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第10話 旧校舎階段の足音

噂は、正しい順番では広がらない。

 誰が聞いたかより先に、何が面白いかで走っていく。しかも学校の中では、足が速い。

 その日の放課後、旧校舎の階段で夜になると足音がするらしい、という話は、五時間目の終わりにはもう完成しかけていた。

 事故のあった場所だからだ。

 その一言がつくだけで、話は勝手に色を変える。

 僕――雨宮光一は、教室の後ろでその噂を聞きながら、いつものみたいにはすぐ立ち上がれなかった。

 頭のどこかに、前日の昼放送のあと味が残っていたからだ。

「また顔してる」

 窓際で鞄を閉めていた篠宮澪が言った。

「どんな顔」

「行きたいけど、行くと嫌なことになるかもって分かってる顔」

「便利だな、その観察眼」

「光一相手にだけ育った」

 教室の前では、すでに噂が二種類に増えていた。

 一つは、『誰もいないはずの階段を上がる足音』。

 もう一つは、『女子の泣き声も聞こえた』。

 後者の方はたぶん、ついでに乗った。

 こういうとき、学校はいつも余計なものを盛る。

「旧校舎のどこ?」

 僕が訊くと、近くにいた男子がすぐ答えた。

「北側の階段。去年、柏木先輩が落ちたとこ」

 それだけで、教室の温度が少し下がる。

 事故。

 そう呼ばれているものの輪郭は、まだ僕の中でも曖昧だった。けれど、曖昧なままでも、人を黙らせるには十分らしい。

「先生も聞いたらしいぞ」

「用務員さんもだって」

「今夜、見に行くやついる?」

 そういう話になりかける前に、僕は立ち上がった。

「見に行く」

 何人かが振り向く。

 いつもなら、そこで少しだけ気持ちが良くなる。

 でも今日は、別の感覚が混じった。

 僕が行く、と言えば、この騒ぎは『雨宮が解いてくれる話』になる。

 その形に、学校の方が僕を押し込めてくる。

「一人で?」

 誰かが訊く。

「まさか」

 僕は澪を見る。

「当然ついてくるだろ」

「断ったら?」

「その場合は、お前があとで一番文句を言う」

「正解」

 澪は淡々と言って、肩に鞄をかけた。

 旧校舎は、授業で使う教室がいくつか残っているだけで、夕方以降はほとんど人が寄りつかない。北側階段に近づくにつれて、廊下の音が薄くなっていく。

 冬に向かう途中の乾いた匂いがした。

 階段前には、すでに三人いた。用務員の佐伯さん、美術教師の鷺沢恒太郎、それから生徒会副会長の久慈原仁。

「雨宮くん」

 久慈原が、相変わらず感じのいい笑顔で手を上げた。

「助かるよ。こういうの、君は詳しいだろう?」

 その言い方が、少しだけ癪に障った。

 詳しい、で片づく話ではない気がしていたからだ。

「いつから鳴ってるんです」

 僕は階段の方を見る。

 手すりは古く、踏み板の角は少し丸く摩耗している。去年の事故以来、踊り場の窓だけ新しくなったと聞いた。

「先週くらいからかな」

 鷺沢が答えた。

「最初は誰かが上り下りしてるのかと思ったんだけど、見ても誰もいない。しかも、決まって人のいない時間に鳴る」

「何時ごろ?」

「放課後から、七時くらいまでの間」

「毎日?」

「少なくとも、三回は確認した」

 用務員の佐伯さんが腕を組んだまま頷く。

「昨日も、施錠前に聞いた。下から上へ、こつ、こつ、と上がっていく感じだった」

 感じ。

 音の話で、その言い方は大事だ。

 人は、意味の分からない音を聞くと、いちばん分かりやすい形に訳してしまう。

 足音、泣き声、気配。

 僕は踊り場に立ち、窓枠、手すり、壁の継ぎ目、踏み板のたわみを順に見た。

「夜まで待つの?」

 澪が言う。

「その前に、昼のうちに見られるものは全部見る」

「めずらしい。今日は最初から真面目」

「いつも真面目だって言ってるだろ」

「そういう意味じゃない」

 彼女は階段ではなく、踊り場の先――施錠された資料室の方を見ていた。

 その視線に気づいたけれど、今は拾わなかった。

 僕は階段の一段目に足をかけ、体重をかける。軋みは弱い。三段目、五段目。音の出方に規則はない。

 窓を開けてみる。風は細いが、入ってくる。窓枠が鳴るほどではない。

 手すりを軽く叩く。金属の芯に鈍い共鳴がある。

 しかしそれだけで『下から上へ上がる足音』にはならない。

 まず一つ目の見立てを捨てる。

 単純な老朽化ではない。

「雨宮くん、どう?」

 久慈原が柔らかく尋ねる。

「まだ何とも」

「そっか。でも、変な噂は早めに止めたいんだ。去年のこともあるし」

 去年のこと。

 事故のことだ。

 その言い回しが、妙に便利に聞こえた。

「噂を止めたいのは、分かります」

 僕は言った。

「でも、音がしているなら、理由はちゃんと調べるべきです」

 久慈原は少しだけ目を丸くして、それから笑った。

「うん。だから、君を待ってた」

 褒められているはずなのに、胸の内側に砂が入ったみたいな気分になる。

 僕はそれを無視して、校舎の外側へ回った。

 北側階段の壁の向こうは、理科準備室と配管の通る狭い空間になっている。去年の事故後に窓を替えたなら、どこかの接合も変わっているかもしれない。

 佐伯さんに頼んで点検用の扉を開けてもらうと、古い鉄管が何本も走っていた。触ると一本だけ、わずかに震えている。

「暖房の系統?」

「いや、古い排水も混ざってる」

 佐伯さんが言う。

「理科室の洗い場を一斉に使うと、この辺はたまに鳴るよ」

 それだ、と一瞬思った。

 けれど、すぐには乗らなかった。

 理科室の水音だけなら、下から上へ『上がる』ようには聞こえない。

 それに、噂になったのは放課後から夜だ。授業中の雑音とは時間がずれる。

 僕らは一度、理科準備室の排水を流してもらい、階段で聞き比べた。

 ご、と低い振動が壁の中を走る。

 悪くない。

 でも違う。

 音が太すぎる。

「外した?」

 澪が訊く。

「半分は」

「残り半分は?」

「まだ使う」

 つまり、配管だけではない。

 何か別のものが共鳴して、意味のある音に変わっている。

 そのとき、鷺沢が階段の手すりに体重を預けた。

 かたん、と一段先で乾いた音が鳴った。

 僕は反射的に顔を上げた。

 いまの音だ。

 完全ではないが、近い。

「もう一回」

「え?」

「今の、もう一回お願いします」

 鷺沢が不思議そうに同じ位置へ手をかける。少し強く押すと、手すりの支柱が順番にきしむように鳴った。

 下から上へ。

 いや、正確には違う。

 階段下の配管が震え、その振動が緩んだ支柱を遅れて揺らしている。だから、音だけが上へ走っていく。

 僕は手すりの根元を一つずつ押してみた。三本目、五本目、七本目だけ、わずかに遊びがある。

 そこへ、壁の中の低い振動が重なる。

 すると、こつ、こつ、こつ、と、人が一段ずつ上がるのによく似たリズムになった。

「見えた」

 口に出した瞬間、自分の声が少しだけ弾んだのが分かった。

 その感覚はまだ残っていた。

 謎が、形になる瞬間の熱だ。

 でもそれと同時に、前回の倉持由奈の顔も頭に浮かんだ。

 僕はそこで、無理に一歩止まった。

「光一」

 澪が言う。

「何」

「今ので終わらせるの?」

 核心に近い聞き方だった。

 僕はすぐに答えられなかった。

 足音の正体は、たぶんこれで説明できる。説明できるなら、教師も生徒会も安心するだろう。噂も鎮まる。

 でも、それは『ここで終わりにしていい』と同じ意味なのか。

「終わらせるんじゃない」

 前にも似たことを言った気がした。

 その記憶が、今度は少しだけ苦かった。

「少なくとも、音の理由は出す」

 澪は僕を見た。

「そう」

 それ以上は言わない。

 沈黙のままの了承ではなく、たぶん保留だった。

 日が落ちる前に、僕は同じ現象をもう一度再現した。理科準備室側で排水を流し、階段の手すりに力をかける。すると、例の『上へ向かう足音』が、かなりの精度で鳴る。

 佐伯さんが感心したように息をついた。

「なるほどなあ」

 鷺沢も手すりを見下ろす。

「窓を替えたときに、微妙に歪んだのかもね」

 久慈原は、露骨に安堵した顔をした。

「助かった。これで、変な話は広がらずに済む」

 その一言に、僕の胸の奥で何かがひっかかった。

 助かった。

 誰が。

 けれど、その問いは、うまく声にならなかった。

 結果として、教師たちは『幽霊騒ぎではなく設備の問題』として処理を決めた。手すりは翌朝、まとめて点検する。旧校舎の北側階段は、一時的に立入制限。

 それが妥当だ、と頭では分かる。

 分かるのに、うまく飲み込めない。

 廊下を戻る途中、澪の姿が見えないことに気づいた。

「篠宮は?」

 僕が訊くと、佐伯さんが首を傾げた。

「さっき、二階の方に行かなかったか」

 二階。

 資料室と、去年の事故現場に近い側だ。

 僕は引き返しかけて、そこで立ち止まった。

 いま僕がやるべきことは何だ。

 さっき自分で『音の理由は出す』と言ったばかりだ。まだ教師に細かい説明も残っている。中途半端に離れれば、また噂が一人歩きする。

 その理屈で、自分をその場に縫いとめた。

 説明を終えて外へ出ると、空はもう灰色に沈んでいた。

 昇降口で靴を履き替えていると、旧校舎の方から澪が戻ってきた。

 制服の袖に、うっすら白い粉がついている。

「どこ行ってた」

「二階」

「見れば分かる」

「じゃあ聞かなくていいでしょ」

「よくない。何してた」

 澪は少しだけ間を置いた。

「光一が『足音の正体』を説明してる間に、消えるものがあるか見てた」

 胸が、嫌な速さで打った。

「何か消えたのか」

「まだ」

「まだ?」

「でも、明日には消えるかも」

 それだけでは意味が足りない。

 なのに、彼女はそれ以上を言わない。

「ちゃんと言えよ」

「今の光一に言っても、たぶん半分しか届かない」

 苛立ちが先に立つ。

「何だそれ」

「窮地にいる人って、自分がどこまで追い込まれてるか、案外ちゃんと見えないから」

 その言葉だけが、妙にくっきり残った。

 帰り道、僕は一人で旧校舎の窓を見上げた。

 北側階段の踊り場の灯りは、もう消えている。

 音の正体は説明した。

 教師も納得した。

 噂もじきに消える。

 いつもの僕なら、それで充分なはずだった。

 なのに今は、その『充分』が、誰かに都合よく切り取られた大きさにしか思えない。

 翌朝、旧校舎の北側階段には黄色い立入禁止テープが張られていた。

 手すりの点検と補修のため、しばらく閉鎖。

 掲示を見た瞬間、胸の奥が冷たく沈んだ。

 あの場所は、これでしばらく触れなくなる。

 資料室も、事故現場に近い踊り場も、まとめて『設備点検』の中に埋まる。

「早かったね」

 背後から声がして、振り向くと、及川真奈美がいた。

 彼女はテープの向こうを見たまま、言った。

「無害だって証明してくれて、ありがとう」

 皮肉なのに、声音は静かだった。

「あれは実際、設備の問題でした」

「うん。音はね」

 それだけで、言いたいことは十分伝わった。

 僕は返す言葉を探したが、見つからない。

「昨日、二階の窓際に落ちてた紙片、今朝はなかったよ」

 及川が続ける。

「篠宮さん、先に見つけてたみたいだけど」

 紙片。

 僕は何も見ていない。

 見ていたのは、足音の理屈だけだ。

「君、ちゃんと解いてるよ」

 及川は僕を見た。

「でも、そのたびに、誰かがその先を片づける時間をもらってる」

 昨日の昼放送のUSB。

 今日の階段の紙片。

 別々の話だと言い切るには、もう少し無理がある。

 なのに僕は、まだ決定的に掴めていない。

「光一」

 その声で振り向くと、少し離れた廊下の角に澪がいた。

 こちらを見ている顔は、いつもよりわずかに硬い。

「今日から、たぶん早いよ」

「何が」

「向こうが片づける速度」

「だから、ちゃんと説明しろよ」

「してる」

 澪は短く言った。

「でも、光一がまだ、自分の成功を捨てきれてないだけ」

 喉の奥が熱くなった。

「成功じゃない。僕は事実を」

「そう。事実は出した」

 彼女はそこで少しだけ目を伏せた。

「でも、そのたびに大きい方が埋まっていくなら、それはもう、窮地だよ」

 僕はそこで初めて、自分が今まで立っていた場所の形を、少しだけ見誤っていたのかもしれないと思った。

 解けることは、武器だ。

 そう信じてきた。

 でも武器は、持っているだけで向きが決まるわけじゃない。

 誰かに握られれば、簡単に別の方を向く。

 階段の向こうで、点検の金属音が鳴った。

 こつ、と一つ。

 昨日までなら、その音の仕組みを説明できることに満足していたはずなのに、いまは違う。

 あの音が、閉じる音に聞こえた。

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