合宿編 第六章 隠した名前
翌朝の空は、雨が降る寸前の白さだった。
昨夜の騒ぎのせいで、朝食の食堂は妙に静かだった。皆、同じ話題を頭に抱えているのに、それを口にするとまた何かが動くと分かっている顔をしている。噂が大きくなったあとの沈黙は、うるさい時より息苦しい。
教師たちは朝食後に簡単な全体説明をした。
「昨夜のトラブルは施設の配電盤の劣化によるもの」「火災ではない」「勝手な憶測を広めるな」。言っていることは正しい。だが正しい説明は、正しい順番で届かないと、すでに広がった感情に負ける。
案の定、食堂を出たところで杉浦が寄ってきた。
「で、実際どうなんだよ」
「何が」
「去年と同じとか、三一一とか。お前、もう何か掴んでる顔してる」
「顔で決めるな」
「決めつけない名探偵」
からかうように言われて、僕は少しだけ苦笑した。
そういう言い方なら、まだいい。半分は冗談で、半分は期待だ。期待されること自体を嫌だと思わなくなったのも、少し前の僕とは違う。
「今日は動くなよ」
僕が言うと、杉浦は意外そうに目を丸くした。
「俺に?」
「余計な親切で誰かに話しかけるなってこと」
「……お前、昨日より先生みたいだな」
「先生よりはましだろ」
そう返して、その場を離れる。
凪に話を聞くなら、教師の前ではだめだった。
伊吹にも、同じことが言える。昨夜の状態で二人を同じ場へ出せば、片方が折れる。あるいは両方が黙る。どちらも最悪だ。
僕と澪は、午前のオリエンテーリングが始まる前の十分を使って、施設裏の東屋で凪を待った。
呼び出しのメッセージを送ったのは澪だ。僕より、彼女の文面の方が逃げ道が少ない。
凪は、ちゃんと来た。
目の下に薄く隈がある。昨夜ほとんど眠れなかったのだろう。僕らも似たようなものだ。
「説教なら短くして」
凪は座るなり言った。
「そういうの、たぶん今いちばん効かないから」
「説教じゃない」
澪が即座に返す。
「確認」
「何を」
「あなたが一人で全部背負うつもりかどうか」
その一言で、凪の顔からわずかに色が引いた。
僕は、昨夜見たレコーダーをテーブルの上に置いた。
「これ、中身を聞いた」
「……聞けたの?」
「今朝、充電して」
本当は、聞くかどうかで僕と澪は少し揉めた。本人の許可なく再生することは、境界線を踏み越える行為だ。それでも、今は境界線の外側から見ているだけでは守れないものがあると判断した。
その判断に、澪も最後はうなずいた。
レコーダーに入っていたのは、十秒にも満たない断片だった。
ノイズ。誰かの荒い呼吸。女の子の泣き声。ぶつかった金属音。そこでようやく、倉橋梓らしい声が入る。
**紗由、燃やさないで**
**それを焼いたら、あなたまで消える**
そのあと、大きなノイズ。誰かの叫び。録音はそこで切れていた。
凪は、テーブルの木目を見たまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、ごく小さく言う。
「そこまで聞いたなら、もう分かるでしょ」
「全部は分からない」
僕は答えた。
「でも、倉橋梓が何かを止めようとしていたのは分かった。火をつけた側の声じゃない」
「……うん」
凪の喉が上下する。
「姉は、紗由姉を助けてもらった」
その言葉で、去年の輪郭がようやく一つに寄り始めた。
水瀬紗由。凪の姉で、去年の三年生。
倉橋梓と同じ三一一の部屋。
合宿三日目の夜、西側倉庫で何かを燃やそうとした。
それを梓が止めた。
「何を燃やそうとした」
澪が訊く。
凪は一度だけ顔を上げ、それからまた伏せた。
「黒いノート」
「何が書いてあったの」
「姉への『証拠』」
凪はその言葉を、ひどく嫌そうに吐き出した。
「証拠っていうか、勝手にそう呼ばれてたもの。悪口を書いたメモ、写真、切り取った会話、告げ口。誰が始めたか分からないまま、姉が全部悪いみたいに積まれていった。姉はクラスで一回孤立して、それで……合宿の時にはもうかなり危なかった」
風が東屋の屋根を鳴らす。
僕は胸の奥に、重いものがゆっくり沈むのを感じていた。
学校の中で一人を追い込む仕組みは、だいたい派手じゃない。小さい紙片、切り取った言葉、誰かが面白半分で投げた一言。それが積もって、人を外へ押し出す。
「姉は、全部消したかったんだと思う」
凪は続けた。
「なくなれば終わるって。本当に終わるわけないのに」
「梓先輩が止めた」
「うん。西側倉庫で。古い電気ストーブがついてて、ノートを押し込もうとして、コードが倒れて……小さく燃えた。梓先輩は姉を外へ出して、自分が残って火を消した。先生たちも来た。でも、そのあと学校は『電気系統の不具合』にした」
「あなたのお姉さんを守るため?」
僕が訊くと、凪は首を振った。
「学校を守るため」
その即答が、妙に痛かった。
「姉のことなんか、誰も守ってない。だってそのあとも噂は消えなかったから。梓先輩も、何も言わなかった。姉も言えなかった。結局、曖昧なまま残って、姉は助かって、梓先輩だけがずっと変な目で見られた」
そこで初めて、凪の目に涙が浮いた。
「それが嫌だった。ずっと。姉が助かったことに感謝してるのに、助けてくれた人の妹が、何も知らないままここに来るのが嫌だった」
「だから三一一に入れた」
澪が言う。
「写真を置いて、メモを入れて、去年の場所へ導いた」
凪はうなずいた。
「直接言えなかった。言ったら、姉が止めるから」
「止めるだろうね」
澪の声は責めていない。事実として言っていた。
僕はしばらく黙ってから訊いた。
「伊吹に何を渡すつもりだった」
凪はポケットから、昨夜のレコーダーとは別の封筒を出した。
少し古びた茶封筒。表に、倉橋伊吹へ、と書いてある。筆跡は丁寧だった。
「梓先輩の手紙」
凪が言う。
「去年のあと、姉に預けたみたい。『もし妹がここに来ることがあったら渡して』って」
「なんで今まで」
「姉が怖がってた。自分が受け取る資格ないって」
凪は封筒を見下ろす。
「でもそれじゃ、ずっと何も変わらないと思った」
変えようとした結果が、今の混乱だ。
軽率だったし、やり方も悪い。けれど、そこにあった感情だけは一言で切れない。僕は凪を見ながら、自分が今知っている名前をどこまで守るべきか考えた。
「これを公にするつもり?」
僕が訊く。
「分かんない」
凪はかすれた声で言った。
「した方がいいのかもしれないって思った。でも、昨夜伊吹の顔を見たら、違う気もした」
「違うよ」
僕ははっきり言った。
「今ここで全部を人前に出したら、去年と同じになる。誰かを助けるための真実じゃなくて、見物のための真実になる」
凪が目を見開く。
その横で、澪が静かに僕を見ていた。
「でも」
凪の声が揺れる。
「それじゃ、梓先輩は」
「消えたままにしない」
僕は自分でも驚くくらい、迷わず言っていた。
「ただ、渡し先は選ぶ。順番も選ぶ。そうしないと救いにならない」
東屋の外で、集合の笛が鳴った。
午前のプログラムが始まる合図だ。
時間は待ってくれない。だからこそ、今ここで決めるべきことと、決めてはいけないことを分けなければならない。
「凪」
澪が言った。
「伊吹には、あなたから謝って」
凪は涙を拭わずにうなずいた。
「うん」
「そのうえで手紙は渡す。でも、人前じゃない」
「うん」
「部屋割りの件は?」
僕が訊く。
凪は少しのあいだ黙ってから、苦く笑った。
「怒られるんでしょ」
「怒られると思う」
「最悪」
「でも、今ここであなた一人が悪いことにされるのは違う」
僕がそう言うと、凪は意外そうに僕を見た。
「庇うの?」
「庇うんじゃない。順番を直す」
その言葉を口にしたあとで、僕ははっとした。
前の僕は、たぶん『真相を並べる』ことが順番だと思っていた。今の僕が言っている順番は、誰に何を届けるかの順番だ。
同じ言葉なのに、中身が変わっている。
凪と別れたあと、澪が歩きながら言った。
「今の、良かった」
「どれ」
「庇うんじゃない、順番を直す」
「そんなに」
「うん。やっと前の言葉が別の意味になってきた」
それは、少しだけ照れる評価だった。
「澪」
「なに」
「昨日の夜、僕、危うかったと思う」
「どのへんが」
「お前が止めてくれなかったら、凪をその場で追い詰めてたかもしれない」
僕がそう言うと、澪は少しだけ歩幅をゆるめた。
「私も、ごめん」
「え」
「前のあなたの感覚で、まだ見てた。だから『止める側』のまま動いた」
「それは――」
「違った。昨日は、あなたもちゃんと見てた」
澪は前を向いたまま、まっすぐ言う。
「ありがとう。信じてもよかったんだって、分かった」
ありがとう、と澪がこんなふうに言うのを聞くのは、思っていたよりずっと効いた。
僕は少し遅れてから、ようやく返す。
「……こっちこそ」
短い言葉なのに、胸の内側の硬かった場所が少しだけほどけた気がした。




