合宿編 第七章 俺はまだ決めない
昼のオリエンテーリングは、ほとんど誰も景色を見ていなかったと思う。
班で山道を歩き、地図を頼りにチェックポイントを回り、植物の名前を答える。そんな内容だったが、皆の意識は別の場所にあった。昨夜の配電盤、三一一、倉橋と水瀬。口に出さなくても視線がそれを言っている。
だから、午後の自由時間が始まった時点で、いずれ何かが起こるのはほとんど確定していた。
問題は、誰がどの形で火をつけるかだけだった。
火をつけたのは、僕らの想像より早かった。
ラウンジへ戻ると、掲示板の前に人だかりができていた。
誰かが、去年の合宿写真を一枚だけ貼り直していたのだ。昨夜抜かれていたはずの写真。三一一の前で撮られた四人の女子生徒の写真。その中央、倉橋梓と水瀬紗由の間に、赤いペンで大きく書かれた一言。
**火を見たのは誰?**
人は輪郭のない不安より、問いの形になった不安の方に飛びつく。
ざわめきは一瞬で広がった。
「誰が貼ったの」
「最低」
「昨日のやつと同じじゃん」
「やっぱり去年なんかあったんだ」
凪の顔から血の気が引くのが分かった。
僕は反射的に掲示板へ向かったが、その前に教師が来た。写真はすぐに外される。だがもう遅い。見た人の頭には残る。
「全員、夕食前に多目的室へ集合」
学年主任が言った。
「昨日からの件を含めて、説明してもらう」
説明してもらう、という言い方が嫌だった。
誰か一人に説明責任を押しつける場所の匂いがした。
集合までの短い時間に、僕らは凪と伊吹を別々に確保した。
先に伊吹へ手紙を渡したのは、澪だった。二人だけで話したいと伊吹が言ったからだ。僕は凪と、人気のない談話室に残った。
「私じゃない」
凪は椅子に座るなり言った。
「写真を貼り直したの」
「分かってる」
「本当に?」
「あなたなら、もっと手際よくやる」
僕がそう言うと、凪はひどく複雑な顔をした。
「褒められてる気がしない」
「褒めてないから」
凪はそこで、初めて少しだけ息を吐いた。
「写真、誰が持ってたんだろ」
「ラウンジから抜いた人。あるいは、あなたが置いた写真を別に回収してた人」
「そんな人いる?」
「去年のことを、今さら掘り返したい人か、逆に都合よく使いたい人なら」
言ってから、僕は自分で首を振った。
「いや、違うな。たぶん大げさな意思じゃない。見つけたから面白がってやっただけの可能性の方が高い」
「最悪」
「最悪だよ」
そこへ澪が戻ってきた。
表情はいつも通りに近いが、少しだけ柔らかい。
「伊吹、手紙読んだ」
「どうだった」
「泣いた。でも、立てる」
その一言で十分だった。
手紙の全文は聞いていない。
ただ、伊吹が部屋を出る前に一度だけ僕へ言った。
『姉は、黙ったことが正しかったとは書いてませんでした』
それだけで、梓がずっと何を抱えていたかは分かった気がした。
多目的室には、二年生全員と教師が集められていた。
長机が前に並び、学年主任と担任が立っている。空気は重い。誰も椅子の音を立てない。こういう沈黙は、裁く場所の沈黙だ。
「昨日からの一連の騒ぎについて」
学年主任が口を開く。
「部屋割りの不正な変更、夜間の無断外出、今年度掲示物への悪質な書き込み。いずれも看過できない」
その視線が、教室全体を一度ゆっくりなめた。
凪が拳を握る気配が横から伝わる。伊吹は澪の隣で背筋を強くしていた。
「心当たりのある者は、今ここで申告しろ」
誰も動かない。
当然だと思った。
『今ここで申告』は、真実を促す言葉じゃない。いちばん分かりやすい矢印を立てるための言葉だ。
しびれを切らしたように、後ろの方から誰かが小さく言った。
「で、どう思う、名探偵」
半分、からかい。
半分、期待。
そして今は、責任転嫁でもあった。
去年までの僕なら、その視線を受けて前に出ていたかもしれない。
でも今の僕は、少しだけ息を吸ってから立ち上がった。
「雨宮」
担任が怪訝そうに言う。
僕は教室の後ろから前へ視線をやった。教師。クラスメイト。凪。伊吹。澪。誰の顔にも、同じ事件が違う形で映っている。
そして、はっきり言った。
「俺は……まだ決めない」
教室が、一瞬だけ静まり返った。
自分の口から出た『俺』に、少し遅れて自分でも気づく。でも違和感はなかった。これは、考え方じゃなく、選び方の言葉だ。
「何を言ってるんだ」
学年主任が眉をひそめる。
「君は何か知っているのか」
「知ってます」
僕は答えた。
「でも、今ここで誰か一人を『そうだ』と決めたら、去年と同じになります」
ざわめきが起きる。
「去年って何」
「やっぱりなんかあったんじゃん」
教師が制止する声を上げる前に、僕は続けた。
「去年この施設で小さな事故があった。その後、理由の一部だけが噂になって、一人歩きした。何があったかより先に、『誰が悪いか』だけが広がった。昨日からの騒ぎは、その残りかすに今の感情が乗っただけです」
「抽象的すぎる」
学年主任の声が硬くなる。
「具体的に話せ」
「具体的にすると、ここにいる誰かの過去まで勝手に並べることになります」
僕は教師から目を逸らさなかった。
「必要なのは、今止めることです。部屋割りの変更は人為的でした。でも、誰かを傷つけるためのものではなかった。夜の無断外出も、去年の置き去りを回収しようとして起きた。そこへ昨夜の配電盤トラブルが重なって、火事の噂が増幅した。それが今の全体像です」
「そんな説明で納得できるかよ」
誰かが言う。
杉浦だった。だがその顔は反発というより、不安に近い。
「結局、誰がやったんだよ」
僕は彼を見る。
前の僕なら、ここで答えを出していた。出せるだけの材料も、たぶんある。
でも今、ここで答えを出した時に喜ぶのが誰かを考えると、その答えは急に価値を失う。
「だから、まだ決めない」
僕はもう一度言った。
「少なくとも、この場では」
沈黙の中で、澪が立ち上がった。
僕の隣に来る。前ではなく、後ろでもない。横だった。
「補足します」
澪は教師に向けて、静かに頭を下げた。
「昨夜の点検記録には不自然な書き換えがありました。去年の件は、学校と施設の都合で整理された可能性が高い。つまり、今ここで生徒だけに説明責任を負わせるのは順番が違うと思います」
教師たちの表情が変わる。
学年主任は露骨に嫌そうな顔をしたが、否定しきれない顔でもあった。
「そして」
澪は続ける。
「写真への書き込みは明らかに悪質です。ただ、それをやった人間も、去年の断片的な噂を面白がって使っただけの可能性が高い。今ここで誰かを吊るし上げても、また同じ形の噂が残るだけです」
その言葉は、僕一人のときよりずっと強く響いた。
理由は簡単だ。澪は感情に寄りかかっているように見えないからだ。だから余計に、内容の重さがそのまま残る。
教室の空気が、ほんの少しだけ変わる。
勢いで誰かを指す方向から、もう少し考えようとする方向へ。
その時だった。
多目的室の後ろの扉が開き、施設職員が慌てた顔で入ってきた。
「西側倉庫で煙です!」
またか、と喉の奥で思う暇もなかった。
全員の顔が強張る。昨日の延長で『火』の言葉は最悪だ。
「避難!」
教師が叫ぶ。
椅子が一斉に鳴る。人が動き出す。集団が一度に立ち上がる音は、理屈を全部押し流す。
僕は即座に凪を見た。
凪の顔が青ざめている。次の瞬間、彼女は人の流れと逆方向へ走り出した。
「凪!」
僕が叫ぶ。
彼女は振り返らない。
澪が僕を見る。言葉はいらなかった。
僕らは一緒に走った。




