第2話 夜の音楽室の無人演奏
その噂がクラスに届いたのは、第一話の提出箱騒ぎから五日後の放課後だった。
「西棟の旧音楽室で、誰もいないのにピアノが鳴るらしいよ」
そう言い出したのは、掃除当番を終えたばかりの女子だった。雑巾を絞ったあとの手をぶらぶらさせながら、妙に嬉しそうな顔をしている。怖い話を持ち込む人間というのは、だいたい半分くらい楽しんでいる。
「昨日も鳴ったし、一昨日も鳴ったって。しかも、決まって五時過ぎ」
「鍵、閉まってるんでしょ」
「うん。窓から見ても誰もいないって」
そこで教室の空気が少しだけ浮いた。帰り支度の音に混じって、へえ、とか、やだ、とか、面白そう、とか、そういう軽い声が広がる。
もちろん、僕はその瞬間に鞄の口を閉じた。
「待ってました」
前の席の男子が、ああ出た、という顔をする。僕――雨宮 光一は、机に肘をついていた姿勢のまま口元を上げた。
「今度は怪談か。いいね。学校という舞台は、やっぱり飽きさせない」
「飽きさせないのは、光一の方だと思う」
窓際で本を閉じた篠宮 澪が、いつもの調子で言った。
「それで? もう解くの?」
「まだ聞いただけだよ」
「聞いただけで、ずいぶん嬉しそう」
「嬉しいに決まってるだろ。提出箱の次が無人演奏だ。順調に階段を上がってる」
「どこの階段」
「探偵としての」
「勝手に上がって落ちなきゃいいけど」
澪は冷たい。だが、そう言いながら帰る支度をやめないあたり、結局ついてくる気ではある。
噂の発信源をたどると、最初に騒ぎ始めたのは合唱部の一年生たちらしかった。西棟の旧音楽室は今はほとんど使われていない。古いグランドピアノが一台残ったまま、文化祭前に備品を一時置きするくらいの場所だ。二階の突き当たりにあって、放課後になると人通りも少ない。
人が少ない。
鍵は閉まっている。
なのに決まった時刻に音がする。
いい。非常にいい。
「光一、顔に出てる」
「何が」
「大好物です、って」
「事実だから仕方ない」
僕らが西棟へ向かうと、廊下の空気は本当に少し違っていた。教室棟のざわめきから半歩外れたような、薄い静けさがある。窓の古いサッシが風のたびにかすかに鳴って、床板は歩くたびに低く軋んだ。
問題の旧音楽室の前には、すでに数人の野次馬がいた。合唱部の一年が二人、美術部らしい二年が一人、それに用もなく付いてきた感じの男子が二人。みんな扉から少し距離を取っている。いかにも学校の怪談らしい絵面だ。
「雨宮先輩」
合唱部らしい女子が、僕の顔を見るなり少し安心したように寄ってきた。こういう反応は悪くない。期待されるのは、探偵として当然の報酬だ。
「君が最初に聞いた?」
「はい。一昨日、片づけのあとで。五時十分くらいに、ここ通ったら……ピアノの音がして」
「中に人影は?」
「見えませんでした。鍵も閉まってて」
「曲は覚えてる?」
「えっと……きれいな曲じゃなくて、同じところを何回も弾いてるみたいな」
「同じところ?」
「途中で止まって、また最初から、みたいな」
「なるほど」
僕は扉に耳を寄せた。今はもちろん無音だ。古い木の匂い、埃っぽい空気、金属の冷えたにおい。鍵穴は外側から施錠されている。覗き窓は曇っていて、中は薄暗い。
「先生は確認した?」
「音楽の松原先生が、昨日来たときには鳴ってなかったそうです。気のせいじゃないかって」
「先生が来たのは何時?」
「五時半くらいって」
「遅いな」
澪が廊下の端を見たまま言った。
「噂になってるわりに、皆そこまで怖がってないね」
「怖い話ってそういうものだろ」
「違う。怖いなら、もっと人が集まるか、逆に誰も来なくなる。今は、中途半端に見物人だけいる」
僕は肩をすくめた。
「つまり?」
「誰かがちょうどいいくらいに広めた」
「噂なんてだいたいそうだよ」
「そう」
その返事は短かったが、何かを切り捨てたような響きがあった。
そのとき、廊下の向こうから足音がした。生徒会副会長の久慈原 仁が、資料の束を抱えたままこちらへ歩いてくる。
「やっぱり人が集まってるね」
穏やかな笑い方だった。人当たりのいい三年生、という顔がそのまま服を着て歩いているような人だ。
「久慈原先輩、これ知ってます?」
「旧音楽室の噂だろう。耳には入ってるよ。でも、あまり大ごとにはしないでほしいな。西棟の二階、今ちょっと古い資料をまとめて置いてあって、騒ぎになると面倒なんだ」
そう言ってから、彼は僕を見た。
「雨宮くんも来てたんだ」
「こういうの、放っておけない性分なので」
「助かるよ。君は変なところに目が利くから」
褒められ方としては悪くない。だが、澪はそのやり取りの間、久慈原先輩ではなく、旧音楽室の隣の部屋のプレートを見ていた。旧準備室。今は物置になっているらしい。
「で、光一。今日はどうするの」
「決まってる。鳴るまで待つ」
五時を少し回ったあたりから、廊下の人数はかえって増えた。噂というのは時間が近づくほど人を呼ぶ。だが、僕の興味は見物人より、音の条件の方にあった。
鳴るのは五時過ぎ。
決まった時刻。
曲ではなく、途中で切れる断片。
そして、先生が来た五時半には鳴っていない。
幽霊にしては律儀すぎる。
五時十二分。
風が一度、廊下の奥から抜けた。西棟の古い窓が鳴る。
五時十三分。
扉の向こうで、かすかな音がした。
最初は、鍵盤をそっと押したような単音だった。
次に、二音、三音。ぎこちない和音。そこで廊下の空気がぴんと張った。誰かが小さく息をのむ。
そして、短いフレーズが始まる。
たどたどしい。だが、確かにピアノの音だ。
旧音楽室の中から、誰もいないはずの部屋から、古びたグランドピアノが勝手に鳴っているように聞こえる。
女子の一人が、ひっと喉を鳴らした。
男子の一人が、面白がるのをやめて一歩下がる。
音は八小節ほど続き、四小節目で一度だけつまずくように乱れ、それから最後まで行かずに止まった。
沈黙。
――と思った次の瞬間、また最初から同じフレーズが始まった。
同じ音。
同じつまずき。
同じ止まり方。
僕は笑いそうになった。
「なるほど」
「何、分かったの」
女子が青い顔で聞いてくる。
「少なくとも幽霊じゃない」
「どうしてそう言えるの」
「幽霊にリピート再生の趣味があるとは考えにくいから」
僕は音が鳴っているあいだ、廊下の床に片膝をついていた。振動を見たのだが、木床にはほとんど響きがこない。グランドピアノを本当に弾いているなら、あの部屋の床はもう少し低く鳴るはずだ。
しかも、音は鍵盤の位置より、少し低いところ――ピアノの胴や足元のあたりから膨らんで聞こえる。
そして何より、同じ場所で同じミスをした。
「澪」
「うん」
「答え合わせ、していいか」
「たぶん、合ってる」
僕は立ち上がり、廊下の窓際にいた一年生の男子へ声をかけた。
「悪いけど、職員室行って松原先生呼んできてくれる? 鍵、借りたい」
「え、今開けるの」
「今じゃないと面白くないだろ」
十分後、松原先生が息を切らしてやってきた。鍵を開けてもらい、僕らは旧音楽室の中に入る。埃っぽい空気が一気に流れ出る。夕日の傾いた光の中に、古い譜面台、積まれた椅子、壁際の段ボール、そして問題のグランドピアノが沈んでいた。
音は、もう止まっている。
僕は迷わずピアノに近づき、鍵盤には触れずにしゃがみ込んだ。音の膨らみ方から見て、あるとしたらここだ。
ピアノの下。いや、違う。
椅子。違う。
では――
僕はピアノのベンチの蓋に指をかけた。
「これだ」
持ち上げると、中に小さなICレコーダーが入っていた。安価な市販品で、外付けの小型スピーカーまでつないである。再生は止まっているが、タイマー設定の画面がまだ消えていない。
教室の外から、あっと声が上がった。
「録音……?」
「その通り」
僕はレコーダーを摘み上げた。
「毎日決まった時刻に、同じフレーズを、同じミスで鳴らしていた。つまり演奏じゃなく録音だ。ベンチの中に入れて、古いピアノのそばで鳴らせば、共鳴してそれっぽく聞こえる。扉の向こうなら、なおさらね」
「でも、鍵は?」
松原先生が言う。
「誰がこんなところに仕掛けたんだ」
僕は振り返った。
見物人の中に、さっき最初に話を聞かせてくれた合唱部の一年生はいない。代わりに、その友人らしい女子が目を泳がせている。
「仕掛けた本人は、たぶんここにいたよ。少なくとも、今さっきまで」
廊下の端に置かれた通学鞄の中から、僕は薄い楽譜ファイルを見つけた。表紙に合唱部一年、遠野 紗季と書いてある。中には、録音に使ったのと同じフレーズが赤鉛筆で何度も囲まれた譜面が挟まっていた。
その十分後、松原先生に連れられて戻ってきた遠野は、泣きそうな顔で全部を認めた。
「ごめんなさい……でも、幽霊にするつもりまでは……」
「いや、してただろ」
僕が言うと、遠野は肩を縮めた。
話をまとめると、こうだった。
遠野は来月の合唱祭で伴奏を任されるかもしれず、どうしても放課後に一人で練習したかった。だが新入部員の彼女にとって、音楽室でつっかえながら弾くところを先輩に聞かれるのはかなりきつい。そこで、旧音楽室に録音したフレーズをタイマーで流し、「西棟には何かある」という空気を作って人を遠ざけ、そのあいだ隣の小練習室でひっそり練習していたらしい。
「誰も来なくなると思ったの。少なくとも、しばらくは」
「しばらくどころか、噂が広がって余計に人が来てたけどね」
澪が言う。
遠野はますます小さくなった。
「最初の一回でやめるつもりだったんです。でも、皆が本当に信じてくれて……引っ込みつかなくなって」
「なるほど。動機は分かった」
僕は腕を組んだ。
「仕組みは単純だ。でも発想は悪くない。音そのものより、場所と時間で勝負したのが利いてる」
「光一、褒めない」
「褒めてはない。評価してるだけ」
「それを普通は褒めてるって言うの」
松原先生は深くため息をつき、遠野に反省文としばらくの放課後練習禁止を言い渡した。見物人たちは、なんだ録音か、と拍子抜けした顔で散っていく。怪談が論理に負ける瞬間の、あの微妙な不満混じりの安堵。僕は嫌いじゃない。
久慈原先輩も、いつの間にか戻ってきていた。
「さすがだね、雨宮くん。やっぱりすぐ片づけた」
「同じミスを二回したあたりで、ほぼ決まりでした」
「皆も安心しただろう。ありがとう」
その口調は穏やかで、非の打ちどころがない。
けれど澪は先輩に頷き返したあと、旧音楽室ではなく、その隣の旧準備室の扉を見た。
「どうした」
僕が聞くと、澪は首を振る。
「別に」
「別に、じゃない顔してる」
「光一こそ、いま満足してる顔してる」
「当然だろ。幽霊騒ぎを論理で潰したんだぞ」
「そう」
その「そう」は、相変わらず温度が低かった。
西棟を出るころには、校舎の窓がすっかり夕焼け色になっていた。靴箱へ向かう渡り廊下で、僕は少しだけ胸を張って歩く。録音機、タイマー、反復されるミス。今回も見事な解決だったと言っていい。
「それで、どうだった?」
僕が聞く。
「何が」
「さっきの。たぶん合ってる、ってやつ」
「だいたい合ってた」
「だいたい?」
「音の仕掛けの方はね」
澪は手すりの向こうを見たまま言った。
「でも、たぶん皆、音の方に誘導されてた」
「何に」
「そっちじゃない方に決まってるでしょ」
意味深な言い方だ。
だが、そのときの僕は半分しか聞いていなかった。勝ったばかりの頭は、次の勝ち方を考えるのに忙しい。
靴箱の前で、澪はノートを取り出した。何かを挟むような仕草をする。視線を落とすと、彼女の指先には薄い紙片があった。黄ばんだ帳面の端のような、少し厚い紙だ。
「何それ」
「旧準備室の前に落ちてた」
「ゴミ?」
「たぶん、何かの切れ端」
「またか」
僕は笑った。
「お前、そういうの好きだな」
「光一が拾わないから」
「だって、今はもう事件解決後だし」
「そういうところ」
それだけ言って、澪は紙片をノートに挟んだ。
僕は深く気にしなかった。
旧音楽室の無人演奏は、録音機と小さな見栄が生んだ、かわいらしい放課後の事件だった。それで十分だと思っていた。
少なくとも、その日の僕は。




