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「ここ、迎賓室で間違いないわよね……」


 思わずつぶやいた言葉は、甘い香りに溶けて消えた。


 普段は重厚な家具と深緑のカーテンが並び、静謐な空気に包まれているはずのその部屋は、妙に艶っぽい空間に塗り替えられていた。


 天井の魔導灯には薄い布がかけられ、淡いピンク色に調光された光が柔らかく拡散している。


 部屋の中央には低いテーブルが置かれ、その上には果物、花、煌びやかな瓶がずらりと並び、氷で満たされた銀の桶が鎮座していた。


 壁際には王宮の給仕係たちが、いつもの白い制服ではなく揃いの黒い礼服を着て姿勢よく直立している。彼らの前には透明なグラスが何段にも積み上げられ、光を受けてキラキラと輝いていた。


「アーシャ……なんだ、これは……」

「わたしが聞きたいわよ」


 ソファーにはコウキ陛下がゆったりと腰掛け、その隣にはマルグリット王女が寄り添うように座っていた。


「コウキ様、今宵の星は特別美しいそうですわ」

「星? いやいや姫、俺の視界で一番輝いているのは、目の前の君だよ」

「コウキ様はいつもそんな風に女性を口説いていらっしゃるの?」

「俺がこういうこと言うのは……姫だけ。今夜の俺は、君のためだけに生きてるから」

「まぁ、酔っていらっしゃるのね」

「ああ。酔ってる……君に、ね」

「コウキ様、わたくし……」

「しー……。何も言わないで、姫。君の鼓動、ちゃんと俺の心に届いてる。……その手、預けて? 今夜は俺が全部受け止めるから」


 マルグリット王女がそっと手を差し出すと、コウキ陛下はそれを包み、指先に唇を寄せた。王女は頬を赤らめ「ほぅ……」と息を吐く。


「……アナスタシア嬢。あの皇帝は殿下に対して、その……近すぎないか?」


 フォートグレン副団長はこめかみをピクリと痙攣させながら、低い声でつぶやいた。


「この人、本当に気づいてないのかしら」


 わたしがぼそりとつぶやくと、コウキ陛下がこちらを振り返り軽く手招きをした。促されるまま、ヴィンセントとわたしは向かいの席に腰を下ろした。


「ま、こんな感じで人の話を聞いて、その心を拾い上げるのが俺の仕事なんだよねぇ。その想いを全部すくって相手を主役に変える。それがナンバーワン(皇帝)の役目だからさ」

「臣民の声にそこまで重きを置いていらっしゃるなんて……。感銘を受けましたわ」


 マルグリット王女がうっとりと目を細めると、コウキ陛下はまるで計算されたかのような絶妙な角度で顔を傾け、慣れた調子で身の上話を語り始めた。


「あと二年で積み立て終わるからさ、それまでは踏ん張んないとね。夢叶えるまでは……俺、止まれないんだよね」

「まあ! お若いのに、退位なさいますの!?」

「まぁね。俺、ガキの頃に両親死んじゃってさ、妹と一緒に祖母(ばあ)ちゃんに育ててもらったんだよ」

「皇太后様に……」


 コウキ陛下は眉をわずかに下げ、どこか見せるために整えられたかのような、寂しげな笑みを浮かべた。


「祖母ちゃんが倒れちゃってさ。大学も辞めて、がむしゃらに働いたんだよね。正直、甘くはなかったよ? でも、気づいたら皆が俺のこと皇帝って認めてくれててさ。努力してきてよかったって、本気で思えたんだよね」


 コウキ陛下の言葉が落ちると、周囲に漂っていた軽やかな空気が変わり、誰もすぐには言葉を返せなかった。


「今は祖母ちゃんも元気に畑出てるし、妹も無事に嫁に出したしさ、もう俺の家族は大丈夫なんだよね。だから次は俺の番。俺の人生、第二章スタートって感じ?」

「皇太后さま御自ら農作業を……!? なんとご謙虚で慈しみに満ちたご一族……。コウキ陛下のご治世は、まさに民草の心に寄り添う真の王道ですわ……!」

「この仕事が一区切りついたら、もう一度大学に行きたいんだよね。遅れてもいいし、遠回りでもいいからさ。諦めるなんて選択、俺には似合わないっしょ」

「積み上げた実績を置いて夢へと歩まれるなんて……ご立派ですわ、コウキ様……!」


 マルグリット王女は胸元で両手を組み、潤んだ瞳でコウキ陛下を見つめていた。彼を睨みつけていたフォートグレン副団長さえ、目頭を押さえながらそっと顔を背けた。


 わたしは席を立ち、フォートグレン副団長に近づいて告げた。


「フォートグレン副団長、いいんですか?」


 彼はわたしの言葉に眉を寄せ、わずかに肩を揺らした。


「……何が、です?」

「マルグリット王女殿下のこと、好きなんですよね?」


 その問いに、彼は一瞬だけ目を伏せ、すぐに顔を上げてきっぱりと否定した。


「いや、私は護衛として……」

「嘘ばっかり」


 わたしは一歩踏み込み、彼の揺れる瞳をじっと見つめた。


「平和記念パーティーのとき、わたしに気のあるふりをしていましたが、あれ全部演技だったんでしょう?  マルグリット王女殿下を遠ざけようとして」


 フォートグレン副団長は言葉を失い、口を開きかけては閉じた。


「その結果がこれですよ。マルグリット王女殿下はコウキ陛下に心を寄せてしまった。あなたが何も言わないから」

「異世界の人間とはいえ、あの方は皇帝陛下だ。地位も人となりも殿下に相応しい。私が口を挟むべきではない……」

「本当にそれでいいんですか?」


 わたしは彼の瞳を真っすぐに見つめた。


「マルグリット王女殿下がコウキ陛下について異世界に行ってしまったら、もう二度と会うことすら叶わないかもしれないんですよ? その覚悟があるんですか?」


 フォートグレン副団長の瞳が揺れた。わたしの言葉が胸に刺さったのか、彼は拳を握りしめ、わずかに震えた。


「ねぇデイビット、わたくし、コウキ陛下と——」


 マルグリット王女が席を立ち、フォートグレン副団長に近づきながら先を告げようとしたその瞬間……


「……そんなの、駄目に決まっているだろう!!」


 フォートグレン副団長の声が、夜気を震わせた。


「えっ……?」


 マルグリット王女は驚きに目を見開き足を止めた。フォートグレン副団長は彼女の前に立ち、迷いなく跪いた。瞳には護衛としての冷静さではなく、男としての切実な想いが宿っていた。


「あなたは私にとって守るべきお方です。あなたの幸せを願い、御身を護ることが私の務めだと、ずっとそう思ってきました。だから……だから、あなたがわたしに向けてくださる想いに背を向け、あなたを遠ざけようとした。だが……」


 彼は苦しげに目を伏せ、続けた。


「あなたが他の男に心を奪われるのを黙って見ていることなんてできない!!  私は叙爵したとはいえ元は平民の出。王女であるあなたには到底釣り合わないことはわかっている。それでも、二度とあなたに会えないなんて、そんな未来は耐えられない……!」


 彼の声が震えた。けれど、その瞳は真剣だった。


「私は、あなたをお守りしたい。あなたの隣にいたい。王女としてではなく、一人の女性として——マルグリット殿下……いや、マルグリット。私はあなたを、心から愛している!」


 彼が言葉を切ると、周囲は息を呑む静寂に包まれた。


 マルグリット王女の肩が小さく揺れ、大粒の涙が頬を伝った。次の瞬間、彼女はフォートグレン副団長に飛びついた。


「遅いのよ……! わたくしがどれだけ待っていたと思って……」

 

 彼の胸元に顔を埋め、絞り出すように言葉を吐く彼女。フォートグレン副団長は、マルグリット王女を強く抱きしめた。


「すまない。もう、離さない」


 まるで舞台の一幕のように抱き合う二人。


「イエーイ! 姫サイコー! 恋ってさ、やっぱ人を綺麗にするんだよ。アーシャちゃん。君の隣、空いてるなら……俺が埋めてもいい?」


 そんな彼らを横目に、コウキ陛下はやたらと立体感のある髪をふわりと揺らしながら、まるでスイッチでも切り替えたように、今度はわたしに向けて妙に仕上がった笑みを向けてきた。


「え、わたし……?」


 急に矛先が向けられ、わたしが目をぱちくりさせたその瞬間、ヴィンセントがソファーを押しのけるように荒々しく立ち上がった。


「許さん!! アーシャは俺の恋人だ!! それにアーシャには大事な役目があるんだ!!」


 ヴィンセントがすかさず割って入り、わたしを引き寄せて言い放つ。


「わかってるわよ、王太子妃探しでしょう? そうねぇ……国内の令嬢が不満なら、周辺国から探してみる?」

「は?」

「そっちの方が選択肢も広がるし」


 顔を上げて答えると、ヴィンセントは眉間に皺をよせ、拳を握りしめてわなわなと震え出した。


「お前、本当に気づかないのか……?」

「え?」

「もういいっ!! 勝手にしろ!! 他国の王女でも町娘でも好きに選べばいいだろ!!」

「は……? 何怒ってんのよ?」


 わたしが眉をひそめて問い返すと、彼は顔を真っ赤にして、今にも泣き出しそうな目でわたしを睨みつけた。


「もう知らんっ!!」


 ヴィンセントはそう吐き捨てるように叫ぶと、バタンッと乱暴に扉を閉め、迎賓室を出て行った。


「……え、何? わたし、何かした?」


 周囲の視線が集まる中、わたしはその場に立ち尽くしていた。







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