合宿編 第二章 入れ替わった部屋
部屋割り表は、それだけで空気を悪くする力を持っている。
誰と一緒か。誰が外れたか。なぜその組み合わせなのか。教室の席替えより、もっと露骨だ。逃げ場がないぶん、感情がそのまま反映される。しかも今回は、ここが家から遠い山の上で、逃げようにも逃げ場がない。
ざわめきは、教師が「落ち着け」と声を張ったくらいでは止まらなかった。
「静かにしろ。確認するから」
二年の学年主任が職員から紙を受け取り、眉間に皺を寄せる。眼鏡の位置を指で押し上げてから、すぐに別の教師へ視線を飛ばした。
「学校で配った最終表はどれだ」
「バスに乗る前に配ったやつです」
「こっちと違います」
「いや、自分のところは合ってる」
「女子だけ変じゃない?」
声が飛び交う。
僕は列の後方から全体を見た。違和感は、まだ輪郭のない段階だ。でも、混乱には種類がある。全員が一斉にずれている混乱と、一か所だけが引っかかって全体を騒がせる混乱。今は明らかに後者だった。
「澪」
「分かってる」
小さく呼んだだけで、澪はすでに同じものを見ていた。
「全員じゃない」
「うん。変なのは一か所だけ」
僕らは視線を合わせずにそう言い合った。
女子の列の前の方で、部屋割り表を持ったまま固まっているのは倉橋伊吹だった。肩で切りそろえた髪がきれいな、あまり目立つタイプではない生徒だ。教室ではいつも数人の友人と静かにまとまっていて、前へ出るより観察している時間の方が長い。そういう意味では、澪と少し似ているところがある。
その倉橋が、今は紙を見たまま、顔色を失っていた。
「伊吹?」
隣の女子が声をかける。
「大丈夫?」
「……うん」
大丈夫ではない声だった。
彼女の手元の紙を、別の女子がのぞき込む。
「三一一って、端の部屋じゃん」
「え、なんで伊吹だけそっち?」
「もともと凪と同じ部屋だったよね?」
凪。水瀬凪。快活で声の大きい、クラスの空気をよく回すタイプだ。彼女は逆に三〇二の方の紙を持っていて、半歩だけ前へ出ていた。
「私も分かんないって。こんなの今初めて見たし」
水瀬はそう言ったが、表情は明るくない。茶化して済ませられる状況ではないと分かっている顔だった。
学年主任は数枚の紙を見比べてから、ひとまず全体に向けて言った。
「現地側の部屋割りに、一部入力の齟齬がある。今から照合する。勝手に騒ぐな」
「齟齬じゃなくて、名前が入れ替わってます」
誰かがすぐに言い返した。
「倉橋と水瀬だけ違うんです」
その言い方で、全体の視線が二人へ集まる。
倉橋はますます硬くなった。水瀬は気まずそうに紙を胸の前で折る。
良くない。
これはただの確認ミスでは済まない。もう「誰が入れ替わったか」がクラス全体に共有されてしまった。ここから先は、事実より先に理由が量産される。
「去年の噂と関係あったりして」
後ろの方で、ひそひそ声がした。
「やめなよ」
「だって三一一って、去年――」
「静かに!」
教師の一喝が飛ぶ。けれど一度出た言葉は消えない。音として消えても、聞いた側の頭の中には残る。
僕は舌の奥に、嫌な苦さが広がるのを感じた。
以前の僕なら、この混乱を「謎の入口」と見ていたかもしれない。でも今は違う。入口が開いた瞬間に、誰が巻き込まれているかの方が先に見える。
「雨宮」
澪が、ごく小さな声で言った。
「今の顔、前よりずっとまし」
「褒めてる?」
「半分だけ」
その半分で十分だった。
結局、教師たちはその場で細かな修正まではできなかった。荷物の搬入時間が押していて、施設側の職員も「鍵札も食事表も現在の部屋番号で組んでしまっています」と困った顔をしている。学年主任は不機嫌そうに舌打ちを飲み込み、今日のところは現地配布の部屋割りで入室、夕食後に再確認、と決めた。
それで空気が良くなるはずもない。
「ちょっと待ってください、でも――」
女子の一人が食い下がろうとして、水瀬がその袖を引いた。倉橋は何も言わない。言えない、の方が正しそうだった。
荷物を持って移動が始まる。三階女子棟へ向かう列の中で、倉橋だけが紙の端を折り続けていた。
僕は男子棟へ向かう途中で、一度だけ振り返った。ちょうどその時、倉橋が顔を上げた。目が合う。すぐ逸らされた。けれど、その一瞬だけで十分だった。
怯えている。
部屋替えそのものに、ではない。もっと個人的な、もっと具体的な何かに。
*
男子棟の二〇七号室は、思ったより普通だった。
二段ベッドが二組。窓際に細長い机。古いが掃除はされている。カーテンの色は薄い緑で、どこか病院じみていた。杉浦が早々に上の段を確保し、同室のもう一人がコンセントの位置で騒いでいる横で、僕は荷物を足元へ置いた。
「雨宮、お前どっちのベッド?」
「下でいい」
「助かる。俺、高いとこ苦手だから」
「二段ベッドで今さら言うことか?」
そんなやり取りが、少しだけ普段の教室に近い。
でも、近いだけだ。
窓の外には山の斜面しか見えない。廊下を誰かが走れば、床ごと軋む音がする。校舎の中とは違う閉じ方をした場所だ、と改めて思った。
荷解きを半分だけ済ませたところで、ドアが二度ノックされた。
開けると、澪だった。女子棟から男子棟へ直接来るなよ、と杉浦がからかいかけて、僕の顔を見ると黙ってベッドへ引っ込んだ。そのへんの察しだけはいい。
「少し借りる」
澪はそう言って、僕を廊下へ連れ出した。
男子棟と女子棟の間をつなぐ渡り廊下は、窓が多くて明るい。そのくせ外が曇っているせいで、どこか水の底みたいな光だった。
「倉橋、どうだった」
僕が先に訊くと、澪は「話が早い」とだけ返した。
「三一一って聞いた時、明らかに反応した。偶然にしては大きすぎる」
「部屋番号に覚えがある?」
「たぶんね。あと、同室になった子たちが気を遣いすぎてる。事情を知ってる子が何人かいる」
「去年の噂か」
「そこまで単純じゃないかも」
澪は廊下の窓枠に寄りかかるようにして、声を少し落とした。
「倉橋伊吹のお姉さん、知ってる?」
「いや」
「三年にいた倉橋梓。去年卒業してる」
その名字で、頭の中の何かが小さく動いた。
「同じ部活だったとか?」
「違う。噂の中心にいた方」
僕は息を止めた。
去年の合宿所で、一人いなくなった。三日目の夜。そういうばらばらの噂が、バスの中で飛んでいた。その『中心にいた方』が倉橋の姉。しかも今、妹の伊吹が、問題の部屋番号で顔色を変えた。
「それ、どこまで本当なんだ」
「まだ決めないんでしょ」
澪は平然と返した。
言われて、少しだけ笑うしかなかった。
「そうだったな」
「でも、ひとつだけ言える。あの子をこれ以上、噂の中心に置かない方がいい」
「同感」
即答すると、澪のまつ毛がわずかに揺れた。以前の僕なら、このタイミングで『だから調べよう』と前のめりになっていたはずだ。今の僕が先に出したのは、調査ではなく被害の見積もりだった。その違いに、自分でも少し驚く。
「ねえ、光一」
「なに」
「今回は、手柄を立てる必要ないから」
「分かってる」
「念のため」
「分かってるって」
少しだけ語気が強くなった。澪は気づいたはずなのに、何も言わなかった。
その沈黙に、自分の方が先に肩の力を抜く。
「……悪い。今のは違う」
「うん」
「言われなくても分かってる、って意味じゃなくて。言われたくなかった、の方に近い」
澪は数秒黙ってから、ほんの少しだけ口元を和らげた。
「そういうの、ちゃんと口にするようになったね」
「成長したからな」
「自分で言うんだ」
「たまには」
その返しに、今度は澪がほんの少しだけ笑った。
それだけで、張っていたものが少しほどける。
「ありがとう」
僕が言うと、澪は一瞬だけ目を見開いた。
「いま、ありがとって言った?」
「言った」
「珍しい」
「うるさい」
「じゃあ、こっちも言っとく」
澪は姿勢を直し、いつもの低い声で言った。
「頼るね」
その言葉が、妙に胸に残った。
頼る。任せる、でも、押しつける、でもなく。ちゃんと同じ高さで立っている言い方だった。
「分かった」
僕はうなずく。
「僕は先生側を見る。お前は女子の方を頼む」
「うん」
「あと、もし倉橋が一人になりそうなら――」
「それは私が先に見る」
最後まで言う前に返ってきた。そこが澪らしい。
*
研修施設の一階事務室は、木の匂いより紙の匂いが強かった。
参加名簿、鍵札、食事表、健康申告書。団体が一つ入るたび、紙の束が建物を動かしているのだろう。引き戸の隙間から中をのぞくと、さっき玄関前で頭を下げていた職員が、分厚いファイルを机へ積み上げていた。
「すみません」
声をかけると、男は顔を上げた。五十代くらい。名札には「江波」とある。
「どうした?」
「部屋割りのことなんですけど」
「ああ……君もか」
言い方に、うんざりが滲んでいた。責められている側の疲れ方だ。
「確認したいだけです。今日ここで配った表って、いつ作られたんですか」
「昨夜だよ。学校さんから送られてきた最終名簿で印刷した」
「昨夜」
「二十時過ぎだったかな。遅かったから困ったよ。食札も全部やり直しだ」
僕は表情を変えないようにしながら、その言葉を受け止めた。
昨夜、最終名簿が送られている。つまり現地側の入力ミスではない。少なくとも、今配られた三一一の表記は、元データ通りに処理された結果だ。
「最終名簿って、学校の先生が持ってきたわけじゃなくて?」
「メールだよ。毎年そうしてる」
江波はそこで、はっとしたように口をつぐんだ。
「まあ、そのへんは先生に聞いてくれ。こっちは受け取ったものを印刷しただけだから」
「分かりました。ありがとうございます」
礼を言って引き下がる。これ以上詰めるのは逆効果だ。
廊下へ出たところで、背後の事務室から紙をめくる音がした。その音の乾き方まで、なぜか印象に残る。
階段の踊り場まで来たところで、スマホが震えた。澪からの短いメッセージ。
『三階非常口前』
それだけ。
僕はほとんど反射で足を速めた。
三階の女子棟へは直接入れない。けれど、男女共用の非常口前のホールなら、窓拭き当番表や館内案内図が貼ってあって、少し立ち話をしていても不自然ではない。そこに澪がいて、手には薄い紙片を一枚持っていた。
「早かったね」
「そっちが呼んだんだろ」
「そうだけど」
澪は紙を差し出した。現在の館内案内ではない。角が黄ばんだ、去年のものらしい簡易配置図だった。どうやら掲示板の奥に古い紙が何枚か重なったまま残っていたらしい。
僕は受け取り、目を落とす。
部屋番号の並び。三〇二、三〇三、三〇四。廊下の突き当たりに三一一。赤いボールペンで、そこだけ丸がついている。
そして、その余白に小さく書かれていた名前。
『倉橋 梓』
「……これ」
「掲示板の裏」
澪の声は低い。
「今の子たちが見つける前に抜いておいた」
僕は紙から目を離せなかった。
去年の配置図。三一一。倉橋梓。伊吹の姉。そして赤い丸。偶然で済ませるには、出来すぎている。
「先生たちは知ってると思う?」
「少なくとも、見られたらまずいとは思ってる」
「誰かが残したのか」
「それとも、誰かが気づいてないふりをしてるか」
澪はそこで視線を上げた。
「光一。ここまで来ると、ただの部屋替えじゃない」
「分かってる」
「どうする?」
問いは短い。でも、前とは意味が違う。以前の澪なら、もっと先まで読んだうえで、僕を試すように言っていたかもしれない。今は違う。本当に、同じ盤面を一緒に見ている声音だった。
僕は配置図を二つ折りにして、胸ポケットへしまう。
「まだ、決めない」
自分で言ってから、その続きが必要だと思った。
「でも、これは放っておけない。倉橋のためにも、他のやつらのためにも」
「うん」
「まず、倉橋に直接聞く」
「一人じゃ無理」
「分かってる。お前も来てくれ」
「最初からそのつもり」
即答だった。
その時、廊下の向こうで誰かが床を鳴らして走った。女子の声が二つ重なる。三階の奥――三一一の方角だ。
僕らは同時にそちらを見た。
次の瞬間、甲高い悲鳴が施設全体に響いた。
短く、切り裂くみたいな声だった。
澪が先に動き、僕も一拍遅れて走り出す。悲鳴は一度で止んだのに、その余韻だけが廊下の木目に染みついたみたいに残っていた。
三一一の前には、すでに何人かの女子が集まり始めていた。その輪の外で、倉橋伊吹が壁に手をつき、息をうまく吸えずにいる。床に落ちていたのは、一枚の写真だった。
拾い上げるより先に、表面の一部が見える。
三人の女子生徒。去年の日付。研修センター正面。右端に、倉橋梓。
そして中央にいる一人の顔だけが、黒く塗りつぶされていた。
僕は写真に手を伸ばしかけて、止めた。
今、誰より先にそれを拾うべきかどうか。
たったそれだけの判断に、以前よりずっと多くのものが絡んで見えた。
その一瞬の遅れのあいだに、澪が倉橋の前へ立っていた。誰の視線からも隠すみたいに、半歩だけ前へ。
僕はその背中を見て、胸の奥で何かが静かに定まるのを感じた。
もう、前みたいには戻らない。
そのうえで、考える。そのうえで、選ぶ。写真の角が、廊下の風に小さくめくれた。




