最終話 壊れた先の解答
雨が上がった次の月曜、教室はひどく普通だった。
朝のホームルーム前、担任の大西が小テストの原本を入れた茶封筒を見失って、教卓の上をひっくり返しそうな勢いで慌てていた。クラスの何人かが笑って、何人かが机の中を覗き込んで、それから半分だけ、僕の方を見た。
前だったら、その視線だけで立ち上がっていた。
封筒の角の折れ方。教卓の端に残った白い紙粉。さっきまでそこにあったはずのものが、誰の動きでどこへ紛れたか。そういうことを考えるのは、もう癖みたいなものだったからだ。
けれど、その朝の僕は椅子から動けなかった。
「雨宮、分かりそうか?」
誰かが軽い調子でそう言った。
教室の空気は、悪意があるわけじゃなかった。ただ、これまでの僕を知っているだけだ。こういうとき、僕が目を光らせて「待ってました」と言う人間だったことを。
僕は、机の上の筆箱を見たまま答えた。
「……知らない」
それで終わった。
大西は結局、自分で封筒を見つけた。出席簿のあいだに挟んでいただけだったらしい。教室の後ろで、二、三人が小さく笑った。いつもなら僕も笑えた程度の、つまらない落着だ。
でも、そのつまらなさに、少しだけ救われた。
僕が何もしなくても、終わることはある。
そう思ったら、情けないくらい肩の力が抜けた。
放課後、新聞部の部室にも寄らずに帰ろうとして、僕は図書室の前で足を止めた。
篠宮 澪が、廊下の壁にもたれて待っていたからだ。
「帰るの」
「見れば分かるだろ」
「分かるよ。逃げてる」
言い方がいつも通りで、少しだけ腹が立った。
「逃げて悪いかよ」
「悪いとは言ってない。ただ、今日で終わりにして」
澪はそう言って、抱えていたクリアファイルを僕の胸に押しつけた。
中には、見覚えのある紙が何枚も入っていた。
提出箱から抜かれた申請書の控えの写し。
旧校舎資料室の貸出記録。
保健室の施錠棚から消えた封筒の複写。
花壇から出た鍵の写真。
USBから印刷した会計データの断片。
そして、澪の整った字でまとめられた、簡潔すぎる一覧表。
「……まだやるのか」
「やるよ」
「十一話で全部終わったみたいな顔してたのは、誰だよ」
「光一でしょ」
そう返されて、言葉が詰まった。
澪は壁から背を離した。
「紙は揃ってる。でも、最後に足りないものがある」
「何」
「人の言葉」
僕は顔をしかめた。
「証言なんて、今さら――」
「今さらじゃない。今だから要る」
澪はまっすぐ僕を見た。
「学校は、紙だけだとまだ『誤解かもしれない』『偶然が重なっただけかもしれない』って言える。そうやってまた小さい答えで閉じる」
その言い方が、胸の奥に鈍く刺さった。
小さい答え。
それは十一話の雨の夜から、ずっと僕の中に残っている言葉だった。
「だから、会いに行く」
「誰に」
「あなたが今まで解いてきた相手たちに」
僕は思わず、澪の顔を見返した。
「……最悪だな」
「うん」
「それ、いちばんやりたくないやつだ」
「知ってる」
知っていて言うのだ、この幼馴染は。
僕が今まで何をしてきたかを、一番近くで見てきた人間だからこそ。
「別に、あなたが格好よく謝るためじゃない」
澪は淡々と続けた。
「返すため。あなたが勝手に使ってきたものを」
言い返せなかった。
その日のうちに、僕たちは一年の教室へ行った。
提出箱のとき、箱ごと隠して遅れを誤魔化そうとした男子だ。あのとき僕は、職員室前から用務員室脇までの擦れ跡をたどって見つけて、本人の前で得意げに全部言い当てた。
教室の後ろで声をかけると、彼は明らかに顔をこわばらせた。
「……何ですか、雨宮先輩」
先輩、のところに、距離が入っていた。
「少し、話したいことがある」
「俺、もう何もしてません」
「責めに来たんじゃない」
そう言った瞬間、自分の声がひどく白々しく聞こえた。
責めるつもりがなくても、僕はこれまで人を追い詰めるような話し方を何度もしてきたのだ。
彼は机の縁を握ったまま、警戒を解かなかった。
「また、何か言わせるんですか」
「え?」
「俺が何か言ったら、それで先輩が答え出して、すごいってなるやつ」
胸のどこかが、静かに痛んだ。
派手な罵倒より、ずっと効いた。
「……前は、そうだった」
僕がそう言うと、彼は少しだけ目を見開いた。
「今回は違う。すごいって思われたいわけじゃない。あのとき、職員室前でお前が箱を抱えてるところを見た人がいたか、久慈原に何か言われたか、それだけ知りたい」
彼は黙った。
教室の前では、部活へ行く一年たちが騒いでいる。窓の外はもう夕方の色だった。
長い沈黙のあとで、彼は小さく言った。
「……久慈原先輩は、見てました」
息が止まりそうになった。
「何て?」
「箱を戻そうとしたとき、ちょうど来て。『先生には俺から言っておくから、早く教室戻りな』って」
「それだけ?」
「いや」
彼は唇を湿らせた。
「箱の中、ちょっと見てました。『変なもの入ってるな』って言って、一枚だけ抜いてた。俺、怖くて、何も言えなかったけど」
澪が隣で何も言わず、ただ手帳に書き留めた。
僕はその子に頭を下げた。
それは推理の決め台詞より、ずっと言いにくい一言だった。
「前は、ごめん」
彼は困った顔をした。
「……別に、いいです」
「よくない。でも、話してくれて助かった」
教室を出たあと、澪が歩きながら言った。
「いまの、初めて少しまともだった」
「褒め方が終わってる」
「褒めてはいる」
次に会いに行ったのは、放送委員の女子だった。
昼の放送で恋の告白が流れたあの日、僕は音源の編集と予約設定だけを鮮やかに暴いて、同時刻に生徒会室からUSBが持ち出されたことを、結果的に脇へ押しやった。
放送室の前で声をかけると、彼女は露骨に眉をひそめた。
「また? 私、この前、もう話しましたよね」
「分かってる。今日は、その先のことだ」
「雨宮先輩って、人の顔より結論を見るんですよね」
今日はそういう日らしかった。
でも、たぶんそれは、今日に限った話じゃない。
「その通りだよ」
僕は先に言った。
「前はそうだった。だから、そのせいで話しづらかったなら悪かった」
放送委員の女子は、今度は本当に驚いた顔をした。
澪が隣で、ほんの少しだけ目を細めるのが視界の端に見えた。
「昼の放送の日、生徒会室の前を通ったって言ってたよね」
「……通りました」
「久慈原がいた?」
「いました。というか、私、最初は久慈原先輩に頼まれたんです。昼の前に、放送室の予備キーが足りないか確認してって」
「予備キー?」
「はい。変だなと思って、戻る途中で生徒会室のドアが少し開いてるのが見えて。中で誰かが慌ててるみたいな音がしてた」
「誰か、見た?」
「顔までは。でも、久慈原先輩の声は聞きました。『先に行け』って」
僕は澪と顔を見合わせた。
鍵。
放送。
生徒会室。
ばらばらだったものが、嫌なほどきれいに寄ってくる。
そのあとも、僕たちは何人かに会った。
図書委員。
保健委員。
文化祭の実行委員。
会うたびに、僕は思い知った。
僕のことを「頼れる」と言う人間ばかりじゃなかったことを。
面白がって全部言い当てるやつ。
言い訳の余地を残してくれないやつ。
困っている人を助けているみたいな顔で、結局は自分の気持ちいい形に事件を閉じるやつ。
それが、彼らの見ていた僕だった。
全部が間違いだとは、もう言えなかった。
三人目の聞き取りが終わったころには、喉がひどく乾いていた。
廊下の自販機で紙パックの水を買って、半分ほど一気に飲む。冷たさが胃に落ちる感覚だけが、かろうじて自分の輪郭をつないでくれた。
「やめる?」
澪が訊いた。
「やめた方が楽だろうな」
「うん」
「でも、それじゃまた同じだ」
僕がそう言うと、澪は少しだけ黙った。
「そう」
「その『そう』、今日は妙に重いな」
「光一が軽く言ってないから」
その返事に、笑うほどの余裕はまだなかった。
けれど、前みたいに腹が立つだけでもなかった。
次の日、僕たちは及川 真奈美の力も借りて、まとめた資料と証言のメモを学校へ出した。
相手は副校長、生徒指導部長、新聞部と図書委員会の顧問、それに生徒会顧問。
放課後の会議室は、やけに広く見えた。
テーブルの向こうには、大人が並んでいる。
その端に、久慈原 仁もいた。
呼ばれた理由は「生徒会側の説明のため」だった。
白いシャツの襟元まで、きちんとしていた。穏やかな顔も変わらない。教室で誰かに声をかけるときの、あの柔らかい表情のままだった。
「ずいぶん大ごとになったね」
席に着く前、久慈原は僕にそう言った。
声は低くて、丁寧で、いつも通りだった。
「君らしくていいけど、あまり学校を混乱させない方がいい」
以前の僕なら、その言い方に反発しながらも、どこかで「君らしい」と言われたことに酔っていたかもしれない。
でも、いまは違う。
僕は、椅子を引きながら答えた。
「今回は、僕らしくする気はないです」
久慈原の目が、ほんの一瞬だけ細くなった。
会議は最初、副校長の事務的な声で始まった。
提出された資料の確認。
一年前の旧校舎階段転落事故に関連すると思われる備品申請書、貸出記録、会計データ、鍵の管理記録の不整合。
ここ数か月に校内で起きた一見無関係のトラブルとの共通性。
紙にすると、どれも単独では小さい。
けれど、並べると違った。
澪が一つずつ説明していくたび、会議室の空気が少しずつ固くなるのが分かった。
「提出箱から抜き取られた申請書は、旧校舎第二資料室の鍵管理に関するものです」
「貸出カードが空白になっていた本は、学校史、寄贈記録、旧校舎改修記録に偏っています」
「放送室の件と同時刻に、生徒会室から会計データの入ったUSBが持ち出されています」
「花壇から発見された鍵は、紛失時期の記録と埋設状態が一致しません」
久慈原は、最後まで落ち着いていた。
説明が一段落したところで、静かに口を開いた。
「興味深い指摘ではあります。でも、それぞれはあくまで別件です。結びつけて見えるのは、雨宮くんたちがそう見たいからじゃないかな」
やわらかい口調だった。
それなのに、会議室の温度がわずかに久慈原側へ寄るのが分かった。大人たちは、断定を嫌う。偶然より陰謀を信じる話し方を、最初からは選ばない。
だから、ここで必要だったのは、派手な決め台詞じゃなかった。
僕は自分の前に置いた紙を見た。
そこには、さっきまでの聞き取りで取った短い言葉が並んでいる。
また何かを「見事に解く」ための材料ではなく、今まで置き去りにしてきた人たちの言葉だ。
「僕から、ひとつだけ言います」
自分の声が、思ったより落ち着いていた。
「今までの事件、僕はたしかにそれぞれ解きました。箱を隠した一年生も、放送の予約操作も、体育倉庫の密室も、全部です」
副校長が小さく頷く。
久慈原は黙っている。
「でも、全部、小さい答えでした」
会議室が静かになった。
「誰が何をしたか、その場でいちばん収まりがいい説明だけを出して、僕は満足してた。だから、そのあとに誰が何を回収して、何を消して、何を怖がっていたかを見なかった」
喉の奥が少し熱くなった。
それでも、止まらなかった。
「今回出したいのは、完成した犯人当てじゃないです。学校がずっと選んできたその『収まりのいい説明』を、一度止めてほしいってことです」
副校長が、眼鏡の位置を直した。
「雨宮くん、つまり君は――」
「再調査してください」
今度は澪が言った。
短く、はっきりと。
「事故の真相も、証拠の扱いも、全部です。少なくとも、これだけ記録と証言が揃っていて、『偶然でした』で終わらせるのは不自然です」
久慈原が、そこで初めて少しだけ息をついた。
「証言、というのは」
その合図みたいに、会議室の扉がノックされた。
入ってきたのは、一年の男子と、放送委員の女子だった。
それから、文化祭実行委員の二年の女子も。
及川が外で待機させていたらしい。
久慈原の眉が、本当にわずかに動いた。
大きな変化ではない。けれど、十一話までずっと崩れなかった顔の、その最初のひびだった。
証言は、決して劇的ではなかった。
一年の男子は、提出箱を戻すとき久慈原に呼び止められ、書類を一枚抜かれるのを見たことを話した。
放送委員の女子は、昼放送の日に久慈原から鍵確認を頼まれ、その直後に生徒会室で慌ただしい物音を聞いたことを話した。
文化祭実行委員の女子は、ポスター裏に使われた紙が、本来は生徒会側の回収箱に入っていたコピー用紙だったと証言した。
小さい。
どれも、小さい。
でも、今までみたいにそれぞれを切り離して眺めると見えなくなるものが、並べると見えた。
誰かが、騒ぎのたびに先回りしていた。
誰かが、収まりのいい方向へ、少しずつ物を動かしていた。
そしてその「誰か」の近くに、いつも久慈原がいた。
副校長は、テーブルの上の資料に長く目を落としたあとで、低い声で言った。
「……分かりました。これは校内だけで処理する範囲を超えています」
生徒指導部長が息をのむのが分かった。
久慈原は何も言わない。
「外部を含めた再調査を要請します。生徒会関連資料の保全、旧校舎関連の記録の再確認、当時の関係者への聞き取りも行います。それまで、生徒会副会長の職務は一時停止」
そこで初めて、久慈原が笑った。
穏やかな、きれいな笑い方だった。
「そこまでしますか」
「します」
副校長ははっきり言った。
「少なくとも今この場で、『何もなかった』とは言えない」
久慈原はゆっくり立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る音だけが、妙にはっきり聞こえた。
「雨宮くん」
呼ばれて、僕は顔を上げた。
「君は、最後まで『解く側』でいたかったんだと思ってた」
その声音には、初めて少しだけ本音が混じっていた。
軽い失望にも、諦めにも似た響きだった。
でも僕は、もうその言葉に引っ張られなかった。
「今回は違います」
自分でも驚くくらい、まっすぐ言えた。
「返したかっただけだ」
久慈原は一拍だけ黙って、それから何も言わずに会議室を出ていった。
扉が閉まったあと、誰もすぐには口を開かなかった。
終わったわけじゃない。
たぶん、これでようやく入口だ。
でも、入口まで来たのだということだけは、はっきりしていた。
会議室を出たころには、外はもう暗かった。
雨は降っていなかった。
空気が少しだけ軽くて、何日ぶりかで、ちゃんと息が吸えた気がした。
校舎の裏手の渡り廊下で、僕は立ち止まった。
澪が二歩ほど先で振り返る。
「どうしたの」
「いや」
言葉を選ぶのに、少し時間がかかった。
「……助かった」
澪は目を瞬いた。
その程度で驚くのかよ、と言いたくなるくらい、ほんの少しだけ。
「そう」
「そこ、もう少し何かない?」
「あるけど、先に言う?」
「何」
「私は、優しく救う気は最初からなかった」
言うと思った。
でも、実際に言われるとやっぱり効いた。
澪は手すりに軽く指を置いたまま、前を向いて言った。
「あなたがあのまま、正しい顔で誰かを切り分ける人間になるの、嫌だった」
「うん」
「だから、壊したかった」
「うん」
「でも、壊れたままにする気はなかった」
そこでようやく、彼女はこっちを見た。
「それだけ」
夜の渡り廊下は静かだった。
部活の声も遠い。
僕はしばらく何も言えなかった。
澪が僕を利用していた部分があることも、僕を救おうとしていたことも、たぶん両方本当なのだろう。そのどちらかだけで割り切れるほど、こいつは単純じゃない。
「悪趣味だな」
やっと出た言葉がそれだった。
「知ってる」
「でも、……ありがとう」
澪は、今度こそ少しだけ笑った。
目立たない、いつもの笑い方だった。
それでも、十一話までのどの場面より、ちゃんと温度があった。
「次は」
僕は言った。
「次、もし僕がまた変な方向に行ってたら、もう少し早めに言えよ」
「善処する」
「絶対しない言い方だ、それ」
「光一がちゃんと人の話を聞くなら、たぶん大丈夫」
たぶん、で済ませるなよ、と返しそうになって、やめた。
言い合いの形がいつも通りに戻っていくのが、少しだけ嬉しかったからだ。
一週間後、学校は表向きの静けさを取り戻しかけていた。
久慈原の名前は、校内から急に消えた。生徒会は臨時体制になり、旧校舎関連の立入記録はまとめて回収された。噂はまだある。けれど、前みたいに勝手な面白さだけで増殖する感じではなかった。
いったん立ち止まっている。
それだけでも、今までとは違った。
新聞部の部室で、及川が資料の束をとんとんと揃えながら言った。
「病院、行くんでしょ」
「誰が」
「柏木先輩のところ」
僕は手元のノートを閉じた。
澪は最初から行くつもりだったらしく、窓際で立ち上がるところだった。
「行くよ。報告はした方がいい」
放課後の病院は、学校と違って時間の流れ方が遅かった。
白い廊下。
かすかな消毒液の匂い。
開けた窓から、春の終わりの風が入ってくる。
柏木 栞は、リハビリ室の隣の談話スペースにいた。
思っていたよりずっと細くて、でも目は強かった。
膝に薄い毛布をかけたまま、窓の外の木を見ていた彼女が、僕たちに気づいて顔を上げる。
「雨宮くんと、篠宮さん?」
声は静かで、はっきりしていた。
澪が前に出て、これまでの経緯を簡潔に伝えた。
再調査が始まること。
学校が記録の保全に入ったこと。
久慈原の職務が停止されたこと。
柏木先輩は、話の途中で一度も遮らなかった。
全部聞き終えてから、ふっと息を吐いた。
「そっか」
その一言には、安堵も、疲れも、少しの悔しさも混ざっているように聞こえた。
「ありがとう」
僕は首を振った。
「礼を言われる資格は、まだそんなにないです」
「そういう言い方する人だって、及川から聞いてた」
柏木先輩は少しだけ笑った。
「でも、それでいいよ。前よりは」
前よりは、か。
それくらいが今の僕にはちょうどよかった。
「一つ、返したいものがある」
柏木先輩はそう言って、脇のバッグから黒いノートを取り出した。
大学ノートより少し小さい、表紙の擦れた古い冊子だった。角には何度も開かれた跡がある。
「私が事故の前に調べてたこと、まとめてある」
僕と澪は顔を見合わせた。
「会計のことですか」
澪が訊くと、柏木先輩はゆっくり首を振った。
「ううん。会計は、その入口」
「入口?」
「寄付金の流れを追ってたら、三年前の記録にぶつかったの」
三年前。
その数字が、静かな部屋の中で不自然に響いた。
「西棟の火災」
僕は反射的に言葉を繰り返していた。
その事件の名前は聞いたことがある。
学校の古い設備記録を見たとき、改修工事の項目に一度だけ出てきた。小規模火災。けが人なし。原因は電気系統の不具合。短い記載だったはずだ。
柏木先輩は、僕の顔を見て頷いた。
「表向きはね。でも、あれも変なの。記録の消え方が、今回と少し似てた」
喉の奥で、何かが小さく鳴った。
事件を前にしたときの、あの熱とは少し違う。
前より静かで、重くて、それでも確かに前へ引くものだった。
「私、旧校舎のことだけを追ってたわけじゃないんだ」
柏木先輩はノートを僕たちの前に置いた。
「それに、もう一つ」
最後のページに、付箋が挟まっていた。
そこには、短い一文が書かれていた。
――事故の日、旧校舎にいたのは二人じゃない。
病室の外で、車椅子のタイヤがきしむ音がした。
僕はその文字を見たまま、しばらく動けなかった。
久慈原で終わりじゃない。
旧校舎のあの日で、全部じゃない。
僕たちがようやく辿り着いた答えは、たぶん一番外側の殻にすぎなかったのだ。
「これ、渡してよかったんですか」
やっとのことで訊くと、柏木先輩は窓の外へ視線を戻した。
「よくないかもしれない」
「じゃあ、どうして」
「今度は、ちゃんと誰かのために解いてくれそうだから」
その言葉は、不思議なくらい静かに胸へ入ってきた。
前なら、期待されたことに高揚していたかもしれない。
でもいまは違う。
怖さが先にあった。
次もまた間違えるかもしれないという感覚が、消えずに残っている。
それでも、前に進まない理由にはならないと、もう知っていた。
僕はノートに手を置いて、隣を見た。
澪がこちらを見ている。
試すようでもなく、突き放すようでもなく。
ただ、僕がどんな顔で次の一歩を選ぶかを、静かに待っていた。
たぶん、これから先もずっとそうなのだろう。
僕は小さく息を吸った。
それから、柏木先輩に向かって言った。
「話を聞かせてください」
澪の口元が、ほんの少しだけ動いた。
窓の外では、春の終わりの光がガラスに淡く滲んでいた。
壊れたままでは終わらなかった。
でも、元通りに戻ったわけでもない。
前の僕は、もういない。
その代わりに、間違えることを知ったまま、誰かの痛みを見落とさないように進もうとする僕がいる。
たぶん、それが再生ということなのだと思う。
ノートの黒い表紙は、まだ開かれていない。
その中には、次の謎が眠っている。
学校の外へ続く線。
三年前の火災。
そして、あの日、旧校舎にいた三人目。
僕はもう、「待ってました」とは言わなかった。
その代わり、前より少しだけ静かな熱が、胸の奥で確かに灯っていた。




