第1話 消えた提出箱
提出物の回収箱が消えた、と最初に騒ぎ出したのは、二年三組の学級委員だった。
四月。始業式から三日目の朝。まだ新しいクラスの空気が机の角や廊下の曲がり角に引っかかっていて、誰もが自分の席と居場所を半分ずつ探しているような時期だ。そんな落ち着かない朝に、職員室前だけが妙にざわついていた。
「ないんです。さっきまで、ここにあったんですって!」
半泣きの顔で床を指さしているのは、うちのクラスの学級委員、高瀬だった。壁際には青いプラスチック箱が三つ並んでいるはずだったが、そのうち二年三組のラベルが貼られた一箱だけが、きれいに消えている。
中に入っていたのは、新学期の提出物一式だ。部活動届、保護者連絡票、健康カード、委員会希望票。なくなって困らない生徒はいても、見つからなくて助かる教師は一人もいない。
「朝のホームルーム前に、私がたしかにここへ置いたの。先生にも見せたし、そのあと教室へ戻って――次に来たら、なくなってて」
担任が額に手を当てる。周囲の教師も顔をしかめ、生徒たちは面白半分、不安半分の顔で遠巻きに成り行きを見ていた。
そして、そういうざわめきの中に「これは謎だ」と判断できるだけの形があると、僕はだいたい嬉しくなる。
「待ってました」
口をついて出た言葉に、近くにいた何人かが振り向いた。
僕――雨宮 光一は、鞄を肩に掛けたまま人垣を抜けた。こういうとき、教室へ戻って何事もなかった顔で一限目を待てるほど、できた性格はしていない。
「新学期一発目から、学校ってやつは僕を退屈させないな」
「提出物を出してる側は、退屈とか言ってる場合じゃないと思うけど」
後ろから、平坦な声が飛んできた。
篠宮 澪。僕の幼馴染で、同じ二年三組。図書委員で、余計な感情を表に出さない女だ。僕が前のめりになるほど、あいつは温度の低い声になる。
「それはそれ。これはこれだよ」
「便利な区切り方」
そう言いながらも、澪は僕の隣まで来た。興味がないように見えて、僕が首を突っ込む場面ではだいたい近くにいる。止めたいのか、見物したいのか、いまだによく分からない。
僕は高瀬に向き直った。
「最後に箱を見たのは八時十分くらい?」
「うん。たぶん、そのくらい」
「置いたあと、誰か職員室前で立ち止まってた?」
「先生は何人かいたけど、生徒は……あ、二年一組の委員の子と、保健室の先生。あと久慈原先輩が職員室に入っていったのを見た」
久慈原。生徒会副会長の名前だ。教師受けの良い、感じのいい三年生。ここでその名前が出るのを、僕はひとまず頭の端に留めた。
「なるほど」
僕は箱があった床にしゃがみ込んだ。うっすら四角い跡がある。その左端に、細い擦れ。持ち上げたというより、いったん横へずらしてから運んだ痕跡だ。床のワックスの薄い膜が、箱の角で引かれて白く曇っている。
「どう? もう見えてきた?」
澪が、からかいとも本気ともつかない調子で言う。
「見えてきた、というより、最初から候補は少ない」
「まだ三十秒くらいだけど」
「三十秒あれば十分だよ。少なくとも、これは盗難でも嫌がらせでもない」
僕が立ち上がると、高瀬が目を丸くした。
「そうなの?」
「もし本気で困らせたいなら、箱ごと消すより中身をばら撒くか、ほかのクラスの箱も触るはずだ。なくなってるのは二年三組の分だけ。犯人が欲しかったのは箱そのものじゃなくて、中にある何か一つだよ」
「何か一つ……」
「それを、先生たちに見られる前に抜き取る必要があった。だから箱ごと動かした」
担任が腕を組む。
「だとして、まだ校内にあるってことか?」
「あります。たぶん、かなり近くに」
僕は職員室前の廊下を見渡した。ここから遠くへ運べば、それだけ見つかる危険が増える。しかも朝のこの時間だ。廊下は教師も生徒も多い。箱を抱えて長距離を移動する理由はない。
「近くて、人目が少なくて、鍵がかかってなくて、すぐ戻せる場所」
「……ある?」
「あります。三つ、いや四つくらい」
そう言って僕は歩き出した。澪も無言でついてくる。背後で担任が「見つかったらすぐ呼べよ」と言った。もちろん、そのつもりだ。
最初の候補は、職員室の角を曲がった先にある防火シャッター脇のくぼみだった。ふだんなら折りたたみ椅子や掲示用パネルが立てかけてあって、人の視線が滑りやすい。箱を一時的に押し込むなら悪くない。
だが、覗き込んだ僕はすぐに首を振った。
「ない?」
澪が訊く。
「いや、それだけじゃない。今朝ここ、誰も触ってない」
床の隅にたまったほこりが、パネルの脚の形そのままに残っている。何かをどけて箱を押し込んだなら、ほこりの線が必ず途切れるはずだ。
「じゃあ次」
澪は淡々と言う。
「切り替えが早いな」
「見込み違いで得意げな顔をしてるの、ちょっと面白いから」
「性格が悪い」
二つ目は階段下の清掃用具入れだった。だが扉に手を掛けたところで、中から用務員の沓沢さんが顔を出した。
「あれ。どうした、雨宮」
「二年三組の提出箱、ここにありませんでした?」
「箱? いや。今朝はずっとここでモップの柄を直してたぞ」
足元を見ると、たしかに床には拭きたての細い水の筋が残っている。もし誰かが箱を抱えて入っていれば、跡が途切れるはずだ。だが筋は扉の前できれいにつながっていた。
「ここも外れ」
「二連敗だね」
「まだ試合は始まったばかりだよ」
「野球みたいに言わなくていい」
三つ目は印刷室の脇だ。コピー用紙の束や不要になった段ボールが積まれていて、ちょっとした荷物なら紛れ込ませやすい。だが印刷室の前には、学年だよりを刷っていた国語教師がずっと立っていた。
「青い箱? 見てないわよ。そんな目立つもの運んでたら分かるわ」
こちらも不発だった。
候補を三つ続けて外したあたりで、さすがに僕も立ち止まった。自信満々に「近くにある」と言った手前、ここで見失うのは格好がつかない。だが、格好がつかないことより気に食わないのは、筋が通っているはずの推理が現実に追いついていないことだ。
澪が僕の顔を覗き込んだ。
「迷子?」
「違う。修正中」
「それを迷子って言うんだよ」
「言わない」
僕はもう一度、職員室前の床を見た。擦れた線。箱の左端がいったん横にずれ、それから持ち上がっている。つまり犯人は、最初に箱を抱え直すために足元の向きを変えた。咄嗟にやった動きだ。なら、最初から綿密に隠し場所を決めていたわけじゃない。見つからない場所ではなく、その場で一番自然に運べる場所を選んだはずだ。
「……そうか」
「見えてきた?」
「今度は本当に」
僕は廊下の景色を、隠し場所ではなく“運んでいて不自然に見えないもの”として見直した。台車。ワゴン。配布棚。もともと荷物があって、箱を一つ増やしても違和感が薄いもの。
その瞬間、視界の端に入ったのは、掲示用ポスターを運ぶための金属製ワゴンだった。職員室と印刷室の中間、壁際に寄せられている。上段には筒状に丸めたポスター、下段には文化祭用の古いパネル布。朝は誰も見向きもしない、半分備品、半分風景みたいな存在だ。
「澪、あれ」
「うん。さっきから気になってた」
「先に言えよ」
「光一が気づいた顔するの、わりと好きだから」
「性格が悪いな」
ワゴンに駆け寄り、下段の布を持ち上げる。青いプラスチックの角が、あっさり顔を出した。
「ビンゴ」
僕は箱を引き出した。重さはほとんど変わらない。中身は一見そのままだ。ゴムで束ねられた書類の山が、少しだけ斜めになっているだけ。
高瀬が本気で安堵した声を出す。
「よかった……!」
担任も肩を抜いた。
「全部あるか、確認できるか?」
「う、うん。ええと、部活動届、健康カード、保護者連絡票……」
高瀬は慌てて数え始める。僕はその横で、箱の中身ではなく、箱の縁と底を見た。底には薄い赤い粉がほんのわずかに残っている。インクというより、複写式の用紙を急いで剥がしたときに落ちる、あの乾いた色だ。
さらに、内側の隙間に小さな紙片が挟まっていた。白い厚紙で、端に赤い公印のかすれがある。
澪もそれを見て、目だけで僕に合図した。
僕は紙片を抜き取り、指先でしごいた。普通のプリント用紙より厚い。役所っぽい、あるいは学校の事務書類っぽい紙質だ。
「どういうこと?」
高瀬が顔を上げる。
「書類は、たぶん大きく減ってない」
「え?」
「犯人が欲しかったのは、生徒が出した提出物じゃない。箱の中に紛れ込んだ、別の一枚だ」
廊下にいた連中の空気が、また少し張る。
「提出箱を隠した目的は、持ち逃げじゃない。一分でも二分でもいいから、誰にも見られない場所で箱の中身を探ることだった。しかも欲しかったのは、複写式の、赤い公印が押された厚手の書類」
担任が眉を寄せた。
「そんなものが、なんで提出箱に入る」
「そこですよ」
僕は、紙片を軽く振って見せた。
「普通の生徒が、こんな紙を持ち歩くことはまずない。持っていたとしたら、先生に頼まれたか、生徒会の雑務をしていたか、そのへんです」
そこで僕は高瀬の手元を見た。彼女は見つかった箱に安堵している――ように見える。だが、その指先はまだ緊張で固まったままだった。左手の親指には、ごく薄く赤い複写インクが残っている。
僕は一歩、彼女の方へ向いた。
「高瀬。今朝、これを置きに来る前に、別の書類も運んでたよな」
「……え?」
「先生にも見せた、って言ったとき、箱だけを見せたならその言い方は少し変なんだよ。『置いてきた』で足りる。わざわざ『先生にも見せた』と言ったのは、先生に何か別件で声を掛けていたからだ」
「それは……」
「それに、その親指。複写用紙の赤だ。部活動届や健康カードでそんな色はつかない」
周囲の視線がいっせいに高瀬へ向く。高瀬の喉が小さく鳴った。
「つまり、こうだ」
僕は自分でも少し芝居がかっていると思いながら、構図を言葉にした。こういう瞬間が、たまらなく好きだ。
「高瀬は今朝、クラスの提出箱を職員室前へ運ぶついでに、別口の書類も持っていた。たぶん生徒会か、職員室から頼まれた何かだ。その途中で、一枚だけ箱の中へ紛れ込ませた」
「……」
「置いたあとで気づいたけど、職員室前でいきなり箱を漁るのは不自然だ。しかも先生に見られたらまずい種類の紙だった。だから人目が少し外れた隙に箱ごと持ち出して、このワゴンに隠し、目的の一枚だけ抜いてから、何食わぬ顔で“箱が消えた”と騒いだ」
高瀬の肩が、目に見えて落ちた。
図星だ。
担任が低い声で言う。
「高瀬。本当か」
高瀬はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……ごめんなさい」
ざわめきが広がる。
「朝、生徒会室に寄ったんです。副会長の久慈原先輩に、事務室へ持っていく控えを一枚だけ頼まれてて。提出箱と一緒に持ってたら、途中でたぶん混ざって……」
「どんな書類だ」
担任の問いに、高瀬はさらに声を小さくした。
「旧校舎の、備品移送申請書の控えです。まだ決裁前だから、生徒に見せるなって言われてて……」
その場のほとんどは意味が分からない、という顔をした。僕も、書類の名前そのものには大した引っかかりを覚えなかった。旧校舎からどこかへ机や楽器でも移すのだろう、くらいの認識だ。
けれど澪だけは、ほんの少しだけ目を細めた。
「だから、箱ごと」
僕が確認すると、高瀬はまた頷く。
「先生がすぐ中身を見るかもしれないって思って。紙だけ抜こうとしたら束が崩れそうで……いったん持っていって、ここならすぐ戻せると思って……でも、戻す前に人が増えて、私も言い出せなくなって……」
そこまで言って、高瀬は完全にしおれた。
担任は長く息を吐いた。
「馬鹿だな……いや、まあ、気持ちは分からんでもないが」
「ほんとに、すみません……」
「提出物が無事だったからよかったものの、先に相談しろ」
周囲の緊張がほどける。悪意のある盗難ではなく、雑務が重なった末の拙いやらかしだと分かれば、騒ぎの熱は少し下がる。だが、その一件を“ただのドジ”として片づけるには、高瀬の顔色はまだ悪かった。
そこへ、ちょうど職員室の方から、背の高い男子生徒が歩いてきた。見覚えのある穏やかな顔。久慈原 仁、生徒会副会長だ。
「見つかったみたいだね」
声まで穏やかだった。
「久慈原先輩……」
高瀬がほとんど泣きそうな顔になる。
久慈原は状況を一目見て、おおよそを理解したらしい。困ったように笑ってから、担任へ軽く頭を下げた。
「すみません。僕が高瀬さんに、ついでだからと頼んでしまったんです。備品移送の控え、こちらで回収します」
そう言って彼は、僕の持っていた紙片にちらりと目を落とした。ほんの一瞬だったが、その視線の速さは妙に印象に残った。
「助かったよ、雨宮くん。混乱が広がる前でよかった」
名前を知っていることにも少し驚いたが、それより「助かった」と言われるのは悪い気がしない。
「いえ。まあ、こういうのは専門なんで」
「頼もしいな」
久慈原は柔らかく笑った。いかにも感じがいい。教師が信頼するのも分かる顔だ。
その場はそれで収まった。高瀬は担任に連れられて職員室へ行き、久慈原も一緒に入っていく。廊下に残った生徒たちは、盗難未遂だの怪事件だのと膨らませていた期待を、少しだけしぼませながら教室へ戻り始めた。
僕はといえば、もちろん機嫌がよかった。
最初の見立ては当たっていた。箱は近くにあり、狙いは中の一枚だけ。途中で候補を外して少し遠回りはしたものの、筋道を組み替えて、ちゃんと答えへ辿り着いた。皆がぼんやり不安になっていた場所に、自分が一本線を引いた感覚。あれが好きなのだ。たぶん、かなり。
教室へ戻る途中、澪が僕の隣に並んだ。
「楽しかった?」
「かなり」
「三回外したのに?」
「試行錯誤は推理の味だよ」
「便利な言い換え」
「修正力と言ってほしいね」
「調子に乗ってるときだけ、語彙が増えるよね」
僕は笑った。否定はしない。
「でも、今回のは悪くなかっただろ」
「箱を見つけたところまではね」
「そこから先もよかったよ。高瀬が騒ぎを作った理由まで通したんだから」
「うん。そこも、たぶん合ってる」
「たぶん?」
澪は答えず、僕の手に残っていた小さな紙片を見た。
「それ、捨てないの」
「こんなの?」
「赤い印のところ」
「ただの控えの切れ端だろ。高瀬が抜いたときに引っかかったんじゃないか」
「そうかもね」
澪はそう言って、それでも紙片を僕の手から抜き取った。
「いるなら持ってれば?」
「別に欲しいわけじゃないけど」
そう言いながら、澪はそれをノートに挟んだ。興味がないなら捨てればいいのに、と思ったが、口には出さない。こいつは昔から、僕が見ない場所のものを黙って拾う癖がある。
階段を上がりながら、僕はもう次のことを考えていた。今日はもう何も起こらないだろうか。起こるなら、できればもう少し骨のあるやつがいい。今回は悪くなかったが、正直、序の口だ。提出箱の移動は舞台装置としては悪くないにしても、仕掛けとしてはまだ軽い。
「ねえ、光一」
「何」
「あなた、たぶんそのうち、すごく痛い目見るよ」
「唐突だな」
「そういう顔してるから」
「どんな顔だよ」
「解けることが嬉しくて仕方ない顔」
僕は少しだけ笑った。
「それの何が悪い」
澪は答えなかった。
ただ、踊り場の窓から差し込む朝の光の中で、ノートに挟んだままの紙片を一度だけ見下ろした。その横顔は、高瀬の失敗を面白がっているようには見えなかった。
そのときの僕は、もちろん気にしなかった。
だって、あれはただの紙切れだったからだ。少なくとも、僕にはそう見えた。




