第4話 図書室の貸出カードの空白
昼休みの図書室は、雨の日ほど静かになる。
窓ガラスの向こうで、四月の終わりの雨が校舎の白い壁を鈍く濡らしていた。運動部の掛け声も、グラウンドを叩くボールの音もない。代わりに聞こえるのは、ページのめくられる薄い音と、貸出カウンターの奥で本の背を整える乾いた擦れだけだ。
だからこそ、その小さなざわめきは妙に目立った。
図書委員の二年生が二人、カウンターの内側で顔を寄せ合っている。困っているとき特有の、声を潜めているのに落ち着けていない話し方だった。
「やっぱり、おかしいよね」
「でも、昨日までは気づかなかったし……」
その横で、篠宮 澪は返却台に積まれた文庫本を一冊ずつ棚番号順に分けていた。僕――雨宮 光一が近づいても顔を上げず、ただ言った。
「光一」
「なんだ」
「今、目が光った」
「謎の気配がしたからな」
「嬉しそうでなにより」
まるで褒めていない声だった。
僕はそのままカウンターに肘をつき、図書委員の二人へ向き直る。
「何があった?」
声をかけると、二人は揃って微妙な顔をした。片方は図書委員長の片瀬 由良。几帳面で、図書室の乱れを自分の責任のように気にする性格だ。もう一人は一年の男子で、返却期限のハンコを押す作業をしていたらしい。
「雨宮くんは……別に呼んでないんだけど」
「呼ばれなくても来るのが探偵役だよ」
「自分で言うんだ」
「それで?」
澪の一言に促される形で、片瀬はため息をついた。
「貸出カードが、おかしいの」
「貸出カード?」
今どき大きな市立図書館なら全部バーコードで済むのだろうが、この学校の図書室は半分だけ時代に取り残されている。新刊や文庫はシステム管理でも、奥の古い蔵書や郷土資料、学校史の類は、いまだに本の見返しに貼られたポケットと貸出カードで記録していた。
片瀬は数冊の本をカウンターに並べた。
『旭ヶ丘学園五十年史』
『旧校舎増築記録』
『創立記念誌 第七十号』
『寄贈図書・備品台帳 抄』
どれも普段の昼休みに高校生が手に取るとは思えない顔ぶれだ。背表紙の色は褪せ、ラベルの透明テープはところどころ黄ばんでいる。
「この本のカード、見て」
片瀬が一冊を開く。後ろ見返しのポケットには、白いカードが一枚入っていた。
貸出日。返却日。氏名。学年組。
その欄が、きれいに空白だった。
「記入忘れ?」
「一冊だけならそう思う。でも四冊。しかも同じ棚の本ばかり」
別の本も開く。やはり空白。さらにもう一冊。こちらはカード自体は入っているが、途中までしか記録がなく、その後の数行が不自然に途切れていた。
「盗まれた、とか?」と一年生が小声で言った。
「本はあるんだろ」
「ある。全部ある。だから余計に変なの」
僕は一冊ずつ手に取った。ページの角の傷み具合、棚札、貸出期限票。使われていない本ではない。古い紙特有の乾いたにおいがする。開いた痕もちゃんとある。
「面白いな」
「言うと思った」
澪は相変わらず本を分けながら、興味なさそうに言った。
「面白いのはどっち?」
「どっち?」
「誰が触ったかと、何の本が触られたか」
「まずは前者だろ」
「そう」
その『そう』は、たいてい僕が遠回りする合図だ。
だが、遠回りには遠回りの醍醐味がある。謎は、順番にほどくのがいちばん気持ちいい。
最初に僕が見たのは、カードそのものだった。
古いカードはざらっとしている。新品は少し白い。指先で撫でると、紙の繊維の起き方が違う。四冊のうち三冊は明らかに新しいカードで、残る一冊だけが途中まで古い記録を残している。
「つまり、三冊は差し替えか」
片瀬が目を丸くした。
「分かるの?」
「これくらいはな。問題は、図書室の消耗品箱から同じカードを抜けば誰でもできるってことだ」
「じゃあ、図書委員の誰か?」
「まだ早い」
僕はカードの端を見た。四隅の丸みが、本によって微妙に違う。市販の貸出カードなら角の丸さは揃うはずだ。なのに、この三枚は切り方が雑だった。はさみではない。裁断機で切ったあと、端が少しだけ毛羽立っている。
カウンター奥の棚にある消耗品箱のカードは、市販品で角が揃っていた。違う。
「同じに見えて違う紙だ」
「じゃあ、どこから?」
「それを探す」
僕は図書室の裏側へ回り込んだ。書庫に続く小さな作業室。古い雑誌の束、ラベル作成機、透明テープ、補修用のり、期限票の予備、そして鍵付きの木製引き出しが並んでいる。
片瀬が慌ててついてくる。
「ちょっと、勝手に開けないでよ」
「開ける前に聞くさ。この引き出しは?」
「昔の目録カードとか、古い帳簿とか。今はほとんど使ってない」
「鍵は?」
「職員用のフックにかけてあるけど……昼間はだいたい開いてる」
「ずいぶん無防備だな」
「古い紙しか入ってないもの」
そこだ、と思った。
引き出しを開けると、案の定、使われなくなった目録カードが束で入っていた。紙色は少し生成り。四隅を裁断した跡もある。僕は一枚取り出し、カウンターへ戻って貸出カードと重ねた。
幅がぴたりと合う。
「これか」
片瀬が息をのむ。
「目録カードを切って作ったの?」
「たぶん。少なくとも、図書室の外から持ち込んだわけじゃない」
ここで一つ目の仮説が立つ。犯人は、図書室の作業室を知っている人間。つまり図書委員か、図書室に出入りの多い教師か、生徒会の記録整理で入ったことのある生徒。
候補は絞れた。だが、まだ足りない。
なぜ空白にしたのかが分からない。
「盗難隠しじゃないなら、延滞?」
一年生が言う。
「でも延滞なら、返却期限票に日付が残るよな」
僕は本の見返しに貼られた期限票を順番に確認した。こちらはきちんと埋まっているものと、そもそも記入がないものがある。だが、問題の四冊はみな、ある時期を境に書き込みが途切れていた。
去年の秋。
九月。十月。十一月。
ばらばらのようでいて、妙に寄っている。
「去年の秋に何かあった?」
「文化祭準備で図書室展示をしたけど……」と片瀬。
「テーマは?」
「学校の歴史」
それだ、と僕は思った。だが、その瞬間に澪が横から口を挟む。
「安直」
「なんだと」
「展示で使ったなら、むしろ貸出記録を消す必要はない」
「……たしかに」
痛いところを突かれた。
展示に使っただけなら、正規の作業記録が残る。わざわざカードを差し替える意味がない。僕は舌打ちしそうになるのをこらえ、もう一度本を開いた。
古い本は嘘をつきにくい。触られ方が残るからだ。
背の開き方、ページの折れ、しおり代わりに挟まれた紙片の有無、表紙の内側についた指の脂。
そのうちの一冊、『旧校舎増築記録』の十七ページに、細い付箋の糊跡が残っていた。剥がされて久しいが、そこだけ紙の色がわずかに違う。
該当箇所は、旧校舎東棟の改修年表だった。
「光一」
澪が初めて本の方を見た。
「何だ」
「それ、四冊とも似たような本だよ」
「見れば分かる。学校史だろ」
「学校史、寄贈記録、旧校舎の改修記録。『何でもいい古い本』じゃない」
「つまり?」
「誰かが、探してた」
「何を」
「そこまでは知らない」
澪はそこでまた黙った。知っていても全部は言わない、あいつのいつものやり方だ。
僕はカウンターの貸出台帳も見せてもらった。新刊はシステム登録だが、古い蔵書を外に持ち出すときは簡易台帳に名前を書く決まりになっている。
問題の四冊が借りられた記録は、ない。
「となると、館内で読まれた?」
「でもカードを差し替える必要がない」と片瀬。
「そうだ。つまり一度は外へ出ている」
僕は窓の外を見る。雨脚は少し強くなっていた。窓際の机に置かれた除湿剤の箱が湿気でたわんでいる。
外へ出た。正規の手続きなしに。だが、本は戻ってきた。返さないつもりならカードをいじる必要はない。戻したうえで、借りた人間だけを消したい。
その形なら、動機は一つだ。
貸出そのものではなく、**誰が借りたか**を隠したい。
「片瀬、去年の秋、この棚の本をよく見てた人は?」
委員長はすぐには答えなかった。視線が、一度だけ泳いだ。
そこを見逃すほど僕は鈍くない。
「いるな」
「……別に、珍しくもないよ。展示の時期だったし」
「名前」
「雨宮くん、そういう聞き方」
「いいから」
片瀬は唇を結んだまま、数秒迷った。そのあと、諦めたように言った。
「柏木 栞先輩」
澪の手が止まった。
僕も、さすがにその名前には覚えがあった。
一年前、旧校舎の階段から転落して長く休学している三年生。事故だった、と学校は言っている。けれど、事故現場が旧校舎だったせいで、今でも妙な噂は残っていた。
「先輩、去年の秋は図書室によく来てた。静かな人で、閉架の本を何冊か出してほしいって頼まれたこともある」
「それがこの四冊?」
「全部かは分からない。でも……学校の古い記録を見てたのは覚えてる」
「で、事故のあとにカードが空白になった」
片瀬はうつむいた。
ここまで来れば、かなり見えた。
だが、まだ決め手がない。憶測だけで終えるのは気に入らない。謎は、きちんと鍵穴に合う鍵で開けたい。
決め手は、意外なところに落ちていた。
返却台の下、書誌カードをまとめた箱の脇に、小さく丸まった透明テープの切れ端が三つ。端が白く曇っている。古いのりを剥がしたときの跡だ。
僕はそれを拾い上げた。
「このテープ、どこに使う?」
「貸出カードのポケットが剥がれた時の補修」と片瀬。
「問題の本、見せて」
四冊のポケットの縁をよく見る。三冊は右下の角だけ、ほんのわずかに浮きがある。剥がして貼り直した痕だ。しかも補修の向きが、図書委員の通常作業と逆だった。片瀬は右利きだから、いつも左から押さえて右へ空気を抜く。だがこの三冊は、右から左へ押した筋がついている。
僕は作業室の机に目を向けた。そこには、左利き用のはさみが一本だけ置いてあった。
「やっと分かった」
「何が?」
片瀬が顔を上げる。
「カードを差し替えたのは、図書委員だ。しかも、去年の秋にも当番に入ってた左利きの人間」
図書室がしんと静まる。
一年生が小さく息をのんだ。澪だけが、少しも驚いた顔をしない。
「今の図書委員で左利きは?」
片瀬は答えない。答えなくても分かった。自分の指先が、無意識に左の袖口をつまんでいたからだ。
「あなたか」
僕が言うと、片瀬は目を閉じた。
「……半分だけ、そう」
「半分?」
「差し替えたのは私。でも、最初に言い出したのは私じゃない」
彼女は椅子に座り直し、小さく息を吐いた。
「事故のあと、先輩のことで変な噂が増えたの。旧校舎に何か探しものをしに行って落ちたんじゃないか、とか。立入禁止の場所に勝手に入ってたんじゃないか、とか」
「それで?」
「図書室の貸出カードに先輩の名前が残ってたら、絶対そこに結びつける人が出ると思った」
片瀬の声は細かったが、言葉は淀まなかった。
「先輩はただ、本を調べてただけかもしれない。なのに、事故のあとで名前だけが一人歩きするのが嫌だった。だから、カードを抜いて、目録カードで差し替えた」
「一人で?」
「……生徒会の人に、『そのままだと面倒になるかもね』って言われた」
僕は眉を上げた。
「誰に」
「名前は言いたくない」
「言いたくない、で済む話か?」
「済まないのは分かってる。でも、少なくともカードを抜いたのは私」
片瀬はそこだけ強く言い切った。
責任の置き場を、自分から手放さない声だった。
僕は四冊の本を見た。
『旭ヶ丘学園五十年史』
『旧校舎増築記録』
『創立記念誌 第七十号』
『寄贈図書・備品台帳 抄』
ただ古いだけじゃない。確かに何かを辿れる本ばかりだ。
けれど、いまここで僕に解けるのは、その先ではない。
この図書室で起きたことまでだ。
「つまり事件の正体はこうだ」
僕は、なるべくいつも通りの声で言った。
「本を盗んだ人間はいない。延滞を隠した人間もいない。貸出カードの空白は、借りた事実を消したんじゃない。**借りた人の名前だけを消すために作られた空白**だ」
一年生がぽかんとする。
「だから本は戻ってきているし、棚も乱れていない。記録だけが消えた。差し替えに使われたのは作業室の古い目録カード。ポケットは一度剥がして貼り直された。やったのは図書室の内情を知る人間。しかも左利き」
片瀬はうつむいたまま、静かに頷いた。
「正解」
その言葉に、いつもなら胸の奥で小さく火花が散る。見立てがぴたりとはまる瞬間の、あの快感だ。
だが今日は、いつもほど気分が良くなかった。
隠した理由が、あまりにも『この学校ならありそうな臆病さ』だったからかもしれない。
結局、片瀬は司書の先生にだけ事情を話し、差し替えたカードは回収されることになった。元のカードのうち二枚は、片瀬が封筒に入れて保管していた。残る二枚はまだ見つかっていない。
「捨ててないなら、図書室のどこかにあるはず」と僕が言うと、片瀬は首を振った。
「一枚はたぶん、私が持ってる。でももう一枚は……最初からなかった」
「なかった?」
「先輩が最後に見てた『寄贈図書・備品台帳 抄』のカードだけ、抜こうとした時にはもうなくなってた」
僕は顔を上げた。
「どういうことだ」
「分からない。私が触る前に、誰かがその本だけカードを抜いてたの」
雨の音が、急に近く聞こえた。
澪が返却本の束をそっと置く。
「光一」
「なんだ」
「これで終わりだと思う?」
僕は答えなかった。
答えたくなかった、の方が正確かもしれない。
片瀬のしたことの理屈は分かった。方法も、動機も、筋は通っている。けれど一冊だけ、僕らの事件の外側で先に手を入れられていた本がある。
それは、あまり気持ちのいい余り方ではなかった。
図書室を出る頃には、雨は少し弱まっていた。
渡り廊下の窓に細い水筋が残っている。僕は鞄を肩にかけ直し、隣を歩く澪を見た。
「お前、途中から分かってただろ」
「どこまでの話?」
「名前を隠したかったってところ」
「半分くらい」
「なんで言わない」
「光一が気持ちよく順番を踏んでたから」
「嫌な言い方だな」
「でも、必要だったでしょ。今日のあなた、一回目の仮説は雑だったし」
そこは否定できない。展示利用説は、たしかに安直だった。
僕が黙ると、澪は窓の外を見たまま続けた。
「ねえ、光一」
「何だよ」
「借りた人の名前を消したい本と、最初からカードが消えてた本は、同じ理由で触られたとは限らないよ」
「……分かってる」
「分かってない顔」
「うるさい」
澪は少しだけ笑った。笑った、ように見えた。気のせいかもしれないくらい小さかったけれど。
「図書室の謎は解けた。でも、学校の方はまだでしょ」
その言い方が妙に耳に残った。
僕は振り返って、雨に曇る図書室の窓を見た。奥の棚の向こうに、古い本の背表紙が細く並んでいる。そのどこかに、まだ名前のない空白が残っている気がした。




