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合宿編 第一章 まだ決めない

山道に入ってから、バスの揺れ方が変わった。

街の舗装された道路では目立たなかった細かな振動が、カーブを折るたび座席の骨組みを通して背中へ伝わってくる。窓の外では、春の終わりにしてはまだ白さを残した空が、低い雲ごと山の稜線に引っかかっていた。天気が崩れる前の、妙に音を吸うような曇り方だった。

車内はうるさい。

前の方では運動部の連中がトランプをしていて、後ろでは誰かがスマホで撮った動画を見せながら笑っている。休み時間の延長みたいな空気だ。校舎がそのまま移動しているだけ、と言ってもいい。教師が一人、何度目かの「騒ぎすぎるな」を投げたが、誰も本気では聞いていない。

僕は窓際の席で、景色ではなく、曇った窓にうっすら映る自分の顔を見ていた。

前の僕なら、こういう移動の時間も、きっと退屈しなかっただろう。合宿。山奥の施設。いつもと違う人間関係。閉じた場所。些細な行き違い。噂。夜。間違いなく、何か起きる条件が揃っている――そういうことを、嬉々として数え上げていたはずだ。

でも、今は違う。

何か起きそうだ、とは思う。むしろ前よりはっきり分かる。人の集まりには継ぎ目があって、継ぎ目は環境が変わるとすぐ浮く。普段は見えない不和も、少しの寝不足と少しの緊張で簡単に顔を出す。考えることをやめたわけじゃない。たぶん逆だ。前より、考えてしまう。

だからこそ、起きない方がいいと思った。

「雨宮」

通路側から声がした。

振り向くと、同じ班の杉浦が、座席の背に肘をかけるようにしてこっちを見ていた。にやにやしている。こういう顔は、だいたい面白半分だ。

「どうした」

「いや、なんかさ。お前こういうの好きそうだなって思って」

「こういうの?」

「山奥の宿泊施設。大人数。夜。ちょっと変な噂。条件そろってるだろ」

やっぱり、と思う。

噂という言葉に、窓の向こうに向けていた意識が少しだけ車内へ戻った。前方の座席から、別の声が割って入る。

「そうそう。去年もなんかあったらしいじゃん、この合宿所」

「おい、それ言うとまた女子が騒ぐぞ」

「いや、マジで。三日目の夜に一人いなくなったとか」

「それ絶対、トイレ行ってただけの話だろ」

笑いが起きる。

けれど、その笑い方にはもう、事件の輪郭に触れる前の無責任さが混ざっていた。人は、正体のないものに一度名前をつけると、それを本当らしく扱い始める。怪談でも、不祥事でも、犯人でも同じだ。

杉浦が、わざとらしく声を潜めた。

「で、どう思う。名探偵」

その呼び方に、少しだけ間が空いた。

以前なら、僕はたぶん得意げに笑っていた。待ってました、とまでは言わなくても、そのからかいを半分は受け取って、自分から事件の輪郭へ歩いていったと思う。

でも僕は、すぐには答えなかった。

窓の外では、杉の林が途切れて、谷側へひらけた斜面が見える。その向こうに、灰色の屋根がひとつ、雲の下に沈むように建っていた。たぶん、あれが目的地だ。

「起きない方がいい」

そう言うと、杉浦は拍子抜けしたように眉を上げた。

「え、なにそれ。優等生みたいなこと言うじゃん」

「優等生でも何でもないよ」

「前のお前なら、もうちょっと嬉しそうだったのに」

その一言は、からかいの延長のはずなのに、不意に正確だった。

僕は返事をしなかった。

杉浦もそれ以上は追ってこず、肩をすくめて前の席へ戻っていく。誰かが菓子を回し始め、また別の場所で笑い声が上がった。車内の空気はすぐ元に戻る。たった今の短いやり取りなんて、最初からなかったみたいに。

「前のお前なら、か」

隣で、低い声がした。

篠宮澪は文庫本を閉じ、しおりを挟んでから顔を上げた。窓側に僕、その隣に澪。乗り込んだ時から、言葉らしい言葉はほとんど交わしていない。黙っていても気まずくならないのは、幼馴染だからというより、これまで黙らなくてはいけない場面をいくつも共有してきたからだろう。

「気にしてる?」

「少しは」

「そう」

それだけ言って、澪はまた窓の外を見た。

慰めるでもなく、否定するでもない。こいつは昔から、そういうところがある。優しさを分かりやすい形では置かない。だけど、突き放しているのとも違う。たぶん、今ここで言葉を増やしても、僕が勝手に自分を説明し始めるだけだと分かっているのだ。

「澪」

「なに」

「去年、ここで何かあったって話、聞いてる?」

「聞いてる」

「早いな」

「あなたより早く、人の話が耳に入るだけ」

相変わらずだ。

「で、どうなんだよ」

「『去年、何かあったらしい』っていう噂だけ。中身は人によって違う。夜中に誰かがいなくなった、備品が壊れた、先生同士が揉めた、施設の裏で火を見た。ばらばら」

「最後だけ妙だな」

「妙だね」

澪はそう言ってから、少しだけ言葉を継ぎ足した。

「でも、ばらばらの噂は、だいたい二種類あるでしょ。本当にばらばらか、ばらばらにしたいか」

その言い方に、僕は思わず笑いそうになった。以前の僕なら、その一文だけで勝手に頭が回り始めていたはずだ。

今も、回る。

去年。火。中身の定まらない噂。誰かが面白がって混ぜたのか、それとも、混ざっている方が都合がいいのか。そこまで考えて、僕は自分で止めた。

先に考えすぎると、見えるものまで見えなくなる。

バスが大きく揺れて、減速した。車内に流れていた笑い声が一段小さくなる。前方のガラス越しに、石造りの門柱が見えた。そこに、古びた金属板で施設名が打ちつけられている。

青岳青少年研修センター。

名前だけ見れば、どこにでもありそうな、味も素っ気もない施設だった。

けれど実際に目の前にすると、建物は思ったより古く、空気まで一段低い位置に沈んでいるように見えた。ロッジ風に見せたかったらしい木造風の外装は、年月で色が抜けている。窓は多いのに、外からだと奥行きが見えない。人が大勢入る建物ほど、外から見た時に沈黙が深く見えることがある。

「嫌な感じ」

澪がぼそりと言った。

「珍しいな。お前がそういう言い方するの」

「建物の話。人の話じゃない」

「分かってる」

分かってはいたが、その言葉を聞いた瞬間、胸の内側に小さな引っかかりが残った。

バスが停まり、空気が一斉に動いた。荷物棚が開く音。立ち上がる音。狭い通路でぶつかり合う声。誰かが「寒っ」と言い、別の誰かが「まだ五月だろ」と笑う。外へ出る前の、どうでもいい言葉の応酬。

その全部を聞きながら、僕は最後にもう一度だけ、施設の窓を見た。

二階の端。カーテンの隙間に、一瞬だけ白いものが揺れた気がした。

手かもしれない、と思った。

けれど次の瞬間には何もない。ただの見間違いだ、と言ってしまえる程度の曖昧さだった。僕は目を細めたまま数秒見ていたが、それ以上の動きはない。

「光一」

澪が席を立ちながら言う。

「なにしてるの」

「いや……」

見間違いだ、と口にしようとして、やめた。

決めるには早い。そういうことが、以前より分かるようになった。

「なんでもない。行こう」

バスを降りると、山の空気は想像していたより冷たかった。

土と木の匂いに混ざって、わずかに焦げたような匂いがした気がしたのは、その時だけだったのかもしれない。

整列しろ、と教師が声を張る。施設の職員らしい初老の男が、玄関前で頭を下げる。班ごとに並べ、荷物を運べ、館内では騒ぐな。そういう説明が始まる直前、列の先頭近くで、短いざわめきが起きた。

「……え?」

「ちょっと待って、これ違わない?」

女子の声だった。

全員の視線が、自然とそちらへ寄る。職員が手にしたクリップボード。配られ始めた部屋割り表。紙を受け取った女子生徒が、隣の友人と見比べるようにして固まっている。

「どうした」

教師が怪訝そうに訊く。

「私たちの部屋、さっき配られた班表と違います」

「違うって、どう違うの」

「三〇二のはずなのに、三一一になってる。それに、メンバーも一人入れ替わってる」

一瞬で、周囲の空気の質が変わった。

ただの事務ミスなら、その場で済む。けれど、人間は集団で寝泊まりする時の『割り振り』に妙に敏感だ。誰と同室か、誰が外れたか、なぜ入れ替わったか。それだけで、小さな波紋はいくらでも広がる。

教師は紙を受け取り、「ああ?」と顔をしかめた。別の生徒も自分の表を見直し始める。あちこちで名前が読み上げられ、違う、同じだ、いやこっちは合ってる、という声が交錯した。

僕はそのざわめきを聞きながら、無意識に一歩だけ前へ出かけた。

その時だった。

「どう思う、名探偵」

さっきと同じ声が、今度は少しだけ本気の色を含んで背後から飛んできた。

僕は立ち止まる。

教師の手元の紙。生徒たちの顔。澪の視線。玄関脇に積まれた未開封の資料封筒。二階の窓。さっき見た白い影。ばらばらの去年の噂。焦げたような匂い。

頭の中で、いくつもの点が線になる手前で止まっていた。

まだ、早い。

僕は振り返らず、ただ短く息を吐いた。

そして、誰に聞かせるともなく――あるいは、誰よりも自分に向けて、小さく言った。

「……まだ、決めない」

澪が、ほんのわずかにこちらを見た。

その目に浮かんだものが驚きだったのか、安堵だったのか、その時の僕にはまだ分からなかった。

ただ、合宿はまだ始まったばかりで、僕らはまだ、この山の上で何が待っているのかを知らなかった。

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