着てた」

「色」

「紺」

 この学校のカーディガンはだいたい紺だ。情報としては弱い。

「ほかに特徴は」

「水色のファイル持ってた」

「水色」

 僕は反芻した。

「長瀬、水色のファイル持ってたか?」

「え」

 長瀬は戸惑ったように首を傾げる。

「今日は持ってない。教室にも置いてないと思う」

「ふむ」

 和泉は少しむっとした。

「でも、長瀬だったのは間違いないって」

「別に疑ってるわけじゃない。目撃証言は細部が命なんだ」

 そこへ、購買の袋を持った一年の女子がやってきた。真柴が呼んだらしい、もう一人の目撃者、倉橋 茜だ。

「私、そんなにはっきり見たわけじゃないです」

「十分だよ」

 僕は言う。

「どこで」

「中庭に入る前です。渡り廊下のガラス越しに、長瀬先輩みたいな人が歩いてて」

「みたいな人」

「顔はちゃんと見えてません。でも、背格好が似てて、横向いたときに、あ、長瀬先輩かなって」

「時間は」

「十二時二十六分とか、そのくらいです」

 かなり近い。

「なぜその時間だと?」

「私、昼休みの最初は購買並んでて、売店の人がメロンパン補充したのが二十六分くらいだったから」

 ずいぶん生活感のある時計だ。だが、学校の昼休みの証言というのは案外そういうものだ。

「顔は見てない。水色のファイルは?」

「持ってた気がします」

「気がする、か」

「すみません」

 和泉は少し得意そうに言う。

「ほら、二人いるじゃん」

「二人いることと、正しいことは同義じゃない」

 僕が言うと、和泉は焼きそばパンを少し噛みちぎった。

 ここまでで、中庭側の証言はだいたい揃った。

 時間は十二時二十五分から二十六分。

 渡り廊下の手前を、長瀬らしき男子が歩いていた。

 体調は悪そう。

 水色のファイルらしきものを持っていた。

 悪くない。だが、これだけではまだ、保健室との衝突は起きていない。

「次」

 澪が言った。

「保健室側」

「言われなくても」

     *

 図書室へ行く途中、僕は保健室から中庭までの最短距離を頭の中で測った。保健室の前廊下を出て、西階段脇を折れ、渡り廊下を抜ける。普通に歩いて一分弱。急げば四十秒台でも行ける。

 つまり、保健室を出た長瀬が中庭にいた、というだけなら、物理的にはまったく不可能ではない。

 問題は、「そのころ、まだベッドにいた」という証言の方だ。

 図書室のカウンターには、早見 結菜がいた。二年生の図書委員で、きっちり編んだ三つ編みと、少し神経質そうな目つきが印象に残る。前回の貸出カード騒ぎでも、返却処理の遅れを気にしていた一人だ。

「長瀬くんのこと?」

 早見は、僕の顔を見るなり言った。

「真柴さんから聞いた。私、ちゃんと見たよ」

「どこを」

「保健室。十二時二十五分すぎ。カーテンの閉まってる二番目のベッドに、長瀬くんが寝てた」

「顔を見た?」

「顔は見えてない。でも、長瀬くんだって分かる」

「なぜ」

「白井先生がさっき、長瀬くん寝かせてるって言ってたし、カバンもあったし」

 僕はそこで、少しだけ立ち止まった。

「つまり、見たのは本人じゃなくて、閉まったカーテンとカバン?」

「……でも、それで十分でしょ」

「十分かどうかを今から決める」

 僕は言う。

「時間はなぜ分かる」

「図書室当番に入る前だったから。廊下の時計を見たの。二十五分くらい」

「くらい、か」

「二十五、六分」

 早見の言い方は、和泉よりむしろ強かった。見ていない顔の代わりに、時間で証言を固めようとしているようにも聞こえる。

 澪が横で訊く。

「保健室に行った理由は?」

「本を返しに来た一年に、貸出カードの場所を聞かれて、そのあと少し」

「少し?」

「……少し、気分悪かったから寄っただけ」

「白井先生には?」

「言ってない。すぐ戻るつもりだったから」

 なるほど。

 僕は本棚の背表紙を眺めるふりをして、少し考えた。

 気分が悪くて寄った。

 先生には声をかけていない。

 顔は見ていない。

 だが、「いた」とはっきり言う。

 どこかに、ひとつ余計な断定が混じっている。

「光一」

 澪が小声で言った。

「どう思う」

「まだ足りない」

「何が」

「歩く時間。見た角度。あと、たぶん、早見さんが本当に隠したいのは別のこと」

 僕も同じところまでは来ていた。

「よし。現場に戻る」

     *

 再び保健室。

 白井先生に頼んで、当時の状況を一つずつ再現してもらうことにした。こういうとき、推理は椅子に座っているだけでは進まない。現場の空気や距離は、紙の上の数字より嘘をつかないことが多い。

「長瀬くんは、どのベッド?」

「窓側から二つ目」

「カーテンは閉めてた?」

「最初から最後まで、半分くらいは」

「カバンは」

「そこの丸椅子に置いてたわね」

「出るとき、持って出た?」

「たぶん。そこまではっきり見てない」

「たぶんが多いな」

 僕が言うと、白井先生は肩をすくめた。

「保健室ってね、探偵小説みたいに一人だけをじっと見てる場所じゃないの。昼休みは特に」

 もっともだった。

 ちょうどそのとき、一年の男子が二人、擦り傷の手を見せに入ってきた。先生は絆創膏を取りに準備室へ入る。僕はその隙に、ベッドから廊下まで歩数を数えた。カーテンを払って出て、スリッパを鳴らさずに歩き、入口を抜けて西階段脇へ。ここから中庭まで、澪に時間を測ってもらう。

「用意」

「いい」

「走るなよ」

「分かってる」

 僕は普通より少し早足で歩いた。西階段の角を曲がり、渡り廊下のガラスを抜け、中庭の花壇脇へ。振り返ると、澪が腕時計を見ている。

「五十一秒」

「普通に歩いて?」

「かなり気持ち速め」

「なら十分行けるな」

 和泉の証言時刻が正確なら、長瀬が保健室を出てすぐ中庭へ入っても不思議はない。問題は、同時刻にまだ保健室にいたことになる点だ。

「もう一回」

 僕は言った。

「今度は、早見さんが覗いた位置から」

 早見を図書室から呼んで、保健室前の廊下に立ってもらう。彼女は露骨に嫌そうだったが、ここまで来たら協力してもらうしかない。

「あなたが見たのは、ここから?」

「……もう少し手前」

「この辺」

「そう」

 その位置からだと、ベッド二つ目の内側はほとんど見えない。見えるのは、半分閉じたカーテンの端と、丸椅子の背、それからベッド脇の足元だけだ。

「ここから、長瀬だと分かった?」

 僕が訊く。

「だから、先生がそう言ってたし」

「本人を見たわけじゃない」

「でも、いたと思った」

「思った、だな」

 早見の顔がわずかに強ばった。

 そこで、澪がふいに別のことを言った。

「早見さん。図書室当番、今日は十二時二十五分からだったよね」

「そうだけど」

「開始時間にカウンター、空いてた」

「……え?」

「さっき、一年の子が言ってた。最初の五分くらい、誰もいなかったって」

 早見の唇が止まる。

 僕はそちらを見た。

「なるほど」

「光一」

「見えてきた」

 早見は一歩だけ後ずさった。

「別に、遅れたのはちょっとだけで」

「だろうね」

 僕は答える。

「でも、その『ちょっとだけ』を隠したかったから、時間をはっきり言い過ぎた」

「違……」

「違わない。あなたは十二時二十五分には図書室にいなかった。だから、その時刻の証言を強く言うほど苦しくなる」

「……」

「保健室に寄ったのは図書室当番の前じゃない。当番に遅れて、その言い訳を整理するために、『私はあの時間、保健室の前にいた』と先に決めた」

「……」

 早見は目を伏せたまま、返さない。

「何で遅れたかまでは興味ない」

 僕は言った。

「でも、見てないものを見たと言うと、話は一気にややこしくなる」

 白井先生が準備室から戻ってきて、空気を察したように眉を上げた。

「どういうこと?」

 澪が短く答える。

「『長瀬くんがまだいた』は、確認した事実じゃなくて、早見さんの推測です」

「推測?」

「カーテンと椅子を見て、そう思っただけ」

 早見は、しばらく黙ってから、小さく言った。

「……ごめんなさい」

 それは、保健室に向けたのか、図書室に向けたのか、長瀬に向けたのか分からない大きさの声だった。

「図書室、ちょっと遅れて。先に寄ったとき、カーテン閉まってて、カバンも見えたから、まだいるんだって思って……そのあと真柴さんに聞かれて、私、見たって言っちゃった」

「何でそんな言い方した」

 真柴が言う。

「だって、和泉がすごく自信ありそうだったし」

「だからって」

「だって私が、たぶんって言ったら、余計変になると思ったから……」

 ありがちな話だった。

 人は、自信満々の証言に押されると、自分の曖昧さを埋めたくなる。そうして、「見た気がする」は「見た」に変わる。悪意がなくても、十分に厄介だ。

「じゃあ、長瀬くんは普通に出て、中庭通っただけ?」

 白井先生が言う。

「その可能性が高い」

 僕は答えた。

「和泉の時間が多少前後しても、保健室から中庭までは一分かからない。早見さんの証言が確証でない以上、二重存在は成立しない」

「でも、長瀬は中庭通ってないって」

 真柴が言う。

 僕は長瀬を見た。

「通ったんじゃないか。ぼうっとしてて、自分では覚えてないだけで」

「……かもしれない」

 長瀬は少し気まずそうに言った。

「戻るとき、風に当たりたくて、渡り廊下の方を回った気もする」

「それだ」

「曖昧すぎない?」

「体調が悪い人間の記憶なんて、だいたいそんなものだよ」

 和泉が焼きそばパンの袋を丸めながら言う。

「なんだ。つまんね」

「つまらなくて結構」

 長瀬が小さく返した。

 さっきより、少しだけ声が強い。

 僕はそこで話を締めた。

「結論。長瀬 修平は昼休みに保健室へ行った。途中で戻り、中庭を通った可能性は高い。だが、同時に保健室にいたという証言は、事実確認ではなく推測に基づく誤認だ。つまり、分身でも無断外出のトリックでもない。目撃者が少しだけ嘘をついたせいで、話が大きくなった」

「『少しだけ』で済ませるの?」

 澪が言う。

「済ませない方がいい?」

「別に。光一が満足そうだから」

「当然だろ。証言の綻びを整理して、無用な騒ぎを潰したんだ」

「うん」

 澪は保健室の窓の外へ視線をやったまま言った。

「そういうの、光一は好きだよね」

 言い方が少し引っかかったが、そのときの僕は、目の前の謎が収まった心地よさの方を強く感じていた。

     *

 騒ぎが解けると、人は驚くほど早く日常へ戻る。

 和泉はもう別の話を始めていたし、真柴は長瀬に「じゃあ午後の掃除は出て」と現実的なことを言い、早見は図書室へ小走りで戻っていった。長瀬は白井先生にもう一度体温を測られ、三十六度台に下がっていると分かると、少しだけ安心した顔をした。

 僕はようやく、冷えた弁当を思い出した。

「戻るか」

「その前に」

 澪が言う。

「光一、さっきの棚」

「棚?」

「白井先生が利用票を出したとき、開けてた金属の棚」

 言われて、僕は記録棚の方を見た。保健室の机の後ろにある、鍵付きの細長い棚だ。扉が半開きになっている。白井先生は長瀬の体温計を片づけながら、ふとそちらへ顔を向けた。

「あれ」

 先生が、小さく言った。

「どうかしました?」

 僕が訊くと、先生は棚へ近づいた。

「いや、たいしたことじゃないと思うんだけど。ここに入れてた封筒が一つ、見当たらなくて」

「封筒?」

「去年の引き継ぎのときの。古い相談記録の控えをまとめたやつ。そんなに使うものじゃないから、奥に入れてたはずなんだけど」

 先生は棚の中を二、三枚めくって、それから首を傾げた。

「おかしいな」

 棚の内側には、ラベルの薄くなった仕切りがいくつかあった。その一つだけが、きれいに空いている。そこに貼られていた小さな白い見出しには、手書きで名前が残っていた。

 柏木 栞。

 その名前を、僕はまだ何の文脈もなく見た。ただ、古いインクの色だけが妙に目についた。

「大事なものですか」

 澪が訊く。

「ううん、たぶんコピーの束。元は別にあるはずだから、大騒ぎするほどじゃないと思う。私が春休みの整理で別の場所へ移したのかも」

 白井先生はそう言ったが、言い切るほどの調子ではなかった。

 そこへ、廊下から男子生徒の声がした。

「白井先生、生徒会の救急当番表って、まだここにありますか」

 顔を出したのは、久慈原 仁だった。いつもの穏やかな笑い方のまま、室内の人数を見て少し驚いたように目を細める。

「なんだ、大盛況だね」

「昼休みですから」

 僕が言うと、久慈原は柔らかく笑った。

「それにしても、雨宮くんがいると、だいたい何か起きてる気がするな」

 気のせいではないかもしれない。

 白井先生は「当番表ならこっち」と別の棚を開けた。半開きの金属棚は、そのままになっている。僕はもう、長瀬の二重存在の方で頭がいっぱいだったから、その空いた一列を深くは気にしなかった。

 ただ、澪だけが、その棚を見ていた。

 保健室を出て、廊下を教室へ戻る途中で、彼女は静かに言った。

「今日、見られてよかったのは、長瀬くんだけじゃないかもね」

「何だよ、それ」

「別に」

「またそれか」

「だって、光一は今、解けた方しか見てないから」

 振り向くと、澪はもう前を向いていた。

 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。校舎の窓に、白い光が斜めに差していた。

 僕はそのとき、ほんの少しだけ引っかかりを覚えた。

 けれど結局、その引っかかりに名前をつける前に、午後の授業は始まってしまった。

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